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マリヤンカ mariyanka

日常のつれづれ、身の回りの自然や風景写真。音楽や映画や読書日記。手づくり作品の展示など。

東海道「関宿」

2014-01-05 | 
昨日の午後、急に思い立って、東海道の宿場町、三重県の「関宿」へ行ってきました。
東へ行けば名古屋、西は京都、関宿の入口の鳥居をくぐって南に行けば伊勢へという地点にあります。
今も大切に保存されている街道や宿場が日本各地にありますが、
「関宿」も見事な街並みで、よくぞこんな風に残すことが出来た、と感心しました。

夕方5時半頃到着したので刻々と夕闇が町を覆うところでした。
店はすでに全て閉まっていて、時折そこに住んでいるらしき人たちの車が細い道幅ぎりぎりに行きかうだけで、
歩いている人の姿は途絶え、街灯が静かに町を照らしていました。

唯一開いていた駐車場のある食堂を見つけて、
ここしかない!と入ってみてびっくり、壁は和洋、古今取り混ぜた絵やポスターが貼られ、
飾りや置物も見事にミックス状態で、キッチュな味わいのある楽しい店でした。
「味噌鉄板焼きうどん定食(980円也)」を食べました。
こってり焼いたピリ辛うどんに小さなご飯、
あさりの味噌汁にお新香、さらに小皿に黒豆と数の子が付いていました。
お正月メニューです。

ゆっくり食べ尽くして外へ出ればもう真っ暗、
三日月が出ています。

車窓の山や木々のシルエット、家々に灯る明かりを見ながら、
運転は人任せの気楽な私は、うとうと、、
気がつけば滋賀県に入っていました。
かつてこの鈴鹿の山を越えるのがどんなに大変なことだったか、
多くのものの本に書かれていますが、今ではあっという間、
昔の人には想像もできなかったことでしょう。
人の心はどう変わったのでしょう?
変わったものと変わらぬもの・・・









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水俣へ その3

2013-12-01 | 
たった4時間で京都から水俣まで行けるようになったとは驚きです。

でも、、、新幹線の時代になってからは、
駅の様子が皆同じで、小さな町はどんどんすっ飛ばして、
トンネルが多くて、その上車窓はどんどん小さくなって、
風景が楽しめなくて、早過ぎて通過駅の駅名を読むことすら出来ません。
小さな町は、遠くなるばかり、という気がします。

初めて乗った九州新幹線はこんな顔!、

車内は木をメインにしたこだわりのインテリア。私の好みとしては座席の生地を無地にしてほしかった。
左右2席づつなのでゆったりとして、前の席との間も広く快適。

洗面所には縄のれん!
壁は黒が基調色で降り口のドアは真っ赤!
トイレは利用しなかったので見ませんでしたが見てくればよかった!

自動販売機も在ります。
車体にはおしゃれなマーク、「つばめ(スワローズ)」が。

湯の児温泉の火の見櫓、

赤いポストを見るとつい写真を撮りたくなってしまいます。
昔のデザインはあたたかか味があります。

以前山近さんに教えていただいた、孟宗竹で作った鰯籠(イワシの生簀)の本物をついに見ることが出来ました。
2.5m×3.5m×2.5mという巨大な籠です。
現在も水俣の職人さんが作り、天草や各地の漁師さんが利用しているそうです。
ここ(道の駅)では天地がひっくり返して置いてあります。
浜辺でこの籠を作って、竹で作った浮きを取り付け、船の両脇に付けて海に沈め、
生きたイワシを入れカツオの漁場まで曳航し、
そのイワシを餌にしてカツオを獲るのだそうです。
竹で作った籠に入れるとイワシ鰯が弱らずに漁場まで運べるのだそうです。
イワシが元気に動き回ることができる質とサイズと水流をこの籠が持っているのだと思います。

水俣名産の櫨(ハゼ)で作った和ろうそくを買って帰りました。
貝殻は湯の児の浜で拾いました。
地図上の小さな貝を置いたところが水俣です。
地図は九州新幹線の各座席の前のポケットに入れてあった無料配布のパンフレットで、
JR九州の路線図があって便利です。
嬉しいサービスです。

運賃がもう少し安ければな~


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水俣へ、その2

2013-11-30 | 
向うに天草の島々が見えています。
お天気でよかった!
この辺りは木々の紅葉まではあと一歩でしたが、草叢はすっかり秋です。

水俣の湯の児温泉のホテルの部屋に荷物を置いて一人で散歩に出かけました。
近くに小さな浜があって、海水浴場になっています。
道沿いにドアも仕切りもない食堂がありました。
今はだれもいません。
写真の右端に湯の児島がちょっと見えています。

夏にはきっと子供たちでにぎわうのでしょう、ドラエモンのテーブルクロスが可愛い。

「湯の児島」へは浜伝いでも橋を渡っても行けます。
海の向こうからやって来た神さま、えびすさんが祀ってありました。
大きな鯛を抱えて海を見ています。
えびすさんの背後に注目。木々の根が山の斜面に露出していて迫力がありました。



下のえびすさんは別の場所のです。
もしかして海の中から引き揚げられたものでしょうか?
サンゴなどがへばりついて自然に戻ろうとしているように見えます。



ホテルの駐車場の側にはお地蔵さんがありました。

人影のない温泉町でしたが、夜になって、
私の泊まったホテルには研修らしい学生が団体でやってきて、
少しだけにぎやかになって、なんだかほっとしました。
英語や中国語が聴こえてきます。
留学生かな?

太刀魚のお刺身を食べて、ビールと球磨焼酎「川辺」のお湯割りを飲んで、
酔っぱらっておしゃべりして・・・
いつの間にか雲が厚くなり、星も月もなくて、空も海も山も区別がつかない夜になりました。
暗い露天風呂で、顔にあたる冷たい海の風が気持ちよくて、しばらくぼんやり過ごしました。


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水俣へ、その1

2013-11-28 | 
水俣へ行ってきました。
中学と高校の修学旅行で、阿蘇と熊本城へ行きましたが、
水俣へ行くのは初めてです。
案内して下さる方があって、
水銀に汚染された湾のヘドロを浚渫して埋め立てた(水銀は消えたわけではなく移動しただけ)埋立地に建てられた資料館や、道の駅(シラスとアオサのかき揚げ丼、美味しかった!)にも行ってきました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明治41年(1908年)にチッソ工場が水俣に出来ました。
不知火湾は「魚わく海」と言われるほど豊かな漁場で、
水俣湾は多くの魚の産卵場所でした。
入江ごとに小さな漁村があってあって、天草の島々が海の向うに浮かんでそれはそれは美しいところでした。
チッソは化学肥料の生産と同時にアセテアルデヒドを生産する(昭和7年)ようになり
日本の高度成長を支える重要な化学工場になります。

(現在のチッソの工場の一部です。工場の向こうは海。)

アセトアルデヒドは日常のありとあらゆるものの原料となっています。
身の回りのプラスチックかな、ビニールかな、と思われるような物の殆どにアセトアルデヒドが使用されています。
現在、世界の液晶の半分近くを水俣のチッソ(JNCと社名が変わった)で作っているそうです。

アセトアルデヒドを作るときに発生するメチル水銀には強い毒性があります。
毒と知りながらチッソは2か所の排水溝から海へ垂れ流していました。
(その水銀の量は70~150トン以上と言われ、水銀を含んだ汚泥は場所によっては4メートルに達している。)

1956年(昭和31年)に初めて「原因不明の奇病」が確認されました。
原因が解ってからも多くの人が病気で苦しんで亡くなっても、
ネコの実験で因果関係がはっきりわかっていたのに、
1968年(昭和43年)まで36年間に亘って有害な排水は工場から流され続けました。
長い裁判が続き、生きている内に救済を、という声の高まりの中で和解が行われたのが1995年のことでした。
国と県が工場排水を規制をせず、被害を広めたことで責任を認めたのはなんと2004年のことです。

・・・とここまで、資料館でいただいた子供向けのパンフレットを参考にして書かせてもらいました。

資料館ではちょうど小学生が観光バスで見学に訪れていました。

アセトアルデヒドが使われている日常品のディスプレイを熱心に見ながらメモをとる子どもたち)
熊本県内の小学生は必ず訪れることになっているそうです。
語り部さんの話を聞いたり映像で学習したり、
子どもたちのための展示も工夫が凝らしてあります。

(鉄や水銀などの金属の比重の比較、水銀の上に鉄のボルトが浮いている。)

他県の小中高の修学旅行で阿蘇に行くなら是非、水俣をスケジュールに組み込んでほしいなと思いました。
勿論水俣のことを知らない大人が訪れてもしっかり理解できるようになっています。
「ミナマタ」を知ることは世界中の公害問題を考える上で非常に大切で、
「フクシマ」の今を考えるためにも一層「ミナマタ」は重要だと思います。

経済発展(金)のためには人の命、人の暮らしはまるで虫けらの命のように軽く、
後になって「慰霊碑」を立てて犠牲になった人のために祈る、
こんなことを幾度繰り返すのでしょう。
戦争でお国のために死んだ兵士は神になったと言って「忠魂碑」を立てる図式と全く同じです。
犠牲の無い社会は存在しないのかもしれませんが、
少しでも犠牲を減らす社会を目指すのが人間の生き方ではないかと思います。
水俣へ行って、水俣湾を眺め、
チッソ工場を見て、排水溝を見て、
小さな漁村を見て、ミカン畑を見て、
沖を行く漁船を見て、埋立地を見て、
協立病院へ行って、
そんな思いを強くしました。












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旅の落ち穂拾い

2013-10-08 | 
旅に出て、
自分の身の回りの生活空間とは違う場所の、
そこでの人の暮らしに、ほんの少しでもふれることが出来た時、
旅に出てよかったなと思います。

お土産はおまけです。
おまけもあると嬉しい!

錦帯橋のお土産に石人形というのがあります。
錦川に生息する「ニンギョウトビケラ」が作る巣を仏像や人形に見立てたものです。
錦帯橋の人柱となった姉妹が姿を変えたものだ、という悲しい伝説があります。
小さなお守りに加工したものを一つ買いました。


新幹線のこだまの停車駅「新岩国駅」は長い階段の降りるエスカレーターが無くて(登りはありましたが)、
エレベーターも無くて、母には苦行でした。
そんな何もない駅の一角が観光用にディスプレイされていて、
置いてある鵜飼の人形がシュールでした。


今回の旅では可愛い犬にたくさん出会いました。
近づいて触っても寝たままで眠たそうに眼だけ動かす犬や、
私たちが近づくと震えて怖がり、娘が触ると固まってしまった犬や、
港近くででしっかり辺りを警戒している犬もいました。


港の傍の、鉄クズを回収して一時的において置く所に、
五右衛門風呂とおぼしきものと、
あとはやはり船で使用されていた物っぽいものが、


山陽本線を徒歩で横断するこの場所は、
遮断機もなければ、カンカンと電車が近付くのを知らせる音も鳴りません。
しかも線路はカーブしていて見通しが悪いのです。
利用する人が少ないとはいえかなり危険。
それとも、長年の経験で、線路の振動とかで判るのでしょうか?

線路わきの土手にはヒガンバナやノギクが咲き、ススキの穂が揺れていました。
色とりどりのオシロイバナ、アキノキリンソウ、キバナコスモス等も咲き乱れています。


京都駅や観光地のディスプレイのポストではなく、
ここでは普通のポストとして現役です。
食料品店ですが、売っているのはほとんど柿だけでした。


誰かかが並べたサザエの殻。すっかり白くなってきれいです。


新港の、泊まったホテルのそばの国道を渡るための地下道の入口です。
屋根の上部に注目。
海藻とちぎれた鎖のディスプレイがユニークです。
この地下道のある処を逃すと、
次に国道を渡るには400~500m歩かなくてはなりません。

車を運転できないお年寄りや子供たちはどんなふうに暮らしているのでしょう。

清流線の小さな駅は個性的な名前の駅が多く歴史が感じられ興味深いものでした。
「行波(ゆかば)」は美しい名前です。「神舞い」で有名なところだそうです。
でも「行波」駅は写真を取り損ねました。
各駅舎はそれぞれ工夫が凝らされていました。
こんな待合室がある駅もありました。






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コンビナートのある町(山口県の旅、2)

2013-10-05 | 
岩国と言えば錦帯橋が有名です。
錦川の清流、アユ、鵜飼い、岩国寿司、紅葉と桜、そして白蛇!

でも瀬戸内海に面して幾つもの大きな化学工場が連なって、
大小のタンカーが港に停泊しています。
岩国港はかつては九州、四国方面のフェリーの発着港でもありましたが、
瀬戸大橋ができて、利用客はいなくなり、
今では四国への高速艇が1本あるだけと聞きました。

また、アメリカ軍の基地があり、ステルス機が空をつっきり、
危険なオスプレイが行き来しています。

錦帯橋の袂の小さな料理屋さんで岩国寿司を食べました。
下の写真の錦帯橋はスクリーンとかではなくてガラス越しの本物の錦帯橋です。
橋の上を行き来する人を眺めながらお寿司(大きな木枠で力をかけて作る押し寿司)を食べました。

岩国(装束)は私が小学生時代を過ごした懐かしい場所です。
巨大なトラックが轟々と行きかう国道は、
今も昔も渡るのは命がけ、
国道と山陽本線と山との細い隙間に人が住んでいます。
通った小学校はほとんどそのままで、校門の前が国道、校舎の裏側には山陽本線が走っています。

国道から海側は工場地帯でタンクや多くのパルプが入り組んだ建物が林立して
高い煙突から煙が絶えることはなく空気にはなにか硫黄のような薬品臭が感じられます。
すぐに慣れて感じなくなる程で、僅かなのですが磯の香りよりは強いものです。
海の水は浄化装置の発達のおかげで当時より格段にきれいになっていました。
タクシーの運転手さんがそのことを強調しておられました。
こんな場所があるなんて、京都のような所にいると想像も出来ません。
でもずーっとそこで暮らして働いて生涯を終える人もたくさんいて、
そのような人たちの仕事が都会の便利な暮らしを支えているということを今更ながらに思います。

泊まったホテルの部屋の窓(8階)からコンビナートの方を眺めて。

真夜中の3時、眠れなくて窓を開けてずっと眺めていました。
ガラス戸を開けるとコンビナート全体から通奏低音のようにゴーッというような音が聞こえてきます。
沖に停泊しているタンカーや、行き来する小さな船も見えました。
実際にはこの写真よりもっと奥の方まできらきら光っていて、
どこかの100万ドルの夜景に匹敵する?輝きです。

朝6時頃、岸壁に釣り人の姿が見えます。

下の写真は前日の夕暮れ時に見かけた、釣りを楽しむ家族連れです。

船は漁船も大きなタンカーも小さなタンカーも桟橋もみんな魅力的です。
工場の隙間に今も小さな漁船の停泊する港があります。
沖の小さな島々は豊かな漁礁だったのだと思います。

船ですが、タイヤが活躍しています。

港の中で見かけた看板。

船舶用、水の自動販売機







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錦川清流線に乗る(山口県の旅、1)

2013-10-04 | 
89歳の母と25歳の娘と3人で1泊旅行をしてきました。
山口県岩国から乗車した錦川清流線が感動的に美しかったので、
車窓からの風景を幾つか紹介したいと思います。
望遠レンズがないカメラで、おまけに撮るのも忘れて見とれていたので、
記録出来たのは、ほんの一部ですが。

かつていくつもの鉱山があって栄えた地域に、
岩日線と名づけられた汽車が走っていました。
何十年か経ち銅やタングステンがとり尽くされると、
閉山になり、汽車も廃線寸前に追い込まれましたが、
清流線となって甦り、今は1両編成のかわいいけれど立派な電車が走っています。
トイレも付いています。
滝などが見えるところでは案内のアナウンスがあり徐行運転をしてくれます。



まるで絵本の中を旅しているようでした。

山際を錦川に沿って走ります。

山間の田畑も実りの秋です。

桜や栗の木のある小さな駅でちょっと止まります。

こんな駅もあります。

小さなトンネルをくぐると、今度はこんな風景が目に飛び込んできます。
川の中で腰までつかって、アユ釣りでしょうか。
中央左よりの小さな白く見えるのが釣り人です。
川底の岩まで見えます。

また短いトンネルです。
ゴーッと車輪の音がトンネル内に響きます。

潜り抜けると、黄色く色付いた田んぼ。
実った稲に埋もれて稲刈りをする姿が見え隠れしていました。
案山子ではありません。

小さな橋を渡ってまたトンネルです。
トンネルの向こうがもう見えています。

途中下車して歩いてみたいところがたくさんありましたが、
うっかり降りると次の電車は1時間以上、時には2時間以上待たなければならず、
目的地に着くことも帰ることもできなくなりそうなので、
いつかゆっくり計画を練って実行したいと思います。

私たちが降り立った駅「河山」です。
岩日線時代の鉄道の設備がそのまま残っています。
もっとずーっと乗っていたいと思いました。
旅の続きは後日。





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