◆彫刻家の作者が如何にギリシャ彫刻が得意だったとしても、あまりにその像の面構えはこの国の人では無いな。家康の父親は松平広忠。松平郷を治めていた2代目の重信の時代に旅の僧である徳阿弥(とくあみ)を娘婿に迎える。そう簡単に「徳」とか「阿弥」(あの阿弥陀仏とかの阿弥だ!)付けられたものだろうか? それはさておき、徳阿弥は僧侶から俗人へ戻り、名前を松平太郎左衛門親氏(ちかうじ)と改名する。家康の初代、祖先となったのだね。
◆ここで覚えて欲しい。各地の豪族が勢力拡大する中に於いて、親氏は近隣諸国を平定、西三河北部を平定するようになる。僧侶でもあったから、貧しい人々の救済や道路の整備などをおこない慕われていたらしい。そのなかで、彼は僧侶として何を信心していたのだろうなと思う。彼の信じていたものは、これという目に見える信心対象にはなかったのではないだろうか。いろいろな宗派の宗教を家康は保護していたのだから、天皇をも。いろいろな神社や寺にも徳川の葵のご紋が見られるし。彼は見えぬ次元の異なる神を信じていたんだ。
◆まさに、徳阿弥は前回書いた、もっと次元の異なる未来の予測も出来、国造りのコーディネーターとなるべく、昔、この国に渡来した集団の血を引く一員の信仰を持っている者だったと思われるのである。彼の信仰の集団の情報網は、凄いものだった。理想の国造りに、ふさわしい武将がいれば、みずからが敵国になっていたとしても、この国の理想の国造りを優先して代々、加担していたのだ。大陸で経験してきた、理想国家のあり方、王(天皇)を尊重し、法律を作り、宗教を保護する。ここで、民衆を平定するには、宗教が大切なものだったことを知っていたのです。
◆徳阿弥の遠い祖先は、縄文時代から多数遺跡のあった、昔、あの江戸と呼ばれたまさに日本の中心としての位置を知っていたのである。遠い昔、どういう人々が太陽がのぼる国を求めて旅をし、あの地に多く住むようになったのかを。それは古代から、永遠の故郷を求めて太陽の昇る地を求めてひたすら旅を続けてきた割当ての地がなかったレビが引き連れてきた一団だったのである。