marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(873回) 不思議なこの国の物語⑥東京があの場所になった徳川家康のDNAの深層

2021-06-02 08:20:40 | 小説

◆先のブログの僕なりの勝手な思い込みのヒントを述べます。なぜ、徳川家康が、あの地(今の東京)に江戸幕府をつまり、日本の首都中央を構えたのか。それは、古代から縄文遺跡があの地に多数存在していたことと関係があると、僕は思っているのです。それは、そこに住みついて来た人々も生き物としては当たり前の肉体のDNAが、人類発生からずうーと繋がっているからで、その思いはどこにあったかに由来するのではないかと思っているのです。右翼の方が居られれば,お叱りを受けるかも知れませんが、古代の歴史は、この国に渡来した隣国でいろいろ辛酸をなめて、理想の国とは如何に創りあげるものかを思考し、実験してきた実に多数の優秀な人々がいました。文字を駆使し、言葉をもつ者は歴史を作ることができます。ところが、それを表明することは、逆にその安寧な存在を外部にさらすことになります。先にそこに住みついた人々は、長い間、そのようなことをしなくてもよかったのです。

◆後の時代に隣国の戦火で国破れ、逃れてこの国に渡来して来た人々も居りましたが、どうも宗教的信条では同根を求めようとする人々が多数いたのです。順次、時代をへて日本に来た。・・・古代は宗教性と政(まつりごと)は同じでしたが、古代はまだ王を立てる時代ではないほど、穏やかだったとみる。しかし、その後、隣国からの後釜が九州あたりに来て、ふとみずからの過去と逃れて来た隣国を見ると、これは王様(天皇も古来、その集団としてすでに来らていた)なんぞをたてて、国家を統一せんといかんぞ、と思うようになったのでしょう。急いでおこなってきたもんだから、今までのんびりの来たの古来の先人達を遅れた者として北の奥地に追いやって・・・という具合に時代を経てきた。その後、古来の先人達の宗教とあまりに異なった仏教が入り込み、仏像というイメージが分かる物が入り込んできたので、あの物部氏(もののべ)は「あだしがみを取り入れるとこの国は滅びるぞ!」と頑張ったけれど、結局、蘇我氏に破れ、北の地に逃げ込んできた人々もいたのです。

◆そういう経緯も経て、それだからこそというか、人の地上のドラマを過去からしっかりずうーと見ていた時の為政者につながるブレーンとなる影の選出家集団がいて、人が政を生きる上での宗教性は重要であることに気がついていたのでそれは当然、民衆のこころの一致を求める宗教に依存しますから、時代が下り天下統一を目指した徳川家康は、国内のあらゆる宗教を実に大切にしたのでした。(異国神の禁教で殉教者も多く出ました、これについてはいずれ・・・)

◆それを、知って進言していたアドバイザーたる集団が家康には存在していたと。歴史は常にあからさまな人の書いた文字、言葉に由来します。歴史は常に勝者によって書き換えられますから・・・。歴史家でもなんでもない素人ですが、いちキリスト者として、聖書を読んでいると人の長い(まったくひと瞬きではないかという時間の流れですが)歴史の中で、そういう存在が、天地創造来から生身の人間には決してわからないが演出家集団が存在していると思わざるを得ないのですね、今も。さて!

◆徳川家康は、本来、『松平』という姓なのです。なぜ、『徳川』となのるようになったのだろう。その起源はどこにあるのだろう。そして、それはどういう意図をもっていたのだろう。『徳』という漢字は、その漢字の意味は、今、僕らが思う意味とそう変わらないようです。『仁徳』とか『聖徳』とか・・・。『徳川』、それは愛知の生誕の地、『松平郷』にそのヒントがあるようです。それは、勝手に思っていることですが、僕の深層では、求めているものがずうーと繋がってきているのです。そのヒントとなる人は、不思議な名前なのです。そして、古代からのこの国の人ではないようようなのです。


世界のベストセラーを読む(872回) 不思議なこの国の物語⑤どうしてあの場所は東京になったのか

2021-06-02 06:01:13 | 小説

◆究極的な求めの課題を表題に書いてしまったようだ。けれど、それは僕らが昔、江戸と呼ばれ今は東京と呼ばれ・・・そもそも、西の天皇の居られるところ京都(京の都)に対して「東の京」という名前にしたのだろうと、それなら「西の京」というそのままのもあるのかな・・・九州にありますね。「都城」という名前もあるね。他にもあるだろうけれど、すぐ見つけたのは九州だった。都のお城だよ。名前は意味を現す? 人の名前もそうだけど、地名もその言われを思うだけで、その名前の由来を考えてしまう。なぜ、そのような名前を付けたのだろうと。それなどは、調べれば分かるじゃないかと・・・う~む、そうではなくて、そこまでの古代のからの経緯といえばいいいか・・・。

◆現在、コロナ禍で困難な「東京」。1万年も穏やかに続いた縄文時代。もっと北海道・北東北縄文遺跡群が話題にのぼるようになるだろうけれど、しかし、しかしだ諸君!。あの時代、遺跡群がとてつもなく多くあったのは、実は関東、東京(群馬にも渡る)と千葉に渡るあの湾岸だったのだねぇ。ところが、古代のあの辺の物語というのは、殆どないのではないでしょうか。風土記と言われるもので、取り上げられて読むことができそうなものは、ほとんど近畿、関西以西だ。少なくとも紀伊半島以西の京や奈良やとか出雲とかの・・・。僕のいる東北の地は、地理学的には、まったく道の奥地にあった訳ですね。学校で習う、少なくとも文献としては「陸奥(みちのく)」。東北にも古代を語る不思議な風土記もどきがあったのだが、作者が途中で改竄したか、創作めいたものにしてしまって今では偽書とされてしまっている「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」。火の無いところには煙はたたない? 結構、面白い。青森には「日本中央(ひのもとちゅうおう)」という古代石碑があるなど。

◆とりとめの無いようなことを書いているようだけれど、僕の中での深層は、ずうーと、古代から人の流れとそれを演出するために選ばれた人々がいたのではないかということだ。未来を見通すことのできる、相当、御優秀な人々が本人も気がつかずに・・・。江戸・・・その日本のちょうどここが、日本を統治するに最適な場所である、と徳川家康のブレーンがいて、本人にもそのDNAが流れていたのだと僕は思っているのです。・・・その秘密は・・・