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チクチク テクテク 初めて日本に来たパグと30年ぶりに日本に帰ってきた私

大好きな刺繍と大好きなパグ
香港生活を30年で切り上げて、日本に戻りました。
モモさん初めての日本です。

シールが好き

2024年03月05日 | 自分ごと

雨、8度、90%

 昭和30年代、今から60年前私は小学生でした。テレビで「鉄腕アトム」の連載が始まると、提供メーカーの明治製菓はマーブルチョコレートのおまけに「アトムのシール」を入れるようになりました。小筒に入っているシールは、出してくるとカーブしています。アトム、ウランちゃん、お茶の水博士、そんな登場人物がポツンと描かれたシールでした。下敷きにそのシールを貼ってくる子もいました。私はひたすら集めました。いつ頃まで「アトムシール」を集めていたか記憶はありません。集めたシールは時折出して来て、人物別にまとめてまた机の引き出しの隅にしまいます。何かの折に数えたら百数十枚有りました。もう忘れかけていたそのシールを中学だか高校の時出して来たら、黄変していました。昔のシールです。シールの角もめくれていたり、結局捨てました。

 シールの種類は違いますが「アトムのシール」以来、シールを買っては集めます。使うつもりで買うのですが、使わずに缶にしまっては出して来て並べます。自分の中でブームが去ると慌てていろんなものに貼って使います。手紙の封やメモ用紙にペタン。「アトムのシール」で使えなくなったシールの惨めさを経験しています。それでも使うために買うのに、買って、貯めて、出して来ては眺めて。60年経った今も小学生の頃と変わりません。私が死んだ後、家族の者は私の机の引き出しの一つの缶の中にたくさんの使われなかったシールを見つけると思います。

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雑貨屋が好き

2023年10月23日 | 自分ごと

晴、15度、76%

 「雑貨屋」がこの歳、66歳の今も好きです。中学の頃からですから長いこと好きです。中学までは「雑貨屋」などは存在していませんでした。小学の頃は「文房具屋」が好きでした。中学の時、東京数寄屋橋に「ソニープラザ」ができました。15歳の時「ソニープラザ」に連れて行ってもらった時の嬉しかったこと!日本のものではなく輸入物を集めたお店でした。

 あの頃の「ソニープラザ」ほどの魅力はありませんが、どんな小さな「雑貨屋」でも見ると必ず入ります。身につける小さなもの、台所道具、ファンシーな小物たち。 キャラクターグッズは「スヌーピー」をソニープラザで初めて見ました。レターセットや定期入れ、アメリカ製でした。お小遣いで買いました。

 いい加減興味がなくなるかと思いましたが、通い詰める店は流石にありません。それでもショピングモールなどに行くとつい足が向かいます。 目的はありません。もうここ数年は「雑貨屋」で買い物はしてません。ただ見るだけで満足です。 「こんなものが流行ってるのね。」と流行を教えてもらいます。 キャラクターの名前も知らないものばかりです。それでも「雑貨屋」好きです。 犬の絵のマグカップ、「パグ」が描かれています。ちょっと迷いましたが、たった1匹。マグカップはたくさん持ってます。棚に戻しました。

 買いもしないのに真剣に商品を見ています。いつになったら「雑貨屋」好きが冷めるのでしょうか?一歩足を踏み入れる時、あの昔の「ソニープラザ」で味わったワクワク感が甦ります。

 

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Twitter(X)をやめました。

2023年08月14日 | 自分ごと

晴、27度、91%

 Twitterをスマホから消しました。ある朝起きてスマホを開けたら、青い鳥のマークが消えていました。その代わり黒地に白抜きの「X」です。「X」のアイコンは薄気味悪く笑っているように思えました。鳥がさえずるTwitter、青い鳥のアイコンが好きでした。

 「X」に代わる前から、自分のスマホの使い方を変えようと思っていました。きっかけは我が家のWi-Fiの不通です。数週間続いたWi-Fiの不調は精神的に滅入りました。なぜ気持ちが落ち込むのか?普段あるものがなくなると不自由を感じます。急に冷蔵庫が壊れたら大慌てでしょう。一番は電気、ガスなどのライフラインです。Wi-Fiがつながりにくい間スマホを開ける機会が減りました。気の滅入りとは反対にどこか気持ちに余裕があることに気付きました。知らないうちにスマホの画面を見る時間が長くなっていたのです。

 そんな時、Twitterの青い鳥が消えました。13年私のスマホにあった青い鳥です。SNSの中で一番古くから使って来ました。「X」はテレビ電話や決済機能を近く連携させるそうですが、現状使っているのもで十分です。私がスマホに求めていたものを考え直してみました。電話機能が一番大事です。次がメール、検索機能は今では辞書代わりです。SNSなどなかった頃、そんな機能をありがたく感じていました。

 スマフホを開ける回数が減ると、時間も気持ちも余裕が生まれます。もともとゲームだけ入れていません。写真を撮る、保存するこれは外せない機能です。連絡先が一発で探せるのもありがたい。買い物機能はパンデミック以来外せないものとなりました。本屋に行くより本の検索が楽です。古本の検索をするとその便利さがよくわかります。しかも送料無しで早ければ当日手元に届きます。これも外せない。旅行時には乗り換え案内が活躍します。

 様々なメリットがありますが、私の問題はSNSのようです。「X」を一つ消しました。facebookもInstagramもこの2週間、最小限しか開けていません。どちらか私のスマホから消える日が近いと思います。

 自分の生活は自分で作るもの、私の判断基準でスマホとの向き合い方を変えて行くつもりです。

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女性は自分のお金を持つのがいいと思います。

2022年04月25日 | 自分ごと

晴、16度、94%

 30年日本を離れていました。現在、帰国後5年目です。30年の間に街の姿は変わりました。高齢者の姿が街に多くなりました。そんな表面的な変化は当たり前です。著しい変化を感じたのは結婚観、家族のあり方です。そのことに気づいたのは帰国後4年を過ぎた頃からです。

 私は結婚44年、主人に食べさせて貰って、住む場所も身の回りのものもお世話になっています。つまり養って貰っています。44年のうち23年は仕事をしていましたので、服、本、家の什器は私の収入で賄いました。主人の仕事がなかった時は私の収入が生活を支えたことも短い期間ありました。でも基本、食費や住宅費は主人に依存でした。私自身の貯金に主人の貯金を足してマンションも買いました。二人の名義です。仕事を辞めて8年が経ちます。自分のお金はなく、主人に養って貰っています。

 今住む家は私の実家、古い家を主人が改築してくれて住むことになりました。一人っ子の私は両親が亡くなれば当然この家、土地を全て引き継ぎました。つまり私の名義です。主人は自由にお金を使いなさいと言ってくれますが、私の気持ちとしては養って貰っている、ありがたいと思います。

 現代の女性はこの「養ってもらう」という言葉が苦手なのだと聞きます。私は昭和30年代生まれ、男女平等の時代です。前の世代は女性は男性の付属物的扱いでした。確かに今の女性は独立しています。結婚して、子供を産んでも働き家事もこなします。逞しい、清々しいと子供を保育園に送り迎えする母親たちの姿を見て感じます。家庭内でも家事の平等、男性の家事参加は当たり前、世間より家庭からの変化は根強いと感じます。

 若い女性は変化としては受け止めていないはずです。「当たり前」と思っているはずです。そしてその流れを一緒に流れてきた年配者も世の中を受け入れて、変化とは感じていないかもしれません。いい流れだと思います。現在主人に養われている身の私から一言、「自分が使えるお金を女性は持った方がいい。」ということです。自分が働いて得たお金は「自分のもの」何かあったときに自分のために使いましょう。「離婚」だってあり得ます。大きな仕事を始めるかもしれません。「自分のお金」は大事なことです。私はというと、お金はなくてもこの家と土地があります。お金が必要になった時は売ってお金にするつもりです。自分名義のものを持つことはこれからますます女性にとって必要です。少ない金額でも心に余裕が生まれます。自分を支えてくれます。

 雨上がりの朝、受け継いだ土地の庭に咲き始めたバラを見ながらそんなことを思いました。

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母の命日

2021年08月16日 | 自分ごと

雨、23度、86%

 今日は母の命日です。8年前に逝きました。香港で受けた訃報、急いで帰国、その翌日、母の残した言葉通りに血縁の息子と二人で送りました。暑い日でした。

 この家の改築が始まっており、父の位牌は母の施設の部屋の保管してありました。毎年この日になると思います。お盆で帰っていた父が母を連れて行ったんだなと。

 母が亡くなってから年々、母への思いが変わっていくのを感じます。私自身、歳を重ねているからだと思います。それでも母への嫌悪は心の底から消えることはありません。時折ひょっこりその嫌悪感が顔を出します。時には口にしてまで「嫌な人」と思います。

 私が18歳で家を出て東京に行って以来、母は正に同じこの家の40数年ひとりで住んでいました。掃除をしたり、庭で草をいじったり手を動かしている時、「いったい母は、毎日の時間をどう過ごしていたのかしら。」と思います。掃除をするわけでもありません、庭に草花を植えるような人ではありません。以前はこの家に帰って来る度に私は掃除から始めました。母を施設に入れて、いよいよ改築の前の整理に入った時、どこから手をつけていいのか呆然としたことをはっきり覚えています。

 ホトトギスが庭に咲きました。この花を教えてくれたのは母です。夕方散歩をしながら、古い北原白秋の歌が口をついて出てきました。この歌を私に教えてくれたのは母です。そんな風に母を思い出します。朝走って家に帰る時、福岡の南に向かって走る道に出ると短い間ですが「油山」が視界に入ります。母が初めに入った老人施設のあたりが遠くに見えます。すると「お母様、ごめんね、」と自分では思いもかけな言葉が心に浮かびます。なぜでしょう?何にごめんねって言っているのかもわかりません。でも今では「油山」が見えるといつも心に浮かぶ言葉です。

 母娘の確執を耳にすると、私だけではないことに安堵します。「嫌な人」「嫌いな人」に変わりはありません。それでも何かが私の中で変わり始めていると気付きます。そして、その変わり始めている自分を好きだと思います。

 お仏壇は始末しました。毎朝、お線香をあげ、手を合わせる父母の写真です。

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私は友人にとって何なんだろう?

2021年03月16日 | 自分ごと

曇、15度、76%

 1週間ほど前のことです。2年近く音沙汰なかった友人からメーッセージをもらいました。長い長い付き合いです。お互いに家庭もあり、遠くに住んでいますから2年ぐらいの音信不通は当たり前、会えば数十年前にひとっ飛びします。賀状の交換などしませんが折に触れぽっと思い出すことがあります。メッセージの内容は「命に別状のある病気で危ない状態にある」というものでした。心配は募ります。

 そのメッセージから毎日具合を尋ねました。丸一日半、連絡が取れなかった時には「何かあったに違いない。」と落ち着かない重苦しい時間を過ごしました。スマホのスイッチが切れたままでした。おそらく、病状が一番悪い時だったのでしょう。1週間経ち、やや症状も軽くなってきた様子です。油断はなりませんが、安心しました。

 この友人、そういえば2年前も手術をする病気の時に連絡をくれました。その時も「もしかしたら危ないかもしれない」といった状態でした。手術も成功、術後の経過も順調で連絡が途絶えました。今の世の中連絡がないと言ってもFBやインスタなどで元気な様子を知る事が出来ます。遠い街でこの「コロナ」を凌いでいる様子も知っていました。

 この友人は「もしか」の時に必ず忘れずに連絡をくれます。「もしか」はいつかやって来ます。そういう年齢になりました。「この友人にとって私って何なのだろう?」とここ数日考えます。連絡をもらって以来、回復を祈り、日々を案じています。離れていても長く会っていなくても、今この時間を共有していると感じます。こんな気持ちを友人と分かつことになろうとは、数十年前は思いもしませんでした。お互い歳をとりました。そうなんですよね、「もしか」はやって来ます。

 今頃、浅い眠りでベットにいるだろう友人を思います。もうしばらくしたら、今日のメッセージを送ります。遠いので何も出来ません。庭の花の写真を送りました。昨日は開いたシンビジュームの写真をメッセージに添えました。喜んでくれます。

 「もしか」の時に思い出してくれる友人があること、私にとって幸せなことだと噛み締めます。そしてきっと回復してくれると信じています。

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60歳以上 65歳以上

2021年02月14日 | 自分ごと

晴、14度、86%

 先月末、市立美術館の所蔵物の展示を見に行きました。入り口で入場券を買い求めます。「二百円です」とお姉さん。200円を小銭入れで探していると、「65歳以上の方は割引です。」とお姉さん表情一つ変えずにおっしゃいました。私一瞬「?」そうか65歳以上に見えたのねと「いいえ、65歳以上ではありません。」と膨れて返事をしました。館内に入り、65歳にこだわった自分がおかしくなりました。私はあとひと月で64歳の現在63歳です。大雑把にまだ70歳には間がある60歳以上だと自分を思っています。展示物を見て出る折、入場券のお姉さんに「お世話になりました。」と声をかけました。私の様子で不快な思いをさせたくありません。やはり表情一つ変えずに座っていました。

 一年ほど前、映画館に行きました。小さな映画館です。切符売り場には背の高いお兄さんがいました。千五百円を手にして切符売り場に並びました。ここにはスタンプ券があります。いっぱいになると1回、無料になるそうです。千五百円とスタンプ券をお兄さんに出しました。「60歳以上なら割引がありますよ。」「はい!60歳以上です。」と私。62歳の時のことです。お兄さんスタンプ券の隅に小さなハンコを押してくれました。「これで次からいつでも割引でご覧になれますよ。」嬉しくてステンプ券を大事にしまいました。

 65歳以上、60歳以上、考えてみればたいした差があるわけではありません。でも映画の時は喜んだシルバー割引が美術館ではムッとしてしまいました。最近では咄嗟に自分の年齢が言えません。西暦に置き換えて引き算しようとすると、今年が西暦何年かこれまた咄嗟に出て来ません。やれやれです。

 年齢を隠すつもりはありません。それでもこのちょっとした表現の差「60歳以上か65歳以上」に引っかかってしまいました。「これも女心かな?」

 60歳以上のハンコを押してもらって以来、コロナが怖くて映画に一度も行っていません。スタンプ券を持って映画館に行く日が楽しみです。

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さつまいも 「紅小町」

2020年11月25日 | 自分ごと

曇、12度、84%

 秋になると芋掘りがあり、「さつまいも」が美味しくなります。焼いたり、蒸したりそのままの甘さが好きです。「さつまいも」にはたくさんの思い出があります。

 

 中学の頃、私はお小遣いをもらえませんでした。秋も深まると校門の外にリヤカーの焼芋売りがやって来ます。一緒に下校している友人たちは焼き芋売りのリヤカーで「これ。」と指差し、量り売りで焼きもを買っていました。私はその後ろで友人を待ちました。そんなある日、焼き芋売りのおばさんが大きな焼き芋を一つ新聞に包んで私の手に握らせてくれたことがありました。「いいから、食べなさい。」北風が吹く福岡の冬は寒く、その焼き芋の温かさとおばさんの顔を今でも覚えています。

 30数年前に香港に渡りました。市場に売られている「さつまいも」は見た目は日本の「さつまいも」と同じでした。ところが筋ばっかり、水っぽく、ちっとも甘くありませんでした。冬になると焼き芋売りがやって来ます。その芋は市場では見慣れない「さつまいも」でした。白い皮に中の身はオレンジ色、ほっくりとはしていませんでしたが甘さは十分でした。美味しい「さつまいも」に出会えないので、主人は出張で日本に帰る度に「さつまいも」を私への土産にしてくれました。その主人の様子を見て、会社の方達が出張で香港にみえる時には私へ「さつまいも」を持って来てくださいました。重い重いお土産でした。「さつまいも」の重さが嬉しさにつながりました。

 一番の思い出は、一山100円の「紅小町」という「さつまいも」が買えなかったことです。お腹には息子がいました。当時は本当にお金がなくて、最小限のものしか買えませんでした。八百屋に並ぶ一山100円の「紅小町」と書かれた「さつまいも」は通りすがりに見るだけでした。「紅小町」は色鮮やかな細めのさつまいもです。今でもざるに盛られた「紅小町」を思い出します。

 おそらくこの「紅小町」の思い出のせいか私が手にとって買う「さつまいも」は細身で小さなものばかりです。関東近辺で「紅小町」は今でも栽培されていると聞きます。当時に比べると姿が大きくなっているそうです。

 食べ物に思い出は付き物です。嬉しかった思い出、辛かった思い出も、手のひらに感じる「さつまいも」の温かさが呼び起こしてくれます。

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色の名前

2020年11月16日 | 自分ごと

曇、17度、82%

 毛糸売り場で並ぶ毛糸の玉、色とりどりです。たくさんある色を見るのが好きです。 これは私の刺繍糸を仕舞ってある缶、様々な色の糸が入っています。緑、青、どれも微妙に明度を変えていく種類も入っています。ところが毛糸も刺繍糸も色も区別は番号です。グリーンの毛糸に色の名前はありません。ただ「21」番。素っ気なく番号で区別されています。

  これはサクラ「クレパス」です。この巻紙には一本一本名前が書かれています。日本の色の名前ではありません。英語名の色の名前です。「深緑」ではなく「MOSS」一本一本手にとっては、英語名を日本語に置き換えます。英語の色の名前も素敵です。「モーブ」「バーガンディ」言葉の響きとその色が共鳴しているように感じます。

 色を何かに例えて名付けるのはどこの国でも同じようです。「すみれ色」が「バイオレット」すぐにどんな紫かわかります。「すみれ色」と言う時と「バイオレット」と言う時では、目の前に浮かぶ色が若干違うのを感じます。この「若干」は言葉の響きによるものかもしれません。

 色の名前、日本は昔からの色の呼び名があります。「金春色」などと書かれていてもすぐには色が思いつきません。鮮やかなブルーです。昔からの呼び名は、数百もの呼び名で区別されています。日本古来からの「色の名前」は着物の世界や染色の世界では今でも使われています。 「色の名前」を集めた本で漢字と色を確かめます。自然界由来の名前が多い中、時には歌舞伎役者の名前由来の色名まで飛び出してきます。古い日本の色の名前は興味が尽きません。名前の由来、染料は何か、何度も読むこの本ですがいつまで経っても覚えきれないほどの色の数です。

 幼稚園に上がって買ってもらった「クレヨン」、10色ぐらいの小さなものでした。空は「水色」、髪の毛や目は「黒」どの子もみんな同じ色を使いました。小学で少し大きな「クレヨン」を買ってもらいました。、その中にほとんど使わない色が一本ありました。色も好きではありません。それにも増してその色の名前が嫌いでした。「黄土色」です。なぜ嫌いなのか今だにわかりません。「黄土色」の言葉の響きが頂けないのだと思います。

 「はしばみ色」と言う日本名が気に入ってその色を確かめました。かすれたような薄茶です。英語名は「ヘーゼル」、声に出して色の名前を確かめます。好きな色は名前もまたいいと思います。

 私の色鉛筆は一本一本に英語名とドイツ語名が書かれています。言葉の違いはあっても「色の名前」を探るのは私の楽しみの一つです。

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今日はブログを休みます。

2019年11月16日 | 自分ごと

晴、6度、69%

 今日はブログを休みます。

 昨日、所用で上京しました。久しぶりに会う主人とたくさんの話、息子もちょっと顔を出してくれ、嬉しくてワインをたくさん飲みました。寝るのもいつもよりずっと遅くなって日付が変わって休みました。今日、明日と大事な用事が待ってます。主人に会ってホッとして気が緩んだのでしょう。体調が思わしくありません。

 

 今日はブログを休みます。

 

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