MIFさんの趣味の1つがパソコンの組み立てです。
私はさっぱり分かりませんが、20年以上前からそうやっているのでそう言うモノだと思っています。
親戚の方が古いパソコンの動きが遅くって…と言っていたそうで、MIFさんの手持ちのパーツ等で組み立てたそうです。
静岡県に行くのなら…と観光地等を調べてみたら、ずっと不思議に思っていたことの答えが見つかりました。
靖国神社に大村益次郎像があります。
大村益次郎は、明治維新の功労者のひとりですが、明治2年に暗殺されています。
靖国神社の前身、東京招魂社の造営に尽力したとは知っていたのですが、銅像を造るほどか?と疑問に思っていたのです。
でも東京招魂社には静岡県出身の奉職者が多かったことで、深みのあることだったと気が付きました。
静岡県は徳川家ゆかりの地です。
戊辰戦争では、その静岡県辺りでの激戦とはあまり聞いたことがありません。
どちらかというと、甲府、箱根辺りでの戦闘は聞いたことがあるのに、どうしてかな?と。
咸臨丸(幕府側の軍艦)は清水港で拿捕されるくらいで、それほど大きな戦闘にならなかったのは、徳川慶喜が恭順の姿勢を見せたからでしょう。
静岡県には富士本宮浅間大社という、富士山を御神体とする神社があります。
神社ですから神道です。
江戸時代は寺請制度があり、神社も寺の元に身を寄せていた時代です。
神道は天皇家と密接な繋がりがあるので、王政復古の大号令によって神道家は天皇家に対して何かのお役に立ちたいと思うのです。
浅間大社でも同じように、お役に立ちたいとの思いから新政府軍側についた神主、宮司たちがいたのです。
ところがこの静岡県あたり(旧駿河国)は、旧幕府側についた武士が多い地域です。
戊辰戦争が終わっても、帰郷すると身の危険に晒されるため帰郷叶わず、大村益次郎に相談し、東京招魂社に奉職した方が多かったということです。
私はこの話にたどり着いたのですが、まだ疑問が残ります。
徳川家康は富士山八合目より上を浅間大社に寄進しており、富士山に落ちたお賽銭はすべて浅間大社のものとしました。
それだけ浅間大社を庇護してもなお、旧幕府側ではなく新政府軍側に味方した神主、宮司が多かったのは、旧幕府側にそれほど不満を持っていたのでしょうか?
さて、私が気になったこの歴史を後世に伝えているのは、静岡県富士宮市の富士本宮浅間大社の境内にある、駿州赤心隊の碑です。
赤心隊隊長が浅間大社の宮司、富士重本でした。
宮司が帰郷できない事態になるとは、本当に驚くばかりです。
私にとって静岡県はお魚が美味しくて、富士山と徳川家ゆかりの地という印象ばかりでした。
こう言った歴史は、郷土史として伝えられるほかはなかなか自分で調べることも少ないことでした。
ほんの少しのきっかけでも、やはり歴史を調べるのは面白いです。
歴史は立体的に構成され、複雑に絡むからこそ面白く、教科書だけが歴史書ではないと感じ入っています。
今日も楽しい調べ物に繋がりました。