maidoの”やたけた”(ブログ版)

ジジイの身辺雑記。今日も生きてまっせ!

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喜愛香港-目次

2004-09-30 20:22:10 | 虚々実々-喜愛香港

喜愛香港-000 先ず最初に予防線
喜愛香港-001 九龍城砦(ガウルン・センチャイ)-1
喜愛香港-002 九龍城砦-2
喜愛香港-003 九龍城砦-3
喜愛香港-004 九龍城砦-4
喜愛香港-005 香港の闇-1
喜愛香港-006 香港の闇-2
喜愛香港-007 旺角(モンコック)-1 
喜愛香港-008 旺角-2
喜愛香港-009 旺角-3
喜愛香港-010 佐敦、油麻地-1
喜愛香港-011 佐敦、油麻地-2
喜愛香港-012 佐敦、油麻地-3
喜愛香港-013 ヌングァマ
喜愛香港-014 ヌングァマ-2
喜愛香港-015 長洲-1(チェンチャウ)
喜愛香港-016 長洲-2
喜愛香港-017 長洲-3
喜愛香港-018 天后(媽祖)
喜愛香港-019 道教の神さん色々
喜愛香港-020 長洲-4
喜愛香港-021 長洲-5
喜愛香港-022 新界巡り-1
喜愛香港-023 新界巡り-2 青松-1
喜愛香港-024 新界巡り-3 青松-2
喜愛香港-025 新界巡り-4 元郎 -1
喜愛香港-026 新界巡り-5 元郎-2
喜愛香港-027 新界巡り-6 元郎-3
喜愛香港-Y001 寄り道-001 
喜愛香港-028 新界巡り-7 元郎~粉嶺
喜愛香港-029 新界巡り-8 粉嶺~大埔
喜愛香港-030 新界巡り-9 大埔
喜愛香港-031 新界巡り-10 沙田~大圍
喜愛香港-032 寄り道-002 元宵節
喜愛香港-033 石塘咀
喜愛香港-034 香港仔-01 
喜愛香港-035 香港仔-02 
喜愛香港-036 戎克(ジャンク)-01 
喜愛香港-037 戎克(ジャンク)-02 ゴタクあれこれ
喜愛香港-038 戎克(ジャンク)-03 愛しの戎克
喜愛香港-039 銅鑼灣 
喜愛香港-040 西貢 01 
喜愛香港-041 西貢 02
喜愛香港-042 西貢 03
喜愛香港-043 西貢 04
喜愛香港-044 香港の結婚式-1
喜愛香港-045 香港の結婚式-2
喜愛香港-046 香港の結婚式-3
喜愛香港-047 香港の結婚式-4
喜愛香港-048 香港の結婚式-5
喜愛香港-049 香港の結婚式-6
喜愛香港-050 香港の結婚式-7
喜愛香港-051 香港のお葬式(殯儀)
喜愛香港-052 深水捗-1
喜愛香港-053 深水捗-2 西九龍中心
喜愛香港-054 北角(パッコック)-1
喜愛香港-055 北角(パッコック)-2
喜愛香港-056 九龍灣
喜愛香港-057 中秋節


喜愛香港-057 中秋節

2004-09-28 16:31:34 | 虚々実々-喜愛香港

今日こそ、この記事をアップせん事にはお月さんに怒られる。
大阪は残念ながら18:00以降降水確率70%で、お月さんには逢えそうにおませんねぇ。
今日の香港の予報は幸い快晴、最高気温31度、最低気温26度、雷暴警告(カミナリ注意報)も出てないし、絶好の天気みたいですねぇ
中秋節や月餅の話はサイトのあっちこっちにパラパラと書いてますんで、重複する部分が頻出するかと思いますけど許してちょうだい。

中秋節は映画の題材にも良く使われてます。
中でも10年ほど前の香港映画「月夜の願い(新難兄難弟)」が好きですねぇ。
香港の1990年代初頭と、1950~40年代?の中秋節が一度に味わえる名作でっせ。
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」風味のファンタジックなほのぼのコメディ。
人間不信に陥ったときなんかには持って来いですわ。
きっと映画の舞台になってる下町の「春風街」へいってみたいなぁと思いまっせ。
残念ながら今のところ春風街をよう見つけてないんです。
隣接する中共の深センに春風路というのはあるんですが、これは似ても似つかん街。
おっとっと、映画解説が主題やないんでこの辺で置きます、興味のある方は是非ご覧下さい。
蛇足ながら「難兄難弟」という1983年?頃に作られた全く違うストーリーのもありますのでお間違いの無いように。

秋の節句、中秋節は収穫を祝い、満月のように円満な家族を願うお祭りなんですねぇ。
家族全員で夕食を囲んだ後、動物や鳥などの凝った形のランタンを子供に持たせて、公園や高台、海岸などに出かけて中秋の月を愛でるんです。
観月ポイントには夜店もいっぱい出て、元々が夜更かしの香港の街は、何時にも増して深夜まで賑やかです。
中秋の満月は1年中で最も美しく、願いをかなえてくれる力も強いとされてるんですねぇ。

中秋節は元宵節と並んで、プロポーズにふさわしい日とされてます。
それもあってか、夜の町はカップルが多いし、可愛い女の子が普段よりも多いような気がしますなぁ。
まぁ、最近は、バレンタインディ、クリスマスイブなどもそう言われてるんで、年から年中プロポーズしてるみたいですけどね。

九龍と香港の間のビクトリア港では花火大会も開催されます。
今年はマカオで世界花火コンクールが行われるというてましたねぇ。
さすがは火薬を発明した花火の本家本元だけに、何かというと花火大会をするんですわ。
大会とまで行かんでも、花火は邪気や魔を払い、福を呼ぶてな事を言うて、春節はもとより、開店、結婚、その他のお祝い事には爆竹が大活躍。

花火大会もエエんですが、お勧めは大坑(Tai Hang)地区では中秋節をはさんで3日間演じられる、龍の舞。
この龍、兎に角デカイ!口から火の粉を吹き出しながら踊り狂うんですわ。
途中で交代しながらとはいえ、踊り手は大変でっせ。
打ち鳴らす太鼓の音も大迫力、両側の高層ビルに反響して脳みそがポワ~ンとなりそう。
見物の人波と太鼓の音に酔うのもオツなもんです。
但し、スリ、カッパライが、この時とばかりウジャウジャ居るので手ぶらで行くに限ります。
この龍の舞、百年以上の歴史があるんやそうです。
何千年の歴史を誇る中国で百年と言えば大した事が無いように思いますけど、アヘン戦争後急激に発展した香港での百年は大したもんでっせ。

元宵節と同じく中秋節にもランタンカーニバルがそこいら中で開かれます。
手に手にランタンを持った人々が飾ってある大きなランタンを見物して回るんです。
人出のあるところには露店、屋台が付き物。
コンサートやチャリティオークション等の催しも行われて、そらもぉ賑やか。

最近、手に持つランタンは危険防止のためにロウソクから電気仕掛けで点滅したりするのが増えてちょっと情緒が無くなった感じもしますねぇ。
それとライトスティックいうんですか、化学反応で発光する液体の入った棒。
あれのゴミが大量に出るので、香港自治政府も処理に頭を痛めてるみたいです。
中々全て好都合というのは無いんですなぁ。

それでも結構ロウソクを使ってるのも残っていて、悪ガキどもの遊びの定番はちびたロウソクを空き缶に集めて篝火(カガリビ)みたいに燃やしよるんです。
量が半端や無いからパラフィンが気化して、盛大な火柱が立ち上るんですわ。
そこへ爆竹を放り込むから融けた蝋が飛び散って、まるで油脂焼夷弾(古っ・・・)。
公園や海岸で火柱をみたら近寄らん方が安全です。

繁華街、下町、新界の田舎、それぞれに魅力的な中秋節が有り、少々香港に通っても到底回り切れません。
中秋節明けの、気が抜けて呆けたような街の佇まいも好きやねんけどなぁ。
実は、そろそろ香港禁断症状が出かけてるんです。
子供の手が離れたと思えば、今度は年寄りが心配、これは順番やからしょうがない。
九十を越えた母親を一人置いて行くわけにも行かず、連れて行くのは論外やし、懐具合も寂しいし中々ままならんもんですなぁ。

せめて今夜は息子や娘、マゴ達と、場所は別々でも、同じ東海酒家の月餅を食べて家族円満をお願いしますわ。
離れていても同じ月を眺めたら心が通う言うけど、雲が邪魔しそうですやんか。
雲を突き抜けて願いや思いを届けようと思えば、相当力を入れんとあきませんなぁ。
午後はなるべく身体を休めて力を貯めとこっと。

2004/09/28

喜愛香港-目次

 


喜愛香港-056 九龍灣 

2004-05-20 16:30:08 | 虚々実々-喜愛香港

九龍湾は観塘避風塘(Kwun Tong Typhoon Shelter)から北西に伸びる水路をはさんで啓徳空港に面していました。
滑走路と地下鉄の駅までが900~1,000mしか離れてなかったんです。
丁度私が子供の頃から住んでいる阪急岡町駅と大阪空港の滑走路の間が1,200~1,300mですから似たようなもんですねぇ。
深水捗では頭上をかすめるように飛んでいた飛行機が、ここでは目の真ん前で離着陸してたんです。
飛行機には馴染みが有りますし、空港に近い街というのは何となく親しみが持てるんですね。
今は新空港に移転したので、九龍湾は飛行機の爆音の点では静かな街になりました。
ビクトリア港でブイ泊まりしている船から貨物を運んで荷揚げしていた、空港に面した岸壁もコンテナー輸送が主流になったので昔の喧騒は消えましたねぇ。

西から偉業街、観塘道、牛頭角道と大きな三本の道が南北に通っています。
偉業街の西側の海との間は工業地区、東は高層住宅がMTR(地下鉄)の高架と観塘道、牛頭角道を越えて山裾まで立ち並んでいます。
香港の典型的な普通の街で名所も何もありません。
強いて言えば、昨年のSARS騒動の時に、大高層住宅が丸ごと隔離されて有名になった、淘大花園(アモイガーデン)は地下鉄九龍湾駅のすぐ近くですが、これは名所といえるのかどうか・・・。

駅周辺をウロウロしていると、学校が多いのに驚きます。
中学は偉業街に威霊頓(Wellington)、牛頭角道より東に瑪利諾工業、慕光書院と3つなんですが、小学校が駅の東側の高々300mX600mくらいの狭い地区に、慈敬、柏徳、聖馬太、聖道、司徒浩、天主教、ミン(門+虫)僑、道教、貴顕と9つもあります。
日本と違って、ビルの一部に間借りしてる、校庭など無い小規模な学校がほとんどなんです。
それにしてもこの数の多さはねぇ。
それだけ人口密度が多く、子供も多いと言う事ですなぁ。
香港の普通の勤労者の生活を見るのには絶好の場所ですが、そんな事をしたいという物好きは、まぁ居て無いでしょうねぇ。

ほんなら何でここへ来るかといえば、旺角の釜飯屋が無くなった今となっては、香港で一番美味いと信じている釜飯屋があるんですよ。
私もその釜飯屋がなければ、何ぼ何でもここにわざわざ来ることはなかったでしょうなぁ。
おすすめの釜飯はカエル釜飯ハムユイ釜飯

地下鉄九龍湾駅の西には徳福花園(団地)、東には香港の大規模団地でも初期の物の牛頭角下邨(団地)が観塘道を挟んで聳え立ってるんです。
外で食事をする習慣を持っている廣東人の団地らしく、1階部分には軽食堂が何軒も並んで営業していて、住民は日常の朝晩の食事をそういう店でするそうです。
香港人が普段どんな物を食べているのかを経験するにはこういう店はもってこいです。
衛生状態なんかはあんまり深く考えん方がエエでしょうね。
こういう店のメニューに生ものは皆無やし、毎日食べててもピンピンしてる連中が居てるんやから、そうそう心配することはないと思いますがね。
こういう食堂は安い早い、味も値が安い割りには不味くはないですね。

そうそう、香港人のいいまわしの特徴に「悪くない」と言うのが有りまして、これは褒め言葉なんです。
「悪くない」=「良くもない、即ちプラマイ0」かと思えば、0よりはズ~っと+に振れた評価なんですね。
似た言い回しに「無問題(ンーマンタイ)」=問題は無い=「大丈夫」というのがあります。
良いなら良い、と素直に何で言わんのやろ?

返還前後には、そういう高層住宅の1階で営業している飯屋で、未だ古い小吃(軽食の小店)スタイルの店が有りました。
今でも残っているかどうか?
プラスティックの風呂の腰掛け風のが入り口付近に積み重ねてあるからすぐ判る。
何処が古いスタイルかと言えば、カウンターの前に、背もたれのない木の3~4人掛けのベンチが有りまして、そうですなぁ・・・、日本でも昔、夜泣きソバ屋が使ってたような奴です。
これに座るのかと思うと、それにしてはカウンターが無闇に高い。
まるで曝し首みたいな感じなんですわ。
常連がくると、先ず隅に重ねて置いてある風呂の腰掛けを持って来て、ベンチの上にそれを置いて座るんですよ。
そうするとカウンターが丁度良い高さになるんです。

風呂の腰掛けは低いから、ワンコロがお座りしたような格好ですなぁ。
横から見たらかなり間抜けな格好でっせ!
見よう見真似でやってみましたが、真中に座るとベンチの板が薄いから、ビョンビョンするんですよ。
まるで枝に止まってメシを食べてるみたいな感じですねん。
端っこに座るのもデングリ返りそうで怖いしなぁ・・・。
これは不安定で落着きませんでしたねぇ。
おかげで、美味しかったのか不味かったのかよう判りませんでした。

聞けば、昔はそういうスタイルが多かったんやそうです。
一体何で椅子の上に椅子を置くてな怪体なことをしてたのか、今もって不明ですわ。
便座の無い洋式便器や中国風の床から40~50センチ高いしゃがむ便器の使い方はこの伝統を踏まえてるのかも知れませんねぇ。
しかし、洋式便器のあの細い縁に駆け登ってナニをするというのは、中々バランス感覚を要求されて、落ち着けませんよ。
さすがに雑技団、軽業の本家だけの事はおまっせ。
けど、中にはドン臭いのがいて、転落する事もあるみたいです。

ところで、こういう住宅団地+工業団地の地域は深夜になるとチンピラが出没するんです。
22時以降、建物の間の薄暗がりにたむろしている中高生を見たら、君子危うきに近寄らず。
真面目な連中かもわからんけれど、あえて近づかん方が安全です。
こういう連中は経験が少ないから、手加減という物を知らん。
おまけに獲物を見極める眼力がない。
幾ら、お金持ってません、襲うても手間損でっせ!という貧乏たらしい姿(ナリ)をしてても、ヤラれる時はやられますねんて。
もっと悪い事に、自分等も怖いからすぐに凶器を持ち出すんやそうで、それも素人やから手槍(拳銃、ハジキ、チャカ)てな物やのうて、刃物を振り回すらしい。
同じ切られたり突かれたりするにしても、夜店で買うたような安物の、切れ味の悪いのんでギシギシやられたら余計に痛いがな。
そんなん、かないませんよ。
そういうわけで、この付近を深夜に徘徊する事はお控えになるように、強~くお勧めします。

2004/05/20

喜愛香港-057 中秋節


喜愛香港-目次


喜愛香港-055 北角(パッコック)-2

2004-05-05 16:28:01 | 虚々実々-喜愛香港

書局街が英皇道と交差した北西角に新光劇院が有ります。
ここは粤劇の常設館。
難儀な事に、開演が遅いので終るのが深夜、マゴマゴしてると地下鉄の終電車に乗り遅れるんです。
フアンは贔屓の役者に写真のような赤と金のド派手な看板(?)を送るんです。
劇場の入口にはこの看板が所狭しと並んでいます。
これを見て回ってるだけでもかなり面白い。
観劇して興奮覚めやらぬおっちゃん、おばちゃんがたむろして看板を肴にワイワイやってるんですが、まだ劇場内では演目が終ってないんですよ。
入場料が勿体無いと、最初から最期まで見るのは野暮で、自分の気に入ったところだけを見て、ドンと楽屋見舞いを送って、サッと帰るのが粋やそうです。
そんな事言われてもねぇ・・・。

粤劇というのは、日本の歌舞伎に相当するような古典芸能なんですが、人々の日常生活への溶け込み方となると到底歌舞伎に勝ち目は有りません。
有名な演目の台詞は詩や詞、成句などと同じように日常会話に登場します。
新光劇院に出演するのは超一流で、看板俳優の一流ホテルでのディナーショウの切符などは先ず手に入りません。
それ以外にお祭りや、廟の縁日はては夜店の仮設舞台で演じるドサ回りの零細劇団が仰山いてるんです。
格式のあるメジャーな劇団では歌舞伎と同じく、男が女性を演じるんですが、零細劇団では女性が演じる男役てのも有り。
演目を通しで演じないで、有名なサワリだけをするので、手軽に色々な演目を短時間で楽しめます。
追っかけのファンが居て、舞台に上がって衣装にお札を挟んだり、豪勢なのはお札で作ったレイみたいなのをプレゼントするんです。
場合によってはサワリの一節をデュエットしてくれますねん。
これはこれで中々ええもんです。

公園で同好の士が集まって、金切り声で声色を演じているのもよく見かけます。
廟街などには粤劇の声色をするカラオケ屋台が何軒も並んでいます。
あの独特なチュワン、チュワンというシンバルや二胡、妙な事にテナーサックスも入った音楽に合わせて劇のサワリを演じるんです。
素人ながら芸達者の多い事には驚きます。
何故か女形を演じるオジさんが多いんですなぁ・・・。
化粧無しで衣装も着けてない脂ぎったおっさんが、絹を裂くような独特の声でシナを作って台詞を語り、歌うんでっせ。
そらもう鬼気迫るもんがありますなぁ。
本人は完全に自分の世界に入り込んでるからエエけれど、見ているこっちはチョット気色悪い。

ちなみに日本では十把一絡げに中国の古典演劇を京劇と呼んでいますが、八大地方劇とされている京劇=北京、川劇=四川省、豫劇=河南省、昆劇=江蘇省(蘇州)、評劇=河北省、黄梅劇=安徽省、越劇=浙江省、粤劇=広東省以外にも、山東省の呂劇、上海付近の滬劇、河北省の評劇、安徽省の黄梅劇と、まだまだ有るそうですが他のは知りません。
呉晗が執筆した京劇の脚本「海瑞罷官」を姚文元(文革四人組の一人)が批判したのが中国全土を大混乱に叩き込んだ文革のきっかけとなったと言われています。
私なんぞも文革の終わり際に引っ掛かって、中国船が日本で修繕ドックするのに打ち合わせに行ったら、毛語録を持たされて、乗船している政治局員のお話が済むまで仕事との話が出来んかって往生しました。
臉面―この櫂に手をそえて」は四川省の川劇の特徴的な芸の「変臉(面の早変わり)」が重要な要素になっていましたねぇ。
例えば粤劇はアクロバティックな立ち回りが得意とか、川劇は空中を飛んだり、舞台で火を使ったりするとか、各劇には夫々特徴があるんだそうですが、正直なところ私には見分けるのは至難の業ですわ。

英皇道を渡って書局街を山側に進むと急な長い階段になっています。
階段を登りきると高層住宅の間のダラダラ坂、その先は曲がりくねった階段が山の方へと続きます。国共内戦後、香港に難民がドッと流れ込んだ時代には、この上の坂道に難民のバラックがひしめいていたそうです。
大雨が降ると、急坂をバラックの残骸と人間が混じって流れ落ちてきたというから悲惨ですなぁ。
場所は少々違いますが「スージー・ウォンの世界」という灣仔を舞台にした映画の名作に、難民バラックの大雨のシーンが有りましたねぇ。

途中から階段は山道に変り、20~30m先で山の方(南)へ行く道が有ります。
曲らずに真っ直ぐ行けばやがて下りの階段で、糖水道を上がってきた付近の高層住宅の中に入り込んでしまいます。
団地の中の迷路見たいな通路を抜けて英皇道に出たあたりは、台灣、インドネシア、タイ華僑相手の安ホテルが入ったビルが並んでいます。
こういうホテルはビルひとつ丸ごとホテルではなくて、一階には食堂や商店が並び二階は映画館。3階から5回がホテル、その上は住宅という具合に複合してるんですね。
中には今は無き九龍城砦のミニチュア見たいなビルもあるので、ウロウロするのも面白いんですが、ひょっとしたら二度とでて来られんかも・・・。
というのは冗談で、実は前回の深水捗や北角は犯罪発生率では、観光客の多い尖沙咀や灣仔、銅鑼灣等よりも何十%も低いそうです。
ただし不法滞在、密入国者の数は他の町に較べると多そうですがね。

さて、ぶらぶら散歩がてら英皇道へかえるとしますか。
さっきの山道を左に曲って山の方(南)へ行くと天后廟道に出ます。
これは自動車も走る広い道路。
天后廟道を右の方に下って10~15分行くと左手に立派な天后廟が有ります。
中国清朝第六代皇帝の乾隆年間(1735~1795)に建てられたそうで、香港の古名の「紅香炉(ホンコンロ)」はここの大きな銅製の香炉から生まれた、という話が有ります。
香港と言う名前の由来については「香木の積み出し港で、港に良い香りが漂っていたから香港」という説が有ります。
どっちがどうやら?両方とも後付けみたいな感じがしますなぁ。
それはさて置き、絶え間なく改装増改築を加えられたとはいえ、さすがに本物。
古い香港の雰囲気が濃厚に残っていて、見応えも雰囲気も数多在る香港の天后廟でも五指に入るんやないかなぁ。
浅海灣(レパルスベイ)に突然でっち上げられた観光バス向け、今出来の天后廟等は足元にも及びません。

ここまで来れば、路面電車(トラム)の走っている英皇道は目の前です。
丁度この辺りへ出てくるんです。
このトラム(路面電車)の停留所の近くには、路線バスの停留所も有れば専線小巴(緑のミニバス)の溜まりも有ります。
真下には地下鉄の天后駅が有ります。
地下鉄で帰るも良し、英皇道をブラブラ歩いて北角へ戻ってフェリーで海を渡って帰るも良し。
ここは交通が便利やからどうにでもなります。

次回は九龍灣へ釜飯でも食べに行きましょうか。

2004/05/05

喜愛香港-056 九龍灣

喜愛香港-目次


喜愛香港-054 北角(パッコック)-1

2004-05-01 16:26:04 | 虚々実々-喜愛香港

北角(パッコッ)の最期の「」は「パッコッ」と聞こえる感じに飲み込むんです、そんな事はどうでもよろしいね・・・。
本来の廣東語の地名は「七姉妹(チャッディムィ、チェッディムィ?)」。
地域の名前としてはもっぱら「北角」が幅を効かせて、「七姉妹」の方は「七姉妹道」に名残を留めているだけです。
「七姉妹」なんてぇのはなにやら曰く因縁ありげな地名やなぁ!と訊きまくったんですがよう判らん。
七月七日の七夕の天女(織姫)には六人の姉妹があって、本人も入れると「七姉妹」。
そやから七に縁が有るんやそうな。
その「七姉妹」から来ているらしいという説を聞いたものの、肝心の「なんで?」という由緒は未解決のまんまですねん。
判らんなりにも「七姉妹」の方がイギリス人がつけた「North Point=北岬」てな味もシャシャリも無い名前より遥かに情緒を感じさせてエエと思うんですがねぇ。

ついでのことに、銅鑼灣(トンローワン)は元々の地名で、イギリス人が後からつけた「East Point=東岬」を廣東語にした「東角(ドンコッ)」は誰も使ってません。
なんで「七姉妹」は「北角」に取って代られたんでしょうか?
香港の地理を知っている人は、おんや?北角より西にある銅鑼灣が「東角」とは?と思うでしょうね。
1900年代初頭までは西営盤から真中の中環(チュングワン)銅鑼灣までが市街地で、銅鑼灣は文字通り東の端っこやったんですなぁ。
太平洋戦争の初期、羅湖で国境を越えた後、九龍半島の西と東の海岸沿いに進んできた日本軍が、1941年12月18日香港島を攻略すべく尖沙咀、ホンハム、牛頭角(ガゥタゥコッ)から海峡を渡って上陸したのは、ここ北角だったんです。
上陸地点に選ぶぐらいですから、ホンマに北角は町の外れやったんですね。
その後、と行っても第二次世界大戦の後、街がドンドン東へ広がって銅鑼灣は殆ど中心辺りに位置する事になってしまいました。

国共内戦で大陸を逃げ出して来た上海人が先ず住みついたのも、まだ町外れだった北角。
そんなわけで、北角に廣東語の通じない上海租界が出現しました。
怜悧で勤勉、商才にたけている事では定評の有る上海人が住み着いた事が、北角発展の切っ掛けになったんです。
ところが成功してお金を握った上海人は、やがて端っこの北角から香港のもっと中心部へと進出、後に住み着いたのが福建人なんです。
小学生時代のアグネス・チャン(陳 美齢)は、北角の主役が上海人から福建人に変わる頃に、北角の銅鑼灣寄りに住んでいたんですね。

福建人といっても、大陸は既に共産党支配が確立していましたので、直接福建省から来たのでは無いんです。
やってきたのはインドネシアから。
アジアで一番歴史が有ると言われているインドネシア共産党(PKI=Partai Komunis Indonesia)は独立戦争で重要な役割を果たし、その後成立した中共の支援を受け勢力を増していたんですね。
丁度香港では中共の工作員に組織された暴動が頻発し、マレー、ボルネオでも毛沢東の中共に後押しされた共産ゲリラが暴れていた頃です。
スカルノが共産党と国軍の両方に片足ずつ懸けて、危うくバランスを取って政権を維持していたのですが、地方で次々に反乱が起き地方革命政府まで樹立される事態になったんです。
軍閥化して分裂しかけていた国軍は、共産主義という共通の敵に対して団結。
米国の援助を受けた軍が反乱を鎮圧すると、大きな力を持つようになりました。

軍の支持を背景にしたスカルノは華人の商業活動を大幅に制限する条例を成立させました。
1959年~1960年にインドネシア華僑250万の10万人以上が国外脱出したと言われています。
この華僑の大部分が福建系で、かなりの人数が香港へやってきたんですね。
その後インドネシアでは共産党がクーデターを起こして失敗、スカルノは失脚してスハルトの時代になります。
このときのドサクサの中でインドネシアの華人は大虐殺に見舞われます。
脱出する先は同朋が居る香港。
そして又もや北角に福建人が増えたんです。
この頃の東南アジアは実に面白かったですなぁ。
歴史を持っていながら、国の気分が若かった。
国をまとめ発展させようとする方法手段には間違いや行き過ぎもあったけれど、目つきに張りがおました。
オット、インドネシアにあんまり深入りすると、香港がやきもちを焼いて拗ねたらいかん。

てな理由(ワケ)で上海人に変わって福建人が北角の主役になりました。
その後、大陸からの生福建人(新移民=サンイーマン)も幾らかは混じりましたが、主力はインドネシア系。
インドネシア独特の調味料や食材が香港で一番揃うのは北角なんですねぇ。
春秧街(チュンヨンガイ)では殆ど福建語の世界です。

春秧街(チュンヨンガイ)はズ~ッと以前は路面電車の折り返し点で、線路がループになってるんです。
折り返し点の名残のループは西の方では上環(シェンワン)の西港城の近くにも有ります。
英皇道を走ってきたトラムが急に北へ曲がって、1本北側の春秧街を通って英皇道へ出るんです。
春秧街の商店は生鮮食料を売る店が主体で、食べ物、衣料品の屋台が道に張り出していて、そこを右往左往する人々を掻き分けるように電車が走ってたんです。
余りヒドイというので屋台が別の場所に移されてすっきりしたんですが、それでもこんな状態。
これは9時半頃ですが、朝が早い町なのでもう2時間くらい早い時間だと道が人で埋まっています。

どうしたわけか、ここにはデッカイ犬がウロウロしてるんですねぇ。
マスティフみたいな面構えの割りにはおとなしいんです、もっとも凶暴やったらエライ事ですがね。
食用犬の末裔やろか?
流れている音楽は殆どが台湾の曲。
台湾語は福建の方言が少し変化したものなんです。
言葉が楽に通じるから台湾からの観光客が多いのもこの町の特徴です。

春秧街を東へ進むと糖水道の東の書局街(シューコッガイ)から先は馬寳街になって、この辺りまで来ると言葉も廣東語に変わります。
この付近は衣料品店が多いですね。
書局街を北へ進むとフェリー乗り場。
活けの海鮮を入れた色とりどりのプラスティックの大タライを道端に並べた魚市が面白いですねぇ。
絶対に安いと思うんですが、残念ながらこれを持ち込んで料理をしてくれるメシ屋が無いんですよ。
その代わりといっては何ですが、大きな公衆トイレが有ります。
下町をウロウロしていると困るのがトイレ。
最近はマクドナルドやピザハットのトイレが使えるのでかなり楽になりました。

春秧街の北側のその名も渣華道(ジャワドゥ)にはインドネシア系に混じって難民つながりかベトナム、カンボジア(クメール)系の店もチラホラと有ります。
渣華道は北角道から西では電気道と名前が変り家具家電を中心に中古品を扱う店が並んでいます。
大強街東側にかって発電所があったからそう言う名前がついたんだそうです。

もう少し、今度は英皇道と山側の北角周辺をうろつきます。

2004/05/01

喜愛香港-055 北角(パッコック)-2

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