maidoの”やたけた”(ブログ版)

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喜愛香港-001 九龍城砦(ガウルン・センチャイ)-1

2003-11-15 06:40:30 | 虚々実々-喜愛香港

先ず、ちょいと概要を、【地図】
のっけからややこしい話ですが、九龍城砦(ガウルン・センチャイ)と呼ばれていた元の清朝の城砦は九龍寨城(ガウロンチャイセン)だった事が取り壊してから判ったんです。
城砦を囲んでいた城壁の門に掛けられて居たらしい、石製の額が出てきたんだそうです。
跡地に作られた公園の名前はそう言うことで「九龍寨城公園」という名前になっています。
それでも殆どの香港人は、未だに九龍城砦(ガウルン・センチャイ)と呼んでいるみたいです。
私も九龍城砦(ガウルン・センチャイ)の方が馴染みが有るので、これで行きます。

中国語で城と言うのは日本語の「街」「市」を意味します。
昔は街が城壁で囲まれていたからでしょうか?
今でも田舎に行くと周りを城壁とまでは行かないまでも、結構立派な塀(?)で取り囲んだ村が沢山有ります。
周りに堀を巡らせたのもありますね。
映画や小説で九龍城と書かれる事が多いようですが、本当の九龍城(ガウルン・セン)は地下鉄 楽富(ロックフ)の南800M位から始まる、安くて美味しい食べ物屋が多い一寸した繁華街です。
よく九龍城にある料理店が、香港のミニコミ紙のグルメ情報などで紹介されています。
こちらは今でも健在。
九龍城は地図の英語表記では Kowlon City、片や九龍城砦は Kowloon Walled City。

城砦の方は、1駅離れた地下鉄 黄大仙(ウォンタイシン)駅から正徳街、東頭村道を南西に10分位、旧啓徳機場(カイタック空港)の方に歩いた東頭村道(東⇔西)と東正道(南⇔北)が交わる南西角に有りました。
空港の北端まではほんの4~500M。
新空港が出来るまで、飛行機は、風向きによって九龍半島西側の青衣(チンイー)の島をかすめて、シャムシュイポの街のビルの屋上スレスレに飛び、九龍城砦の上で少し南に旋回して着陸していました。
飛行場周辺は安全の為に建物は5~6階の高さ制限があるんです。
何しろ中国領土の九龍城砦には香港の法律が適用されません。
「そんなことは知らん!」とばかりに、部分によってマチマチですが概ね14~16階建て、屋上にはテレビアンテナや物干し、訳の判らない竿みたいなのが乱立してました。
そりゃ屋上スレスレ、飛行機の起す風で洗濯物が飛ぶのじゃなかろうか?と思うほどなんです。
中々スリルがありましたね。
スリルと言えば、海からの着陸では目の前に鑽石山が立ちはだかっているので、やり直しなんぞは至難の業。
そのせいか、せせこましく、便数が過密だった割りに、大事故が無かったように思います。
たまにオバーランで海にはまったりはしてましたけどね。

第二次大戦中、日本軍が城壁を取り壊して、飛行場の埋め立ての用土に使ってしまいました。
多分このとき城門に掛けられていた石の額も外されたんでしょう。
官吏交代用に清朝が使用権を留保していた港湾施設は埋め立てられて跡形も無く、道路も一部は空港の敷地に組込まれて、使用権を主張するにも、赴任するにも通路が無くなってしもた。
そらまぁ、近い所に格好の埋め立て用土が有ったからとは言え、日本帝国陸軍も無茶しますねぇ。
おかげで、城壁分(これが半端な厚さや無い)の土地が周りにグルっと空いたんです。

さすがに日本軍の占領中は空地のまんまだったようですが、終戦、中国内の国共内戦でドッと難民が香港に流入して、九龍城砦も建築ラッシュ。
その急増不法建築が1段落した、丁度その頃、大火事があって、みっちり建て込んでいた木造の家屋がほぼ一掃されてしまいました。
土地の権利関係がどうなっていたのか判りませんが、元の九龍城砦の内外に細いビルがドンドン建っていったんですね。
一つ一つのビルは鉛筆みたいに細く、隣にビルが立つと適当に壁をぶち抜いて通路を作ったりしたので、もう無茶苦茶。
凄いのはビルとビルの間に床を作っていって、通路は隣のビルのを使うなどという軽業みたいなビルも多かったようです。
丁度サンゴが育つようにもとの清朝の役所の建物の周りに不法建築が積み重なって、上へ伸びて、路地の上で小さなビル同士が結合する始末。
お互いにとなりの外壁を共有したりして融合したようです。
最終的には井戸のように真中に空いたところに清朝の役所の建物の一部が残った、大きなロの字型の「大ビルディングもどき」になったんですね。

元々在った路地は上を塞がれてビルの通路状になったんですが、名前だけは最期まで残っていました。
この外壁に目白押しに並んでいたのが歯医者(「牙科」「牙醫」)。
1987年までは香港の医師免許無しで開業できたんですね。
医師免許無しといっても、まったくの素人では客がつきません。
99%は旧中国の免許を持っていたようです。
安くて腕が良くて愛想が良いと、わざわざここへ通ってくる患者も多かったとか。

南側の壁面には九龍城砦に寄りかかるように木造の不法建築が這い上がってました。
この木造スラムは1987年の九龍城砦の取り壊し計画発表前後に跡形も無く取り払われました。
木造スラムが撤去された後で、啓徳空港側から見ると、北西から南東への緩い下り坂に建っていた九龍城砦の、一番大きな壁面が剥き出しになった姿は一段と存在感が有りましたねぇ。

ひしめき合ったお互いの建物同士は床のレベルが揃っていないので中途半端な階段や、通路の地べたから1Mくらい上の壁の途中にある出入り口などが幾らでも有りました。
排水もテンでバラバラに配管しているので、うかうかしていると高い所に開いた穴から突然ジョボジョボと汚水が流れてくる場所もありましたね。
通路は殆ど排水路も兼ているようで大概ビチャビチャヌルヌル。

水の乏しい香港で水道はどうなっているのかと言えば、共同の水汲み場が1箇所有るのは確かなんですが、屋上には、幾つもの水タンクらしいものが設置されていました。
一体何処の水をポンプアップしてたんでしょう?
さすがに生水は絶対に飲めません。
煮沸してお茶で呑むんですが、かすかに塩味がしたような?
燃料はプロパンガスのみ。
もっとも、食事は外で済ます人が多い香港ですから、台所の無い部屋の割合は高かったようです。

九龍城砦と言えば、無法地帯、危険極まりない魔窟、一度入ったら出て来れない悪の巣窟。
香港でも此処ほど尾鰭がついて話が膨らんで、言われていた事と、現実とが乖離していた場所も珍しいでしょうね
警察が自分達が立ち入れない九龍城砦に、多発する犯罪の責任を被せていた疑いが濃厚です。
マスコミや映画もことさらにオドロオドロしいイメージを作り上げていました。
それを鵜呑みした日本のマスコミが行きもせずに、見てきたような魔窟伝説をでっち上げたんでしょうね。

中には悪いのも居ったやろうから、犯罪がなかったというのではないのですが、香港の他の地域と較べて格段に危険という事はなかったと思います。

確かに街としては小奇麗では有りませんが、住人も普通の兄ちゃん姉ちゃん、オッチャン、オバチャン、爺さん婆さん。
商店街もあれば、食堂、仕立て屋、工場もある、上に積み重なっているのが変わってるけど虎や狼が住んでたんと違います。
小規模な製造工場が500以上、魚と肉のすり身製品は90%近いシェアを占めていたといわれています。
一流ホテルでも九龍城砦で作られた肉団子を使っていたんですね。
中医(漢方医)、西医(西洋医)あわせて150程の病院、診療所があったというのには驚きます。
中でも歯医者が半分以上を占めていたそうです。

当然1987年までは香港の食品衛生法、医師免許の埒外でした。
しかし、大規模な食中毒や、深刻な医療事故がなかったということは、それぞれ真面目に責任を持って仕事をしてたんですなぁ。
城内の治安も自治組織(城砦福利会)が有って、警察が立ち入らなかった頃は自警団を組織して、自主的に防犯に取り組んでいたそうです。
度が過ぎたのは城外で香港警察に引き渡していたそうですね。

集会所は青年、老人用のがそれぞれ設けられていて、英語の講座や卓球クラブ等のスポーツ同好会が活動していました。
真中の旧清朝官衙(役所)の周りには、保育所兼幼稚園もありました。
寺院、廟が3カ所、1説では4カ所あったらしいです。
最も多いときには5万人以上が住んでいたといいます。

治外法権であったけれど、決して犯罪が渦巻く悪の巣窟ではなく、豊かではないにしろ、懸命に働き、子供を育て、近隣が協力して生活している場だったのです。

2003/11/15

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