maidoの”やたけた”(ブログ版)

ジジイの身辺雑記。今日も生きてまっせ!

變臉(ヘンメン)「この櫂に手を添えて」

2003-11-09 16:59:02 | 支離滅裂-妄言虚説

「變臉」というのは仮面の早変わり。
伝統的な中国演劇には、京劇=北京、粤劇=廣東、川劇=四川などが有るんですが、その中の川劇の孫悟空などで見られる、一瞬で仮面を変える芸なんです。
映画そのものは香港のショウブラザース(邵氏兄弟香港有限公司)が中国の映画会社と1995年に合作して、公開されたのは1996年だったと思います。

呉天明(ウー・ティエンミン)製作/監督

陳文貴(チェン・ウングイ)原作
出演
朱旭(チュー・シュイ)=変面王
周任瑩(チョー・レンイン)=狗娃(クォアー)
趙志剛(チャオ・チーガン)
趙季平(チャオ・チーピン)の緩やかな哀愁をたたえた音楽、長江上流の風景。
世界最大の磨崖仏・楽山大仏の場面や周りの景色から、長江(揚子江)を成都よりやや南に下った峨眉山(普賢菩薩の聖地)付近のあたりが舞台のようです

お話は、
中華民国期、各地に軍閥が勢力を張っていた時代。
朱旭(チュー・シュイ)演じる変面王はサンパン(小舟)を住まいに、将軍と名づけた芸を仕込んだ猿と共に川面を移動しながら川岸の街で「變臉」(瞬間的に布の仮面を早変わりする芸)の大道芸で暮らしています。
妻には幼い息子を残して逃げられ、その男の子も10歳で病死してしまい、この世に身寄りが無い年老いた変面王には先祖伝来の芸を伝える当てが有りません。
「變臉」も彼が死ねば消え去る芸なのです。
変面王を演じる朱旭が良い味ですねぇ。

町角で芸をしている時に川劇の女形スター「人観音」が通りかかり、「變臉」の芸の素晴らしさに魅了されます。
彼は変面王の芸を惜しんで自分の劇団と一緒に演じないかと誘うのですが、変面王は断ります。
花形スターが変面王に「老師父」という最上級の敬意を払った呼びかけを常にしているのですが、字幕ではそのニュアンスが出せないんですねぇ。
翻訳を担当した人は無念だったでしょうね。

それほどの敬意を払われても、伝来の芸を演じる大道芸人の誇りを捨てない変面王も、代々受け継いだ技が消え去る寂しさから、男の子を買う気になります。
裏町で我が子を売る困窮した細民が集まっている場面は悲惨ですがが、呉天明監督は淡々と描いています。
それが一層のやりきれなさを感じさせますね。
「私を買ってくれ」と変面王の脚に縋ったり、「お金は要らないから育ててやってくれ」と親が頼む子供は、皆んな女の子。
男尊女卑は共産中国になって「男女は共に天を支えるもの」と政治的に是正されたとは言え、未だに家系を継ぐ男子を望む風潮は根強く残っています。
現在よりももっと、家系を継ぎ先祖を祀る事が重要視されていた当時、いかに女性が蔑視されていたかが良く判りますねぇ。

男の子を売ろうというのはほんの乳飲み子しかいません。
変面王の芸は代々男子にしか伝承を許されない決まりなのです。
諦めて帰ろうとしたとき「爺爺(イェイェ~=おじいさ~ん)」と後ろから呼ぶ少年の澄んだ声が変面王の脚を止めます。
この場面のレンブラントの絵のような光の使い方、唸りますなぁ・・。
人買い(親?)が持ちかける余りの高値に、一旦は諦めかけるのですが「おじいさん」と呼ぶ声に引かれ、言い値を半分に値切って八才のその子を買い、舟に連れて帰りました。
変面王は少年を狗娃(クォアー=ワンコロ)と呼んで、親鳥が雛を羽交にかばうように、自分の孫として少年を慈しみます。

狗娃も変面王の愛に応え慕い、やっと巡り会えた愛情を無くすまいといじらしい努力をします。
狗娃が風邪をこじらせ、変面王は家伝の剣をお金に替えて高価な薬を買い、懸命に看病します。
或る日、町でサトウキビを鉈で一気に先から根元まで切り裂く腕試しにいき合った変面王は、若者逹が失敗したにもかかわらず、見事な技を見せます。
見物人の喝采にこたえて、二度目を試みようとした変面王に、やっかんだ若者がパチンコを打ち、取り落とした鉈で脚に怪我をします。
灰と少年の小便を混ぜた血止めを作る為に小便をしろと言われた狗娃は、ついに自分が少女である事を変面王に告げるのです。

芸を伝承する男の子を得た喜びが大きかっただけに、変面王の失望と、騙された事への怒りは抑えがたく、狗娃が必死に少年を演じていた事さえも許せないと感じます。
変面王が男の子を得たいと拝んでいた観音像を手に持って「観音も女なのに!」と狗娃が叫ぶ声に込められた哀しさ。
怒りと絶望を抑えきれない変面王は、日々の生活さえかつかつの中から狗娃にお金を与えて船から降ろします。
決して豊かではない老大道芸人が、自分を騙した少女にみせるギリギリの優しさが哀しいですなぁ。
岸を離れた舟に追いすがり、貰ったお金も投げ捨てて「爺爺(イェイェ~=おじいさん)」と叫びながら必死に走る狗娃。
ついに狗娃は離れて行く舟に向かって川に飛び込みます。
溺れそうになった狗娃を見捨てる事が出来ず、変面王は川に飛び込んで救い上げます。

救い上げた狗娃を、芸を伝える孫としてでは無く、今度は使用人として舟に置いてやる事にし、変面王は今後「老板(ラオバン=ご主人様)」と呼ぶように狗娃に告げて、大道芸(雑技)を教え込みます。
舟に暮らせる事になった狗娃はいじらしいほど献身的に働きます。
狗娃を演じている周任瑩は四歳のときから親と離れて雑技団に入り、厳しい訓練を受けたそうで、その生い立ちが生きているんでしょうね。
考えすぎかもしれませんが、愛情への飢え、大人に対する不信感、恐怖感、自分を保護してくれる者への直向(ヒタムキ)な献身が目の表情に潜んでいるような気がするんですよ。

変面王と狗娃は「人観音」が演じる川劇の「観音得度」を見物に行きます。
「観音得度」という演目は、父王を救うために縄に縋って地底に下りた姫が、自ら縄を切って自分の命と引き換えに父を救おうとし、墜死するのですが、その孝心に感じた仏は姫を観音とするという内容なんです。
芝居がはねたあとの雑踏にまぎれて、町の有力者の孫(天賜=ティエンシ、4才)が迷子になって誘拐されるんです。
これが後に変面王に災厄をもたらす事になります。
映画マニアや評論家によると「伏線が見え透いている」てなことをほざくんですが「気の毒な映画の見方をしているなぁ」と思いますねぇ。
私ら子供の頃は、正義の味方が登場したら客席から拍手が沸いたもんです。

やっと狗娃と変面王に穏やかな日々が訪れたかに思えるんですが、舟で1人で留守番をしていた狗娃は、不注意から火事を起こしてしまいます。
燃える船の上で必死に火を消そうとしながら「老板(ラオバン)、何処にいるの!帰ってきて!」と叫ぶ狗娃の声は虚しく川面に吸い込まれ、舟は丸焼けとなります。
オッサンはここでも涙腺が・・。

こうなっては変面王も狗娃を追い出すしかなく、狗娃は行く当ても無く町を彷徨います。
道に迷った仔犬のような狗娃の表情がたまりません。
空腹の余り焼き芋をカッパラおうとした狗娃は、人攫いに掴まって隠れ家に連れて行かれます。
人攫いに掴まった狗娃が連れてゆかれた先には、迷子になった所を誘拐された、有力者の孫(天賜=ティエンシ)が身代金目当てに閉じ込められています。
天賜の面倒を見させるために狗娃を誘拐したんですね。

男の子を欲しがっていた変面王に喜んでもらおうと、狗娃は天賜を連れて屋根伝いに逃げ出し、小舟にその子を置いて去っていくんです。
男の子を見た変面王は、自分の名前を辛うじて言えるだけで、姓も家の場所も判らない男の子を、その名のとおりの天からの賜り物と思い「今からお前のは姓はワシと同じ王だ、ワシの大事な孫だ」と愛情を注ぎます。

その頃頻発する誘拐事件を捜査していた警察は変面王を逮捕、事情のわからない変面王を拷問にかけて、全ての誘拐事件の犯人に仕立て上げます。
引き立てられてゆく変面王を見た狗娃は、サルの「将軍」と共に警察に行き、事情を説明して無実を訴えますが取り合って貰えません。
一縷の望みに縋って「人観音」を訪ねた狗娃は、必死に変面王の無実と救出を訴えます。
変面王の芸を惜しむ彼は、後援者である軍閥の将軍にとりなしを頼みますが、民間の事件には関与したくないと断らてしまいます。
人気が有っても芸人、それも女形の俳優がいかに軽んじられていたか、華やかな外面に隠された川劇スターの悲哀が描かれていますねぇ。

意を決した狗娃は将軍の60才を祝う川劇の終幕に、高い軒から1本の綱でぶら下り命懸けの訴えをします。
将軍に取り合ってもらえなかった狗娃は、自分の命を捨ててでも変面王を救うと、我手で縄を切り落下します。
思わず狗娃を救おうと走りよる「人観音」、間一髪で受け止めた狗娃と石段を転げ落ちた彼は狗娃を抱いて「私はこの子と、南京でも北京でも訴えを聞いてくれるところへなら何処へでも行く。貴方の心は石か!」と将軍に迫るんですね。

処刑寸前で釈放された変面王は再び狗娃と共に、大道芸をしながら舟で暮らす生活に戻ります。
ゆったり流れる長江に浮かんだサンパンの上で、頑なに男にしか伝えないと言っていた秘伝の芸を狗娃に教える変面王、嬉しそうな、得意そうな狗娃の笑顔。
変面王が押す櫂に女の子の服を着た狗娃が手を添えて、サンパンが進むショットで劇終です。
陳腐な映画、単純なオッサンと言わば言え、これが泣かずに居れようか。

旧中国での悲惨な子供たちの境遇、貧困による哀しみ、性や職業による差別、冤罪を簡単に生む官の横暴を生む風土、それらを「悲憤慷慨、怪しからん!アンタどう思います?怒りを感じるでしょ、怒りなさい泣きなさい。」というスタンスや無しに、肩肘張らず、自然な演技と押し付けがましくない音楽、画面構成で見せられると、かえってジワ~ッと心に沁み込んできますねぇ。
社会の情況や運、官憲や有力者によって翻弄される庶民、しかし貧しいながらも誇りを守り、優しく生きようとする人々が淡々と描かれているだけにねぇ。

狗娃(クォアー)の周任瑩(チョー・レンイン)が凄いですねぇ。
ほんの片言でも中国語を知っていてよかったなぁ、と思いました。
セリフも推敲に推敲を重ねて創ってるでしょうから、切り捨ててもいい言葉なんか無いんです。
日本語字幕は長さが限られるので、やむを得ず切り捨てられた言葉の欠片が、雰囲気を理解するのに重要やったりするんですね。
勿論日本語の字幕があればこそ、短い単語を耳で拾う事に集中できたんです。
私の文章なんか、殆ど無駄な言葉やから、えらい違い。
ショウブラザーズも「Mr.Boo」やらアチョォ~!のカンフー(功夫)映画ばっかり作ってるんや無いんですなぁ。

2003/11/09



最新の画像もっと見る