maidoの”やたけた”(ブログ版)

ジジイの身辺雑記。今日も生きてまっせ!

喜愛香港-002 九龍城砦-2

2003-11-16 07:13:37 | 虚々実々-喜愛香港

一体何でこんな物が出来たのか?
ざっと簡単に歴史などを・・。

時は日本の幕末、アヘン戦争でケチョンケチョンにやられた清国は、南京条約で巨額の賠償金と1841年に香港島全域、アロー号事件で北京条約で1860年に九龍城砦の南200mあたりから先の九龍半島の先っちょを、海賊、盗人、阿片売人の国、英国に割譲させられました。
この時点では、九龍城砦は未だ完全な中国領土で、軍隊や役人が常駐し500人近い民間人も住んでいるれっきとした砦でした。
香港は名の通り、香木が取れたそうですが、一体どんな香木やったんでしょうね?
それは兎も角、九龍城砦はその香木や塩を守る為に宋の時代に作られたそうです。
香港の離島、長洲島の北帝廟にも宋時代の剣が在りますから、あながち嘘でもないでしょう。

しかし、宋といえば5世紀に倭の五王が中国に使者を送った相手ですよ。
倭王讃が421年(永初二年)、珍425年、済443年、興451年、武462年と中々マメに行ってますねぇ。
応神、仁徳、雄略、何てな天皇の時代です。
今と違って大変やったでしょうなぁ。
途中で海の藻屑となったのも沢山居てたでしょうね。
これとても、この時代より千数百年以前に既に文字を持ち、異常ともいえる執念で記録を残した国が相手やったから判るようなもんですよ。
多分、宋と中国を2分してた北魏にも行ったんやろうし、記録もされてたんやろうけれど、その記録がどうなったのか?見付かって無いんですなぁ。
両方残ってたらもっとハッキリするんでしょうね。
日本サイドの記録があれば、なおエエんでしょうが、今年(2003年)2月26日に、奈良県明日香村の石上遺跡から689年の暦が書かれた木簡が発見されて「日本最古のカレンダーや!」とニュースになってた位やから、日本側の記録なんか先ず見付からんやろねぇ。
邪馬台国なんぞ、239年に魏に行ってなかったら、何処に在ったかどころか、存在したかどうかさえも判らんのですよ。
ん?何の話やったかいな?

そうそう、九龍城砦。
1898年、フランスの広東省西部広州湾(現、湛江)の租借に便乗するように、英国は「香港防衛のため」という盗人猛々しい言い草で新界(サンガイ=ニュー・テリトリー)地区を99年間の租借を強要します。
この時の両国間の租借条約で、九龍城砦は租借地内の飛び地として、清朝の役人が赴任、管理する事になりました。
これは清朝が西域で、回教徒の叛乱を口実に、押し込み強盗のように帝政ロシアにイリ地区を占拠されて、結局一部を盗られ放しになってしまって往生した経験から、中国人を常駐させて置いて、99年後の返還を円満、確実にするための足がかりにしようとしたようですね。
赴任する役人の為に港湾使用権、道路通行権も併せて留保しました。
老獪な英国は「香港の防衛、治安維持活動に妨害を加えないこと」を清朝役人の常駐を認める条件として条約に盛込んだのです。

英国は条約締結の早くも翌年、狙い澄ましたかのように、九龍城砦内での厄払いの爆竹に「英国兵を威嚇した!」と因縁をつけて、条約を楯にとって清朝の役人と兵隊を退去させてしまいます。
昨日今日中国に来た訳でも無し、爆竹に驚いたなどとは言いがかりも甚だしいですなぁ。
ところが、条約を振りかざして清朝の役人を追い出した英国は、逆に条約に縛られて九龍城砦を自分の物に出来なくなったんですね。
条約違反だと清朝の役人を追い出した英国が、条約で清国の主権を認めた九龍城砦を自分の物にすると、自分も条約破りになってしまうからやと言われてるんですよ。
大概、横車の無茶をやっても、建前だけでも条約を守るあたりは「神との契約」が基盤にある文化のせいやろか?
それとも競争相手のフランス、アメリカに、茶々を入れられるのんが鬱陶しかったんかいな?

ざっとこういう事情で、清朝の役人は居ない、英国も管理出来ない、という何処の国の法律、統治も及ばない、正真正銘の治外法権、無法地帯、九龍城砦が目出度く誕生しました。
1911年清朝が倒れ中華民国となっても、依然として官吏や軍隊は派遣されません。
英国が認めなかったのか、そもそも中華民国が要求しなかったのか?
1933年と1936年に英国は住民の退去を要求しますが、さすがにこの時は中華民国が抗議をして取りやめになりました。

第二次大戦がはじまると日本軍が占領。
常に何処の官憲の手も及ばない無法地帯というのが九龍城砦の通り相場ですが、日本軍だけはズカズカと九龍城砦に踏み込んで治安維持活動をしたそうです。
日本軍にとっては英国も中国も交戦相手、そんなところ同士が結んだ条約何ぞ考慮する筈が有りません。

第二次大戦終結直後には、中華民国は官吏派遣の要求をしなかったようです。
1947年、1948年と中華民国は官吏派遣の要求をしますが英国が拒否。
1948年今度は英国が九龍城砦を接収しようとしますが、中華民国の抗議を受けて断念。
1949年、国共内戦が終結し中華人民共和国が誕生した時も、官吏派遣の要求をしなかったようです。
それどころやなかったのかな?英国はその時点では中華人民共和国を承認してなかったか?

1951年に大火災によって、城内の木造民家が焼失し、コンクリート高層ビルで覆い尽くされた九龍城砦が生まれる契機になりました。
1963年英国は再度九龍城砦を接収の動きを見せますが、中華人民共和国の強硬な抗議と主権の主張に断念。
当時頻発していた暴動を指導している中共工作員の巣窟だ、と言う噂がありましたが、実際には新華社、国貨百貨店などが工作員の拠点だったようです。
1970年完全に周りをビルで取り囲まれた九龍城砦が出現します。
1970年代中頃からは香港警察の城砦内パトロールが始まります。
パトロールを始めた時点で、刑事事件には香港の法律を事実上適用されるようになりました。
1987年には九龍城砦の取り壊し計画を香港政庁が発表。
同時に刑法関係以外にも全面的な香港の法律適用を宣言しました。
中華民国も中華人民共和国もこれに対して、何の抗議も行わなかったという事は既に10年後の返還交渉がかなり進んでいたんでしょうね。

1993年最終的に九龍城砦が撤去されるまで、清朝の役人の子孫といわれる家族が住んでいて「九龍城砦城主」と新聞(星島日報、明報?)に小太りのオジイチャンの写真が出てましたね。
皆んなから1目置かれていたというんですが、ご先祖は妻子を捨てて退去したのか、それとも・・。

1985年4月にカミさんと中をウロウロしたお話は次回で。

2003/11/16

喜愛香港-003 九龍城砦-3 

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