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五世紀の地べた-2/2(再録)

2021-10-20 05:04:53 | 支離滅裂-城市有情ー豊中

こんな埴輪が、ウチの斜め裏隣から出て来ましてん。
左の写真の真中のは、約1.2mの高さがあります、結構デカイもんでっせ。
右のは長さ約2m、こういう状態で埋まってたんです。
後ろに写ってる塀の斜め向こうが拙宅でおます。
阪急岡町駅から徒歩3分の市立伝統芸能館のロビー(というほどのもんでは無いか?)に展示して有りますねん。
ようまぁ、バラバラのカケラをうまい事復元するもんですなぁ。

以前にも書いたと思いますが、小学校で縄文時代とか弥生時代のことを習うと、その後しばらくは子供の間で、「土器拾い」が流行ってました。
発掘とちゃうんですよ、拾らうんです。
空き地やら、川岸でチョット注意したら、地表に端っこが出てますねん
ただし、何処も彼処でもというのや無うて、やっぱりポイントが有るんです。
昔のゴミ捨て場かな?
さすがに大きなのには、中々お目に掛かりません。
99%は表面も風化して、赤土色や灰色の元の形も想像出来かねるカケラ。
たまに、壺の口らしいのとか、模様が残ってるのを見つけたら、そらもう宝物。
最初は手当たり次第、だんだん集まってくると、子供ながらも目が肥えてきて、しょうも無いのはポイと捨ててました。
箱一杯集めて、友達と品評会兼、物々交換会。
ベッタン、ラムネ(ビー玉)と同じ感覚ですね。
1回だけ、模様は無いものの、チョイト大き目で、いかにも器の一部みたいなカケラを見つけた事が有るんです。
学校に持っていって、先生に見せたのが運の尽き、「調べて貰う」と取り上げられて、相当後で「あれは須恵器の高杯(タカツキ)のカケラらしいで」と教えて貰っただけ、現物は行きっぱなし。

箕面街道の桜井谷、東豊中の青池辺りでは、もっとゴロゴロ有ったらしいです。
後で知った事やけど、土器を焼いてた場所らしいですね。
ところが、その辺は校区が違う。
何となく縄張りみたいな意識があって、遠征した事は無かった。
その辺りでは、拾うというより掘り出さなイカンかったらしい。
子供が畦を壊したとか、畑を勝手に穿り返したとか、学校に苦情が来て発掘遊びはご法度になったそうです。
こっちは生産地ではない代り、小粒ながら古墳の集中してた地域だけに消費地ですがな。
おまけに岡の上で、谷と違うから、上から土が被ってない。
それでも、子供なんてなものは次の遊びが流行ると、それまで熱中してたのを、綺麗さっぱり忘れるんですねぇ。
近くで文化財の発掘調査があるまで、そんな遊びをしていたことさえ、忘れてました。
土器のカケラを入れていた、素麺の木箱も何処へ行ったやら?
影も形もありません。

今は近所に、畑や空き地などまったく無い。
池は埋められて住宅が建ったり、公園になってるし、川は飛行場の拡張で流路が変えられてしもた。
それでも、お散歩の途中で「この辺で土器拾いしたなぁ」と思い出すと、心が和むんですよ。

2002/10/28:初出(旧OCNホームページ)
2021/10/20:再録


五世紀の地べた-1/2(再録) 

2021-10-20 05:00:46 | 支離滅裂-城市有情ー豊中

 

ウチの西北西、50M程の所に、この古墳が有りますねん。

子供の頃は柵が無くて、近所の人の通り道、子供の「探検ごっこ」の恰好の舞台。
ここでの遊びが、後々まで強烈な影響を及ぼして、未だに「探検ごっこ」が大好き。
そこらの葉っぱ、実、なんでもシガン(噛んで)で見てたけど、ようまぁ中毒せんかった事ですな。
松、ムクノキ、モチノキ、シキミ、イヌビワ、クヌギが今でも生えてます。
ヘビも居ったし、メジロ、ウグイスの巣もあった。
秋にはムクノキの実食べて、夏はモチノキの皮剥いで、水の中で石で叩いてトリモチ作って蝉採ったり、ムクロジの実(残念ながら今は枯れてしもたらしい)にニワトリの羽つけて、羽子板の羽子作ったり、土グモ引きずり出して、枝の先で喧嘩さしたり、玩具も何にもいらんかった。
夕方になったら「子盗りが来るで!捕まったら曲馬団に売られて、酢飲まされて、軽業させられる。」
言うて脅かされてた。
今にして思たら、曲馬団かて、不細工な子は要らんやろうから、何の危険も無かったんや。
何処からか拾うて来た、乳母車の壊れたんに乗って、古墳のテッペンから下りるのは最高やった。
ジェットコースターどころのスリルやあれへん。
赤土の崩れたとこから、家型の石棺のヘタも見えてたような・・。

それはさて置き、この古墳が五世紀の物らしい。
豪族の墳墓やろう、と言う程度で、誰が葬られてるのやらハッキリせんらしいんですけど、国の史跡に指定されてるから、それなりの物かいなぁ、とも思います。
日本の歴史でも、薄霞がかかって朦にしか判って無い4,5世紀の人々がここで間違い無く生活してたんやと思えば、オッサンの妄想は果てしなく卑弥呼の頃にさ迷うのでおます。

近所の神社から銅鐸が出てきた記録があったり、同級生の家を建替える時に、鏃と兜のカケラが出て来て、調査が入って、仮住まいの期間が延びに延びて、難儀してた事があったけど、人事やと、別に何とも思て無かった。
数十年前、ウチの斜め裏のお宅(某大メーカーの創業者の直系)がどんな事情か市に寄付された。
相当の年数、そのまんまで、医師会館に使用されてたのが、十年ほど前に、伝統芸能館(自治会館も併設)に新築変更される事になった。
工事が始まったら、オットット、何やら遺物が。
即、工事中止、発掘調査開始。
地べたに石灰で線引いて、まぁ辛気臭い、小さな鏝でチマチマ掘りますねん。
そら、スコップ、ツルハシでガジャガジャに掘ったんでは、元も子も無くなるやろうけど、見てたらイライラしまっせ。
埴輪に甕棺、何やら判らん木製品いっぱい出て来ました。
それも数十センチ埋まってただけ、物によっては家を壊したら、地表に見えてたらしい。
1年以上の発掘調査に目途がついて、近所の住民集めて現地説明会があった。
何と、この辺の地べたは4,5世紀のままやねんて。
そんなん別に珍しいことでも無いそうですなぁ、けど何となくロマンを感じてしもた。
地表にある物は時代と共に無くなったり、変わったりしてるけど、地下に埋めた物は当時の深さに埋まったまんま。
列になって発掘された埴輪の線を展ばしたら、オイオイ、ウチにまともに入ってるがな。
古墳の外掘(これはさすがに埋まってしもてる)が隣のマンション。
学芸員の言うには「このお宅も発掘調査したいけど、現在お住まいやから残念。」言うてウチの塀を指差した。
まさか、「へ、そうでっか。そこウチですねん。ど~ぞお掘り下さい。」とは言えまへん。
遺跡か何か知らんけど、家も建ってりゃ、木も生えてる。

そやから阪神大震災の時は焦りましたがな。
もっとも、神戸の方のこと思えば、微々たる被害。
罹災証明、どさくさ紛れに、「一部損壊」、「半壊」両方貰ううたけれど、さてどちらを活かすか?
優遇措置を利用して建て替えるなら「半壊」。
所が、近所軒並みやられてるから、建て替えラッシュ。
遺跡調査が間に合わん。調査が済まんと工事に着手できん。
その間の費用は自前。
ウチの真裏なんか、7年経つけど更地のまんま、調査すら始って無い。
せんでもようなったんやろか?
万一、何か出てきたら、調査期間+建設期間の、相当永い仮住まいを覚悟せんといかん。
おまけに、万一どころか、出てくるのはほぼ確実。
隣のマンションなんか、そんな制度の出来る前やから、調査も何にも無しで、バタバタっと建ててしもたがな。
何ぼ、「掘」言うても何か有ったやろうに。
泣く泣く、「1部損壊」を活かして自費修理。
言うても母屋の二階は屋根抜けてるし、瓦は全部アウト。
北側の棟は実質建て替え。
震災特別補助言うて、市がブルーシート代を一部負担してくれた。
見取り図やら何やら、仰山書類書いて、数千円。
アホらしいから、その場で義捐金の箱に入れたった。
よう、考えたら私も罹災者やった、何をしてるのやら。
綺麗さっぱり預金はゼロ。
五世紀の地べたに住んでるのも良し悪しですなぁ。

2002/05/19:初出(旧OCNホームページ)
2021/10/20:再録

続編が有りますねん五世紀の地べた-2/2


原田神社大祭、獅子神事 「おてんさん」が駆ける夜

2005-10-14 11:45:49 | 支離滅裂-城市有情ー豊中

宵宮の用意が整った原田神社の朝
この三千坪程の境内をお獅子(「おてんさん」)と追い子、観客が一緒くたに走り回るのが獅子神事です。
曜日、天候関係なしに何が何でも十月九日に行っているのは見上げた根性ですなぁ。
旧暦や無しに新暦というのがちと引っ掛かるんですが、まぁええか。

最近は流れをよく知らない観客が増えましたねぇ。
「おんどれ、邪魔やんかい!のきさらせ!」と追い子が喚いても、言葉通じずキョトンとされてたんではどうにもならん。
「おてんさん」も安全に気を使わねばならず、可愛そうに思う様走れませんねん。

今のうちに、簡単にでもまとめて置いたら、マゴ共が祭りに行ってもオタオタせんでもすむかいな?と思いましてね。
しかしながら、何時まで今のやり方を守れるやろか?
万一けが人でも出たら、観客を分離するしか安全確保の方法が無いような気もするしねぇ。
演じる側と見物する側にはっきり別れてしもたら、この祭りの良さは半分死んでしまうがな。

以前は今ほど多くなかった観客も一緒に、篝火で照らされただけの薄暗い境内を「おてんさん」と共にドドドドッと走っていたんです。
数年前に電気照明が設置されたんで、妙に境内が明るくなって、篝火だけの時よりも土俗的な雰囲気が減りましたねぇ。
加えて一緒に走り回らないで見るだけの観客が激増、既に以前の迫力が薄れてきているようで、少々気懸かりではあります。

ところで「おてんさん」と気安く呼んでますが、牛頭天王やスサノオの象徴とされているらしいんです。
牛頭天王やスサノオてな恐れ多いもんを、近所のおっちゃんみたいに呼ぶのは関西の節操の無さの現われやろか?
京都でも昔は天皇陛下を「ゴッサン(御所さん)」と呼んでた、とチラッと聞いたこともおますなぁ。

現物は獅子頭で頭部に白の御幣を山のように飾り付けてあります。
この獅子頭を捧げた神官が境内を走るのですが、幾つか取り決めがあります。

「五瓜に唐花」の木瓜紋
先ず、獅子は「クロジ」と呼ばれる二人の氏子総代が持つ、原田神社の「五瓜に唐花」の木瓜黒紋が入った提灯の間だけを移動します。
観客が邪魔をして「クロジ」が中々決まった場所に行けなかったり、「クロジ」と「クロジ」の間でカメラを構えて「おてんさん」の前に立ちはだかるような無礼者がいるので大変です。

「追い子」と呼ばれる氏子は原田神社の赤紋の入った高張提灯を持ちます。
走り方には「チドリノマイ」「タツオイ」「追い出し」の三種類があります。

「チドリノマイ」は「クロジ」が一定の間隔を保って、その間を「おてんさん」が往復しながら「クロジ」と共に移動します。
「追い子」は「クロジ」と「クロジ」の間に「おてんさん」の通り道を作って、腰を落とし低く提灯をかざしながら、ウワァー(ウォー)と掛け声を掛けながら後ろすざりで移動します。

「タツオイ」の場合は「タツオイ」が始まる前に「クロジ」は決められた位置に移動し、終わるまでその位置を動きません。
「おてんさん」は「クロジ」によって示されたコースを五変といって二往復半走ります。
「追い子」は必ず「おてんさん」より先にコースの両側に並び提灯の道を作りワッショイ、ワッショイと掛け声を掛けます。
タツオイ
(「追い子」は「おてんさん」が前を通り過ぎたら、ダッシュして「おてんさん」を追い抜いて列の最先端へ行くんです。)
「おてんさん」が「クロジ」の所に着くと直ぐに反転して道を作らねばならないので、「タツオイ」の時の追い子は少々殺気立っています。
五変が終わると「ヨンヤサッサー」と「クロジ」が掛け声で合図します。

追い出し駆け足で「おてんさん」が「クロジ」、「追い子」と共に「ワッショイ、ワッショイ」の掛け声で走ります。

ちなみに、各場面での掛け声は観客も一緒になって掛けるのが当り前やったんですが、黙って見てるだけの人が増えたねぇ。
祭りの盛り上げ方を知らんとは実に嘆かわしい現象や、と思う次第でおます。

さてそれでは「獅子神事」の動きを順に追ってみます。
 老爺心ながら、フレームで見ておられる場合は、メニューとの境のフレーム枠を思いっきり左に移動するとご覧になりやすいかと思います。
 すんませんねぇ、画像をこのくらい大きくせんと、自分でわかれへんのですわ。

お迎え

最初に、子供達が提灯を高くかざしてクロジに先導されながら「おてんさん」をお迎

に行きます。
小宮脇から出発し「ヨーイサァジャ、ヨーイサァジャ」と掛け声を掛けながら歩いて、境内の南外側を回って、東大鳥居から石舞台の北を回り小宮前まで来ます。
小宮から「おてんさん」のいる御旅所までは「ワッショイ、ワッショイ」と駆け足で「おてんさん」を迎えに行きます。

小宮と本殿の南側には上津島の布団太鼓、南桜塚の神輿のたまり場所。

本殿前に用意された新藁は原田地区の氏子によってほどかれて篝火が点火されます。
原田地区は氏子の中でも別格で篝火に限らず、重要な役割を担っています。
布団太鼓の掛け声も他地区の「ヨーイサァジャ、ヨーイサァジャ」ではなく、「ヨイヨイヨ~イ、ヨイトコドッコイセェ~」という掛け声を使います。



案内

御旅所から小宮までは「ヨーイサァジャ、ヨーイサァジャ」と掛け声を掛けながら歩いて「おてんさん」を案内します。
小宮から石舞台までは「ワッショイ、ワッショイ」と駆け足。

「おてんさん」は石舞台で笛とたいこの囃子で「ホンネマイ(本臥舞)」を行います。
「ホンネマイ」は「おてんさん」に二人掛かりで約二十分掛かります。
「ホンネマイ」が終わると「ヨーイサァジャ、ヨーイサァジャ」と掛け声を掛けながら歩いて「おてんさん」を十二社へ案内します。

十二社でも篝火焚かれ「おてんさん」は「カドマイ」を行います。
「カドマイ」は「ホンネマイ」よりも簡単な舞で五分くらいで終ります。
「カドマイ」を済ませた「おてんさん」を「ヨーイサァジャ、ヨーイサァジャ」と掛け声を掛けながら歩いて社務所前まで案内して「お迎え」はお終い。

十二社と社務所の間には曽根、岡山、原田のみこしや布団太鼓、ダンジリのたまり場所。

ここで「おてんさん」は胴体部分の布をまとめて縛り、一人で捧げられるようにして、これからの走りに備えます。


獅子追い第一回

此処からが若い衆の追い子の出番です。
まず社務所前から御旅所へ向かって「おてんさん」を「ワッショイ、ワッショイ」と追い出します。
次に御旅所と小宮の間で「タツオイ」、小宮から石舞台西がわを通って拝殿東北角へ「チドリノマイ」で移動。

拝殿東北角から神明社へは「追い出し」で走り、神明社と拝殿東北角の間で「タツオイ」。
此処は櫻塚の御神灯、神輿などのたまりになっているので、騒然とします。

拝殿東北角から石舞台東北角まで「チドリノマイ」で進み、そこから鬼門の松までの間で「タツオイ」。
鬼門の松には今在家、岡町のダンジリ、神輿が控えています。

篝火の燃える鬼門の松で「オハチ」(松の幹に「おてんさん」のひげを触れさせるお祓いの儀式)をした後、石橋の西を経由して石舞台東南まで「チドリノマイ」で移動します。
石舞台東南から十二社の間で「タツオイ」。

十二社の東側は走井と箕輪、山ノ上の布団太鼓のたまり場所。

十二社から社務所前まで「チドリノマイ」でいって一段落です。

獅子追い第2階

一息ついた「おてんさん」は社務所前から御旅所へ向かってを「ワッショイ、ワッショイ」と「追い出し」されます。
御旅所と小宮の間で「タツオイ」をしたあと、石舞台の東をまわって石舞台の西まで「チドリノマイ」。

これからがクライマックス。
「おてんさん」はクロジ、追い子と一段となって東の大鳥居までの約100mを「追い出し」で疾走します。
この時、石橋の両脇で篝火が焚かれます。

東の大鳥居と石橋の間、石橋から石舞台を乗り越えて拝殿前の間の二回の「タツオイ」をした後、石舞台で胴の布をほどき、燃え盛る篝火に照らされながら、太鼓と「ウォー」という掛け声に合わせて「ハヤネマイ」を舞います。

「ハヤネマイ」も「おてんさん」に二人掛かって舞いますが、「ホンネマイ」よりもテンポが早く簡略化されているので約五分で舞い終わります。
「ハヤネマイ」が終わると追い子がかざす提灯の間を「おてんさん」が拝殿に走り込みます。(「拝殿納め」)

「拝殿納め」が済むと禰宜の「うーちましょ」の音頭で手締めをして、「ヨーイサァジャ、ヨーイサァジャ」と掛け声を掛けながら追い子達は東の大鳥居まで歩いて行って解散して「獅子神事」は終わります。


「獅子神事」の後は、いよいよ神輿ダンジリの宮出が始まります。

どうです、結構走り回るでしょ。
「おてんさん」を捧げる神官は次々に交代します、そやないとブッ倒れてしまいまっせ。
こっちは獅子頭は捧げてないけれど、代わりが居てないからねぇ、追いかけて廻ってたら結構疲れますわ。

参考文献:
原田神社氏子総代会発行、原田神社獅子神事保存会監修「原田神社獅子神事祭」

関連記事:
原田神社
原田神社の秋祭り

2005/10/14


原田神社の秋祭り 豊中-01

2003-10-01 11:33:24 | 支離滅裂-城市有情ー豊中

原田神社は阪急岡町駅の直ぐ近くに有ります。
というよりは、旧社領の中に駅が出来たらしいです。
神社正面は能勢街道に面しています。 岡町は能勢街道(池田街道)、伊丹街道が交わるところで、その名の通り緩やかな岡になっています。
その岡の中心に原田神社が有ります。
正月、七五三以外は、商店街の真横にあるとは思えない、鳩と年寄りがいるだけの静かな境内です。
何やら由緒正しい神社と言う事ですが、詳しい事は知りませんねん。
大阪弁以外も使えることを判っていただいたところで本題です。

ここの秋祭り、人に言われるまでは、何処でもこんなもんやと思てました。
ところが、実はかなり古い形を残したお祭りやそうです。

毎年10月1日から10日間にわたって行われますねん。
初日は舞初式、2日目から7日間は、桜塚、南桜塚、岡町、岡山、上津島、原田、勝部、山ノ上、走井などの地区(昔の集落)が日を変えて布団太鼓、ダンジリ、額神輿などを担いだり、引っ張ったりして神社に参拝しますねん。
この間は、神社から、またそれぞれの集落に帰って桧舞台の9日目に備えます。
9日目は全ての神輿が、宮入と称して神社に集合、夜に入ると境内のアチコチに陣取ってで篝火を焚きます。
20時頃から、獅子頭を頭上に捧げた神官が境内を走り回ります。
それぞれの地区は、境内のあっちこっちに神輿を据えて、ご神灯を立てています。
その言わば各地区の象徴とも言える場所を、獅子が縦横無尽に駆け廻りますねん。
獅子頭を包み込むように、手に手に提灯を持った大勢の勢子(氏子)が囲み、獅子頭が近づくと、その周りの勢子は「オーッ」と声をあげて片膝をついて、獅子の足元を照らします。
残りの勢子は獅子の行く手を阻むように移動します。
獅子が近づいた篝火には藁束が放り込まれて、大きな火柱が上がります。

獅子は勢子と見物人に囲まれて、何処に居るやら姿は中々見えませんが、提灯のウェーブと篝火の炎が、獅子の居場所を知らせます。
見物人も、勢子と一緒に境内を右往左往。
縄を張って観客を整理するどころか、観客野放し、皆、獅子と一緒に薄暗い中をアッチヘドーッ、コッチへダダダッ、これが珍しいんですて。
1時間以上境内を走り回って、いよいよ最終、獅子が本殿に駆け込むんですよ。
ところが勢子が邪魔をしてなかなか入れん、鳥居と本殿前を五,六回往復しますねぇ。
さすがに、一人では保たんので、獅子は神官が交代で務めます。
最期に、提灯の群れに揉まれるようにして、本殿へ獅子が駆け込んでお終い。
何の象徴でしょうね?

この獅子神事が終ると宮出。
神社から出てゆく前に、境内を大体3周してから夫々の地区に帰っていきます。
これも、観客が自然に作った輪の中を練って行きます。
本殿の前では差す(神輿を差し上げる)パフォーマンスをやらかします。
呼吸の合い方、差してる時間、やれどこのが上手かったの、どうのと周りでうるさい事。
神輿の動きに合わせて、観客の輪が伸びたり縮んだり。
神輿が帰るとその地区から来た見物人も、粗方一緒に引き上げます
ところがドッコイ、そうは簡単に終らんのですよ。
五回も六回も廻る奴、廻り終わっても境内に居座ってる奴。
一息いれて二回目を廻る奴、一旦鳥居に向かって出て行きかけて、又戻ってくるのもおります。
トリに当たってる神輿は「もう終わりやろ」と締めの練りをしたら、休憩してたのが「まだ練り足らん」と出てきて、締めにならず、何回締めをやらされるやら。
今年なんぞは、女の子の神輿まで、二回目の練りをやってましたで。
最近は全行程を担いで帰るのではなく、適当な所からトラックに積んで帰るから、境内で完全燃焼しても大丈夫。
最期の方になると、観客が減って掛け声も寂しいなってきます。
順番はくじ引きで決めてるみたいです。
疲れ果てて最期の神輿が帰るのが、大体22時か22時半。
消防が火を消して廻って、やっとホントにお終いになるんです。
祭りそのものは翌10日目の本殿祭で閉幕です。

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2002/10/10
2003/10/01 一部修正及び加筆

関連記事:
原田神社 補足 豊中-10
獅子神事


原田神社 補足 豊中-10

2002-11-05 11:36:28 | 支離滅裂-城市有情ー豊中

 

「原田神社の秋祭り」の紹介で、 何やら由緒正しい神社と言う事ですが、詳しい事は知りませんねん。
と書いたら「オイオイ、あれは無いやろ、せめて、もうチョット由来でも書いたらどないや?」と同窓生に言われましてん。
ヘッ?何で知ってるんやろ?一言もサイトについては喋った覚えが無い。
実際、誰が見てるか判りませんなぁ!気付けよ・・。

 

と言う事で、少々補足を。
とは言っても、神社の由来なんてのは大して面白い事も無し、第一どこまでがホンマやら神話やら判らん。
社務所で由来書を買うたら、逐一書いてある。
そんなもんを、今更ここでグタグタ書きとうもない。
といいつつグダグダ要らん事を書いてますなぁ。
郷土史を趣味にしてはる方も大勢いてはることやし、門外漢が、書いたところで中途半端、それやったら、いっそ思いっ切り簡単に、受け売りの歴史などを。

 

天武天皇の頃に創建されたと言うてるけれど、これは証拠も何も無し。
主祭神はスサノオノミコト、例によってその他一杯言うてたけど、くだくだしいから略。
延喜式には載ってないいうねんから、その程度のお宮さん。(ゴメン)
東は現在の吹田市江坂から、西は尼崎市富松までの、70以上の村々の産土神で、西牧総社(にしのまきそうじゃ)と呼ばれてたらしいです。
これはすごい広い地域でっせ!
西牧(にしのまき)は元々馬を飼うてた皇室直轄の牧場で、後、奈良の春日大社の紳領やったとも聞いてます。
祗園社、牛頭天王社とも呼ばれてたそうです。
足利三代将軍が崇敬し原田六車荘(大阪空港南東地域)を紳領として寄進されたそうな。
所が、荒木村重の兵火で社殿、文書、宝物全て丸焼け。
どうやら、荒木村重は、この辺を焼け野原にしてしもたらしい。
天正九年(1581年)に再建。
貞享五年(1688年)「原田大明神」の神号を京都の吉田家(何者?)から贈られて原田神社になったそうですわ。
東正面の大鳥居は貞享五年(1688年)建立。
鳥居そのものは、珍しい事もなんとも無いけど、注文時の文書、寸法図面から運賃、村、町の費用の割前など書類一式がほぼ完全に残ってるんやそうです。
それが珍しいんやて。なんじゃいな。
氏子は慶安五年(1652年)22ヶ村、貞享五年(1688年)8ヶ村と減少、幕末には現在の7ヶ村になってたらしいですね。
境内からは銅鐸も出てきて、これは現物も記録も残ってます。
1000年以上の歴史をこない簡単にすましてエエんかいな?

改めて見直すと、地元密着、マイナーな神社ですねぇ。
伊勢神宮を頂点とする神社本庁の傘下ではなく、いうたら独立系。
社殿の前は一寸した運動場ぐらいの広さが、何~にもなしの広場。
さすがに球技はアカンけど、それ以外はどんな遊びもお咎め無し。
毎月一日(ついたち)には、境内に市が立ちます。
雑貨、瀬戸物、衣料、日用品、骨董とも呼べん古道具、中古品等々、ものの見事に安物揃い。
初めて見た人は「まるで戦後の闇市やんか!」とビックリするようです。
私等はごく普通の光景やと思ってますけどねぇ。
お祭りと正月、成人式、七五三、一日市(ついたちいち)以外は人出はほとんど無し。
たまに「お宮参り」を見かけるくらいで、日当たりがエエから、ジイサン、バアサンの日向ぼっこスポットと、子供の格好の自転車練習場。
子供時代は、紙芝居を石灯籠に駆け上って、ただ見してましたねぇ。
普段ののどかなたたずまいといい、通勤、通学、買い物客が境内を行き来する気安さがよろしいなぁ。
初夏から盛夏には20:00頃から、セミの幼虫が大挙して出現、脱皮しようと玉垣に鈴なりによじ登ってます。
東南アジアの某国やったら、一網打尽に捕まえて、カリッと空揚げ。
塩トンガラシで味付けて、屋台で売れるねんけどね。
エビセンみたいな味して美味しいねんけど、日本では誰も買わんわなぁ・・。
「オ~オ~、今年もセミが出て来る季節になったか」と、夏にセミが出てくるのんは当たり前やと思てたら、「商店街の直ぐ横で、あんなんが見られるとは、スゴイ!」と言う人が居てました。
感心してるのかバカにしてるのか?
今時の有名神社に良くある、商売気丸出しの、ガッついたところが無いのが好き。
もっとも商売気出しても、売り物が無いわなぁ。(これがイカンねんなぁ・・。)

駅の真東隣にあるから、神社の森がホームからよう見えますねん。
西には大石塚小石塚の古墳の森がドカーンと見えます。
「岡町は緑が多いねぇ」と誉めてもらえるのが嬉しいですね。

2002/11/05

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