青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

黒い蜘蛛

2021-12-03 08:25:55 | 日記
ゴットヘルフ著『黒い蜘蛛』

スイスの国民的作家ゴットヘルフの代表作。
民話的な素朴さを漂わせつつも、いつの時代、どこの国でも通じる人間のどうしようもなさを抉り出した傑作だ。

美しい自然、賑やかな祝宴など牧歌的な場面の間に、祖父が語る村の恐ろしい過去が挟まれている。そのギャップがおぞましい。
悪魔にキスされた女の頬から黒いシミが浮き出し、そのシミがじわじわと大きくなり、やがて蜘蛛の形を作り、女の頬肉を破って這い出て無差別に人々を襲う。
その様の妙にモダンなリアルさに、この小説はいつ書かれたのかと本作の発表年と作者の生年を見返した。
『黒い蜘蛛』の発表年は1842年。ゴットヘルフの生年没年は1797年-1854年である。そんな昔の作品なのか。
作者が牧師ということで、説法じみた内容かと構えていたら、意外なほど冷めた視点で人間心理を描く、古臭さを感じさせない怜悧な作品だった。
村を襲う蜘蛛の大群には生理的な嫌悪感を抱いたが、それ以上に人間の忘れっぽさと身勝手さに暗澹たる気持ちにさせられたのだった。

陽光と肥沃で安全な台地に恵まれた谷あいの農村。その中央には、とりわけ裕福な家が美しく輝いている。
今日は昇天祭。この家では主の孫の洗礼式が行われた。
たくさんの招待客がご馳走の並んだテーブルを囲む。招待客の中の一人が、この家の素晴らしさを褒めた後、赤ん坊の祖父に尋ねた。

“だけど、こんなことを聞いて気を悪くなさっちゃ困りますけど、とっつきの窓の横の窓枠柱に、汚い黒い木が使ってあるのはどうしてですの、家全体にそぐわないじゃありませんか”

祖父は難しい顔をして、急場しのぎに古い家の木材を使ったなどと述べるが、招待客たちは納得しない。そこで、祖父はしぶしぶ黒い柱にまつわる昔話を始めるのだった。

600年ほど昔。村には、今病院がある場所に城が建っていた。
黒い柱にまつわる凶事が最初に起きたのは、ドイツからやって来たハンス・フォン・シュトッフェルンが領主だったころだ。
この男は歴代の領主の中でも特に凶暴で見栄っ張りだった。ある時、彼は、ベールへーゲンの丘に大きな城を立てることを思いついた。
農民たちの窮状など、フォン・シュトッフェルンの頭にはなかった。ただでさえ重税にあえぐ農民たちを異教的な暴力でこき使った。

やっとのことで城が出来上がった。
農民たちは畑を見て回り、呪わしい建築のために本来の仕事がどんなに遅れてしまったかを確認してため息をついた。今は冬に備えて食べ物を蓄えようと思えば、畑で必死に働かなければならない五月なのだ。
しかし、そんな彼らを集めて、フォン・シュトッフェルンは、更に命令を下したのだった。

“まもなく夏がくるが上には木陰の道がない。ひと月のうちに並木道を作るのだ。百本のぶなの木を根も葉もつけたまま、ミュンネベルクからはこんでベールへーゲンに植えるのだ。ただの一本でも欠けようものなら貴様らの命も財産もないものと思え。”

帰り道、曲がり角に来て城が見えなくなると、農夫たちはさめざめと泣いた。
ろくな道もない三時間も離れたところからぶなの木を運び、険しい山を引き上げなければならない。しかも、この山のそばにはぶなの木がいくらでもあるというのに、それに手を付けてはならぬというのだ。
彼らが打ちひしがれていると、どこから来たのか、緑色の服を着た背の高い瘦せた男が声をかけてきた。

“私の馬車は国中に二つとないようなものだが、あんた方が、ズミーズヴァルトのこちら側のキルヒシュタルデンまでぶなの木を持ってくることができれば、あとは全部私がベールへーゲンの上まで運んであげよう”

そこで、農民の一人が取引をしたいと言うと、男は次のような交換条件をあげた。

“まだ洗礼を受けておらん子供が欲しいだけなんだよ”

三日後にこの曲がり角に返事を聞きに来ると言う。この男は悪魔に違いない。
農夫たちは真っ蒼になって逃げ帰ると、女たちに事の次第を語った。女たちは領主の横暴に呪いの声を上げ、緑の男の神をも恐れぬ申し出に慄いた。

農民たちは緑の男の申し出を拒絶しようとしたが、ぶなの木の運び出しは思うように進まなかった。二日経っても一本も植えられない。フォン・シュトッフェルンは怒り狂い、近隣の騎士たちは嘲笑し、農夫たちは恐ろしい無気力にとらえられた。

そんな中、農家の女房の一人、リンダウ生まれのクリスティーネが、緑の男と契約してしまう。
クリスティーネは、自らの意思で緑の男に会いに行ったのではなかった。
彼女は何人かの村人たちと道を歩いている時に、曲がり角に突如現れた緑の男の前に一人取り残された。そのため、殆ど成り行きで、単独で緑の男と交渉せざるを得なくなったのだ。
クリスティーネにはわかっていた。

“彼女が何を言っても彼らは悪くとるだろう、うまく事が運んでも誰も感謝はしないだろう、悪くなれば、罪と責任はみんな彼女に負わせるだろう“

契約に儀式めいたものはなかった。
緑の男は優雅な物腰で彼女の勇気を称え、前もって子供を寄こせというのではない、これから生まれる最初の子供でいいのだと言い、彼女の頬にキスをしただけだった。
緑の男の言動が随分と友好的だったので、クリスティーネは気軽に考えた。
村では暫くは子供が生まれないことを彼女は知っていた。緑の男が約束通りにぶなの木を植えてしまえば、何者もこの男に与える必要はない。今後村で生まれる子供は、みな片っ端からミサをあげて守ってもらえばいい。

緑の男は約束を果たした。
しかし、並木道が完成してから最初に生まれた子供には、神父が即座に洗礼を与え、悪魔から守った。悪魔をタダ働きさせたのだ。村人たちは調子に乗った。そして、クリスティーネが思った通り、誰も彼女に感謝しなかった。
一人目の子供が洗礼を受けた直後から、クリスティーネの頬は焼き鏝を押し付けられたような痛みを発するようになった。が、それを夫に訴えても取り合ってもらえなかった。

また一人の女がお産を待つばかりになった。
村人たちは気楽に構えていた。間に合うように司祭を呼んできさえすれば、再び緑の男をあざ笑ってやることができる、と彼らは考えた。
クリスティーネだけはそうではなかった。

“お産の日が近づくにつれ、頬の燃えるような痛みはますます激しくなり、黒いふくらみはさらに大きくなった。明らかに脚とわかるものがそこからのび出し、短い毛がはえてきた。背の部分にきらきらする点と線が現われ、そのふくらみは頭になった。その頭にぎらぎらと毒々しい光を放つものがあったが、それは二つの目だった。クリスティーネの顔に現れたまがまがしい鬼蜘蛛を見たものはみな悲鳴を上げた。鬼蜘蛛がクリスティーネの顔にしっかりと居座り、生え出てくるのを見たものは、不安と恐怖にかられて逃げ出した。いろんなことが言われ、誰もが勝手な憶測をならべた。しかし結局は、何が起ころうとみなクリスティーネのせいだということにした。”

よそ者の苦しみなど、彼らには痛くも痒くもない。
クリスティーネの苦しみは、彼女が自ら招いたものなのだ。誰が悪魔と契約しろなどと頼んだ?司祭までもが彼女を見放した。

子供の生まれた家の中では、新たな勝利と悪魔の無力に対する歓声が上がった。
外では、クリスティーネがこの世のいかなる妊婦も味わったことのない苦しみに苛まされていた。無数の蜘蛛が彼女の顔から産み出されていたのだ。

“顔の上でつぎつぎに産み出されるものすべてが動き出し、燃えるような熱さで体中をうようよと這いまわり下りて行くようだった。彼女は稲光の青白い光のなかで、足の長い、毒々しい、無数の黒い蜘蛛が彼女の全身をつたい、闇のなかへ消えていくのを見た。”

黒い蜘蛛の大群が家畜を襲った。それは領主の居城も例外ではなかった。
フォン・シュトッフェルンは怒り狂い、自分が受けた損害を農民どもに償わせると宣告した。事の発端が他ならぬ自分なのだとは考えもぜずに。

農民たちは農民たちで、この惨状の責任を負うべきなのはクリスティーネだと考えた。
が、彼女を叩き殺したところで、蜘蛛の被害が収まらなければ意味がない
とりあえずは、次に生まれてくる子供を緑の男に差し出すことで皆の意見は一致したが、誰もが直接悪魔と交渉するのを怖がった。
ならば、クリスティーネがもう一度緑の男と交渉すればいい。一度悪魔と関わりを持てば、二度関わりあったところでこれ以上悪いことにはならないだろう。

その間も災いは絶えず、人々の恐怖も減らなかった。悪魔を侮蔑する発言をした者には恐ろしい死が齎された。
次のお産の日が近づくにつれて、災いは更に増えていった。人々は哀れな産婦から確実に子供を取り上げる方法を申し合わせた。悪魔に対する恐怖のほうが、神への畏れよりも大きかったのだ。

お産の日、この世の終わりのような惨事が村を襲った。
蜘蛛の群れは村中どこにでも姿を現して、家畜や村人を襲い続けた。司祭は毒蜘蛛と化したクリスティーネと戦い、全身を毒に侵され苦悶の裡に命を落とした。
生き残った人々は寄り集まり、互いに罪を擦り付け合った。

“誰もが、自分はやめろと言った、自分は警告した、などと言い張った。誰もが、罪のあるものに罰が下るのは仕方のないことだが、自分と自分の家族は罰をまぬかれたいと思った。そしてこうした恐ろしい危惧と争いの中にあっても、彼らは、新しい、罪のない犠牲が見つかりさえすれば、自分だけは救われることを期待して、その犠牲にたいしてまた罪を犯したことであろう。”

自らを神に選ばれた特権階級であると信じていたフォン・シュトッフェルンや騎士たちは城に閉じこもった。が、そこにも毒蜘蛛が入り込み、灼熱の焔で彼らを焼き殺した。

自らの命を犠牲にして毒蜘蛛を封印したのは、一人の敬虔な女だった。
彼女は毒蜘蛛をつかむと、激痛に耐えながら用意してあった穴に押し込み、穴に栓をあてがって、金槌でしっかりと打ち込んだ。
それが、あの黒い柱であり、この敬虔な女は祖父の先祖だったのだ。

“蜘蛛をとじこめ、安心して暮らせるようになった時、ひとびとは、天国にいて、神さまをかこんでその浄福にあずかるような気持になったということだ。そしてそういう状態が長くつづいた。ひとびとは神をあがめ、悪魔をさけた。新しく城に入った騎士たちも、神の手を敬い、人々をやさしく扱い、援助の手をのべた。”

こうして、村は豊かになり、幸せと祝福のうちに長い年月が過ぎ去った。
しかし、物語はここでめでたしとはならない。
喉元過ぎれば熱さを忘れるで、長い年月の間に人々は平和と豊かさに慣れ、傲慢になった。かつてフォン・シュトッフェルンが彼らの祖先にしたような横暴なふるまいを使用人にし、黒い柱の言い伝えを妄言と軽んじるようになった。

そうなると……である。
今から300年ほど前、再び黒い蜘蛛の大群が村を襲った。
二度目の猛襲もまた、この家のクリステンという若者の犠牲によって退けることが出来た。それ以来、毒蜘蛛は姿を現していない。
人々は、かつてこの家の敬虔な女が身を犠牲にして毒蜘蛛を封印した時と同じように、クリステンに感謝し、神を畏れるようになった。
しかし、反省はしないのだ。
あくまでも自分たちは災厄に巻き込まれた被害者という認識である。あまりにも前回と同じリアクションで薄ら寒くなってしまう。
物語はここで現在に戻るが、黒い柱が今も残っているように、毒蜘蛛の脅威は消えていない。

“心清き人の住む所には、昼といわず夜といわず、蜘蛛のうごめくことはないのである。しかし人の心が変わる時、蜘蛛がどのような力を持つかは、すべてを知り、蜘蛛にも、人間にも、ひとしくその力を分かちあたえ給うものの知るところである。”

最初の凶事が約600年前。2度目が約300年前。このスパンはあえての設定なのだろう。
そろそろ負のゲージが満タンになるころだ。この村の人達、どうせまたやらかすんだろうなと、妙に乾いた気持になって読了した。
ゴットヘルフは複数の民話をもとに、この物語を創作したらしい。また、黒い蜘蛛とはヨーロッパを2度襲ったペスト=黒死病の流行からの連想であろうとされている。
ペストが遠い歴史の出来事となった現代の私には、無数に蠢く黒い蜘蛛は、暴走する集団心理の象徴のように見えた。そして、毒蜘蛛に変化したクリスティーネからは、ギリシャ神話のアラクネを連想したりもした。
最初の惨事も2度目の惨事も、悪魔と直接契約したのは、よそ者の女だった。そして、発端となった無理難題を吹っかけたのは、よそ者の領主だ。
すべての凶事はよそ者のせい。自分たちは何も悪くない。
よそ者が共同体のスケープゴートとして最適な存在なのは、古今東西変わらぬ事実なのだなと、苦い後味が残ったのだった。

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