青い花

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息吹

2020-10-16 08:34:58 | 日記
『息吹』は、テッド・チャンの第二短編集。
「商人と錬金術師の門」「息吹」「予測される未来」「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」「デイジー式全自動ナニー」「偽りのない事実、偽りのない気持ち」「大いなる沈黙」「オムファロス」「不安は自由のめまい」の9編と、テッド・チャン自身による作品ノートが収録されている。

テッド・チャンは、たいへん寡作な作家だ。
1990年に「バビロンの塔」で商業デビューして以降、現在までに出した本は、第一作品集『あなたの人生の物語』とこの『息吹』の二冊のみ。『あなたの人生の物語』と『息吹』の間は17年空いている。
テッド・チャンの熱心な読者は、常に彼の新作に飢えていることと思う。
が、私個人としては、この作家とは緩く長く向き合っていたいので、このくらいのスパンでの新刊発行で丁度いい。同じ作品を何度も読み直したくなる稀有なSF作家だ。

SFを読み慣れていない私には、『あなたの人生の物語』同様に、脳の普段使わない部分を使う読書体験となった。
進化論や量子力学などについてある程度の知識が無いと(私には無い)理解しにくい作品集だが、そこまで敷居が高い訳でもない。
訳者あとがきに、SFマガジン(2010年3月号)のインタビューで、テッド・チャンが、“「息吹」は、ボルヘスの短編「バベルの図書館」のやり方を踏襲したつもり”と述べたことが取り上げられている。

「バベルの図書館」は、我々の住む世界とは全く別の世界を舞台にしている。
いや、「バベルの図書館」に限らず、ボルヘスの作品の殆どが、もっと言えば、ラテンアメリカのマジック・リアリズムの殆どが、当たり前のように我々の住む世界とは別の世界を舞台にしており、我々の世界では有り得ない事が、その世界の住人には日常の出来事として受け入れられている。読者も、「誰がこの世界を作ったの?」とか「なんでこの世界の常識はこうなっているの?」などとは思わない。そこに違和感を覚える人には、このジャンルは向いていない。

テッド・チャンは、「息吹」に対して、SF読者から、それと同じような反応を期待していたという。
だが、SF読者の中には、「息吹」の宇宙を誰が作ったのか質問する人はいたそうだ。どうやら、SF読者は作品内の世界の成り立ちについて、明確な説明を期待するものらしい。そこがボルヘスの読者とは違う。
多分、私がSFについて敷居が高いと感じてしまうのは、SF作品そのものより、SF読者のそのような姿勢のためなのだろう。
私などは相当突飛な設定でも、「この作品の中では、それが普通なんだろう」と、秒で納得してしまうので、SF読者が求めているような謎解きへの欲求は希薄だったりする。

テッド・チャンは、『あなたの人生の物語』の頃から、SF的センス・オブ・ワンダーより、親子間の情とか自分の人生とどう向き合うか、自由意志は存在するのか等、心の問題の方に重心を置いているように感じていたので、私の中ではとっつき易い部類(理解出来ているとは言わない)のSF作家だった。
で、この度、『息吹』のあとがきで、テッド・チャンがボルヘスを意識していたことを知って、彼に対する親近感は急上昇したし、ある種の免罪符を与えられた気にもなったのだ。

そんな私なので、『息吹』の中で一番刺さったのは、「商人と錬金術師の門」だった。
殆どのタイムトラベル物語が、過去を変えられることを前提に描かれているのに対し、この物語は、過去を変えられないものとして描かれている。
SFとアラビアンナイト的世界を融合させたこの作品は、あらゆる意味で未知の世界観であるにも関わらず、どこか郷愁を感じさせる芳醇な味わいの物語だった。

物理学者キップ・ソーンの、“相対性理論と矛盾しないタイムマシン”というアイデアを取り入れれば、映画や漫画でありがちな乗り物タイプや転送装置タイプのタイムマシンの持ついくつかの疑問(地球の動きはどうなるのかとか、未来からの訪問者がなぜ一度も目撃されていないか等)をクリアすることが出来る。
ソーンのタイムマシンは、“時空の虫食い穴”と呼ばれるワームホールを利用することで時間移動を実現させる。
このタイプのタイムマシンは、一対のドアみたいなもので、二つのうちの片方を光速に近い速度で移動させてから元に戻すと、ウラシマ効果によって時間が遅れ、二つのドアの間で時間の差ができる。そのため、片方から入ると過去へ、もう片方から入ると未来へ移動出来る、ということらしい。
さらに、ソーンは、このタイムマシンでは過去は変えられないこと、自己矛盾のない単一の時間しか存在しないことを、数学的な分析によって示した。
ちゃんと理解出来ているか些か心許ないが、とりあえずは、ソーン式タイムマシンが、過去を変えられないということさえ押さえておけば、この物語を読むことは出来る。

“この世にはもとにもどせないものが四つある。口から出た言葉、はなたれた矢、過ぎた人生、失った機会だ”

舞台は中世のバグダッド。
ある商人が錬金術師の店を訪れる。錬金術師は商人に〈門〉を見せる。この〈門〉の両側は、20年の歳月で隔てられており、これを通ることで過去と未来を行き来できるという。

錬金術師は、〈門〉に関心を示した商人に、かつてこの〈門〉をくぐった三人の人物の物語を語って聞かせる。
三つの物語――「幸運な縄ないの物語」「自分自身から盗んだ織工の物語」「妻とその愛人の物語」は、それぞれ独立した物語のように見えて、互いに影響しあった三部作でもある。
主人公たちは、それぞれ20年後の自分と出会い、〈門〉をくぐらなければ知ることのなかった知識を得て、現在に戻って来ている。しかし、だからと言って、彼らの人生が、未来を知る前とは別のものになることはなかった。過程が変わっただけで、到達点は変わらなかったのだ。

商人はこれらの物語、特に三番目の「妻とその愛人の物語」に心を捉えられた。
この物語が示しているのは、過去を変えることが出来なくても、過去を訪ねて思いがけない事実に出会うことはあり得るということだ。
商人が行きたいのは、未来ではなく、過去だった。
彼は過去に大きな過ちを犯しており、その後の人生を悔恨にくれながら生きてきたのだ。三つの物語の主人公たちとは反対の側から〈門〉をくぐれば、自分の若いころを訪ねることが出来るのではないか?

しかし、錬金術師が言うことには、この店の〈門〉を作ったのは一週間前なので、20年前のこの場所には、商人が出られる戸口は無い。あと20年ほど経てば、〈門〉の左側から中に入れるようになるから、商人が自分の過去を訪ねることが可能になるのだが、今は無理だ。
さらに、錬金術師は、すでに起きてしまったことを無かったことには出来ない。また、既に経験した苦難を避けることも出来ない。アラーがお与えになった試練は、受け入れなければならないと諭す。
それでも、商人の思いつめた様子を見て取ると、カイロの息子の店にある〈門〉なら20年前に行くことは出来るから、息子が商人に力を貸すように手紙を書こうと申し出た。

こうして、商人はカイロまで旅をして、〈門〉を使って20年前のカイロに赴き、そこからバグダッドに戻るというタイムスリップを経験することになる。

テッド・チャンは、この作品について、作品ノートに「個人的には、過去を変えられないことがかならずしも悲しみに直結しないようなタイムトラベルものが書いてみたかった」と記している。
未来についての情報を得ても、未来を変えることは出来ない。変えられるとしたら、未来についての情報を得たことにならない。それと同じことが、過去についても言えるということだろうか。

作中で、錬金術師は、過去と未来は同じだ、という意味の言葉を度々述べ、その点について商人も疑問や不満を述べていない。そして、その通りに、たいそう手間のかかる旅をしたのに、商人は過去のあやまちをやり直すことが出来なかった。
それでも、商人は、自分の過去のあやまちを再訪し、どのような癒しであればアラーがお赦しになるかを学ぶ機会を与えられたことは、計り知れないほど幸運だったと言う。
過去は変えられない。だが、過去について、知らなかったことを知ることは出来る。そのことが救いに繋がる。変えられない過去を受け入れることは、諦念とは似て非なるものなのだ。
理解しようと努力することにこそ意味があるというメッセージが、この物語の印象を明るいものにしている。

“なにをもってしても過去を消すことはかないません。そこには悔悛があり、償いがあり、赦しがあります。ただそれだけです。けれども、それだけでじゅうぶんなのです。”

テッド・チャンは、タイムマシンの理論とか、タイムトラベルという行為そのもの以上に、それらを舞台装置として、未来あるいは過去の情報を得られた場合、その人物がどうふるまうのかを突き詰めたかったのではないか。
このテーマは、「あなたの人生の物語」と共通している。「あなたの人生の物語」が気に入った読者は、きっと「商人と錬金術師の門」も気に入ることだろう。『息吹』収録作の中では、「予期される未来」もまた、このテーマを扱っている。

物語の中で物語が語られる入れ子構造が、『アラビアンナイト』の構造と共通していたり、運命の受容というイスラームの基本的な教義が、キップ・ソーンのタイムマシンの理論と案外相性が良かったりして、SFと言われなければ、一つの寓話として受け止めることも可能なエキゾチックな魅力溢れる物語だった。

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