青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

少女病

2016-04-29 09:57:38 | 日記
明治40年に『蒲団』をもって、フランスから輸入された自然主義文学の概念を本家とは別の意味に変換してしまった田山花袋だが、同年に発表した『少女病』も大概な内容である。己の変態性を赤裸々に告白するのが、田山流の自然主義なのだろうか。

『少女病』の主人公も『布団』同様、妻子持ちの三十路男で、若い娘に道ならぬ執心を抱いている。とは言え、うっかり結ばれてしまう、とか三流エロ漫画的な展開はない。そんなつまらない展開では文学にはならない。主人公が面倒臭くないと文学にはならないのだ。
痴漢や援助交際に奔る訳ではなく、執拗に凝視しているだけなのだが、その視線の色合いが大変に不穏である。彼の胸中に吹き荒れる妄想のややこしさに、滑稽を通して痛ましさを感じてしまうのは、作品のクオリティが高いからなのか、それとも私の感性が変態寄りだからなのかと、頭を抱えてしまう問題作なのだ。

主人公は杉田古城という37歳の中年男性。
猫背、獅子鼻、反歯、肌の色は浅黒く、頬髯が顔の半面を覆っているという恐ろしい容貌で、若い女などは昼間出逢であっても気味悪く思うほど。足のコンパスは思い切って広く、トットと歩くその早さには、演習に出る兵隊も避けていく、という散々な見た目である。

杉田は、元々は文学者であった。
若い頃には、相応に名も出て、二、三の作品は随分喝采されたこともある。しかし、現在は雑誌社に勤務して、雑誌の校正で糊口を凌いでいる。文壇の地平線以下に沈没してしまおうとは、自らも人も思わなかった。
こうなったのには原因がある。
この男には、昔から少女に憧れるという悪い癖がある。若い時分、盛んに少女小説を書いて、一時は人気を得ていたものだが、観察も思想も無いあくがれ小説が、そういつまで飽きられずに済むほど世の中は甘くない。ついにはこの男と少女という組み合わせが、彼のむさ苦しい容貌と相まって笑い草の種となってしまった。友人の間で、「一種の病気」と噂され、編集者からは、「少女万歳ですな!」と冷やかされてしまう始末である。

杉田は毎朝千駄ケ谷駅から甲武鉄道に乗り、神田錦町の雑誌社まで通勤し、電車で見かけた少女たちに対し、妄想を募らせることに全身全霊をかけている。
眼の前にちらつく美しい着物の色彩に胸をソワソワさせながら、「己も今少し若ければ」と思ったり、「なんだばかばかしい、己は幾歳だ、女房もあれば子供もある」と思い返したり。傍目には気色の悪いストーカーだし、つけられた娘がその事実を知れば恐慌を来すことであろうが、本人は、少女の姿を思い返しながら悲しくなったり嬉しくなったりと、忙しくも孤独な感傷に浸っているのである。

その朝も杉田は、代々木の停留所で見知り越しの女学生をめざとく見つけた。
肉づきのいい、頬の桃色の、輪郭の丸い、それはかわいい女学生。はでな縞物に、海老茶の袴をはいて、右手に細い蝙蝠傘、左手に紫の風呂敷包みを抱えている。杉田は、見ぬようなふりをして幾度となく見る。そしてまた眼をそらして、今度は階段のところで追い越した少女の後ろ姿に見入った。
最初に少女を見かけた時は、可愛いと思いつつも、後をつけるほどには気に入らなかった。ところが、何度か見かけるうちに二人の間にちょっとしたエピソードが生まれた。少女が落した留針ピンを杉田が拾ってやったのだ。
その時の恥ずかしそうだけど、丁寧な例の述べ方――。嬉しくてならなかった。これからは電車で邂逅しても、「あの人が私の留針を拾ってくれた人」と思うに相違ない。もし己が若かったならこういう幕を演ずると、面白い小説ができるんだな、などと取り留めもなく考えた。すると、連想は連想を生んで、その身のいたずらに青年時代を浪費してしまったことや、細君の老いてしまったことや、生活の荒涼としていることや、将来に発達の見込みのないことや、色々なことが乱れた糸のように縺れ合って、殆ど際限がないのであった。

退出時刻が近くなると、いつも、家のこと、妻のことを思う。つまらない、老いてしまったと慨嘆する。若い時に、何故激しい恋をしなかったのだろう?
今日はことさらに侘しく辛かった。
いくら美少女の髪の香に憧れたからって、もう自分は恋をするのに相応しい年頃ではない。そう思うと、もう生きている価値がない、死んだ方が好い、と心から思う。妻子のことを念頭に置かぬではないが、そんなことはもう縁が遠いように思われる。この寂しさを救ってくれるものはないか。白い腕にこの身を巻いてくれるものはないか。そうしたら、きっと復活する。この濁った血が新しくなれると思う。けれど、実際それによって、勇気を恢復することができるかどうかは疑問だ。何故って、彼は自分という人間がわかっているから。
もう37だ。若い時に無縁だったのに、中年期を迎え更に見栄えの悪くなった今、恋など出来るわけがない。中年男と少女の間に、少年と少女の間に芽生えるような純粋な恋心が生まれる可能性は絶望的に低いのである。

とか何とか煩悶しながら電車に揺られていると、彼の眼に信濃町で同乗した、今一度ぜひ見たいと願っていた美しい令嬢が映り込んだ。
美しい眼、美しい手、美しい髪、どうして俗悪なこの世の中に、こんなきれいな娘がいるかと思う。乗客が混こみ合っているのとガラス越しになっているのとを良いことにして、杉田は令嬢を凝視し続ける。車内はどんどん混んでくる。そして市ヶ谷駅を出発した電車のスピードが上がった時、令嬢に見惚れていた杉田は人に押されて電車から落ち、反対側の電車に轢かれて死んでしまった。このあたりの描写は、現在の電車を念頭に置いて読むと意味が分からないかもしれない。当時の電車の状態を検索してみると良いだろう。

“非常警笛が空気を劈いてけたたましく鳴った。”という一文が印象的な幕切れ。
彼の人生は虚しいものだったのだろうか?
重度の少女病患者である杉田が、美少女に見惚れたことが原因で轢死したことは、彼にふさわしい、本人も納得の幸福な結末であったと思うのだ。己の真善美の象徴を凝視しつつ、恐怖や苦痛を感じる間もなく涅槃に旅立てる、という僥倖に恵まれる人はなかなかいない。それまでの不如意を差し引いてもお釣りはたっぷり出るだろう。
コメント