『空バナ』
もくじ
01. 犬る
02. 既視感は夢?
03. 未だ遠い、先の未来のことだけれど
04. 死ねと言った回数/死ねと思った回数
05. 碁石屋か辻
06. くつろぎロック
07. 死地×志知=始終苦
08. 八つ裂き=初咲き
09. 馘リ最狂
10. 天は似物を与えず
11. 影笑むイレブン
12. 十二支自由にし十干実感するは還暦
13. 十三番目のESOLA
01. 犬る
いろはにほへとちり「いぬる」を。
ボクの記憶が間違っているのだろうか。
この、いわゆる「いろは唄」というものを、からっきし習った記憶が無い。
せいぜい「いろはにほへとちりぬ」「盗っ人(又は泥棒)」、「ぬをはかよた」「探偵(又はケーサツ)」。というこじつけの遊びをやったくらいのものである。
それ以外の記憶が無いので、ボクは何かの呪文か何かだと大人になってからもしばらく思っていた。
閑話休題。
いぬる、というのは「往ぬる」ということであり、「(あの世へ)往く」ということである。
古い言葉の残る地域ではよく「はよ往ねや」と言ったりするが、あれは本気で死んで欲しいわけではないので悪しからず。
あと福井では「はよしねや」という言葉もあるが、意味は全然違う。語源は一緒かもしれないけれど(はやくいけ→はやくして)。
ところで犬の鳴き声は「ワン」であり、びょうびょうびょうではないことに異存はないと思うがいかがだろうか。
対して、猫は「にゃー」であり、「にゅー」でも「にょー」でもないが、これはいかがかな。
猫(らしき者)についての大人向けアニメを見て思っただけであり、そのタイトルが「エルフェンリート」でないことをここに記しておく。
記しただけで嘘を「言った」わけではないことに注意。
それでは往んでまいる。
02. 既視感は夢?
既視感という言葉は有名な言葉に直すと「デジャヴ」ということに、なるのだろうか。
いや、あれは「ジャメヴ」だったかな……?
――こういった、いわゆるボケというものが、ボクには難しい。
語弊を含んでいいのなら、こう言おう。
ボクは噓を吐けない。
もちろん、さっきの発言の一部、まるまま一文を取り上げてみたところで、いやいや二文を鑑みたところで、もう明らかに赤裸々に大法螺なのはわかっているのだけれど。
だけれどその直後、すぐさま否定を付け加えなければ、ボクは死んでいた――かもしれない。
もう改行すら待てなかった。
「かもしれない」という言葉は便利である。
相手の馬鹿馬鹿しい発言に対して、「そうかもしれません」と、しおらしく言っておけばそれで事は済む。
もちろん、本音では「かもしれないけどたぶんないでしょうね」なのだが。
可能性。
生きている限り、世界が終わらない限り、確実に起きる事はないけれど、確実に起きないことがある。
ソレは、何も起きないという可能性だ。
可能性はどんな状況でも捨てきれない。
悪い可能性か良い可能性かの違いだけである。
まぁ、その違いも人によって変わるわけだけれど。
不変的ではなく普遍的。
もし絶対の言葉を探せばこのほかに答えはない。絶対にない。
と言えるくらいに絶対に可能性は残っている。
むろん、世界が終わっていなく、語り部が死んでいなければ、の話だが。
これだけの分量の文章を費やして結局たどり着くのが、こんな、誰でもが、自覚的にしろ無自覚的にしろ気づいている知っている当たり前すぎることだなんて、ボクのオツムにはもうオムツが必要かもしれない。
あれ、これデジャヴ……?
03. 未だ遠い、ずぅっと先の、未来のことだけれど
問わず語り。
この文章群にテーマをつけるとしたらそうなるに違いない。
それはなぜなら著者に友達がいないからだ。
問う者のいない人間だから問われずとも語ってしまうんである。
要するに孤独な猫のような人間だった。
そんな自分が何を想うのか。
過去を患(うれ)い、未来をも憂(うれ)う、勇敢(憂患)なる戦士、孤高にあり。
うそ、おおげさ、まぎらわしい。
三大迷惑だった。
瞳孔も散大だった。嘘である。
ところで。
未来という言葉は「見らない」、つまり「見られない(見ることができない)」という言葉が訛ってできた言葉かもしれないのだけれど。
たしかに今はまだ「02. 」までしか完成していないこの文章も、ずっとずぅっと先までいけば、かならず終わりが来るわけで。
終わらない物語なんて、連載以外にありえないわけで。
連載でも「ごめんなさい」で片づけるわけで。
この文章群が不時着しないことを願うばかりの、今この頃だった。
04. 死ねと言った回数/死ねと思った回数
ここで二つの回数を比較してみよう。
「死ね」の回数と、
(死ね)の回数と。
どっちが多いのだろうか。
ボクなんかは「言った」=「思った」という認識でいるから、思った回数のほうが少ないというのは考えられない。
ということは、割合を見るなら「(死ね)と思った回数」を分母に持ってこなくてはならないわけである。
「死ね」/(死ね)
ボクなんかはいまこの文章を書いている時点でまさか独り言のように「死ね死ね死ね死ね」とつぶやいているはずもなく。
だけれど文章を書くときには必ず心の中で音読するので、これを書いている最中には何度も、幾度となく(死ね)と思っているわけである。
ついでに言えばいわゆる「読み返し、文章の推敲」も含めてもう何度(死ね)と思ったか。わかるはずもない。
でもここで唯一の救いは人間に対して「死ね」と言った記憶が、まるでないのだ。
それは「記憶にない」だけなのか、本当に言っていないのか、あるいは人間でない者に言ったのかは定かではないが。
本当に、言った記憶はないのだった。
つまるところ、ボクの「死ね」/(死ね)は、無限小になっているわけである。
それがどうした、と思う人もいるかもしれない。
だけれど、ボクなんかは「言った」=「思った」という認識でいるから、大事な人に「死ね」と言われたらなんの迷いもなく死のうとするだろうけれど。
残念ながらいまは「大事な人」がいないんであった。
思想は自由だが、押し付け(押し売り)は凶かもしれないよな。
05. 碁石屋か辻
昔。
どれほど昔だったかも定かではないのだけれど。
ボクのよく知る人物に、「加辻後 石矢」なる作家がいた。
作家というか、アマチュア小説家である。
当時、彼は「30代からのモーニング娘。入門」というサイトの掲示板にてネットデビューした。
実際の彼がどんな人であったかは難しいところであるが、掲示板での彼はすこぶる元気な少年だった。
そして少々、自己顕示欲が強かったかもしれないが、それも若さゆえと言えよう。
そののち、彼は創作活動に興味を持つことになる。
小説だ。
昔からラクガキが好きで、漫画研究部にも所属していたが、ポケモンしか描けない自分の画力の無さに絶望し、筆を折った。
そこで出会ったのが文字の文化であり、活字であった。
先述のサイトでかなりの手ごたえを掴んだ彼は、読書歴わずか1年で小説を書き始めることになる。
縦書き、本の装丁、紙の存在感。
国語の苦手な少年が、図画の好きだった少年が、色のないモノクロームの世界に翼を広げた瞬間であった。
なんて。
適当に書いてはみたものの「自演乙」と言われてしまえばそれまでなのだが。
だけどやっぱり、いまもこうして筆を執っているあたり、あの夢は捨て切れないと見える。
小説家になる。
漠然と、そう、想った。
この文章群が小説と呼べる物かどうかすら危ういのに。
夢は所詮、夢なのか。
人生を賭して、考えよう。
海賊王になるよりは現実味、あるよね……?
06. くつろぎロック
寛木六九。
くつろぎ・ろっく。
昔、考えたキャラ名である。
決して芸名ではないことをここに誓う。
ボクはロックという音楽をほとんど聞いたことがないのだけれど、なにやら男らしくカッコイイ印象を受ける。
あるいは、クレイジー。
中二病。
そんな感じで、いいんですかね。
そんな、なにやらアブナイ名前なのに、苗字がくつろいでしまっている少年がいた。
(アブナイといえば69という名前もおそろしいのだが、今回は関係がない)
狂っているといえばあまりに狂っている。
こういった、生身の人間にとっては痛々しい名前を考える名人。
さすがに中二病だった。
同時期に狂ったように名前だけ考えたキャラが100はいる。
その中でも結構イケてんじゃないの~、な名前を厳選した人気投票も作成済み。
探せばあるのでここでは紹介しない。
当たり前だが、回文である。
【くつろ・ぎ・ろつく】
探偵だ。
いまのはたぶん、4869的ななにかである。たぶん。
だいぶん、いろいろ書いてはみたものの、名前のタネ明かし以外にいみをみいだせないのでこの辺で。
07. 死地×志知=始終苦
まず「志知」とはなんだ。
志して知れ、みたいな格言でしょうか。
ボクにはさっぱり聞き覚えのない単語であるが、変換したら出たので。
変換して出るといえば、「増差」という言葉をある仕事で毎月書いているのだけれど、ネット辞書には見当たらず、本当に使い続けていていいのだろうかと不安になったりした。
「仕事で書いている」なんて、なにか物書き的な、文筆業的なニュアンスにも取られがちだが、そうではない。
増減の差、という意味で、つまり比較として書いているだけである。
調べたところでは専門用語らしいのだが、そして意味合いも違うのだが、いいのだろうか。ま、いっか。
この辺り、ここいら辺が、ボクの小説家向きでない資質を体現しているのかもしれなかった。
雑。
その一言に尽きる。
文学部の人間が読んだらパニックになりそうなバランス感覚で文章を作成するので、ハマる人もいるけれど、でもたいがい「読みたくない」と思われる文章なのだった。
まぁ、文芸部だからこそ余計にハマったというファンの方もいらっしゃったがさておき。
死地を志し、知ってなお、人生が苦でない人間が、はたしているだろうか。
それは、「神様はその人に乗り越えられる試練しか与えない」みたいなロマンチックな思い込みをしなければ絶対に生きていけないような、間違いなく宗教に走りそうになるだろう墓地確定なパターンだ。
しかしまぁ、耐え凌げば、耐え忍んでさえしまえば、あとは時間の問題だったりもするわけで、だからこそ神様は試練を与えたのだろうとも解釈できなくはないのだけれど、しかしあえて神様を神様然として扱う理由が見当たらなかったので、「なんとかなるなる」と悟った今日この頃。
非現実的なことは超科学で説明がつく。
現代科学がわからなくても未来科学が絶対に証明してしまう。
つまり、科学は万能ではないが、いつか万能に近いステージに到達する。かもしれない、という話なのだった。
特命リサーチ200X。
これ「200X」って、どう見ても「にひゃくX」だろ、と本気でわけわからなくなった。これをゲシュタルト崩壊という。かもしれない。
ともかく、その番組みたいに、現状の科学でも十分対応できる事例は多い。
しかし、それは解明できたことを提出しているだけで、いまだ解明できない難事件・怪事件は多い。
なんでもプラズマのせいにする科学者みたいに、逆に言ってしまえばなんにでもとりあえずの説明は付くわけだが、問題は、本当にそれが事実であり真相なのかという話で、それはまた別の話になるのかもしれなかった。
おしまい。
08. 八つ裂き=初咲き
切り裂きジャックを英語風に言い換えると「ジャック・ザ・リッパー」になるらしいのだが、どこが立派なのか、立派な斧でも持っているのか、この辺り、あなたならどう考えますか?
たわごとです。
今回は切り裂きではなく八つ裂き。
刃物で解体するイメージから、腕で引き千切るイメージへと脳内変換が起こった。
八つを誤読して「はつ」と読めば「初咲き」となり、なんか、デビューするみたいな、祝い花が咲き乱れるようなイメージへと変換された。
言葉のもつイメージとは、こうもたやすく塗り替えられるのだろうか。
言葉の塗装業者と呼んでください。
ところで初咲きだと初物みたいなイメージも湧くし、すこしうがって見てしまえば初潮かなともとれるわけで。
そいでなんでアレのときに赤飯をいただくのか……血が出るから赤い飯? みたいな。
ここまで連想もとい妄想してしまうとイヤンな感じなのだが、しかし結局、血のイメージに舞い戻るあたりはさすがボク様ちゃんなのだった。
09. 馘リ最狂
僕様ちゃんというけしからん自称をする天才工学者・玖渚友。
あれはたぶんメンヘラの少女が一人称を「僕」と言いたがるからもっと膨らましてやれよ的なサーキットだったんだろうなぁ。
と、いうわけで、このタイトルは「クビキリサイクル」です。
この傑作小説をタイトルだけ読んだとき、「首切り」と「リサイクル」を掛けてあるんだろうなぁ、と直感してしまったんだけれど、それを知人に言ったら「そんなわけないだろ「首切り」の「サイクル」に決まってるだろ」と即座に否定されてしまった。
あってたでしょう?
そんなネタバレな直感を得てもなお、作者の仕掛けたトリックに大いに騙されてしまった私は、きっと天性の馬鹿なんだろう……
クビキリサイクルという作品は、本格ミステリでありながら、ミステリ好きの人でも、まったくそうでない人でも楽しめるお話である。
一種のキャラクター小説的な性格と、いわゆる“ライトノベル”という体裁を備えているためである。
同様に、ラノベなのに本格ミステリになっている、乙一の傑作『GOTH』が単行本発売されたのも2002年だった。
これは奇跡のシンクロである。
と、いま気づいたんです。これ本当。
同じくらいの時期かなとは思っていたのだけれど、その実、読んだのは『GOTH』が断然早かったので、いまひとつピンときていなかったので、このことに気づけただけでもいい収穫でした。
この2作品。読み返そうかな……
どちらも名作間違いなし。
かたや「第23回メフィスト賞」、かたや「第3回本格ミステリ大賞」。
小説賞。それも、大賞に輝くだけの輝きが、この作品たちにはあります。
あ、この章はクビキリサイクルって名付けたのに乙一先生まで語ってしまった! あっちゃ~……
でも、このお二方には、足を向けて眠れません。本当です。
ちなみにこの文体は乙一先生からは程遠いモノになっていますので、文体が気に入った方には『クビキリサイクル~青色サヴァンと戯言遣い~』がオススメです!
と。
宣伝したところで、まだ作者の名前書いてないんだよな……ま、いっか。
漢字を多用する作家さんなので、難しいかもしれませんが、ラノベなので雰囲気で読んでもらえると思います。
たまに、パソコンで変換しても出てこないような「俗字」というカテゴリの漢字を出してくるけど、雰囲気で読めますよ!
乙一先生の文体が、簡素で不必要なモノのない美しい文体だとすると、かなり盛り盛りの華美な文体かもしれません。
この文章群みたいに(苦笑)。
戯言だけどね、いーちゃん最高!
10. 天は似物を与えず
似ている人はいますが、完全に同じ人はいません。
それは一卵性双生児だろうと同じです。
同じ遺伝子でも個体差は出ます。
それは、同じ設計図で造られた量産品がすぐ壊れたり長持ちするのと大差ないのかもしれませんねぇ。
11. 影笑むイレブン
AM11:00
朝の11時に起きる人は、きっとお腹がすいているのだろう。
ボクなんかは昼過ぎてようやくおろおろと起きだし、夕方くらいに「もう晩飯だけでいいや。。」と思っているようなダメ大人だ。
と、言いつつも、普段は食べ過ぎで困っている。
過食症の域にまで達するかもしれない。
拒食症になりたいとは思わないまでも、もう少し食欲が抑えられたらいいのになぁ、とぼんやり思っている。
朝食を食べないからそうなるのかもしれない。
朝食べた脂によって一日の代謝が決まるとも言われており、分量としてはトースト1枚に塗るバターがちょうどいいらしい。
バターではなくマーガリンしか塗ったことのないワタクシは、なんなんだ……
これがバターだよ、と教え込まれてよく見てみたらバターじゃなかったみたいな悲劇はもうトラウマで、そのせいか親の言うことを信じられない、どころか、人の言うことも信じられないような人間になってしまった。
ともかく。
噂話のように、他人のしている話にはかなりの確率で嘘が紛れている。
放送倫理だけでなく言動の倫理もBPOにお願いしたい勢いであるが、そんなことをしたら自分も嘘文を書けなくなるのでこのままでいいやと思うのだった。
で、いまの時刻は?
PM10:00
おもしろくねーな(苦笑)。
寝る前のおクスリ投入しまーす。
12. 十二支自由にし十干実感するは還暦
十二指腸というのを、ずっと、「十二人の市長」がいて大変だなと思っていた。
いまだに「ウインナー」の印象が抜けない。
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥
十二支は漢字で書ける。
しかし、十干はまったく書けないどころか覚えてすらいない。
十干を覚えなければ、還暦をただの60年間としか感じられなく、60年間生きてようやく実感する体たらくに陥る。
十干を覚えても体感できるのは60年生きてからなのだが、知っているかどうかは大きな差を生むかもしれない。
自分が一体何の年に産まれたのか、そういえばまったく知らないのだった。
しかしまぁ、子供が大人になってみないと実感が湧かないのと同じで、60年生きてみてようやく理解できるいろいろが待っているのだろう。
もうアラサーなのにまだ正社員にすらなれないどこかの小説家志望の崩れ者には、一生味わえない境地でしょうなぁ。
ちなみに「じゅっかん」とは読まないので気になる人は調べてみてね。
13. 十三番目のESOLA
ようやく。
睡眠薬を飲んでからここに到達できた。
いまの記憶を明日に持ち越せるかどうかは甚だ疑問だが、文章は残るはずなので書き連ねよう。
そうなんである。
いま飲んだクスリは記憶を飛ばす作用がある。
外国ではレイプ犯が被害者の女性に盛ったりするらしい。
眠った上に記憶が飛べば、完全犯罪である。
ちょろいもんだね。
章タイトルは、貴志祐介のデビュー作をもじった。
長編をコンスタントに発表し、どれも読みごたえがあるので本当に凄い作家だと思う。
好きではないが『黒い家』のホラー感は圧倒的に怖かった。人間があんなに怖くなるリアルな小説は他に読んだことがない。
最期なので書くけれど、この文章群は、本当は小説群、あるいは短編集にする予定でいた。
とはいえ、今日の夜思いついたばかりのため、何も用意しないままに書き始めた文章が、こんな長さになるなんて、思ってもいなかった。
乙一先生が書いていた嘘日記『小生物語』みたいになった。
あるいは「あとがき」みたいな。
作家先生の本文以外の気を抜いた文章は、たまに「本文よりおもしろい」と思うことがある。
それは作者と読者の微妙で不思議な距離感のせいかもしれない。
とくに、作品で大真面目な作家があとがきではしゃいでいると、同じ人間だったんだなぁと思うわけである。ギャップもあるし。
小説とは神聖なもので、神が創ったかのような神秘すら感じる芸術品だ。
多かれ少なかれ、そんな憧憬に陥ってしまう。
ここまで読んでくれた読者の皆さんは、そのようなイメージをボクに抱いてくれただろうか。
答えはいい意味でNOであって欲しい。
もちろん「凄いですね」とかちやほやされたい部分もないではない。
だがしかし、この文章群はそうではなくただの「あとがき」的な、本文のないおちゃらけトークみたいなんでいいのである。
最初、この作品集は『恋空』みたいに恋愛モノにしよう、なんて思った。
だけれど書いているうちにまったく別の方向へ突き動かされてしまった。
タイトルの【空バナ】とは、気づいている読者もいるのかな、「空耳」の「鼻」バージョン、つまり「空鼻」がヒントとなり、「バナ=話」という意味付けをした。
空=絵空事(嘘)とイメージしていて、つまり「真っ赤なウソ」とか、そんな意味合いになる。
絵空事ならもっと楽しそうで明るい、元気になれるような内容にするべきだったかもしれない。
でも、なんかいや。それは。
「人に夢を与える商売」とか、なんかきな臭いんすよ。
娯楽だから明るい嘘で騙してあげようなんて、そこまでして騙していったい何がしたかったのかわからなくなるじゃあないか。
ボクは噓が嫌いです。
でも面白い嘘なら許せるじゃないですか。
サプライズとかなら嬉しいじゃないですか。
ボク自身はサプライズで何かしていただいたりもらったりはしたことないんですけれど。
けど、だからこそちょっとだけでいいから面白い文章を書きたいなと思います。
だけれど、お笑い芸人さんのようながっつりいくのは勇気がないし、自信もないので、結果、こんな変な文章になってしまいました。
これが今の自分に書ける文章の限界です。
睡眠薬でマイマイしながらひねり出しています。
それでもなんとか、この文章達が完成できたようで、非常に嬉しく思います。
通して読んでみて、なにか足りなかったら付け足しますが、一旦はここで幕を下ろしたいと思います。
最後の最期に、本当にこの文章が読まれている未来を想像して、感謝の念がこみ上げてきます。
こんな変な人でよかったら、こういった企画、またやりたいと思います。
全部で13章ありますし、内容もてんでバラバラですが、気に入っていただけた章があればこれ幸いです。
本当に最後までありがとうございました!
2014年7月14日 自宅にて
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