
火曜日は朝から雨。
これでもかって、咲いていました。


は宮廷音楽の発展に努め、続くフレデリク3世(1609-1670年)
の時代には、イタリアやフランス音楽の新たな動向を吸収し、ヨーロッパでも有数の宮廷楽団が編成されていました。

リューベック・聖母マリア教会

には、ブクステフーデ、ラインケン、タイレと思われる3人の音楽家の交流が描かれています。
写真は撮れなかったので、実家のマリア・カラス。

これでもかって、咲いていました。
午後から樟葉のピアノKさん宅でフルート角谷雅一さんとクーラウのトリオop119を合わせ練習でした。
14日の聴き合い会と15日のコンサートで演奏します。
クーラウはフルートのベートーヴェンと言われていますが、この曲は仕掛けがいっぱいで油断すると入り損なってしまいます。しかし、それだけにおもしろい!
ドイツやオーストリア生まれではなくヘルシンボリやリューベックで活躍してなければ、それから自宅が燃えて楽譜が焼失してなければもっと音楽史に名を残したかも。
なんて話しをしながら、合わせました。
さてさて後は本番2つだけ、大丈夫か?
ディートリヒ・ブクステフーデ(デンマーク語: Diderik (Diderich) Buxtehude 1637- 1707年)デンマーク ヘルシンボリ?生まれ、神聖ローマ帝国自由ハンザ都市リューベック没

チェロを演奏するブクステフーデ(1674年、ヨハネス・フォールハウト画)
声楽作品は、バロック期ドイツの教会カンタータの形成に貢献し、オルガン音楽は、ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンクに端を発する北ドイツ・オルガン楽派の最大の巨匠。
声楽作品は、バロック期ドイツの教会カンタータの形成に貢献し、オルガン音楽は、ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンクに端を発する北ドイツ・オルガン楽派の最大の巨匠。
その即興的・主情的な作風はスティルス・ファンタスティクス(幻想様式)の典型とされています。
ブクステフーデの出生に関する記録はほとんど残されていません。
1707年7月、『バルト海の新しい読み物(Nova literaria Maris Balthici)』誌に掲載されたブクステフーデの死亡記事は、「彼はデンマークを祖国とし、そこから当地にやってきて、およそ70年の生涯を終えた」と伝えています。
1637年頃に父ヨハネスが活躍していたヘルシンボリで生まれたものと考えられています。
おそらく父からオルガン等の音楽の手解きを受け、ヘルセンゲアのラテン語学校に通ったと考えられます。
1658年、ブクステフーデはかつて父が在職したヘルシンボリの聖マリア教会のオルガニストに就任します。
当時、デンマークとスウェーデンはバルト海の覇権をめぐって激しく争っており、1658年2月のロスキレ条約において、デンマークはヘルシンボリを含むスコーネ地方をスウェーデンに割譲します。
ヘルシンボリは、この間、実際の戦闘に巻き込まれることはありませんでしたが、両国への兵力の拠出と戦争に伴う経済の混乱によって大きく疲弊します。
ブクステフーデの声楽作品には、三十年戦争の戦禍に苦しめられた17世紀ドイツの民衆に特有な心情が少なからず反映されていますが、ブクステフーデ自身もまた青年期にこうした戦争体験を共有しています。
一方、1662年、聖マリア教会のオルガンの修理がされた時に、すでにヘルシンボリを離れていたブクステフーデに鑑定が依頼されました。
これは当時すでにブクステフーデがオルガンの専門家として認められていたことを示しています。
1660年、ブクステフーデはクラウス・デンゲルの後任として、ヘルセンゲアの聖マリア教会のオルガニストに就任します。
ヘルセンゲアは、ズント海峡という交通の要衝に位置し、古くから経済的にも文化的にも栄えた町です。
コペンハーゲンはここから真南に約45キロメートルと近く、ブクステフーデも1666年2月12日にコペンハーゲンを訪問しています。
デンマーク王クリスチャン4世(1577-1648年)

は宮廷音楽の発展に努め、続くフレデリク3世(1609-1670年)

の時代には、イタリアやフランス音楽の新たな動向を吸収し、ヨーロッパでも有数の宮廷楽団が編成されていました。
ブクステフーデの声楽作品における直截的な感情表現には、フェルスターの影響が認められます。
1667年11月5日、リューベックの聖母マリア教会のオルガニストであるフランツ・トゥンダーが死去し、1668年4月11日、ブクステフーデがその後任に選出されます。
3段鍵盤、54ストップを備える聖母マリア教会の大オルガンは銘器の誉れ高く、同教会のオルガニストは北ドイツの音楽家にとって最も重要な地位の1つとされていました。

リューベック・聖母マリア教会
1668年7月23日にはリューベックの市民権を得て、同年8月3日、トゥンダーの娘アンナ・マルガレーテと結婚します。この婚姻が就職の条件であったかどうかは不明ですが、当時としては珍しいものではありませんでした。
リューベックは、ハンザ同盟の盟主として隆盛を極めた都市で、1226年に神聖ローマ帝国直属の自由都市となり、商人による自治が営まれていました。
ブクステフーデが在職した聖母マリア教会は商人教会であり、商人にとって礼拝の場であるとともに、会議を開催したり、重要書類を作成・保管する機関としても重要な役割を担っていました。
ブクステフーデは、オルガニストと同時に、教会の書記・財務管理を責務とするヴェルクマイスター(Werkmeister)に任命されます。
一方、17世紀後半は、衰退しつつあったハンザ同盟が終焉を迎えた時でもあり、1669年のハンザ会議には9都市のみが参加し、事実上、最後の総会となります。
リューベックの経済的不振はブクステフーデの音楽活動にも影響を及ぼし、ブクステフーデの俸給は生涯を通じてトゥンダー時代のままに据え置かれました。
また、聖母マリア教会のオルガンは故障が多く、ブクステフーデは繰り返し当局に修理を要求したにもかかわらず、十分な修理は行われませんでした。
聖母マリア教会のオルガニストとしての職務は、毎朝の主要礼拝と日曜日など祝日の午後とその前日の夕方の礼拝時に、会衆によるコラールや聖歌隊の演奏を先導し、聖餐式の前後に音楽を演奏する程度でした。
ブクステフーデが音楽家としての手腕を発揮したのは、むしろ前任のトゥンダー時代に始まったアーベントムジーク(夕べの音楽、Abendmusik)においてです。
ブクステフーデはこの演奏会の規模を拡大し、合唱や管弦楽を含む大編成の作品を上演しました。
アーベントムジークは入場無料ということもあって高い人気を博し、ブクステフーデの名声はリューベックを超えて広まります。
アーベントムジークの経済的負担は決して軽いものではありませんでしたが、市の有力者の理解と支援を得ることができました。
彼は約40年にわたって聖母マリア教会の職務を全うしました。
ブクステフーデは、ヨハン・アダム・ラインケン、ヨハン・タイレ、クリストフ・ベルンハルト、マティアス・ヴェックマン、ヨハン・パッヘルベル等、当時のドイツの主要な音楽家と関係をもっていました。
ヨハネス・フォールハウトの『家庭音楽のひとこま(Hausliche Musikszene)』(1674年)

には、ブクステフーデ、ラインケン、タイレと思われる3人の音楽家の交流が描かれています。
ブクステフーデが晩年に作曲した2曲のアーベントムジークは、その規模の大きさにおいて際立っています。
1705年の神聖ローマ皇帝レオポルト1世の死を悼んだ作品や、新皇帝ヨーゼフ1世の即位を祝うこれらの作品は今日消失しています。
ブクステフーデは、これと前後して、後継者捜しに苦心するようになります。
1703年8月17日には、ヨハン・マッテゾンとゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルをハンブルクから迎えますが、2人は30歳に近いブクステフーデの娘との結婚が後任の条件であることを知ると、興味を失って帰ってしまいます。
また、1705年11月にアルンシュタットから訪問したヨハン・ゼバスティアン・バッハも、情熱的なブクステフーデのオルガン演奏に強く魅了され、無断で休暇を延長してリューベックに滞在しましたが、ついに任地として選ぶことはありませんでした。
結局、ブクステフーデは弟子のヨハン・クリスティアン・シーファーデッカーを後任に推挙し、当局に受け容れられます。
1707年5月9日、ブクステフーデは死去し、5月16日に聖母マリア教会で父ヨハネスと早逝した4人の娘の傍らに埋葬されます。
「まこと気高く、大いなる誉れに満ち、世にあまねく知られた」(ヨハン・カスパル・ウーリヒによる追悼詩)
ブクステフーデのトリオソナタ
Trio sonata in la minore, op. 1 n. 3 - BuxWV 254
1694年、リューベック市長・市参事会員に献呈されました。
以前、北欧4か国(デンマーク、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー)ツアーというのを行ってみようかな、と考えたことはありましたが、結局、他に行ってしまいました。
北欧ツアー、魅力ありますね。
残念でしたね。…私も行ったことないけれど😉