
水曜日は急に温度が上がりました。
ちょっと涼しげでいいでしょ?

父方の祖父アントン・ゼムリンスキ はバルカン半島系ユダヤ人で、ハンガリーからオーストリアに移住し、おなじくユダヤ系オーストリア人の女性と結婚しました。

にも入学しました。アントン・ドーアに師事し、1890年にピアノ科で表彰されます。その後まもなくロベルト・フックスに作曲を師事し、作品を書き始めました。

ヨハネス ブラームス(1833-1897)


アルノルド・シェーンベルク、ゲルトルード・シェーンベルク(娘)、アレクサンダー・ツェムリンスキー(1906年)。© アルノルド・シェーンベルク・センター – ウィーン



と結婚しました。

1898年ウィーン・フォルクスオーパー開館当初の木版画

の指揮者に転身し、1924年にシェーンベルクの1幕オペラ『期待』を初演しました。

ここら辺りは26度でした。
夫が飼っているカワムツの鉢。

ちょっと涼しげでいいでしょ?
アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー(Alexander von Zemlinsky、1871- 1942年)
オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン生まれ、アメリカ合衆国ラーチモント没

父方の祖父アントン・ゼムリンスキ はバルカン半島系ユダヤ人で、ハンガリーからオーストリアに移住し、おなじくユダヤ系オーストリア人の女性と結婚しました。
ローマ・カトリック信者でだったためツェムリンスキーの父アドルフは、カトリック教徒として洗礼を受けています。
ツェムリンスキーの母クララ・セモ はサラエヴォ(現・ボスニア・ヘルツェゴビナ)出身で、セファルディ系ユダヤ人の父親と、ボスニア出身のムスリムの母親との混血でした。
ツェムリンスキーは、両親がユダヤ教に改宗したため、ユダヤ人として養育されました。
少年時代からピアノを始めて、休日にはシナゴーグでオルガンを弾くようになり、1884年にはウィーン音楽院

にも入学しました。アントン・ドーアに師事し、1890年にピアノ科で表彰されます。その後まもなくロベルト・フックスに作曲を師事し、作品を書き始めました。
『クラリネット三重奏曲 ニ短調』作品3(1896年)を出版するようジムロック社に推薦してくれたのはブラームスでした。

ヨハネス ブラームス(1833-1897)
1895年にツェムリンスキーが結成したアマチュア・オーケストラ「ポリュヒュムニア」 (Polyhymnia) において、チェリストとして入団したアルノルト シェーンベルク(1874-1951年)

シェーンベルク(1906年)リヒャルト・ゲルストル作
と出会います。2人は親しい友人となっただけでなく、後にシェーンベルクがツェムリンスキーの妹マティルデと結婚したことから、義理の兄弟となりました。
と出会います。2人は親しい友人となっただけでなく、後にシェーンベルクがツェムリンスキーの妹マティルデと結婚したことから、義理の兄弟となりました。

アルノルド・シェーンベルク、ゲルトルード・シェーンベルク(娘)、アレクサンダー・ツェムリンスキー(1906年)。© アルノルド・シェーンベルク・センター – ウィーン
ツェムリンスキーはシェーンベルクに対位法の指導を行なっています。ツェムリンスキーの門弟はほかに、アルマ・マーラーやカール・ヴァイグル、エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトらがいます。
1897年に変ロ調の交響曲がウィーンで初演され、成功を収めました。
1899年にはウィーン・カール劇場の楽長に就任。1900年にグスタフ・マーラー(1860-1911年)

1892年マーラー
がウィーン宮廷歌劇場にてオペラ『昔あるとき』 (Es war einmal...) の初演を指揮すると、名声はさらに高まりました。
がウィーン宮廷歌劇場にてオペラ『昔あるとき』 (Es war einmal...) の初演を指揮すると、名声はさらに高まりました。
アルマ・シントラー(1879-1964年)

1809年
と出逢って作曲の指導をするうち、ツェムリンスキーは恋に落ちます。
と出逢って作曲の指導をするうち、ツェムリンスキーは恋に落ちます。
当初アルマはツェムリンスキーと互いに感情を分かち合っていました。だが、友人や肉親から、その関係を打ち切るように強い圧力を受けてもいました。ツェムリンスキーは、国際的な知名度がないことや、容姿の醜さばかりが目に付いたからでした。アルマ自身も、ツェムリンスキーが不細工だと思うと口走っています。
この言葉は、終生にわたってツェムリンスキーに影響を及ぼしたと言われています。
結局アルマ・シントラーはツェムリンスキーと別れ、ほどなく1902年にマーラーと結婚することになります。
ツェムリンスキー本人は、1907年にイーダ・グットマン (Ida Guttmann) と結婚したが、幸せな結婚生活ではありませんでした。
1929年にイーダ夫人が他界すると、29歳年下のルイーゼ・ザクセル (Luise Sachsel)

と結婚しました。
2度目の結婚生活は前より幸福で、ツェムリンスキーの死まで続きました。
1906年にツェムリンスキーは、新設されたウィーン・フォルクスオーパーの初代首席指揮者に任命されます。

1898年ウィーン・フォルクスオーパー開館当初の木版画
1911年から1927年まで、プラハの新ドイツ劇場(プラハ国立歌劇場の前身)

の指揮者に転身し、1924年にシェーンベルクの1幕オペラ『期待』を初演しました。
その後ベルリンに移り、教鞭を執るかたわら、オットー・クレンペラーが監督を務めていたクロル歌劇場で指揮者を務めました。

ナチス・ドイツが擡頭するのに伴い、1933年にウィーンへ逃れますが、公職に就かず作曲に専念し、たまに客演指揮者として出演することもありました。
1938年にアメリカ合衆国へ亡命し、ニューヨークに定住します。
シェーンベルクがロサンジェルスで名士として持てはやされ、支持を得たのに対して、ツェムリンスキーは見知らぬ土地で無視され、無名も同然でした。
英語が分からず、病気がちで一連の脳卒中に悩まされ、このため作曲をほとんど続けられませんでした。
1942年にニューヨーク州ウエストチェスター郡ラーチモントにおいて、肺炎のために逝去しました。
ツェムリンスキーの遺灰は、1985年になってウィーン中央墓地に埋葬されました。
大管弦楽のための幻想曲『人魚姫』(Die Seejungfrau)は
アンデルセンのおとぎ話『人魚姫』を基に1902年から1903年にかけて作曲した3楽章からなる交響詩です。
1901年4月にアルマ・シントラーと恋仲になっていました。が、その後1902年3月に結婚することとなるグスタフ・マーラーと出逢い、ツェムリンスキーとの関係を終わらせてしまいます。
交響詩『人魚姫』は、 部分的に、ツェムリンスキーがその結果感じ取った痛手や失意を表出したものです。
作曲は1902年2月に着手され、管弦楽法は1903年3月に完了させています。
初演は1905年1月25日にウィーン楽友協会において、作曲者手ずから指揮するウィーン演奏協会管弦楽団によって行われました。
この時シェーンベルクの交響詩『ペレアスとメリザンド』も初演されています。評論家の反応は概ね好意的でした。
その後は1906年12月にベルリンにおいてヴァルター・マイロヴィッツの指揮によって、1907年11月にはプラハにおいてアルトゥル・ボダンツキーの指揮によって上演されました。
プラハ公演から暫くしてツェムリンスキーは作品を撤回しました。「死の交響曲」として改作する意向であったともいわれていますが、やがて第1楽章の譜面を知人のマリー・パッペンハイムにプレゼントとして与えてしまいます。
ツェムリンスキーは第2楽章と第3楽章を1938年にオーストリアから出国後にニューヨークまで携えて行き、これらはやがてその他のツェムリンスキーの手稿とともに、ワシントンD.C.の米国議会図書館に収蔵されました。
作曲者の死後から長い間、『人魚姫』の総譜は紛失したか破棄されたものと見られていました。
第2楽章と第3楽章をツェムリンスキーの未亡人ルイーズは、変ホ長調交響曲の生き残りの断章であると思い込んでいました。
1980年代初頭に「人魚姫」であると検証されました。
『人魚姫』の最初の復活演奏は、1984年にペーター・ギュルケの指揮するオーストリア・ユーゲント・フィルハーモニーによって行われました。
以来、「人魚姫」はツェムリンスキーの最も頻繁に演奏される楽曲の一つとなり、いくつかの録音も登場しました。
2013年には、音楽学者のアントニー・ボーモントによる学術校訂版が出版されました 。
これは、ツェムリンスキーが初演に先んじて第2楽章から削除した、人魚姫が海の魔女を訪れる場面を描いた88小節ぶんのパッセージを収録したものでした。
交響詩「人魚姫」
第1楽章 - 非常に重々しく (Sehr mäßig bewegt)
暗い海底の描写で音楽は始まり、やがてヴァイオリンのソロで人魚姫の主題が現れます。
人魚から見た人間界の楽しげな様子、激しい海の嵐、船の難破と王子との出会いが描かれます。
第2楽章 - 非常に大きく動いて、ざわめくように (Sehr bewegt, rauschend)
海の魔女の家を訪れる人魚姫の様子と、人間となった後の王子の館での苦しみ、王子の結婚式。
第3楽章 - 非常に壮大に、苦悩に満ちた表現で (Sehr gedehnt, mit schmerzvollem Ausdruck)
その後の人魚姫の姉妹達との対話や人魚姫の自殺、天国への救済。
物語の描写や標題性よりも交響曲のような純音楽的な展開が重視されています。
私、ウィーンに行った時、1月1日にフォルクスオーパーで"こうもり"を見ました。ここで見て以来、オペラを見るようになりました。10年ちょっと前です。
1月1日にフォルクスオーパーでこうもり!
楽しそうですね~!
もうずっと前からお好きなのだと思っていました。