宮城道雄作曲の「防人の歌」は昭和13年(1938年)44歳の時に作曲されました。
宮城道雄というと、春の海ばかりが取り上げられますが、14歳で「水の変態」を作曲。この曲もすごいですが、その後、たくさんの名曲を残しています。
箏曲=古典というイメージが強いですが、宮城は西欧音楽を取り入れ、オーケストレーション、西洋楽器と筝との曲を残しています。春の海ももともとはヴァイオリンとお筝のために作曲されています。
地歌のような歌い方ではなく、西洋声楽との曲、フルートとの曲。
また雅楽のドラや、笙など地歌では入れないような楽器を試し、それだけにとどまらず、胡弓を改良したり、他にも17弦や、八十弦など新しい楽器も何種類か作っています。
「防人の歌」は、
尺八、筝独奏、第一筝、第ニ筝、17弦、打物 3声の合唱による大編成の箏曲合奏曲です。
万葉集の中の、防人の歌といわれる句を8句を取り上げ、曲をつけています。
664年、中大兄皇子によって制定された防人は、前年に白村江で敗れたために、九州を新羅から守るために置かれた制度で、主に東北の貧しい人たちを3年間の九州の守りにつかせたものです。
3年と言っても、守られるかどうかわからず、お金持ちなら馬や船で行けたそうですが、大半は歩いて任地まで行かなくてはならず、帰路は旅費が出ないため、帰れなかったり、途中でなくなったりした場合も多くあったそうです。
今日よりは返り見なくて大君の醜の御楯と出で立つ我れは(今奉部与曽布)
今日から、わたしは自分の身も家も省みず、大君の楯となって出征するのだ
今年行く 新防人が 麻衣 肩のまよひは 誰れか取り見む
今年派遣されるまだ若い新防人。彼の麻布の衣の肩のほつれは、これから誰が繕ってやるのか
葦垣の 隈とに立ちて わぎもこ(我妹子)が 袖もしほほに 泣きしぞ思はゆ(あづま歌)
葦を結った垣の 隅っこに立って ひっそりと 送ってくれたわが妻。袖も絞るばかりに 泣き濡れていたあの姿が 心を去らぬない。
唐衣裾に取り付き泣く子らを置きてぞ来のや母なしにして(他田舎人大嶋)
衣の裾(すそ)に取(と)り付いて泣く子供たちを置いてきました。母もいないのに。
松の木の並みたる見れば家人の我れを見送ると立たりしもころ(物部真嶋)
松の木がたくさん並んでいるのを見ると、家族が私を見送るというので、さながら松の木のように立ち尽くしていたことを思い出すよ。
庭中の あすは(阿須波)の神に 小柴さし 我はいははむ 帰り来までに
庭の中にあるあすは(阿須波)の神に 小柴を捧げ 祈り続けよう、わが子が 無事に帰り来るまで、祈り続ける ただひたすらに
大君の命畏み磯に触り海原渡る父母を置きて(丈部人麻呂)
大君(天皇のこと)の命令に従い、磯づたいに海原を渡ります。父母を(故郷に)残したまま。
もも隈の 道は来にしを またさらに やそ島過ぎて 別れかゆかむ(あづま歌)
何度もなんども 道を曲がって 長の道のりを ここ難波津まで 遙々ときたものを この上さらに 舟に揺られて故郷から 遠のいて行かねばならぬのか。舟に揺られて 故郷からさらに離れ
いつの世にも、中央政府から離れた東北の人や、南の端の人が国のひずみを背負って苦労を強いられる理不尽さは変わらないようです。
当時は満州事変の翌年、宮城は作曲を場を得るために、戦意高揚の曲を書いたこともあったようですが、この選句に人らしい心を忍ばせたと思うのですが、いかがでしょう?