
月曜日の夕方6:00から渡邉橋近くのサロン ド プリンシパルでフルートアンサンブルの練習でした。


1832年



は大成功でした。


(Méthode de Flûte Théorique et Pratique, 1793年)を上梓します。

本来の「エスカル」の練習は6:30からですが、ライヒャのフルート四重奏シンフォニコ
とクーラウのフルートトリオop119をメンバーで聴き合い会でするので合わせ練習のために少し早めに来ました。
この日は大邱市との交流会の練習があるので終わってからも「アルルの女」第二組曲の練習があるので大忙し。
まずシンフォニコ

1815年
をやってみましたが、ツワモノばかりなので大丈夫。ただしpdfでだした版が違っていて、2カッコが2nd3rdはあるのに1st4thは無いと言うアクシデント。
をやってみましたが、ツワモノばかりなので大丈夫。ただしpdfでだした版が違っていて、2カッコが2nd3rdはあるのに1st4thは無いと言うアクシデント。
しかし、なんとか解決。

1832年
クーラウは途中で時間になりましたが、休憩でなんとか最後まで吹けました。
そして「エスカル」の練習は今回から11月定期演奏会の新曲。
ドボルザークの「セレナーデ」の第2楽章
ドゥビエンヌの「フルート協奏曲」第7番Emoll
榎田先生がソロを吹かれます。
セレナーデは今回は初見なので
ゆっくり練習しました。が、日本人が苦手な三拍子、ワルツ!
空中分解の危機が…先生「本当はもっと速いんだけど、今日のところはゆっくり三拍振りで」と言っていらしたのに2回目にはもう一拍振りでした。びっくり!けどやっぱりね。
さて、トゥヴィエンヌはロマン派のフルートの巨匠ですが、ヴィルトゥオーゾ。
ソロもすごいですが…伴奏の方も結構動きます。
「これは調子よく早く始めると後大変なことになるから気を付けてくださいよ。」確かに簡単なところで速くなり、大変なところでゆっくりなり、先生に、「速い!」「遅い!」と注意されまくりでした。
終わった頃に大邱市交流会に出演される人も混じって「アルルの女」、前にやったはずなのにいろいろ危ないところが…。8月19日まで頑張りましょう。
フランソワ・ドヴィエンヌ(François Devienne, 1759- 1803年)フランス王国オート=マルヌ県ジョワンヴィル生まれ、フランス共和国シャラントン没

は、18世紀フランスの作曲家・木管楽器奏者。パリ音楽院のフルート教授を務めました。
ドゥヴィエンヌは鞍職人の家庭に生まれました。14児の末子でした。
地元で聖歌隊員として最初の音楽教育を受けます。
1780年にフルートをフェリックス・ロー(Félix Rault)に師事し、ド・ロアン枢機卿

ルイ=ルネ=エドゥアール・ド・ロアン(Louis René Édouard de Rohan, 1734- 1803年)
の執事に加わります。
様々なパリのアンサンブルでソリストや楽団員として演奏活動を始め、フルートやファゴットを演奏、ファゴット奏者としてパリ・オペラ座にも加わっています。
1789年頃に結婚し、5人の子供をもうけます。
作曲家として1790年代にいくつかのオペラで成功し、とりわけ『レ・ヴィジタンディーヌ』(訪問客)(Les visitandines, 1792年)
1790年代のフランスで最も人気を博したオペラの一つです。『訪問客』は、19世紀前半の3分の1にわたって上演されました。宗教団体を軽蔑的に描いたその主題は、革命期に絶大な人気を博した理由の一つでした。
もう一つの魅力は、シンプルな旋律と緻密な技巧を凝らしたアリアで、そのうち4曲は革命期の数多くの愛国歌のメロディーとして使われました。

は大成功でした。
ドヴィエンヌはフランス防衛軍軍楽隊の、軍曹の階級を持つ隊員で、無料音楽学校で軍楽隊の同僚の子女に指導する義務を負わされていました。
フランス革命( Révolution française [ʁevɔlysjɔ̃ fʁɑ̃sɛːz])は、1789年の三部会(聖職者、貴族、庶民を代表する)に始まり、1799年11月9日のブリュメール18日のクーデターで終わった)

バスティーユ襲撃
の時期に無料音楽学校が国立音楽学校となり、1795年にパリ音楽院に改組されると、ドヴィエンヌは学校管理者とフルートの教授に任命されます。
の時期に無料音楽学校が国立音楽学校となり、1795年にパリ音楽院に改組されると、ドヴィエンヌは学校管理者とフルートの教授に任命されます。
重要なフルート教則本『フルート演奏の理論と実践』

(Méthode de Flûte Théorique et Pratique, 1793年)を上梓します。
これは何度も版を重ね、18世紀後半におけるフランス吹奏楽の向上に大きく貢献しました。
他の多くの音楽家と同様、ドヴィエンヌもフリーメイソン入会者で、(会員の多いオーケストラ)コンセール・ドゥ・ラ・ロージュ・オランピック(Concerts de la Loge Olympique 1780年代に設立された楽団)の団員でした。
精神を病み、1803年にパリ近郊シャラントンの療養所で亡くなりました。
約300曲に上る器楽曲は、ほとんどが管楽器のために作曲されています。
10曲ほどのフルート協奏曲と4曲のファゴット協奏曲、吹奏楽のための交響曲、様々な楽器のための三重奏曲や四重奏曲を残しています。
オペラは12曲あり優雅な旋律様式から、当時は「フランスのモーツァルト」と呼ばれていました。

フルート協奏曲第7番Emoll
1787年imbault出版
1.Allegr
2.Adagio
3.Rondo. Allegretto poco Moderato.
お疲れ様です〜
おやすみなさい‼️🐕🐱🐼