音楽の喜び フルートとともに

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文化の衝突から生まれた狂乱の時代

2025-03-28 20:59:00 | 近代
木曜日は高校のクラブの時の同窓会でした。(漫研)
なぜか他校の人もいます。
高校生の時からこの7人でした。

同期7人が揃って、寺田町駅近くのSさん宅に集まりました。

今回のお話しの中心は
奈良のとあるコンビニで仕事しているMさんでした。

インバンウンド客が多くてたいへんだという話しをしてくれました。

なんでも「レンジで温めて。」という人がいて、お弁当やおにぎり、かつサンドまではレンジ。

わかるけれど、フルーツサンドを温めてくれというのには「まいった!」そうです。

ある時、新人くんの所に、プラパック入りのサンドイッチを温めてくれというので何も考えずにその新人くん、温めてしまいました。

サンドイッチがブラごと潰されてぺったんこに…。
「これ食べられますか?」と聞いて来たので新人くん「食べられると思います。」と返したそうです。

Sさん、その時に気づいたそうですが、自分のレジが忙しくて『見てない、見てない。』とスルーしたそうです。

極め付きはアイスクリームを温めてくれというもの。
「No!」「No!」
と身振りで断るけれどなかなか納得されなくてたいへんだったです。

それとか、なんでも「TAX Free」にしてくださいという人。

その場で食べるものにはできないと言うのを伝えるのも「No!」と身振りで乗り切るそうです。

女子高生の時からヴァイタリティのある人でしたが、まだまだ枯れたりせずにバリバリでした。

他にもピアノを初めた人、眼科助手で頑張っている人、野菜を作っている人、同窓生もいろいろでした。

持ち寄りの昼食会でいつまでもしゃべっていられます。
おしゃべりをしていると楽しくて、あっという間に6時間位経っていました。

次は7月位に会うと思います。

ジョージ・ガーシュウィンGeorge Gershwin
(1893-1937年)アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン生まれ、カリフォルニア州ロサンゼルス没

東欧系ユダヤ人の移民の子として生まれました。
父親はロシア、母親はベラルーシからの移民です。

交響曲『パリのアメリカ人』
ニューヨーク・フィルの委嘱を受けて1928年に発表されました。

1920年代にガーシュウィンがパリで過ごした「狂乱の時代」を表現しています。


ポーランド パビリオン、国際装飾芸術および近代産業博覧会、パリ 1925
アネ・フォール(Années Folles 」「狂乱の時代」)は、1920年代のフランスにおける10年間のことです。

第1次世界大戦の後、抑制されない個人主義が広がります。
文学、音楽、絵画におけるダダイズムなどあらゆる分野から新しい芸術が生まれました。

パリ万博1725年
特にパリのナイトライフはアメリカ文化の影響を強く受けていました。

ジャズと呼ばれるラグタイムで、パリで非常に人気がありました。
アメリカ軍のバンドがパリにラグタイムを持込み、人気を博していました。

1926年、アフリカ系アメリカ人の国外在住歌手、ダンサー、エンターテイナーのジョセフィーヌ ベイカー(1906-1975年)

は、新しいレビュー「ラ・フォリー・デュ・ジュール」(パリにあるキャバレー・ミュージックホール)で、人工バナナの紐で作ったスカート以外はすべて露出した衣装を着て踊りました。


バナナの腰巻きだけを身につけたベイカーは、チャールストンのテンポで「野蛮なダンス」を挑発的に披露しました。

ジョゼフィーヌ・ベイカー、アネ・フォールの象徴的な人物
ベイカーはパートナーのジョー・アレックスとほとんど裸でこの曲を演じました。

ベイカーのダンスをめぐって勃発したスキャンダルは熱狂に変わり、パリジャンたちの間でジャズと黒人音楽への熱狂が急速に高まりました。

アネ・フォールは1929年株式の大暴落によって終わりました。

ガーシュインはこの交響曲の初演にあたり、パリのタクシー用のクラクションを4台アメリカ合衆国に持ち帰りました。

現在のタクシーホーン、ガーシュイン用に調律されて売られています。a、as1、b1、d2 但しガーシュインが意図してこの音程を用いていなかった可能性があります。
初演は1928年12月13日、カーネギーホール

においてウォルター・ダムロッシュ(1862-1950年)指揮

ニューヨーク・フィルの演奏により行われました。

初稿と改訂稿(フランク・キャンベル=ワトソンによる改訂版)があり、こんにち頻繁に演奏されるのは後者です。

レナード バーンスタイン指揮
ニューヨークフィルによる
ガーシュイン作曲 交響曲パリのアメリカ人 打楽器奏者が4つのクラクションを鳴らしています。


ガーデニングムーブメントとモーツァルト

2025-03-27 20:51:00 | 古典
木曜日午後、阪南ギターくらぶのギター北山浩二さんとバッハのフルートソナタBWV1035をうちで合わせる予定でしたが、体調を崩されて来られませんでした。

これに出演しますが、結局1回も合わせられませんでした。
ぜんそくがでたとか…。 
心配です。

みなさんもお身体お大事になさって下さいね。

同じ大阪府内ですが、阪南と枚方は離れていて遠いです。
電車で2時間位かかります。
名古屋行ったほうが早い。

当日主催の方が合わせるための部屋を取ってくれたので、なんとかなるでしょう。

黄梅



木瓜の花

金のなる木

急に空いたので庭仕事しました。
お天気がいいので日焼け止め塗ってやりました。

冬の間放っておいた、生え放題の雑草を抜きました。
写真はうちではなく、実家のお花。
うちでは、寒くて植えて無かったのでパンジーくらいしか咲いてなかった。
残念。

キュー・ガーデンズ (Kew Gardens) は、ロンドン南西部のキューにある王立植物園です。

バーム・ハウス
キュー植物園などとも呼ばれる。1759年に宮殿併設の庭園として始まり、今では世界で最も有名な植物園として膨大な資料を有しています。
2003年世界遺産に認定されています。

キュー・ガーデンズの歴史はテュークスベリーのケープル卿が熱帯植物を集めた庭を作ったことに始まります。

その後この庭はジョージ2世の長男フレデリック皇太子の未亡人であるオーガスタ妃(1719-1772年)

によって拡張され、ウィリアム・チェンバーズ(1773-1796年)

の設計による建築物が何棟か建てられました。

そのうちの1つである1761年建造のグレート・パゴダ

は今日も残されています。

ジョージ3世(1738-1820年)

はウィリアム・エイトン(1731-1793年)

やジョゼフ・バンクス(1743-1820年)

に命じてさらに庭園の植物を豊かなものにさせました。

旧キュー・パークは1802年に廃止され、1781年にジョージ3世は隣接するダッチ・ハウスを買い上げて、王室の子供達を育てる施設としました。

ダッチハウス
この建物は現在キュー宮殿として残されています。

1840年に庭園は国立の植物園と改組された。ウィリアム・ジャクソン・フッカーの指揮のもとで植物園は30ヘクタールにまで拡張され、さらに後の改修で現在の120ヘクタールの敷地が完成しました。
勅使門

■キューの勅使門(天皇のお言葉を伝える使者だけが出入りする門)は、京都の西本願寺唐門を5分の4に縮小して複製したもので、1910年にロンドンで開催された日英博覧会に出展されたものです。

博覧会終了後解体され、キュー植物園に移築されました。周りを日本庭園に囲まれ、今ではキュー植物園の人気スポットの一つになっています。

■日本庭園

勅使門を中心とした面積約5,000㎡の庭園。庭園は3つの空間で構成され、全体構成は回遊式の枯山水庭園となっています。

「静寂の庭」茶庭の露地を思い出させる落ち着いた穏やかな雰囲気。

「躍動の庭」枯山水により滝、山、海洋等の雄大な自然風景を表現。

「調和の庭」上記の静と動を結びつける役割を担っている。

また、植物園には、1980年(昭和55年)に公益財団法人日本花の会から贈られた松前系の八重桜53本が植樹されています。

また1993年(平成5年)には、多くの松前系の八重桜を生み出した浅利政俊

から58品種の桜がウィンザー大公園と共に贈られて植樹され、このうち56品種が活着しています。

そしてキューガーデンやウィンザー大公園が起点となって、これらの桜がイギリス各地に広まっています。

これらの品種のうちベニユタカ(紅豊



やリュウウンインベニヤエザクラ(龍雲院紅八重桜)

など19品種は王立園芸協会のガーデン・メリット賞に選ばれています。

1764年、春。モーツァルト一家はザルツブルグを離れロンドンへと旅立ちました。

4月23日、8歳のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは父レオポルト、母アンナ・マリア、姉マリア・アンナ(ナンネル)と共にドーヴァー海峡を越えた後、馬車でロンドンに到着しました。

父レオポルドはザルツブルグ宮廷楽団の一員として活躍していましたが、ヴォルフガングのマネージャーとなりウィーン、パリ、ロンドンへ演奏に連れて行っていたのです。

ロンドンへの訪問もモーツァルト兄妹を音楽の神童として公演や私的なパトロンに紹介するという野心的なヨーロッパツアーの一環でした。

モーツァルト一家のロンドンの滞在はトータル15ヶ月に及ぶ長期間でした。

複数の演奏会を行い、大きな成功を収めました。

特に、6月5日にセントジェームスパークのスプリングガーデンズ

で開催された音楽会で、彼らは3時間で100ギニーもの収入を得ました。

6月29日にはロンドンの西側チェルシーのラニラ・ガーデンズのホール

「ラニラ庭園は決して大きなものではないが芸術的に作られている。毎週月、水、金曜に照明が灯される。ここにびっくりするほど大きな一階建ての円形ホールがあり、その中は数えきれないほどたくさんの吊りさげ灯、ランプ、壁かけ灯などで照らされている。一方の側で音楽が階段状にならんだ席から演奏され、最上部にオルガンがある。7時から10時まで3時間音楽は続く。それから1時間かしばしばそれ以上、つまり11時から12時まで、ヴァルトホルン、クラリネット、ファゴットなどの四重奏が行われる。」(人間と音楽の歴史・音楽之友社)レオボルドの手紙より
でも音楽会があり、自作の曲をオルガンやハープシコードで演奏しました。

その後も多くの演奏会を開き、ロンドンで名声を不動のものにし、たくさんのファンを惹きつけることになりました。

1765年の7月には、大英博物館

を訪問した一家は、ヴォルフガングが父の助けを借りて作曲した最初の宗教音楽作品であり、唯一の英語テキストの作品「神は我らの避難所」のコピーや、パリで出版された2組の鍵盤ソナタのコピーを共に預けました。

大英図書館

にとってモーツァルトは図書館に原稿を提供した最初の作曲家となりました。

モーツァルトはバッキンガム宮殿

に1764年の4月と5月の二度訪問し、1760年に即位した国王ジョージ三世(1728-1820)に拝謁しています。

そこではクリスティアン・バッハ(1735-1782年当時29歳)

が王妃シャーロット(1744-1818年)

の音楽教師をつとめていました。

モーツァルトは神童ぶりを発揮して一堂を驚愕させつつ、クリスティアン・バッハの作品を貪欲に吸収していきました。

ロンドンで作曲されたものに「ヴァイオリンまたはフルート(およびチェロ)の伴奏で演奏できるクラヴサンのための6つのソナタ」があります。

作曲の目的は(当時20歳の)英王妃シャーロット(Charlotte Sophie, 1744-1818)に献呈されています。

1765年1月に「作品3」として出版されました。
 変ロ長調 K.10、
 ト長調 K.11、
 イ長調 K.12、
 ヘ長調 K.13、   
 ハ長調 K.14、
 変ロ長調 K.15
は「ロンドン・ソナタ」と呼ばれています。

K.10ロンドンソナタ第1楽章



木に巻きつけてつくるケーキ

2025-03-26 22:29:00 | ルネッサンス
近所の木蓮が咲いています。
本当に暖かくなりました。
私がコンサートにでている間に、先月の雪の日にぶつけた車を売り払って、
新しい車が来ました。

しかも、私がいない間に夫と次男、母も乗せて滋賀方面にドライブ。

どここれ?

ラ・コリーナ

ここで作りたての

バウムクーヘンを食べてきたらしい。
私、行ったことない。
仕方ないけど…ちょっとうらやましい。

お土産買ってきてくれました。
やっぱりバウムクーヘン。

バウムクーヘン(Baumkuchen)、
バウム 木
クーヘン ケーキ

は、中心に穴があり断面に樹木の年輪のような同心円状の模様が浮き出たドイツのケーキです。

ドイツのバウムクーヘン

原型は紀元前のギリシアまでさかのぼり、木の棒にパン生地を巻きつけて焼いたオベリアスというものであると考えられています。

中世ポーランド=リトアニア連合伝統のシャコティス
14世紀、ポーランド王国とリトアニア大公国の間で交わされた条約(クレヴォの合同)

1385年8月14日にクレヴァ(Kreva)で調印された文書
によりズーキヤ地方出身(ヴィリニュス出身)のヨガイラ(ポーランド王としてはヴワディスワフ2世ヤギェウォ)(1348-1434年)

がポーランド王国の共同君主となるためポーランド女王ヤドヴィガ(1374-1399年)

のもとに婿入りした時、その披露宴で出身地の郷土菓子として振舞われ、それがきっかけでポーランド・リトアニア同君連合
の全ての地方に広く知られるようになったと言われています。

この時、この菓子を作った職人はその褒美としてもらった指輪で恋人に求婚してその心を射止めた為、特に結婚式では欠かせない菓子となっています。

これを基にした説、あるいは「ガトー・ア・ラ・ブロッシュGateau a la broche」(フランス語で「串に付いたお菓子」という意味)

を基にした説が存在しており、ドイツのザクセン=アンハルト州で元祖をめぐる争いがありました。
1920年に両店は同一人物に買い取られています。

ドイツ東部地域、とくにドレスデン、コトブス、ザルツヴェーデルはいずれもドイツのバウムクーヘンの本場で、ザルツウェーデル式バウムクーヘンは2010年にEUの原産地名称保護認証を受けました。

日本では第一次世界大戦の捕虜として来日したドイツ人の菓子職人カール・ユーハイム(1865-1945年)

によって持ち込まれ、1919年(大正8年)3月4日に広島物産陳列館
(後の原爆ドーム)

で開催されたドイツ作品展示即売会において販売されたのが最初だそうです。

このことを記念して、毎年3月4日は「バウムクーヘンの日」と決められているます。

カールは第一次大戦後日本で菓子店を開き、当時はピラミッドケーキという名前で販売されていました。
それが1960年代からバウムクーヘンの名で知られるようになりました。

彼の事業を継承する株式会社ユーハイムは、現在も売上300億円の2割程度を占める主力商品としてバウムクーヘンの製造を続けています。

兵庫県神戸市ユーハイム

ユーハイムのバウムクーヘン
そのほか、小規模ながら人気を集める専門メーカー、袋菓子として廉価に全国販売を行うメーカーも多く、日本におけるバウムクーヘンはドイツをしのぐ一般的な普及をみています。

ドイツでは、二度の世界大戦の影響などで職人による技術継承ができず廃れてしまった地域も多いそうです。

実際にコトブスでは伝統的な製法の再現ができず、再現のためにユーハイムの指導を仰いそうです。

左からオーストリア - プリューゲルクラプフェン、(Prügelkrapfen)

ルクセンブルク - バームクーフ(Baamkuch)

スウェーデン - スペッテカカ(Spettekaka)

チェコ、スロバキア - トゥルデルニーク(Trdelník)

ハンガリー - クルトシュ(Kürtős kalács)

ポーランド - 地域特有のシャコティス(Šakotis)であるセンカチュ(Sękacz)

リトアニア - 同じくシャコティス。

セバスティアン・フェルシュティナ( 1480年頃 - 1490年頃 ? - 1543年以降)ポーランド王国フェルシュティン(現在のウクライナ、スケリウカ)生まれ

は、ポーランドの作曲家、音楽理論家であり、 16世紀初頭の最も偉大なポーランドの作曲家。

1507年にクラクフ大学 
1364 年の大学設立を描いたヤン・マテイコ(1838–1893)の絵画
に入学しました。
これは同郷の作曲家ミコワイ・ツェ・フザノヴァと同じでした。
在学中、1509年まで音楽と神学を学びました。

クラクフ滞在中にドイツの作曲家ハインリヒ・フィンクに師事した可能性もあります。

卒業後、フェルシュティンに戻り、牧師 となりました。

その後、ポーランド南東部のサノクに行き、そこで司祭を務めました。

セバスチャンの楽曲のうち、3曲のモテットが現存しています。

いずれも1522年に作曲されました。4声部構成で、長音符の平唱テノールが用いられているが、これは出版当時としては古風な手法です。

他の声部は模倣や自由対位法、よりホモフォニックなテクスチャーで演奏することもあります。

3曲とも写本として保存されており、現在はヴァヴェル大聖堂に所蔵されています。

様式は古風ですが、フランドル楽派の影響が見られ、ポーランドにおける4声ポリフォニーの珍しい初期の例です。

セバスティアヌスは1522年にクラクフで賛美歌集『Aliquot hymni ecclesiastici』を出版しましたが、写本は現存していません。

彼の理論的な論文は記譜法と聖歌に関するものです。

彼の最も人気があったのは『Opusculum musices』( 1519年頃)で、これはポーランドで初めて理論的な論文が出版されてから5年後にクラクフで出版されました。歌手のための指導書と思われます。
彼は『Directiones musicae ad cathedralis ecclesiae Premisliensis usum』 (1544年)と聖アウグスティヌスの『De Musica』の版を著しました。何度も再版されました。

モテット(声楽曲)が3曲残されています。
その中の一曲

アヴェ・マリア
アレルヤ 聖母マリア、あなたは幸せです、そしてあらゆる賞賛に値します。
なぜならあなたから正義の太陽、私たちの神キリストが生まれたからです。












「考え」という名前の音楽

2025-03-25 21:01:00 | 国民楽派
大阪駅で日曜日に見たマーク「雷鳥」サンダーバードでした。
この電車は福井県敦賀まで行きます。

うまく撮れました。
鉄オタではありませんが、電車が来たら、テンション上がってつい撮ってしまいます。
電車好きの夫と男の子2人と暮らすとこうなります。

子どもは何気ないことでも飛び上がって喜びます。
あの時の喜ぶ顔を思い出すとやめられません。
今は子どもたち、よほどのレアでないとすましていますが…。

幸福になるのは簡単です。
なんでもないこと、簡単で、そう特別でないことに喜びを見出すこと。

人生複雑にし過ぎてはいけません。
子どもはそんなことを教えてくれました。

音楽もいろいろこのブログで背景を書いていますが、何にも考えずにただたた音楽を聴いて自分の感覚で楽しむのも素晴らしいと思います。

いろいろな音楽の背景を調べていて思うのは、作曲家の日々の生活の中で体験した感動、喜び、悲しみ、苦しみ、怒りを音楽に昇華していること、その感動は今も変わらない。

なので現在に生きる私たちも未だに音楽を聴いて感動するんだなぁと、思います。

さて、ドヴォルザークは鉄道好きで知られています。

彼が4歳ごろの1845年、ウィーンからプラハ、ドレスデンを結ぶ鉄道が開通しました。

この列車はドボルジャークの地元を通っていて彼は鉄道に夢中になりました。

音楽学校に通うためプラハに移ってからは、学校そばではなく、「列車の音が聞こえるところ限定」で下宿を探しました。

暇さえあれば駅に行き、機関車の型番、スペック、時刻などを詳細にメモし、なんなら駅員や運転士の名前まで記録していました。

ある時、機関車の走行音とリズムに違和感を覚えたドボルジャークは駅員に「機関車の走る音がいつもと少し違う。どこかおかしいんだよ。今すぐ止めて調べるべきだ、音楽家の耳を信用しろ!」と駅員に迫ったとのこと。この時本当に機械に不具合があったという…噂が残っています。

アメリカに行った時には、ホームシックで落ち込んだ彼はアメリカの機関車に救われていたようです。

「アメリカの鉄道の音は全然地元のチェコの列車と違う。
レールの幅も違うから。」と鉄道を見にいくドボルジャーク。

大好きな鉄道の音をモチーフに作曲しました、交響曲第9番「新世界より」などなど
そのことは前に書いたので、彼の愛した故郷の音楽のこと。

アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク: Antonín Leopold Dvořák )]1841-1904年)
オーストリア帝国ネラフォゼベス生まれ、オーストリア・ハンガリー帝国プラハ没

1891年ピアノ三重奏曲第4番ホ短調作品90 、 B.166 (副題 の「ドゥムキー」からドゥムキー三重奏曲とも呼ばれる)は、アントニン・ドヴォルザークによるピアノ、ヴァイオリン、チェロのための作品で、最もよく知られた作品の一つです。

1891年2月12日に三重奏曲を完成させました。

初演は1891年4月11日にプラハで行われ、ヴァイオリンのフェルディナント・ラハナー、チェロのハヌシュ・ヴィハン

、そしてドヴォルザーク自身のピアノによって行われました。

その夜、プラハのカレル大学

カロリヌム– 14世紀に建てられたカレル大学最古の建物
は作曲者に名誉博士号を授与しました。

この作品は大変好評で、ドヴォルザークはアメリカに渡り、ニューヨークのアメリカ国立音楽院

西25番街47-49番地にあるアメリカ国立音楽院(ジャネット・マイヤーズ・サーバー校)のファサード
の校長を務める直前、モラヴィアとボヘミアを巡る40回のコンサートのさよならツアーでこの曲を演奏しました。

三重奏曲はドヴォルザークがアメリカ滞在中に出版され、友人のヨハネス・ブラームス(1837-1897年)

が校正しました。

ピアノ三重曲第4番の副題「ドゥムキー」は

ドゥムカ(直訳は「考え」という意味でスラヴ(特にウクライナ)の叙事詩バラード…一般的に思慮深く、憂鬱な性格)の複数形です。

もともとは、叙事詩的なバラード、特に捕虜の歌や嘆きを指す、ドゥマ(複数形はドゥミ)という用語の縮小形でした。

19世紀に、他のスラヴ諸国の作曲家たちは、陽気なセクションが散りばめられた陰鬱で内省的な作品を示すために、古典的な形式としてドゥマを使い始めました。

ドヴォルザークは、無伴奏ピアノのためのドゥムカ作品35、スラヴ舞曲第2番、弦楽六重奏曲、ピアノ五重奏曲作品81など、他のいくつかの作品でもドゥムカ形式を使用しました。

1.Lento maestoso — アレグロ準ドッピオ楽章(ホ短調 – ホ長調)

2.ポコ・アダージョ — ヴィヴァーチェ・ノン・トロッポ — ヴィヴァーチェ(C ♯マイナー)

3.アンダンテ — ヴィヴァーチェ・ノン・トロッポ — アレグレット(イ長調 – イ短調 – イ長調)

4.アンダンテ・モデラート — アレグレット・スケルツァンド — マルシアの準テンポ(ニ短調 – ニ長調)

5.アレグロ(ホ長調– ホ短調)
レント・マエストーソ(ハ短調 – ハ長調)


 







モーツァルトの友だち再び

2025-03-24 20:59:00 | 古典
日曜日は高校の同窓会でした。
何年も開いてなかったので本当にお久しぶりでした。
お昼に西梅田の「うおまん」をとってくれました。


私は高校生の時にぼうっとしてたので(今も!)覚えているか心配でしたが、会って話しているといろいろ思い出してきて大丈夫でした。

「担任の先生、瞬間湯沸かし器みたいだったねぇ!」とか「〇〇先生にカバンの形が少し違うだけで叱られたよ。」とか「〇〇先生、すぐに怒るから嫌だったけど、また切れられたらみんなと話しできなくなるから、仕方なく傍に座って話しを聞いていたんだ。」とか今だから言える話しが出て、「そうそう!」とか、「そうだったんだ〜。」とか言う話しで盛り上がって、とってもおもしろかった。

「また、会おうね。」と約束して帰りました。

ヨーゼフ・ロイトゲープ(Joseph Leutgebe 1732- 1811年)
ハプスブルク帝国ノイレルフェンフェルト生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

その幼少期についてはあまり分かっていません。

カール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフ(1739 - 1799年)

が、
ロイトゲープは1750年代のはじめの頃にウィーンでヒルトブルクハウゼン公爵

1727-1780年
のために演奏したという記述があります。

1760年代にはロイトゲープのキャリアが花開きます。

「彼は「ウィーンで最も卓越したホルン独奏者で、あらゆるソロ奏者の中でも広く受け入れられていることにかけては指折りの存在だった」
ーダニエル・ハーツ

1761年11月21日から1763年1月28日までの期間に、ブルク劇場

で、レオポルト・ホフマン、ミヒャエル・ハイドン、ディッタースドルフの協奏曲を演奏したという記録が残されています。

1762年にフランツ・ヨーゼフ・ハイドン

がロイトゲープのためにホルン協奏曲第1番 Hob. VIId/3Dを作曲しています。

1763年7月3日にハイドンの妻がロイトゲープの娘マリア・アンナ・アポローニアの名親になっていることから、両名は友人同士だったと思われます。
最近になって、ハイドンのホルン協奏曲の自筆譜にロイトゲープのサイン書かれていることなわかりました。

1763年2月には当時ハイドンが率いていたエステルハージ家の楽団に一時入団しています。

エステルハージ城オーストリア

ハイドンザール
ロイトゲープは「高い年俸」を得ていましたが、わずか1か月で離職しています。
がその理由はわかっていません。

その年ザルツブルクへ移ると、同市を治めていた大司教の楽団

ジェローム・ヨーゼフ・フランツ・デ・パウラ大司教、コロレド=ヴァルゼーおよびメルス伯爵(1732−1812年)

に加入しました。 

これによりレオポルト・モーツァルト(1719−1787年)
1765年
や、その後同年の内にコンサートマスターのミヒャエル・ハイドン(ハイドンの弟)(1737-1806年)

と同僚になりました。
その時に7歳のヴォルフガングとも友だちになりました。

6歳のヴォルフガング

1763年8月20日)には、ヴォルフガングがレオポルトに会えなくて寂しいと言った人々のリストが掲載されていて、そこに彼の名前も書かれています。

ヴォルフガングも最終的に宮廷楽団に雇われることになり、ロイドゲープの仕事仲間になりました。

レオポルトやヴォルフガングと同じく、ロイトゲープも度々休暇を願い出て他の都市、パリ、ウィーン、フランクフルト、イタリアの諸都市へ演奏旅行に出かけていました。

1773年2月にはこの3人で連れ立ってイタリアへ赴いています。

ミラノではヴォルフガングとレオポルトがザルツブルクの家に宛ててロイトゲープの評判を書き送っていて、彼の大きな成功を予言しています。

1777年にウィーンに戻り、レオポルトに借金をしてアルトレルヒェンフェルトに小さな家を購入しました。

1782年、やはりウィーンに移ったヴォルフガングはレオポルトに宛ててロイドゲープの借金について書いています。

「哀れなロイトゲープに少し辛抱してあげてください。もし彼の状況を知り、彼がどうやってやりくりしているかを見れば、きっと同情するでしょう。

私は彼と少し話をしなければなりませんが、いずれにせよ分割で払ってくれるものと確信しています。」

ウィーンでもホルン奏者として活動を続けましたが、1792年に演奏から身を引いてしまいます。

ロイトゲープはウィーンで生涯を閉じました。

ロイトゲープはモーツァルトお気に入りのホルン奏者でした。

数多くの作品が彼のために書かれています。

ホルン協奏曲 K417、K495、K412/386b(514)

「おそらく」ホルン五重奏曲 K407/386c

も該当すると言われています。

これらは1781年にモーツァルトがウィーンに住んでいた時期の楽曲です。

上記作品はナチュラル・ホルン
バルブの付いてないホルン
を想定して書かれています。

したがって半音階を演奏するためにロイトゲープは高度な口唇のコントロールを行い、並びにゲシュトップフトを駆使する必要がありました。

モーツァルトがロイトゲープと冗談交じりの関係性でした。

K417の献辞には

「ヴォルフガング・アマデ・モーツァルトがロバ、牡牛、馬鹿のロイトゲープを憐れんで、ウィーンにて、1783年3月27日」

と書かれています。

ある個所では管弦楽パートをアレグロとする一方で独奏パートをアダージョと指定しています。

これはおそらくホルンの音が遅れて出てテンポを引きずることをからかっているとみられています。

その他の例としてはホルン協奏曲第1番があります。

モーツァルト晩年の手紙からはロイトゲープがからかいを意に介さず、2人が良好な友人関係を持っていたことが窺えます。

1791年6月6日にモーツァルトがしたためた手紙には、妻のコンスタンツェが留守にする間、

「[メイドの]レオノーレを解雇してしまったので家に独りぼっちでいることになったでしょうが、それは愉快なものではなかったでしょうから」

と彼がロイトゲープの許に数泊したと書かれています。

その後、オペラ『魔笛』

2006 年のニュージーランド オペラ作品で、パミーナ (ティファニー スペイト) とパパゲーノ (リチャード ブルクハルト) が「幸せな人生を」を歌う
の初演が大きな成功を収め、モーツァルトは何度も友人や親戚を公演に連れて行きました。

ある手紙(10月8-9日)には「ロイトゲープが私に2回目に連れて行ってくれとせがむので、そうしてやりました」と記されています。

パリでのロイトゲープの演奏に関するある紙面講評(「Mercure de France」)は、彼が優れた演奏家であると述べています。
評者はロイトゲープが「上等な才能」を有し、「この上なく芳醇で興味深く、正確な歌唱と同じくらい完璧にアダージョを歌う」能力を有しているとしています。

モーツァルト ホルン協奏曲第2番K.417
1783年作曲
第1楽章 アレグロ・マエストーソ、変ホ長調、4分の4拍子。

第2楽章 アンダンテ、変ロ長調、8分の3拍子。

第3楽章 ロンド:アレグロ、変ホ長調、8分の6拍子。

この曲に「ろば・牡牛・馬鹿のロイトゲープを憐れんで」と書かれています。



花の組曲

2025-03-23 21:01:00 | ロマン派
土曜日夕方ドルチェミュージックアカデミーのコンサートでした。
実家からでましたが、暖かくなってすっかり春の陽気でした。

木瓜の花

いつもはピアノをお願いするのですが、今回はギターの渡邊信行さんにお願いしました。

曲はレニャーニ作曲フルートとギターのための「グランド デュオ協奏曲」第1楽章と第3楽章。

渡邊さんの伴奏はとっても楽しいです。

譜面を追うだけでなく、いろいろ仕掛けてきます。

私もおもしろくなって、仕掛けます。するとなんとなくわかって乗ってきます。

乗りあって、ちょっとスピード違反…やばい!
けどなんとかしてくれます。
今回も少し違反気味てしたが、なんとかうまくいきました。



終演後、2人で打上げ、勢いで5月10日伝説のギター居酒屋「グラナダ」の後継「クラベリト」で演奏されるのにご一緒することになりました。
しかも今度は第2楽章もやって全曲。
絶対に楽しいこと間違いなし!

クラベリト

クラベリトはスペイン語でclaberit「かわいいカーネーション」という意味だそうです。

ジャン シベリウス (1865−1957年)フィンランド ハメーリンナ生まれ、フィンランド ヤルヴェンパー没

1918年
5つの小品「花の組曲」『5つの小品』(Cinq Morceaux) 作品85は、1916年から1917年にかけて書いたピアノ曲集です。

『5つの小品』は、 5つの小品のタイトルが共通のテーマを持っていることから、 通称「花」と呼ばれることが多いです。


第1曲 デイジーと訳されていますが、フィンランド語kaunokkiは矢車菊のことです。

第2曲 カーネーション Neilikka

第3曲 イリスIiris


第4曲 コロンバインはオダマキ属の総称のようですが、フィンランド語の Akileija はやはりオダマキのことでしょう。

第5曲 カンパニュラKellokukka


クラベリトにちなんで今回は
第2曲:カーネーション


川の街

2025-03-22 20:58:00 | ロマン派
3月21日午後から眼科にいきました。
藤森駅の疎水の水、多めです。
こんな感じでも京都の人は平気です。

目の経過良くありません。5月に悪かったら、注射すると言われました。

確かに、術後あまり良くなった気はしません。

先週風邪ひいて、寝ていたのも良くなかったかも…(寝てられなくてマスタークラスやコンサートやら出かけた〜。)
おかげさまでようやく治ってきましたが、目の調子はイマイチ〜。
そういう明日もドルチェ楽器でアカデミーのコンサートに出ます。

注射はやだなぁ。

サー・エドワード・ウィリアム・エルガー(Sir Edward William Elgar, 1st Baronet, OM, GCVO、1857- 1934年)
イギリス イングランド ロウアーブロードヒース生まれ、イギリス イングランド ウスター没

1920年
セヴァーン組曲』または『セヴァーン川組曲』(The Severn Suite)作品87は彼が晩年の1930年に作曲したブラス・バンドのための作品です。

オーケストラ用にも編曲されました。
ジョージ・バーナード・ショーに献呈されています。

セヴァーン川は、ウェールズからエルガーの故郷であるイングランド西部にかけてを流れる、イギリス最長の川のことです。


クリスタル・パレス
水晶宮
で行われたナショナル・ブラス・バンド・チャンピオンシップの課題曲として作曲された委嘱作品です。

習作時代に書き留めていた主題を用いて作曲されていて、1870年代に作曲した木管五重奏のための小品も転用されています。

エルガーが書いたのはピアノ・スコアまでで、ブラス・バンドのためのスコアはヘンリー・ギール(Henry Geehl)(1881 - 1961年)によって完成されました。

このブラス・バンド版は1930年9月にクリスタル・パレスで初演されました。

1851年ロンドン万国博覧会の水晶宮
その後エルガーは、この作品を自らオーケストラのために編曲しました。
この編曲でブラス・バンド版の変ロ長調からピアノ・スコアどおりのハ長調に変更されました。

このオーケストラ版は1933年にウスター音楽祭
クラシック作曲家のエドワード・エルガー卿はウスターシャー、ブロードヒースのこの家で生まれました。現在ではエルガー生誕地博物館として使われています。
でエルガー自身の指揮によって公的な初演が行われましたが、前年の1932年3月にエルガーの指揮でレコーディングされています。

ピアノ・スコアは長く行方不明となっていましたが、1980年に発見されました。

また、1995年にはエルガーの自筆によるブラス・バンド版のフル・スコアも世に出ることになりました。

エルガーは1929年から故郷の近くの都市ウスターに移り住んでいましたが、これらの標題はウスターの建築物や歴史にちなんでいます。

ウスター

セヴァーン川組曲 作品87
1.ウスター城(序奏) Worcester Castle (Introduction)


2.槍試合(トッカータ) Tournament (Toccata)

3.大聖堂(フーガ)
The Cathedral (Fugu

ウスター大聖堂
4.騎士領にて(メヌエット)
In the Commandery (Menuet)

5.終曲 Coda    
ブラスバンド版








ビーフシチューで追悼コンサート

2025-03-21 21:00:00 | 現代
3月20日は萩原天神駅

近くの「いつもの処」で昨年3月に亡くなった池上敏先生の追悼コンサートでした。

生前池上先生は金重美代さん主宰の「いつもの処」でのコンサートによく参加されていました。
新年会コンサートでは、ビンゴゲームをして当たった人に曲を進呈するということをされました。

アマチュアの愛好家にあった曲。
リコーダーの真鍋ご夫妻に、名前をアルファベット読みにして、それを織り込んだリコーダー2本とギターのための曲。

などをくださって。当時やはりビンゴに当たった金重さんはフルートカルテットを所望しました。

会の最後には金重さんがふるまったビーフシチューの残りを鍋ごと抱えて帰られたそうです。

今日はその池上敏先生お気に入りのビーフシチューを金重さんが作って置いてくれ、演奏の後みんなでビーフシチューをいただきました。

その後何年か経ち、私と金重さんと木村直子先生、雅雄先生とフルートカルテットレッスンをしていると聞いた池上先生。

意欲が湧いてこられたようで、ある日金重さんに完成した第2楽章を渡されたそうです。

第1楽章、第3楽章は途中まで.
その時、Facebookで繋がっていた私に長文のメッセージを下さいました。

2021年7月21日
良いかも〜ッ!(笑)❣ 目標は金重さんが「フルートパートもヴィオラパートも、どっちもやりたい〜ッ!」と悩んじゃうような曲を書くことです。←、悪い人ですね〜ッ(笑)。 

2021年9月7日
「「夏休みの自由研究」ではないですが、先日投稿のページをソナタ形式の第1楽章に再構成、第2楽章はカンタービレ(もしくはもうちょっと小規模にカンティレーナ)を書いて、第3楽章は主題と変奏曲、というようなモーツァルトの匿名の不詳で不肖の弟子、または同時代の無名作曲家の作品くらいになるものが書けたらよいな、と思ってます。

ただ、第1楽章は多分6ベージから長くなる、或いはゆったり書くと8ページくらいに、第2楽章は短く短く3ページくらいに抑えたにしても、第3楽章・終曲は第1楽章と同程度、若しくはそれ以上が求められるだろうから、どう少なく見積もっても20ページくらいにはなりそう。ポケットスコアで20ページの室内楽は実は相当な大曲で、エライ構想を立てたかな、と少々後悔気味(嘘ピョン、笑ッ)。

 ただ、久々に藝大受験の頃に書いたきりで、自分の演習課題にもして来なかったような曲で、どれだけ良い曲が書けるか、を検証する良い機会だろう、と思ってます。
 まあ、実は他のご注文のアイディアにも手を付けたンですが、此方は意外にハードルが高くて頓挫しました(苦笑ッ)。

 ちょっと構想の全体像をご披露です。

       池上 敏 拝」

それを最後に、その後進まない。
重さんと甘党の池上先生に「ケーキを焼いて持って行ったら早く曲を作ってくれるかも!」などと失礼なことを言っていたのですが
その頃からどうも病まれていたようで、構想のままで終わってしまいました。
本当に残念なことでした。

その後もお付き合いは続き、
私のハーブは池上敏先生の仲介で神奈川の池上先生のお友だちから譲り受け、まさかそのような容体だとは思いもしませんでした。

音楽を通していつも温かく、飄々として、プロやアマチュア、上手い下手関係なく、水平にお付き合いされ、いろいろな贈り物をあちこちにされ、そのまま颯爽と去って逝かれたんだなぁ。と、今更ながら先生の残された余韻に浸っています。

池上 敏(いけがみ さとし、1949年 - 2024年3月4日)は、日本の作曲家、音楽教育研究者。

ギターの増井先生と池上敏先生

新潟県出身。
東京芸術大学音楽学部作曲科を卒業し、同大学院音楽研究科(修士課程)作曲専修を修了しました。

在学中、池内友次郎、矢代秋雄、永冨正之、松村禎三、間宮芳生、島岡譲に師事しました。

京都市立堀川高等学校(現在の京都市立京都堀川音楽高等学校)音楽科教諭、京都市立芸術大学音楽学部非常勤講師等を経て、山口大学教育学部教授を務めました。

フリーランスの作曲家として吹奏楽作品、室内楽作品を中心に作曲活動を展開しました。

山口大学名誉教授、(一般社団法人)日本作曲家協議会会員を務められました。

2024年3月4日午後0時24分、兵庫県西宮市の病院で間質性肺炎のため死去しました。74歳没。

1965年 - 東京都立大泉高等学校 入学
1968年 - 東京都立大泉高等学校 卒業
1970年 - 東京芸術大学音楽学部 入学
1974年 - 東京芸術大学音楽学部 卒業、同大学院 入学
1977年 - 東京芸術大学大学院 卒業

1971年度(昭和46年度) - JBA作曲賞(日本吹奏楽指導者協会) 瞑と舞

1972年度(昭和47年度) - JBA努力賞(日本吹奏楽指導者協会) 誦文

1978年度(昭和53年度) - 下谷賞(日本吹奏楽指導者協会) コンサート・マーチ '77

2024年(令和6年) - 叙位 正四位、叙勲 瑞宝中綬章

吹奏楽
瞑と舞(1971年度JBA作曲賞)[1995年改訂新版]

誦文(1972年度JBA努力賞)
コンサート・マーチ '77(1978年度下谷賞)

変容-断章(1984年度全日本吹奏楽コンクール課題曲 委嘱作品)

交響的二章(JFC(日本作曲家協議会)主催の「日本の作曲家2023」第1夜で演奏予定でしたが辞退)

室内楽
リコーダー四重奏による小組曲「四つの日本的情景」
コキリコ節(二重奏)
佐渡おけさ(二重奏)
小諸馬子唄(二重奏)
木曽節(二重奏)

Two pieces for Mandlin Orchestra(マンドリンオーケストラのための2つの小品)

1995年
瞑と舞(1971年度JBA作曲賞)[1995年改訂新版]


激しすぎる?友情

2025-03-20 20:55:00 | ロマン派
これな〜んだ?
水曜日の午後、ピアノのTさんが定期購入の卵を持ってきてくれました。
月1回。
おいしい卵をわけてくれます。
そのついでに2人でお茶を飲んで、お菓子を食べて、しゃべって。
「あら、もうこんな時間。」と帰る時になって
「あ、お金払うの忘れてた。」となります。
「じゃあ、さようなら。」
と車がでた後に台所に戻ると…卵ケースが!そう、卵ケースです。

2人とも忘れ物が増えました。
LINEでお知らせしたら、「来月まで置いておいてください。」

おそらく来月会ったら、この事を笑うことから始まります。


ジュゼッペ ヴェルディ(1813−1901年)フランス帝国タロ地区レ・ロンコーレ生まれ、イタリア王国ミラノ没

の23作目のオペラは歌劇「ドン・カルロ」。
原作はフリードリヒ・フォン・シラー(1759−1805年)


の戯曲『ドン・カルロス』(1787年作)。

1865年のオペラ座からの依頼は、1867年にパリ開催が決定していた万国博覧会


にあわせて上演するためのグランド・オペラでした。

オペラ座の運営方法などに不満をもっていたヴェルディは最初申し出を断わっていましたが、オペラ座総監督エミール・ペラン(1864年総監督就任)はヴェルディに様々な題材を辛抱強く提供して作曲を打診、結局ヴェルディはペランが候補に挙げていたひとつ『ドン・カルロス』の作曲に同意、1866年6月までの完成という条件で契約に応じました。
台本はベテラン作家フランソワ・ジョセフ・メリが手がけることに決まったが、メリは着手直後に病死してしまい、メリの秘書で、義理の息子でもあったカミーユ・デュ・ロクル( Camille du Locle、1832年-1903年)
右ロクル
が後を引き継いで台本を完成させました。

台本完成後、ヴェルディは自宅で作曲に励んだが、喉の病気の悪化などで完成が遅れて契約での期限に間に合わず、結局全曲の完成は1866年12月でした。

その後、初演に先立って、通し上演時間が約4時間に及ぶことがわかり、長すぎるということで結局ヴェルディは約20分の音楽をカットしています。

これらの出来事を経て『ドン・カルロス』は1867年3月11日、フランス皇帝ナポレオン3世夫妻
ナポレオン ボナボルトの弟の息子
を迎え、オペラ座にて初演を迎えたのだったが、ルイ ボナパルトの妻のウジェニー皇后(1826−1920年スペイン出身、熱心なカトリック信者と伝えられる)

が内容に不快感を示して途中で席を立ってしまったこともあり、初演は失敗に終わってしまい、この作品でもヴェルディがパリでの決定的成功を得ることはかなわなかった。(『イェルサレム』『十字軍のロンバルディア人』)、1855年に『シチリア島の夕べの祈り』フランス公演の失敗に続き)

ヴェルディがこの歌劇の作曲者として評価されるのは、3か月後のロンドン上演の成功まで待たねばなリませんでした。

1884年のミラノ・スカラ座での上演の際の描画
歌劇「ドン・カルロ」
【第1幕】
時は1560年頃、舞台はスペインのマドリード。スペインの王子ドン・カルロ
モデルとなったドン・カルロデアウストリア(1545−1568年)
は、フランスの王女エリザベッタ
やはりモデルのエリザベート・ド・ヴァロワまたはエリザベート・ド・フランス (1545−1568年)実際にカルロの父と結婚しました。実際にカルロと婚約していました。
と愛し合い婚約していました。

しかし、エリザベッタは政略によってカルロの父、つまりスペイン王のフィリッポ2世
フエリポ2世(1527−1598年)の3人目の妻がエリザベート、
と結婚してしまいました。

エリザベッタへの想いが忘れられないカルロを、親友のロドリーゴが励まします。
ロドリーゴは彼に、スペインの圧政に苦しむフランドルの救済に力を注ぐように言いました。

この当時、旧教カトリックのスペインは、新教徒プロテスタントの多いフランドル地方に弾圧を加えていたのです。



【第2幕】
王妃エリザベッタの女官のエボリ公女は、カルロのことを密かに愛していましたが、彼がまだエリザベッタのことを忘れられないということを知って、激しく嫉妬します。

その頃、大聖堂前の大広場では、異端者が火刑に処されるところでした。
民衆が国王フィリッポ2世を讃えていたとき、そこに王子カルロがフランドルの使節たちを連れて現れます。
そしてフランドルの救済を願い出ました。

しかし、国王は聞く耳を持ちません。
興奮して思わず剣を抜いたカルロは、反逆罪で捕らえられ牢に入れられてしまいました。
 
【第3幕】
国王フィリッポ2世自身も、王妃エリザベッタから本当に愛されていないことを感じ、孤独を嘆いていました。
そして、息子カルロの処遇にも悩んでいます。

エリザベッタが部屋に入ってきたとき、フィリッポ2世は、「(彼女の)宝石箱にカルロの肖像画が入っていた!」、と激怒して出ていきます。

実はエリザベッタの女官エボリ公女がこっそり宝石箱を盗み、国王に渡していたのです。

事の大きさに気付き良心の呵責を感じたエボリは、エリザベッタに罪を告白し、カルロの命を救うことで罪を償おうとします。

カルロの親友ロドリーゴも、彼の命を救おうとしています。
反逆者はカルロではなく自分だと告白。身代わりになったのです。

カルロの独房にやってきたロドリーゴは、フランドルの救済をカルロに託した後、殺されてしまいます。

このとき、カルロの解放を求めた民衆の暴動が起きます。
その騒ぎの隙にエボリがカルロを牢から逃がします。
 
【第4幕】
月夜の静かな修道院で、昔の幸せを思い出しながらエリザベッタが待っているところへ、カルロが現れます。

カルロはフランドルに密かに旅立つため、二人は永遠の別れを決意します。

そこへ、フィリッポ2世が現れ、カルロを捕らえようとします。
しかし、そこへ偉大なる先王カルロ5世の亡霊が出現し、不思議な力でカルロをいずこへと連れ去っていきました。

ジュセッペ・ヴェルディ 作曲オペラ「Don Carlo(ドン・カルロ)」より
「われらの胸に友情を」
”Dio, che nell'alma infondere”
MET2010 Roberto AlagnaとSimon Keenlyside
カルロ
君の忠告に従うよ、我が兄弟。

ロドリーゴ
お聞きください!
修道院の扉が開かれています;
フィリッポ王と王妃がおいでになる。

カルロ
エリザベッタ!

ロドリーゴ
私を頼りに、元気を取り戻してください、
あなたの星は再び空で輝くでありましょう!
天に強き者の勇気をお求めください!
二重唱
主よ、心に愛と希望を注いでくださる方、
心に自由への憧れの炎をともされる。

憧れの炎をともされる、
心に自由への憧れを。
我らは共に生き共に死ぬことを誓う。

ロドリーゴ
地にあっても、天にあっても・・・

二重唱
我らが一つに結ばれんことを、ああ!
よ、心に愛と希望を注いでくださる方、
心に自由への憧れの炎をともされる。
憧れの炎をともされる、
心に自由への憧れを。

ロドリーゴ
王と王妃がいらっしゃいます。

カルロ
ああ、恐ろしい。
彼女を見ると震える!

ロドリーゴ
しっかりしてください!

カルロ
彼女は彼の妻!
僕は彼女を失った!
僕は彼女を失った!
僕は彼女を失った!
彼女は彼の妻!ああ、神よ!

二重唱
私のところへおいでください、私と一緒におれば、心強くおられましょう、もっと強くなられます!
彼女は彼の妻、僕は彼女を失った、彼女は彼の妻!

ロドリーゴ
共に生きましょう

カルロ
共に生きよう

ロドリーゴ
そして共に死にましょう!

カルロ
そして共に死のう!

二重唱
最後の切なる願いは、

叫び、叫びだ:自由、と!:

ロドリーゴ
供に生きましょう

カルロ
共に生きよう

ロドリーゴ
そして共に死にましょう!

カルロ
そして共に死のう!

二重唱
最後の叫びは:自由!





聴き合い会で人気の曲

2025-03-19 21:00:00 | バロック
火曜日は第22回聴き合い会でした。
お互いの演奏を聴き合い、励まし合いましょう。と言うことでやっています。

トップ写真
ヴィオラの金重美代さん、ピアノの坂田恭子さんと「カルメン幻想曲」演奏しました。

後藤潤一さんコンクールを受けるそうです。素晴らしい演奏でした。



ビウエラの斎藤宗夫さん

フルートトラヴェルソの田中聖平さんと今川知恵子さん。
テレマンのフルートソナタを吹いてくれました。

これは角谷雅一さんの1800年だのフルート。

これでピアノ坂田恭子さんとマラン・マレの「組曲Gdur」の前奏曲を合奏しました。
私はこれ、

田中聖平さんが試奏しています。
パウエルの木管頭部管をいつものパウエルに刺して使いました。
それだけで金属のフルートの音が少しまろやかになります。 

これでバロックを吹くと少しバロックフルートに近づく気がします。

今回は池田から猪口薫さんがベートーヴェンの月光第一楽章で参加でした。

桶矢成智さん、アルハンブラ宮殿の思い出熱演でした。


角谷さんのサンキョウ プリマ
今は無い社名。ヴィンテージです。

ネット落札してご自分で治されました。
高音はいい感じ。低音は調整が要りますが、タンポはそう悪くなく1個変えただけだそうです。
すごいなぁ! 

こちらはトラヴェルソの2人とアウロスの樹脂製のトラヴェルソで即席トリオ。ボワモルティエの組曲。
斎藤宗夫さんのビウエラ。
美しい楽器です。音色も素朴で美しいです。

ギターの河塚智秀さん、バッハのヴァイオリンパルティータ全曲演奏を目指しています。
今回はだいぶ行きましたが、来月全曲弾くつもりだそうです。
とっても楽しみです。

今回も楽しかったです。
次は4月25日(金)12:15開場 13:00開演
牧野生涯学習センター 音楽室
第23回 聴き合い会
1人15分 協力金500円
みなさんもご参加いかがですか?

ド ヴィゼーはギターでもビウエラでも人気の作曲家で今回も何人かが演奏されました。
ド ヴィゼーとはどういう作曲家でしょう?
調べてみました。

ロベール ド ヴィゼー
(Robert de Visée, 1652-1730年)
フランス王国ラ・フレーシュ生まれ、フランス王国パリ没

フランスのテオルボ奏者
14コーステオルボ
ギター奏者、作曲家。

ルイ14世の宮廷音楽家として、テオルボやギターのほかリュート

ルネサンス期の8コーステナーリュート(レプリカ)
ヴィオールを奏し、歌手も務めました。

また、リュート、テオルボおよびギターのための曲を作曲しました。

ヴィオルと楽器の演奏者ロベール・ヴィゼーとフランソワーズ・パンゴーの長男でした。
彼は1662年に両親を亡くしました。

数年後、パリにでました。

彼は1673年10月29日にキャサリン・サーヴァント2世と結婚しました。彼女と少なくとも 3 人の子どもをもうけました。

息子の (ジャン) フランソワ (1674 年頃に生まれ、1747 年 2 月 3 日に死亡) は音楽家になりました。
娘たちは、「ヴィゼ女官の墓碑銘」 (ヴォードリー・ド・セズネの写本に写されている) に記されています。

ロベールはフランチェスコ・コルベッタ(1615-1681年作曲家、ギター奏者)

に師事したものと思われ、
1680年頃にルイ14世(1638 - 1715年)
の宮廷音楽家となりました。
1709年10月30日に「室内楽の常任カントル」の地位を得て、年俸600ポンドを得ました。

ロベール・ド・ヴィゼーが参加した宮廷演奏会については多くの記録が残っており、ギター、テオルボ、ヴィオールの才能は同時代の人々から高く評価されていました。

1709年には宮廷歌手としての記録もあります。

1719年には「王のギター教師」(maître de guitare du Roy)に指名されています。

ジャン・ジャック・ルソーは、ヴィゼーが宮廷でヴィオール
「ヴィオラ・ダ・ガンバ」「脚のヴィオラ」「ヴィオール」と呼ばれました。
も奏していたと記しています。

ヴィゼーは、『王に捧げるギターの書』(Livre de guitare dédié au roy, 1682年)

1682年王に捧げるギターの書 タブ譜
および『ギターのための曲集』(Livre de piéces pour la guitare, 1686年)

の2冊のギター曲集を出版し、ルイ14世に献呈しています。

これには合わせて12の組曲が収録されています。
また、テオルボおよびバロックリュートのための多くの組曲((大部分がセズネ手稿譜(Saizenay Ms.)に収録されています))そのほか、器楽合奏曲も作曲しています。

本来は通奏低音用としての役割が主であるテオルボに対して書かれました。

1717年、「テオルボとリュートのための組曲」Amollから前奏曲とアルマンド