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縄文人と弥生人と古代天皇と・・・(再掲載4)

2023年10月13日 | 歴婆の勝手な解釈

古代史、古事記・日本書記などでなかで

一番、不思議に感じていたのが

饒速日と鵜草葺不合命という存在だった。

饒速日においては、

先に天孫降臨した思われる状態であるのに

天皇という位置にたたなかった。

これは、どういう事を表しているのか?

単純に先住民・原住民?であった民族を

征伐して日本を統治していったとするのなら

こんな都合の悪い話を書かないだろう。

荒ぶる民・まつろわぬ民にしてしまえばよいものを

天孫が先にいたという風に言い換えねばならなかった

もっと、深いわけがある気がしている。

 

そこで、考えるのが

縄文人と弥生人という

一般的な区分けによる民族のことである。

ウィキによると、縄文人は

旧石器時代後の、約1万6,500年前の紀元前145世紀から約3,000年前の紀元前10世紀にわたる縄文時代の文化は、概ね現在の日本に分布していた。そのため、この地域に居住していた縄文土器を作る新石器時代人を縄文人と見ることが出来る。

と、あり

弥生人は

弥生時代は一般に2400年前ほどに開始したとされてきた。そもそも弥生時代とは、弥生式土器が使われている時代という意味であったが、現在では水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代とするという考えが定着している。

弥生人(やよいじん、Yayoi people)とは弥生時代の人々を指し、大陸から渡来し縄文人と交流して新文化を形成した人びと(大陸系弥生人)、縄文人が新文化を受け入れて弥生人となった人びと(縄文系弥生人)、そして両者の混血で生まれた人びと、およびその子孫たち(混血系弥生人)が含まれるとされている。狭義には、大陸系弥生人のみを指して弥生人という。

弥生時代開始以降に断続的に渡来人がやって来たものの、先住の縄文人とは完全に対立していた訳ではなく、置換に近いものの少なかれ融和、混血していったものと考えられる。また日本列島には縄文時代以前から各方面から様々な人たちが日本へ流入し、弥生人も複数の系統が存在していたと推定される。

と、ある。

ここでややこしいのは、時代と人の区分けかとおもう。

また日本列島には縄文時代以前から各方面から様々な人たちが日本へ流入し、弥生人も複数の系統が存在していたと推定される。

と、いう考え方も時代という年代で考えていくと

縄文は紀元前3000年まで

弥生は紀元前2400年から

と、いうおりあわない年数になってしまう。

だが、実際、時代が文化であると考えていくと

縄文時代以前から弥生人(語弊がある)が日本にやってきて、

そこで生活して、その生活様式など(文化)が

あら、そのやりかた、いいじゃない。

と、まわりに伝播されていくのに

それ相当の年月がかかると思う。

 

それが、ましてや、武力的な統治がはいってくれば、

もっと、時間がかかるだろう。

 

それらが、歴史書のなかで、

奇妙な語られ方をしていると思う。

 

ウガヤフキアエズ王朝というものがあったという

竹内文書などもあるが、

古事記や日本書記になってくるとその名前はない。

あるのは、非常によく似た

鵜草葺不合命という名前である。

 

この鵜草葺不合命は神武天皇の父親ということなのだけど

もうひとつ前の、鵜草葺不合命の父親 山幸彦の時に奇妙な話がある。

海幸彦という兄弟といさかいを起こしている。

記紀の名称表記山幸彦 - 火遠理命(古事記)・彦火火出見尊(日本書紀)海幸彦 - 火照命(古事記)・火闌降命(日本書紀)

名前のごとく、の猟が得意な山幸彦(弟)と、の漁が得意な海幸彦(兄)の話である。兄弟はある日猟具を交換し、山幸彦は魚釣りに出掛けたが、兄に借りた釣針を失くしてしまう。困り果てていた所、塩椎神(しおつちのかみ)に教えられ、小舟に乗り「綿津見神宮(わたつみのかみのみや)」(又は綿津見の宮、海神の宮殿の意味)に赴く[2]

海神(大綿津見神)に歓迎され、豊玉姫(豊玉毘売命・とよたまひめ)と結婚し、綿津見神宮で楽しく暮らすうち既に3年もの月日が経っていた。山幸彦は地上へ帰らねばならず、豊玉姫に失くした釣針と、霊力のある玉「潮盈珠(しおみつたま)」と「潮乾珠(しおふるたま)」を貰い、その玉を使って海幸彦をこらしめ、忠誠を誓わせたという[1]。この海幸彦は隼人族の祖である[1]

その後、妻の豊玉姫は子供を産み、それが鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)であり、山幸彦は神武天皇祖父にあたる。

 

この「潮盈珠(しおみつたま)」と「潮乾珠(しおふるたま)」という

名前はべつとして、

この話ににた伝承が世界各地にある。

 

もしかすると、これは、ノアの箱舟のときのような

大洪水がなぜ、おきたかという民話のようなものではないかと思う。

なぜ、この大きな史実をこれまた、残しておくかと考えると

弥生人(渡来人)が日本にわたってきた大きな由縁であるからではないかと思う。

 

そして、

ウガヤフキアエズ王朝を継承したか、

略奪したかわからないが

ウガヤフキアエズ王という存在を抹消するわけにはいかなかった。

 

そこで、考え付いたのが、

神武天皇の父という位置に置くことで、

継承・血筋というルーツを正当なものにした。

 

つまり、弥生人は

古代王から

天皇という存在にすりかえたのではないか?

 

だが、

それならば、饒速日同様

正統な後継者らしきものをにおわす名前を残してしまったのか?

と、言う事に成る。

 

その謎を解く考え方としてでてくるのが、

前回、書いた大本王任三郎の透視?(予知ではないので、透視と書く)

それによれば

古代天皇が日本にいて、世界各国にいって

その国をおさめた。

と、いうものなのだが、

この辺りも、現日本人、戦争当時においてさえ

各国のインフラ整備にあたったり

国が成り立つように支援するというところがあり

古代天皇からのDNA・思想が受け継がれているのかと思うところである。

 

この荒唐無稽としか思えない透視を読んだときは

やはり、そうか。

と、いう思いが沸いた。

(この根拠・理由はまた、別の機会に)

********

と、あるので、

話が変わるが、王仁三郎は次のように述べている。

「今から約四千年前、中東パレスチナの地に集結して、
イスラエル王国を建設した十二部族というのは、セム族である。
このセム族というのは、太古の時代、世界経綸のため
富士高天原から各地に降臨した天孫民族である。
中東パレスチナの地にイスラエル王国を建設した十二部族こそ、
富士高天原からアジア大陸を西に降った天孫民族の後裔と見るべきである」

 

だが、ペトログラフ学によると、
シュメールのルーツは日本にあると考えられている。
もし、王仁三郎の話が事実だとしたら、
ノアとその家族は、大洪水前は日本列島に住んでいたことになる。

『ガイアの法則』でも、シュメールの起源は日本列島だと説明されている。
そのシュメールの神官の霊は、次のように語っている。

「私たちは日本列島が故郷でもあるのだ」

「私たちはその昔、日本列島で新たな文明を開始した人々の子孫なのだ」

「日本列島から西への移動も、この法則通りであったのだ。
それだけではない。
この地球は大きな変動を何度も繰り返しているが、
そうした大変動も、基本的にはこの法則に基づくのだ。
最も最近に起きたこの変動は、約12000年前だ」

「その変動は太平洋の日本寄りの位置で起きた。
これによって、陸地として繁栄した太平洋上の文明は海底に沈んだのだ」

「現代の人類の文明が、約6400年前にシュメールからスタートしたように、
さらにもう6400年前から始まった文明周期は、
今のあなたの国がある日本列島からスタートしたのだ」

*********

この抜粋事項を素直に信じると

12000年前にノアの洪水が起きたと言う事に成る。

地質学的に化石が出来るとき、

例えば産卵している最中に化石になるとかの場合

一挙に大きな地殻変動、洪水の様な物がおきないと

体積物にはさまれることなく

自然の状態では、腐って、分解してしまうため

化石にならないとのことであるが

福井県若狭地方で、12000年前の地層から

うるしが出ている。

若狭塗ということもあり、

漆器の材料の一つ、漆の採取が行われていたのではないかと言う事あるが

その世界最古の漆器も若狭地方からでていたが

こちらは、BC4500年だったか?

 

話がずれてしまった。

 

元に戻して

そのシュメールの神官の霊は、次のように語っている。

「私たちは日本列島が故郷でもあるのだ」

「私たちはその昔、日本列島で新たな文明を開始した人々の子孫なのだ」

「現代の人類の文明が、約6400年前にシュメールからスタートしたように、
さらにもう6400年前から始まった文明周期は、
今のあなたの国がある日本列島からスタートしたのだ」

 

洪水により、文明が崩壊したとするのなら

大洪水は6400年前にもおきていると考えられる。

このころに、弥生人が日本を目指したとするのなら

旧石器時代後の、約1万6,500年前の紀元前145世紀から約3,000年前の紀元前10世紀にわたる縄文時代の文化

また日本列島には縄文時代以前から各方面から様々な人たちが日本へ流入し、弥生人も複数の系統が存在していたと推定される。

と、いう年代の中 6400年前頃に大量のシュメール人が渡来してきたと考えてもおかしくない。

そして

縄文から弥生時代という文化・文明に移行していく過渡期が有ったと思う。

そして、

何故、草葺不合命・饒速日など

そのまま名前を残したか。

と、なってくると

まさに、

「私たちは日本列島が故郷でもあるのだ」

「私たちはその昔、日本列島で新たな文明を開始した人々の子孫なのだ」

と、いう言葉が当てはまってくる。

 

そして、もうひとつ、うがってみれば

シュメール人が日本を目指した大きな理由にもなってくる。

 

先祖の土地・・と言ってもいいだろう。

 

だが、

シュメール人が洪水が起きたころに日本を目指したとするのなら

それ以前にシュメール人がその土地に繁栄していたと言う事に成る。

 

この繁栄がありながら、

祖先は日本人だということは

もっと、以前に日本を脱出していたと考えるよりも

大本のいうように

古代天皇・そのたもろもろが、インフラ整備など(治水とか?)におとずれ

国家を統制したと考えた方がしっくりいく。

その子孫といっていいか。

 

その整備のありかたは

今、各国へ支援に出向いている日本人と同じで、「国がたちゆくようにする」というものだったと思う。

この恩義があればこそ

日本へ行こう。と、言う気になり、

日本を統治しようと試みるにも

元々あった天皇制をそのまま継承するのが良い。

と、いう考えであったのではないかと思う。

 

それが、どこでうやむやになったか

ウガヤフキアエズ王朝という名前は

鵜草葺不合命という風に置き換えられたかのように思える。

 

シュメール人がウガヤフキアエズ王朝に大きな粛清をおこなったかどうかも何とも言い難いが

そうはいっても、

この考え方は大洪水以後に日本を目指したという考えからであり

それ以前にシュメール人が日本に渡来してきていたとするのなら

シュメール人もウガヤフキアエズ王朝もいったんは

壊滅したとも考えられ

その後に、天皇制を継承したとすれば

おおまか、こういうことだろうと

はるかのちに、類推でかいたということになろうか?

 

実際のことなど判ることではないが

ここは大本の透視?をしんじておきたい。

 

失われた12支族のうち、日本に2支族?わたってきている。

その12支族(2支族?)の中でも 「良いのが」来ている。

 

おそらく、これは、天皇・国を立ち行くようにする・国を思う(と、いう過去の恩義を知っている)という

思想をきちんと持っていたから

「良いのが来た」と、言うのではないだろうか?

 

まるで、同じことが繰り返されたかと思うのが

マッカーサーと昭和天皇との会合であるが

国を思う。民を思うというDNAが脈々と流れ続けているのであれば

それこそ、日本人・縄文人・古代天皇から受けた恩恵への恩義という、DNAであると思う。

 


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