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継体天皇の象がある福井、「足羽」(山)  歴史の中の経緯・60

2023年10月30日 | 歴史の中の「経緯」

つぬがあるしと(天日矛) の足跡をたどると

どうにも、饒速日ではないか?

と、思われる記述が出てくる。

古事記 日本書紀
垂仁3年条本文
日本書紀
垂仁3年条別伝
日本書紀
垂仁88年条
珠2貫 羽太玉 葉細珠 羽太玉
浪振比礼 足高玉 足高珠 足高玉
浪切比礼 鵜鹿鹿赤石玉 鵜鹿鹿赤石珠 鵜鹿鹿赤石玉
風振比礼 出石小刀 出石刀子 出石小刀
風切比礼 出石桙 出石槍  
奥津鏡 日鏡 日鏡 日鏡
辺津鏡 熊神籬 熊神籬 熊神籬
    胆狭浅大刀  
計8種 計7種 計8種 計6種

天日槍伝説は古典史料における代表的な渡来伝承になる。ただし一般には、1人の歴史上人物の説話ではなく、朝鮮系集団の渡来をアメノヒボコという始祖神に象徴した説話と考えられている。その中では特に、「天日槍」という神名を「日矛(日槍)」という祭祀具の人格化と想定し、大陸系の日神信仰を持つ渡来系一族(出石族)の伝承と見る説が知られる。また、説話中に見える一族による神宝の献上はレガリア(王位継承の品・日本でいえば三種の神器)の献上を意味するとされ、この出石族が抵抗を示しながらもヤマト王権に服属したことを表すともいわれる。

********

饒速日の十種神宝

十種神宝の内容は以下の通りである。

  • 沖津鏡(おきつかがみ)
  • 辺津鏡(へつかがみ)
  • 八握剣(やつかのつるぎ)
  • 生玉(いくたま)
  • 死返玉(まかるかへしのたま)
  • 足玉(たるたま)
  • 道返玉(ちかへしのたま)
  • 蛇比礼(おろちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
  • 蜂比礼(はちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
  • 品物之比礼(くさぐさのもののひれ)

以前に書いた時は、まるで、アロンの杖に対抗するかのような宝であるとかいた。

ヘブライ人とのかかわりから、以前に書いたので省くが(吉佐宮・・ヨシュアの宮・・・⇔伊雑宮・・・イザヤの宮)

天日矛とは、違うところがある。

もうひとつは、******

説話中に見える一族による神宝の献上はレガリア(王位継承の品・日本でいえば三種の神器)の献上を意味するとされ、この出石族が抵抗を示しながらもヤマト王権に服属したことを表すともいわれる

*****

神武と饒速日の話によく似ている。

*********

出石神社の祭祀は、『古事記』や『日本書紀』などの記す天日槍(あめのひぼこ、天之日矛/天日桙)伝説との深い関わりで知られる。そのうち『古事記』応神天皇記では、天之日矛は新羅王子であり、その昔(応神天皇以前)に日本に渡来したとする

**********

『日本書紀』垂仁天皇88年7月条によると、新羅王子の天日槍が持って来た但馬の神宝を見たいと天皇が言ったので、使者を遣わし天日槍曾孫の清彦に勅命を下して献上させた。その神宝とは次の5物、

  • 羽太の玉 1箇
  • 足高の玉 1箇
  • 鵜鹿鹿の赤石の玉 1箇
  • 日鏡 1面
  • 熊神籬 1具

であった。ただしこれらとは別に「出石(いづし)」という名の小刀1口があったが、清彦は献上を望まなかったので袍の中に隠して身に帯びていた。しかし天皇が清彦を遇しようと御所で酒を与えたとき、その小刀が袍の中から出た。清彦は隠し通すことを断念し、これが神宝の1つであることを言上すると、天皇はこれと他の神宝とを一緒にして神府(みくら:奈良県天理市の石上神宮の神府か)に納めた。そのしばらくのち、天皇が神府を開くと小刀が自然になくなっており、清彦に人を遣わして問いただすと、清彦は小刀が自然と清彦の家に来たがその日の朝にはなくなったと言った。天皇は畏れそれ以上は小刀を求めることをやめたが、一方の小刀はのちに自然と淡路島に至り発見されたので島人により祠に祀られたとする。

****石上神社****

『日本書紀』に記された「神宮」は伊勢神宮と石上神宮だけであり、その記述によれば日本最古設立の神宮となる。

主祭神

  • 布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ) - 神体の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊。
配神
布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ) - 十種神宝に宿る神霊。
布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ) - 天羽々斬剣(あめのはばきりのつるぎ)に宿る神霊。
宇摩志麻治命(うましまじのみこと)
五十瓊敷命(いにしきのみこと)
白河天皇
市川臣命(いちかわおみのみこと) - 天足彦国押人命(孝昭天皇皇子)後裔で、石上神宮社家の祖。
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社伝ではまた一方で、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの十握剣が、石上布都魂神社(現・岡山県赤磐市)から当社へ遷されたとも伝えている。この剣は石上布都魂神社では明治以前には布都御魂剣と伝えていたとしている。
******

新羅国には「阿具奴摩(あぐぬま、阿具沼)」という名の沼があり、そのほとりで卑しい女が1人昼寝をしていた。そこに日の光が虹のように輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産んだ。この一連の出来事を窺っていた卑しい男は、その赤玉をもらい受ける。しかし、男が谷間で牛を引いていて国王の子の天之日矛に遭遇した際、天之日矛に牛を殺すのかと咎められたので、男は許しを乞うて赤玉を献上した。

天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。そこで天之日矛はその少女と結婚して正妻とした。

******

石上布都魂神社(現・岡山県赤磐市)・・赤磐の地名が「赤玉」からとするのはこじつけすぎるかもしれないが、

そうなってくると、つぬがあらしと(天日矛)は素戔嗚になってくる・・・

*******

垂仁天皇39年には剣一千口と神宝が納められ、

天武天皇3年(674年)には忍壁皇子(刑部親王)を派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還したはずだが、日本後紀 巻十二 桓武天皇 延暦二十三年(804年)二月庚戌 条に、代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国葛野郡に移動したとき、人員延べ十五万七千余人を要し、移動後、倉がひとりでに倒れ、次に兵庫寮に納めたが、桓武天皇も病気になり、怪異が次々と起こり、使者を石上神宮に派遣して、女巫に命じて、何故か布都御魂ではなく、布留御魂を鎮魂するために呼び出したところ、女巫が一晩中怒り狂ったため、天皇の歳と同じ数の69人の僧侶を集めて読経させ、神宝を元に戻したとある。当時それほどまで多量の神宝があったと推測される。

??????

『日本書紀』垂仁天皇88年7月条によると、新羅王子の天日槍が持って来た但馬の神宝を見たいと天皇が言った・・

****ちょっと、経緯が判らない****

『播磨国風土記』では、天日槍について次のような地名起源説話が記されている。

揖保郡揖保里 粒丘条

客神(外来神)の天日槍命が、韓の国から海を渡って宇頭川(揖保川・林田川の合流点付近か)の川辺に着き、当地の長たる葦原志挙乎命(あしはらのしこおのみこと*大国主命)に宿所としての土地を求めると、志挙は海中に宿ることのみを許した。これを受けて天日槍命は剣で海をかき回し、出来た島に宿った。志挙はその霊力に畏れをなし、天日槍命よりも先に国を抑えるべく北上し、粒丘に至って食事を取った。その時に口から飯粒が落ちたため、「粒丘(いいぼおか)」と称されるという(たつの市揖保町揖保上の北のナカジン山に比定)。

******

葦原志許乎命と天日槍命が土地の占有争いをした時、いななく馬がこの川で2神に遭遇したため「伊奈加川(いなかがわ)」と称されるという(菅野川に比定)。

******

敦賀・・角鹿の話とよく似ている。

一方で、日本に馬はいなかったいうが、(乗馬用に飼育されていなかった)

この部分を言えば、馬にのっていたと言う事に成る。

*****

国譲りの時に、饒速日が美穂崎に駆け付けたという話もあるのだが、

これも、天日矛か?

*****

ところが、記紀では、饒速日と神武・・という組み合わせであり

全く、別の人物として描かれている。

だが、

本当の初代天皇を前100年あたりの崇神にしてみると、

(つまり、記紀のいう処の神武を崇神にかえてみると・・・)

つぬがあるしと・・(天日矛)が、なんとなく・・・饒速日に合致してくるし、

神宮皇后が、天日矛の5代めとというのも

仲哀天皇(神功皇后・夫)が崇神から4代めというのも、

年齢的にはあっているように思える。

だが、饒速日=天日矛・・・というには、符合しない部分がある。

それは、あえて記紀がそう書いたのかもしれないが・・・

饒速日の乗り物は天磐船であり

天日矛は本当の船だったろう。と、いうことである。

*********

『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。これらは、ニニギの天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。

『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)といいアメノオシホミミの子でニニギの兄である天火明命(アメノホアカリ)と同一の神であるとしている。

『新撰姓氏録』ではニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照大神の系)とし両者を別とする。

19世紀初頭に出現して偽書とされている『上記(ウエツフミ)』にもニギハヤヒへの言及がある。上記によるとニギハヤヒは別名・火明(ホアケ)の命であり、天孫の斎(いつき)として、九州・臼杵の河内山に降臨したとある。その後、第70代ウガヤフキアエズの命の時代に、お后の矢野姫にお告げがあり、奈良の斑鳩山に祀られた。物部氏の祖先は、この二人の間に生れたウマシウチ(第71代と高倉下の弟)であり、ナガスネヒコの甥のウマシマテとは別人であると書かれている。なお、「ニギハヤヒ九州発祥説」の有力な根拠ともなっている

饒速日を祀る神社のひとつとして、

磐船神社 -「天の磐船」(あめのいわふね)とよばれる巨岩を御神体としている。

*********

この天磐船を思わす地名が気になる。

「飛鳥」

もうひとつは、

継体天皇の象がある福井、「足羽」(山)

足羽山の継体天皇像(福井県福井市)

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