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キトラ古墳の資料館の中にあった 寄り道話 歴史の中の経緯・70

2023年10月30日 | 歴史の中の「経緯」

昨日、奈良まででかけてきた。

目的は、いつかもかいたが、

Blue Noteさん訪問、並びに

当方

WADIA6LTD- blueを聞いていただくと言う事。

この訪問記は、たぶん、高橋が憧れのAudioのほうに書くのではないかと思うので

代理は遠慮しておこうと思う。

と、いうことで、

次の日は奈良、観光?ということに相成った。

到着した日に奈良公園あたりを散策し

正倉院・外構も見てきた。

守衛?さんが、いろいろ教えてくれて

外構というのは、外側だけということで・・・

ええ?中にはいれない?????

天皇陛下の許可があれば・・入れますよ。

と、そんなところへのコネクションなどあるわけもなくwww

ながめにいくと、びっくりしました。

でかい!!

実際にみてみないとわからないものなのだと

教科書などの写真くらいしか頭にないことを痛感させられました。

そのあと、本わらび餅?を食べに行って

その本物の味に・・・もう、衝撃でした。

 

その場で作ってくれるようで

待つこと、暫時。

そのあじわい・・・

実際にたべにいってくれ!!と、しかいえない。

夕方から、Blue Noteさんへ。

ここは、高橋の記事をおまちいただくとして・・。

そして、翌日。

 

どこへ行くか?

と、いうことになったのですが・・・

3つ、候補がありました。

*ひとつは、纏向遺跡

纒向遺跡(まきむくいせき、纏向遺跡)は、奈良県桜井市三輪山の北西麓一帯にある、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡。国の史跡に指定されている。

3世紀に始まる遺跡で、一帯は前方後円墳発祥の地と推定される。邪馬台国の中心地に比定する説があり、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳などの6つの古墳が分布する。

**ひとつは、磐船神社

交野市の南端、天野川の渓谷沿いにあり、「天の磐船」(あめのいわふね)とよばれる天野川を跨ぐように横たわる高さ約12メートル・長さ約12メートルの舟形巨岩を御神体としている。 本殿はなく、巨岩の前に小さな拝殿があり、南側(上流)に社務所がある。

神社の起源は不明であるが、天照国照彦天火明奇玉神饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと = 饒速日命)が天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨されたとの伝承が先代旧事本紀にもある。 交野に勢力を保っていた肩野物部氏という物部氏傍系一族の氏神であり、一族が深く関わっていたといわれている。 中世以降は、山岳信仰や住吉信仰の影響を受け、現在も境内には垂迹神の住吉大神の四体が連なる本地仏の石仏や不動明王石仏を初め神仏習合の影響が色濃く残されている。

***もうひとつは、石舞台

石舞台古墳(いしぶたいこふん)は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。国の特別史跡に指定されている。

元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていたが、その土が失われ、巨大な石を用いた横穴式石室が露出している。埋葬者としては蘇我馬子が有力視されている。

 

場所の問題もあり、キトラ古墳・高松塚古墳もみたいということで、

磐船神社はあきらめてwww

頭をかすめたのは、大神神社。

大神神社は古墳時代以前、纒向一帯に勢力を持った先住族が崇敬し、諸説あるが、代々その族長により磐座祭祀が営まれたとされる、日本でも古い神社の一つで、皇室の尊厳も篤く外戚を結んだことから神聖な信仰の場であったと考えられる。旧来は美和乃御諸宮大神大物主神社と呼ばれた。

三諸山そのものを御神体(神体山)としており、山中には上から、奥津磐座(おきついわくら)、中津磐座(なかついわくら)、辺津磐座(へついわくら)があり本殿をもたず、拝殿を江戸時代4代将軍徳川家綱によって再建された。拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。三輪山祭祀は、三輪山の山中や山麓にとどまらず、初瀬川と巻向川にはさまれた地域(水垣郷)でも三輪山を望拝して行われた。拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものである。

 

*この神社に参拝した人の話を総合すると、

ちょっと、簡単?気楽にいける神社ではない。

ひとりは赤い光が映り込んだ写真をとって、しばらく後に亡くなっている。

もうひとりは、「鈴の音」を聞いた・・とか。

大物主が、その人の運命?とか生きざまとかを審神者するような

「物々しさ」があるように思え、

物見遊山・・?気分で行くところではないと、思っているし

蛇さんと対峙するのも妙な気分でもある。

(なんつ~~~か、うまくいえないので、誤解されそうだけど、人間さんの魂のほうが、偉い?みたいな思いがある)

******

実際、いろいろな古墳があるのだけど、

天皇陵などは、立ち入ることができないし

委細は判らないことが多く、

纏向もうめもどしてあり、発掘跡みたいな状態だったりもして

なんだか、身近なものでないというか

生活臭がない?

どういうのだろう。

「亡国・・跡・・」みたいな感慨がでてきてしまった。

奈良に居ない・・せいかもしれないが・・。

福井だと、若狭地方、縄文の丸木船がでてきた

漆器がでてきた。

と、なると

いまだに、湖で漁をするし(たたき網漁法とか、芝を沈める、鰻をとるのに竹筒を沈ませるとか)

若狭塗も健在だし、

そのころからの文化がいまだに担われている。

継承とも、基盤であるともいえる「遺跡」は、

いまだに「生きている」と、感じさせる。

それが、奈良のほう・・纏向遺跡とか天皇陵とか・・ぷっつり、とだえてしまった。

そんな物寂しい思いにかられてしまった。

中尊寺あたりは、時代もまだ、ふるくないせいもあるが、

きちんと保存され

栄華がしのばれる。

ここに都をつくろうとしたのだろうというその思いが伝わってくる。

一方、奈良。

東大寺、奈良公園の壮大さ、大仏殿の大きさ

なにもかも圧倒的で保存というのも妙だが

保存され続けている。

ここまで、壮大なものがのこっていながら、

まるで、きえうせたかのように、

遷都して・・なんどか、再構築をはかっていながら、

見捨てられてしまった廃墟のごとくになってしまった

藤原京とか・・・

壮大な跡地をみるにつけ、

ここまで、やっておいて、なぜ?

と、いう思いがかすめてくる。

********

高橋は、その地域?においての人脈もあるのではないか?

と、いう言い方をしていた。

執政にからんでくるしがらみともいう人脈を一新するという意味だろうか?

だが、それは、むしろ、

奥州に都を築こうとしたのではないかという思いで斜視になる。

天皇自体が、変わってしまい、

前の王国?をそのまま、継承するのでは、

私は前の王国の跡取りになっただけになるから

新しく王都を築く。

私の都を築く。

と・・・いうような・・・

そんな顛末の末・・ではないかとうがって見てしまう。

*******

そのうがった見方が、当たらずとも遠からずと思う

一つの「種」が、

キトラ古墳の資料館の中にあった。

*****

続く・・・・


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