ギリシャへ そして ギリシャから From Greece & To Greece

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ギリシャ国歌

2014-06-23 | 私のギリシャ物語

最近ワールドカップで早起きしているので、日中とても眠いです。

ギリシャVs日本の試合でギリシャ国歌を初めて聞いた方も多いのでは?演奏を聴くと、短くてごくあっさりしているように思えますが、いやいや実は世界で一番長い国歌なんです。

4行のスタンザ(連)が158もあるので、行数で言うと632行。これを全部唄っていると、サッカーのゲームだと前半がつぶれてしまう?かもしれません。そこまでならなくても、起立して唄っている人たちが次々に昏倒する!、とか起こりそう。あまりに長いので、最初は3連まで唄っていたのが、現在では2連までとなっているようです。全部唄える人は誰もいないことでしょう。

長い独立戦争の後、ギリシャがロンドン議定書で独立を宣言した2年後の1832年にΔΙΟΝΥΣΙΟΣ  ΣΟΛΩΜΟΣ/ディオニシオス・ソロモスによって詩が書かれました。当時、首都はアテネではなくナフプリオンにありました。

そしてコルフ島のオペラ作曲家ΝΙΚΟΛΑΟΣ  ΜΑΝΤΖΑΡΟΣ/ニコラオス・マンザロスが曲をつけ1865年に国歌に制定されました。ちなみに、キプロス共和国も同じ2連を国歌としています。

内容は1792年に革命戦士たちの唄った詩からフランス国歌になったラ・マルセイエーズに近いです。ギリシャでも自由と独立は命をかけて戦って、多くの犠牲者の屍の上に勝ち取ったものなのです。


ギリシャ国歌「自由の讃歌」

私はあなた(自由)を知る

畏れ多いその鋭利な刃から

私はあなた(自由)を知る

地を統める大いなる力から

そして 尊い先人の骨から

原初のようによみがえる

讃えよ自由を!讃えよ自由を!

(拙訳)

この「先人の骨」という下りは、私にジュールス・ダッシン監督、メリナ・メルクーリ主演の映画「宿命」の印象深い一場面を想いださせます。

「宿命」は日本で公開された時の日本語のタイトルで、原作はΝΙΚΟΣ  ΚΑΖΑΝΤΖΑΚΙΣ/ニコス・カザンツァキスのΟ ΧΡΙΣΤΟΣ  ΞΑΝΑΣΤΑΥΡΩΝΕΤΑΙ「キリストは再び十字架に」です。

そのシーンはトルコ兵に終われ山へ逃げたクレタの村人たち、貧しい彼らは着の身着のままで、家から持ち出した財産はわずかに鍋釜、イスなどです。ひとりの老人はカラカラと音を立てる大きな袋を背負って長い山道を歩いて行きます。お腹をすかせた少年が聞きます、「おじいちゃん、その袋に何が入っているの?」老人は静かに答えるのです。「ご先祖さまの骨じゃよ、この骨の上にな、わしらは新しい村をたてるんじゃ。」と

私たちの国歌も実は同じ頃に歴史に姿を現します

開国し外交の式典などで必要になったものの、国の歌という概念などなかったに違いありません。英国のGod Save the King(現在は女王なのでQueen)に倣って 君主の栄光よ永遠なれという趣旨の歌が明治政府によって選ばれました。

1860年には福沢諭吉がFreedom, Libertyを「自由」と翻訳し、それまで日本になかった自由という言葉と概念は既に生まれていたというのに。あの時日本がフランス国歌に倣っていたら、国づくりも国民の意識も、その後の日本の歴史も違っていたのかも...しれません。

最後まで読んでくださった方、ありがとうございました

 

 

 


ギリシャみやげ

2013-11-04 | 私のギリシャ物語

ひと月のギリシャ旅行から戻ってもう2ヶ月経ってしまいました。冬が来る前に、この夏のギリシャでもらった最後の贈り物について書いておきましょうか。

本当に不思議な事ですが、毎回 旅の最後に、ギリシャは特別な贈り物を用意していてくれます。そして最後の日の贈り物があるからこそ、ギリシャへの旅を過去39年間も続けて来たように思うのです。

 ギリシャを愛する理由は、ギリシャファンの間でもそれぞれ違うと思いますが、私の場合「ギリシャの人たちが好き」ということに尽きるかもしれません。「ギリシャ人が好き」というのとは違います。しいていえば、ギリシャ語を話す人たちという意味です。その意味においてギリシャのロマの人たちも、様々な事情で母国を離れギリシャに住む事になった人たちも含む、ギリシャ語で暮らしている人たちのことです。

 

アテネから日本へ帰国する前日、レスボス島から戻りました。いつも泊めてもらう友人のアパートのあるプシリへ行く為にモナスティラキ駅でメトロを降りた時、ショルダー型の旅行バックのストラップが壊れてしまいました。鞄本体にひっかける金具がポロリととれてしまったのです。バッグ自体はまだ新しいのですが、翌日からの移動にはショルダーストラップがないととても困ります。

幸いプシリから近いアシナス通りには、実用品の店がたくさんあるので、もしかしたらストラップだけ買えないかなぁ、と考えました。

とりあえず友人宅に荷物をおいて、最後のお土産を買いにライキ市場にでかけました。定番の食品や雑貨を色々買ってから、モナスティラキ広場に近い辺りのバリッツァ:鞄やスーツケースのお店へ向かいました。何気なく入った店に30~40代の女性と10代の息子がいました。

「こんにちは、明日の朝早く日本に帰るので、困ってるんだけど」と言って、壊れたストラップを見せると女性は、早速店の奥からたくさんのストラップをごっそり抱えて出てきました。

「この中に使えそうなのがあるかしら?」、というので見せてもらいましたが、ちょうどいいのがありません。ひとつ丈夫そうなのがありましたが、これも片方の金具がなくなっていました。おそらくこの束は不良品?返品するもの?だったのでしょうか。

「う~ん」これだといいのにね。と中のひとつを指差すと、彼女はすかさず大きなハサミを取り出して、チョッキンと金具を切り取りました。

驚いて「そ、そ、それをどうするの?」と聞くと、「これをあなたのストラップにつけてあげるのよ」といいます。「え、でもどうやって?」と聞く暇もなく、カウンターの小引き出しから針と糸をだして「任せなさい」と言ってグサグサと縫い始める彼女。

「え~、でも手縫いだと、またすぐ取れちゃうよ」と私。すると「そうね」と言った彼女は、すたすたと店の棚へ歩いて行って、商品のショルダーバッグを手にして戻ってきました。

そして、そのショルダーのポケットから、付属のストラップを取り出して私に手渡し「パレ:持って行って」というのです。それはちょうど良いストラップですが、その商品はストラップなしで売れるのでしょうか?それでも、彼女が本気のようなので、「おいくらでしょうか?」ときいたら、笑って「パレ・ヤ・アガピ」というのです。この一言を日本語に置き換えるのは難しいですが「愛だと思って、持ってって」とでもしておきましょう。

「私が日本に旅行してて、鞄が壊れたら、とっても困ると思うわ。だからあなたを助けたいのよ。」と彼女は続けます。

そこは先の見えない経済危機のまっただ中にある国で、しかも鞄を売るのが彼女の商売なのに....。私に新しいバッグを売りつけようともせず、自分で針と糸で縫おうとしたり、最後には商品を只で差し出したり....。

ああ、そういう事をしてるから経済危機になったんだと言いたい人には言わせておけばいい。それは本当に事実なのかもしれないから。

今年の夏ギリシャから持て帰ったアンティパロスの浜辺で拾った大理石や、チャイ・トゥ・ブヌゥ「山のお茶」とか、新鮮なオレガノやバジルなどのハーブ類、レスボス島のハチミツ、オリーヴ漬け、干した白イチジク、オリーブ石鹸などの中でも、一番のおみやげはこのストラップ、いえ、彼女にもらったアガピ:愛でした。

 

 

 

 

 

 

 


古代劇場の妖精

2013-06-04 | 私のギリシャ物語

レスボス島ミティリーニの現在の港からメインストリートのエルムゥ通りに沿い足を進めると、古来ミクラ・アシア(小アジア)の玄関口であった小さな港がある。この浅い港には建築物の基礎部分だけが波間にちらちらと見え隠れしている。

いつの時代の物?と誰に聞いても答えは同じ「パリョ:古い」。これがくせものだ。彼らが古いという時、それは30年から3000年というとらえどころのない時間の枠なのだから。

古い港の地域であるエパノスカラにはエルミスというタベルナがあり、こちらも見るからに古びたそれでも近代の「パリョ」であり、ミティリーニの丘にそびえるベネチア時代の城もまた中世の「パリョ」である。それら歴史的建造物のなかでも正真正銘に「パリョ」な場所が写真の古代劇場だ。

ヘレニズム時代に建造された収容人数1万人という地中海地域でも指折りに大きな劇場だ。西暦63年この劇場を訪れたローマの将軍グナエウス・ポンペイウス・マグヌスが感銘を受け、数年後全く同じ設計の劇場をローマに築いた。 今から60年ほど前の1950年代に松林を切り開いて発掘されたものの、それ以降そのまま。研究も更なる発掘の予定も特にないようで、自然の中で静かにたたずんでいる。

初めてこの場所まで登って行ったのはもう何十年も前の事だけれど、はっきり覚えている。それは不思議な体験をしたからだ。

エパノスカラから中世の城とは反対の方角へゆっくりと長い上り坂が続く。劇場はその丘の頂上のよく茂った松林に囲まれていて、目の前のトルコの岸から心地よい海風が吹いてくる。 歴史的には価値ある場所のはずなのに、ここで観光客に出逢う事は滅多にない。ここまで羊を連れてくる人もいないので、あたりは静寂そのもの、風の音とみつばちの羽音だけだ。 今も蜂の羽音が聞こえると、私の鼻に咲き誇る藤の花の濃密な香りがよみがえる。香りの記憶というのはいつまでたっても色あせる事がないようだ。

切り開かれた劇場の舞台に立った私は、植物の生命力が溢れるような初夏の空気の中で幸福感を感じながら目を閉じて日の光と海風と藤の花の香りを全身に浴びていた。 その時、私の背後で子どもの声がした。それもひとりやふたりではない、多勢の子どもたちが笑いさざめいている。でも、あたりには人っ子ひとり見えない。近くの木陰をのぞいてみた。すると笑い声は消えてまた後ろの方から聞こえてくる。

声がすぐ近くから聞こえるのに姿は見えないのだ。 いったい誰がどこに隠れているのかと、私は辺りを探しまわったが、近づいたと思うとするりと逃げてしまう。 それはまるで花の妖精がふざけて、訪問客をからかっているかのようだった。しばらくすると声は全くしなくなり私はついに誰にも出会う事なく登って来た道を下っていった。

その後ミティリーニにしばらく住むことになって、残念ながら妖精たちとの出逢いの謎はあっけなく暴かれてしまう。

友人の代わりに小さな娘を迎えに行った時の事だ。彼女の通う小学校が松林の丘のちょうど反対側の斜面にあったのだ。 おそらく休み時間か何かで校庭で遊んでいた子どもたちの声が古代劇場にいた私の耳に届いたのだろう。 それにしても、不思議なのは、声がまるで私の耳のすぐ近くから聞こえているように思えたことだ。

ギリシャの古代劇場はすぐれた音響効果を計算の上で設計されていることは周知の事実だけれど、それは舞台から観客への音の伝達を良くするためにすり鉢状につくってあるからで、観客から舞台への音響効果よくする意味などないと思うのだけれど...

それにしても、真実は時として冷酷に人間の夢を破るものだ。 あの初夏のミティリーニの松林で、私は幸運にも藤の花の妖精たちに出逢ったのだと、ずっと信じていたかったなぁ。

 

 


失われない時を求めて

2012-10-22 | 私のギリシャ物語

長い間このブログを更新できずにいました。それにもかかわらず訪問して下さった方々ありがとうございます。わたしの身の回りでは次々と大変なことが起きて心身ともに余裕のない日々を送っていましたが、ようやく少し時間にも気持ちにもゆとりができるようになりました。

 気がつくと、もう2ヶ月あまりの2012年で、楽しかった出来事は7月のギリシャ旅行だけだった気がします。

ところで、楽しいとか幸せを感じるとは、いったいどういうことをいうのでしょう?おそらく人それぞれ違うでしょう。

わたしの感じる「幸福」の具体的な例をあげてみると「いっぱい泳いだ夏の午後。裸足のまま目の前に輝く海のあるタベルナで、気のあう人たちと遅い昼食のテーブルを囲んでいるとき」とか、

「日本からの長いフライトの末、アテネの空港からなんとか夕方のピレウス港へたどり着き、島へ向かうフェリーのキャビンでシャワーを浴び、木綿の白いサンドレスに着替えて、夕陽を観に甲板に出ると、船はちょうどスニオン岬の当たりに来ている瞬間」とか.....でしょうか。

 例にあげた10年前のフェリーでの瞬間を私は克明に想いだすことができます。

エンジン室から流れる燃料の匂い、船体のペンキの色、陽射しの傾き加減、風と波が創る独特のリズム、船内放送、それにかぶさるギリシャ語のざわめき.....

そして、大声で笑い転げたくなるような、からだ全体からこみ上げるよろこび。その記憶は私がこの世からいなくなるまで失われないでしょう。

幸福感が沸き上がるその瞬間に、小さな私という記憶の回路が、あたかも地上に向けて放電される夏の夕立の稲妻のようにときはなたれ、無限に大きな記憶の回路に繋がる。突き抜ける、永遠との一体感は失われない記憶となり、儚い一瞬が私の中で永遠という名を与えられる...これこそ、わたしがギリシャヘの旅を続ける理由です。

さて、これからお話しするのは今年の7月ギリシャを去る前夜のことです。

シフノス島からフェリーで戻った友人のアパートは昼の熱気が閉じ込められてたので、荷物を置いて窓とベランダへの扉を開け友人と外へ出ました。モナスティラキ広場からティシオの駅まで続く遊歩道沿いにはタベルナのテーブルが途切れずに並んでいます。

夜11時を回っていましたが、夏のギリシャでは宵の口、寝るには早い・・タベルナもまだ営業中ですが、あまり人の姿はありません。

注文したのは冷たい白ワインのハーフ・カラフェとサラダだけでしたが、一日の最後で疲れているであろう中年のウエイターは笑顔です。お客さんがあるだけでうれしい、と顔に書いてあります。「経済危機も悪くない」と思いました。

隣あったタベルナからアコーデオンを弾きながら歌声が近づいてきます。声の主は肌の浅黒いロマの少年。まだ声変わりしていない澄んだソプラノで、いい唄い手のようです。

友人は私の様子に「ダメ。じろじろ観ているとこっちへ来ちゃうわよ」と注意しますが、わたしはかまわず彼に手招きしテーブルに呼びました。 

「君なんと言う名前なの?」「ヤニス」本当の名前ではないことを私は知っています。ロマは仲間以外に本当の名前を教えない。それでも私は出逢うたびに彼らに名前を尋ねます。それは儀式のようなものなのです

「ヤニ、良い声をしてるわね。わたしのためにもう一曲唄ってくれる?」というと。

少年は一瞬私をみつめ、彼のまだ細い指がアコーデオンの鍵盤に伸びて、ゆっくりとした前奏がはじまりました。どうして彼は知っていたのでしょう?それがわたしの一番のお気に入りの曲だと。

ギリシャ最後の夜、ロマの少年が私のために唄ってくれたのは「サガポ・ヤティ・イセ・オレア」でした。

その時、私は知ります。それが用意されていたギリシャからわたしへの別れの贈り物だということを。そして、自分はなぜ、今こうしてここにいるのかを。

「おまえがここにいることを知っている。そして、おまえを歓迎している」というメッセージを伝える使者としてこの痩せたロマの少年がやってきたことを。

私はもう以前から気づいています。そのメッセージを発しているのは人でも神でもないことを。それは「決して失われなることのない時」と、その双子の兄弟である「記憶」であることを。

こうして、わたしはギリシャ巡礼をあきることなく繰り返しているのです。


注目の彼は

2012-06-07 | 私のギリシャ物語

写真はhttp://www.anphoblacht.comからお借りしました。

彼こそ今ユーロッパ中がいや世界中が注目するΑΛΕΞΗΣ ΤΣΙΠΡΑΣ アレクシス・ツィプラス氏です。(日本の一部の報道で誤ってツープラス氏と紹介されています)

今月17 日に再選挙を控えたギリシャの政権を取ったら、EUが支援の条件としてあげている財政緊縮政策を拒否すると公約している反体制連合ΣΥΡΙΖΑシリザの党首。彼が勝利したら、ギリシャは本当にユーロ圏から追い出されるかもしれません。そうすると、ギリシャの国庫は空っぽになり、ユーロの価値は大幅に下がるであろう、それは世界経済を揺るがすであろう、パンドラの箱を開けることになる、と経済専門家たちは口を揃えて言っています。

その注目の彼の経歴を調べていてある重要な事に気づきました。彼の誕生日は1974年7月28日。

それは多くのギリシャ人が忘れられない日、長く続いた独裁政権が崩壊した日からほんの数日後のこと。彼は共和国ギリシャとほぼ時を同じくして誕生しているのです。

この日の事を私の友人たちはよく記憶していて話してくれるのですが、そのなかでも一番印象に残っているのはミコノス島に住むある女性の話です。

独裁政権が終わりを告げたと聞いて、彼女がまずしたのは床の板を外して隠してあったテオドラキスのカセットテープを取り出してかけたことだそうです。軍事独裁政権下で民主主義を謳う彼の音楽は厳しく弾圧され、販売はもちろん再生する事さえ禁じられていたのです。

持っているだけで危険人物とされかねないので、泣く泣く手放した人も多くいたそうですが、彼女は台所の床にこっそり隠していました。時には窓を閉め切って、外にもれないように極々小さな音で聞いて未来への希望を繋いだのだそうです。

あの日、彼女がテオドラキスをカセットプレーヤーに入れてスタートし、ボリュームをいっぱいにあげて、窓を開くと、まるでそれに答えるように、町中の開け放たれた窓から同じようにテオドラキスの曲がギリシャの青空へ流れていったそうです。

2012年の今日、あの日の記憶を実体験として持たない人たちが、ギリシャの新しいリーダーとして出現し、彼と同じ年に産声をあげ、新しい時代の希望に満ちた夜明けとして歓声をもって迎えられたΠΑΣΟΚやΝΔという政党に対して、現在のギリシャ国民が拳を振上げて怒っている・・・。

今再びギリシャは生まれ変わろうとしているのでしょうか?1974年12月に初めてギリシャの地を踏んだ私にはとても感慨深い出来事です。

 

 


巡礼の島

2011-08-16 | 私のギリシャ物語

Megaloxari Panagia tis Tinou

8月15日は聖母マリアが亡くなった日で、ギリシャ正教では特に重要な祈りの日です。

もう30年ほど前の8月15日、私はピレウス港からミコノス島へ向かうフェリーに乗っていました。途中いくつかの島に立ち寄るのですが、ある島の港に入港した時、とても不思議な光景が繰り広げられていました。

港から続くながい坂道の上に真っ白なケーキのような大きな教会が見えていました。それはギリシャのどこにでもある景色です。ただ、違っていたのは港から延々と続いている人々の列、それは遠くから見ると人間でできたカーペットがゆっくり動いているようでした。しかも多くの人たちが四つん這いになり、手と膝を使って長い坂道を登っているのでした。坂のうえにある聖母教会へ向かう巡礼たちです。

数年後、再び8月15日にこの島ΤΗΝΟΣティノス島を訪れるチャンスがあり、間近で巡礼たちに会うことができました。

その時は確か自動車は通行止めになっていたと思ったのですが、上の動画(2008年)ではすぐ横を車が走っていて、怖いですね~。

アテネよりは涼しい島とはいえ8月の日中の炎天下。大変な苦行をしているのは以外にも若い人が多くいました。老人には体力的に無理なのかもしれません。

ひざまずいて聖母マリア教会へ参る人たちは、家族の病気の平癒など、それぞれが願い事を持っているようです。膝で歩いている人の隣には家族や友人が付き添っていて、水を飲ませたり、言葉をかけて励ましたりしています。

その頃(今も)若い女性の間でおへそが見えるような浅いジーンズがとても流行していたので、かがむとお尻の割れ目が見えそうになっている人が何人もいたのもご愛嬌でしょうか?

お化粧もすごく濃くて、セクシーなファッションの彼女たちが、ちょっと登っては休んで、「よいしょ」と恥ずかしそうにジーンズを引き上げる様子が可愛らしかったのをよく覚えています。普段チェーンスモーカーの女性もこの坂道で休んで煙草を吸ったりはしません。

”乙女たちの女王”と呼ばれるマリア様もきっと笑って許してくれるでしょう。

やっと教会にたどり着いても、中に入れるまで長く待つ事になりますが、誰も不平を言う人はありません。有名なイコン Panagia Evangelistriaに口づけして、地下にある神聖で病気を癒すとされる泉から水を汲ませてもらった後は、達成感からでしょうか穏やかな表情の巡礼たちが教会の大理石中庭の木陰で休息を取っていました。小さなボトルに詰めた水は巡礼に来られなかった家族や友人の為に持ち帰って飲ませます。聖母マリアのご加護がありますようにと。

昨日も暑い坂道をたくさんの巡礼たちが登っていったことでしょう。聖母マリアの為に、そして愛する人たちの為に・・

 

 

 

 

 

 

 

 


コーヒータイム

2011-04-09 | 私のギリシャ物語

皆様おげんきでしょうか?咲き誇る桜が、今年は特に胸に沁みるように感じます。

今日は満開の桜を楽しみながら、静かにコーヒータイムを楽しんではいかがでしょうか?

ニューヨークに行ったことのある人なら必ず、このデザインの紙カップでコーヒーを飲んだことがあるでしょう。

20世紀の始め頃、ニューヨークに移住したたくさんのギリシャ人は、母国からコーヒー文化を運んできました。そして、港の荷運びや肉体労働でなんとか資金を貯めたギリシャ人たちは街のそこかしこにダイナー(軽食堂)やピッザリアを開店するのです。

1960年頃には活気あふれるビジネス街のダイナーで、紙コップを使ったコーヒーのテイクアウトサービスが始まります。それにいち早く目を付けたのがSherri Cup Companyという会社でした。

当時営業部長だったLeslie Buckがギリシャ人オーナーたちの気にいられようと、彼らの母国の国旗の色/青と白を使ったこのデザインのカップを1963年に売り出します。

古代ギリシャの土器アンフォラにギリシャ語を連想する字体で”WE ARE HAPPY TO SERVE YOU”という文字も入れられたこの紙コップはニューヨークで爆発的な人気になりました。

今ではニューヨークを舞台にした映画やテレビドラマで「アンフォラ・カップ」は画面に雰囲気を出す為にかかせない小道具でもあります。刑事物などごらんになったら彼らの手元の紙コップを注意して見てみて下さい。

現在ニューヨークでダイナーやデリを経営するのはギリシャ人ではない人の方が多いのですが、ニューヨーカーに長く愛されたこのアンフォラ模様の紙カップは街のひとつのシンボルとなり、世界でもっとも有名な紙コップになったのです。

 


風のキクラデス

2010-12-22 | 私のギリシャ物語

風が休みなく吹いていく、青く暗い海の上を、キクラデスの島々の間を、白い家の前の角を曲がりながら吹き抜けていく・・・・、風の音で夜中にふと目覚めたら、見慣れた自分の家だった。目を開ける前の数秒間、ナクソス島にいるのだと思っていたのに。風の音と思ったのは上空を飛ぶジェット機の音だった。

今年の夏、まだ梅雨が明けない雨の日本を飛び立って、長い長いフライトの後アテネに辿り着き、友人とナクソス島へ行った。

前日にアテネから電話で予約したホテルはナクソスの旧市街の細い石畳を上り詰めた城壁の突端にあった。その名をパノラマという。私たちの部屋は小さなホテルの最上階の一番端にあり、目の前にパノラマという名に恥じない景色が広がっていた。ベランダに座って巨大なポルターラの向こうに夕陽が沈んでいくのを毎夕眺めたものだ。

隣には建物がなく、目の下に岩場が広がっている。私たちはこのホテルの建物を一目で気にいったが、ホテルの老女主人も建物に劣らず良かった。美容院できちんとセットした髪に、上質のブラウスとスカートを身につけ背筋がすっと伸びている。

手作りのバラ水で香りをつけたルク−ミを薦めてくれる彼女にホテルの建物の 歴史をたづねたら、「私の家族はこの建物を400年前から所有しています」と答えた。この上品なオーナーの為に働いているのがマルコと呼ばれるアルバニア人の青年だ。マルコというのはもちろん彼の本名ではない。しかし、この島にやってきた移民の青年が新しく名乗るとしたらマルコよりも良い名前などありえない。13世紀の始め、この島を支配しベネチアの城を建設した人物こそがマルコ・サヌードMarco Sanudoなのだから。

港まで私たちを迎えにきてくれたのも、鞄を最上階まで運びあげてくれたのも気のやさしい働き者のマルコで、もうひとり部屋を掃除する陽気な女性がいた。それが風と波に抱かれたこの清潔で小さなホテルのメンバーの全員。いや、目を奪う赤いブーゲンビリアの花々も忘れてはならない。

私たちがナクソスについたその夜からキクラデス諸島に強い風が吹き始めた。東京からの長いフライトとアテネの喧噪に疲れていた私は、そうそうにベッドに入って 灯りを消した。

キクラデスの風は不思議だ、その音を聴いていると、まるでどこか空の高みを飛んでいるような気になる。私たち人間が聞き慣れた風の音ではないような気がする。風の音に併せて重低音で聞こえてくるのが窓の下の切り立つ岩を打つ波の音。

おわりなくドーン、ドーンと繰り返す波の音が、永遠という時間を保証してくれるかのように安心して私は深く眠った。この音を聞くだけでも、キクラデスに旅をする価値がある。

風と波の音を聞くのは自分の心の声をきくことだと教えてくれたのも30数年前の冬の風の中のキクラデスだった。一度風が吹き始めると、それは2日で終わるかもしれないし、1週間続くかもしれないのだ。

その冬ミコノスで出会った老人は、3週間も風が吹きつづけ島に閉じ込められることもあるのだと私に語った。今年の夏のナクソスで私は、風が吹きやまなければ良いと願っていたのだが、夏の気ままな風は翌朝にはキクラデスを通り抜けてしまっていた。

晴れ上がったその日ポルターラの向こうにアポロン神殿のあるデロス島が見えた。東にティノス島、シロス島がかすむように見え、西にミコノス島 そしてナクソス島とパロス島寄り添い小さなデロス島を中心にぐるりと円を描いて取り囲んでいる。ここがキクラデス諸島(円をなす島々)と呼ばれる所以なのだ。

風は生まれると同時に永遠にさまよい始めるのだという。ゆりかごのようにその腕に私を抱いて眠らせてくれたあのキクラデスの風は今地球のどのあたりを吹いているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 


36周年

2010-12-06 | 私のギリシャ物語

Σ' ΑΓΑΠΩ ΓΙΑΤΙ ΕΙΣΑΙ ΩΡΑΙΑ (Αριστ. Μοσχου)

 

今年もギリシャ記念日がやってきました。初めてギリシャの地を訪れて今日で36年がたちました。この日が来る度に、ギリシャを愛する気持ちを変わらずに、今まで持ってこられた事がまるで奇跡であるかのような、そして同時にしごく当然でもあるような不思議な思いがします。

このブログで綴っている「私のギリシャ物語」からいくつか紹介させて頂きます。

「ドラクマは遠く」2007.12.8

「ギリシャ記念日」2008.12.6

「ある既視感」2008.12.10

「ΕΛΠΙΔΑ あるいは希望」2008.12.14

「パナヨータ」2008.11.25

「35周年」2009.12.9

「たちずさむ時間」2009.12.31

「時間の残酷」2009.11.16

 

興味があったらお読みになってみて下さい。

映像にあるミティリーニの古い家々の多くは何度もスケッチをした場所です。使われている写真の粒子が粗いのが絵画のような効果を出していてかえって面白いと思います。曲は私の大好きな小アジア/スミルナの古歌Σ' ΑΓΑΠΩ ΓΙΑΤΙ ΕΙΣΑΙ ΩΡΑΙΑ です。

 


エリティスと光

2010-11-02 | 私のギリシャ物語


昨日 イカロス書店/出版を紹介してエリティスやセリフォスの作品をなんとなく見直していました。
そして、いつものようにFM Omorfi Poliを聞いていたら、エリティス自身の声の朗読を放送していました。そう、今日11月2日は彼の誕生日なのでした。1911年生まれということは来年生誕100年ですから、ギリシャでは記念行事があることでしょう。

今年の夏は二人の友人とパロス島でセフェリスを読んで過ごしました、友人ふたりはエリティスがシュール・リアリスティックすぎるといって、セフェリスの作品を好むのですけれど、私はエリティス派です。第一の理由は彼の作品はギリシャの海と光がなければ生まれなかったと思うから。

1979年ノーベル賞受賞式後の晩餐会で彼自身が語っています。

「・・・・・・・ヨーロッパ人が夜に闇を見いだすのに対し、わたしたちギリシャ人は光の中にそれを感じとる。三つのイメージをあげよう。ひとつめ、ある真昼、石の上に這い上がるトカゲ。(私が息を止め動かずにいたから、そのトカゲは怖れずに動いていたのだ)強列な日差しの中で、それは細かに震える動きでもって体をくねらせ、光に敬意を払うがごとく、踊りを始めた。その瞬間、私は光の本質に触れた。

ふたつめ。光の神秘を私に体験させたのはナクソス島とパロス島の間の海だった。遠くにイルカたちの群れが突然姿をみせ、彼らはデッキに届くほどの高さにまで跳びあがりながら、私たちの船に追いつき、たちまち追い抜いていった。

最後のイメージ。若いおんなの裸の乳房のうえに舞い降りてくる一羽の蝶、真夏の正午、空気は蝉の鳴き声に満ちている・・・・・・・・・・・・・」拙訳


一瞬に永遠を見る・永遠が一瞬に凝縮される・エリティスと光と彼の言葉







イカロス出版

2010-11-01 | 私のギリシャ物語


Tel. +30 210 3225152
Fax +30 210 3235262  
info@ikarosbooks.gr
Address: 4, Voulis Street, Athens 105 62, Greece

シンタグマ広場のすぐ近くVOULIS STREETにイカロスという小さな書店/出版社があります。
刻々と姿を変えるシンタグマのあたりで、以前から変わらないたたずまいがほっとさせてくれます。
出版物はギリシャの詩が中心で、ノーベル文学賞を受賞したセフェリスやエリティスの詩集を出版してきたのもイカロスです。

今年の夏もなんどか立寄り、ΚΙΚΗ ΔΗΜΟΥΛΑ キキ・ディムゥラの新しい詩集を求め、印刷してあるカタログをもらってきました。
今はHPもあるのですが、イカロスのカタログは読むだけでも楽しいので・・嬉しい。

カタログを手にイカロスを出ると、道を渡って反対側にあるΣTOAというカフェニオンへ行くのが、この数年私のお決まりのコースです。シンタグマにしては値段が安い事や、ホールで働いている人たちがとても感じが良い事もあって、イカロスに用がなくても立ち寄って軽いランチを食べたりします。

このカフェニオンはいつからここにあるのか知りませんが、もしかして、セフェリスやエリティスも立ち寄ってここでカフェを飲んだのだったらいいな、と想像しながらひと時を過ごします。


イカロスのHP こちらから注文もできます。

HPのカタログを見ていて目に着いた本 
マノス・ハジダキスー鏡とナイフ
Ο ΚΑΘΡΕΦΤΗΣ ΚΑΙ ΤΟ ΜΑΧΑΙΡΙ
Ο ΚΑΘΡΕΦΤΗΣ ΚΑΙ ΤΟ ΜΑΧΑΙΡΙ
店頭価格18ユーロ/インターネット価格14.40ユーロ

新作ではありませんが
KΙKH ΔΗΜΟΥΛΑ「詩集」
ΠΟΙΗΜΑΤΑ
ΠΟΙΗΜΑΤΑ
店頭価格24ユーロ/インターネット価格19.20ユーロ

ツィンガーナ

2010-10-23 | 私のギリシャ物語
7月末、真夏の太陽が暮かかるモナスティラキ駅前広場は大勢の人でにぎわっていた。
手品師、ミュージシャン、軽業師、ダンスのグループがそこここでパフォーマンスを繰り広げる広場はまるでサーカスかモロッコ、マラケシュのジャマ・エル・フナのようだ。

ギリシャ人作家の家へ招かれ、タクシーのりばで一緒に行く知人を待つ間、なんとなく広場を眺めていた。近くに、人垣があり、腰みのをつけただけで全身を白く塗ったブラック・アフリカンの男性が打楽器に併せて踊っていた。ダンスともいえないへたくそな動きだが、その外見で見物人を集めている。彼のダンスがあっけなく終わると、待っていたかのように広場の真ん中の方からヒップホップ・ミュージックが聞こえてきた。

4人組の男の子たちがブレイク・ダンスを踊リ初め、人垣がぞろぞろとそちらへ移動する。彼らはステージにたてるくらいうまい。おそろいのボストン・セルティックスのTシャツを着ている。

私と連れの友人が立っているそのわずかな間から小さな顔がダンスをのぞいていた。6、7歳の少女。浅黒い肌に長い髪、黒い瞳はツィンガーナだろう。ジプシーあるいはロマをギリシャではツィンガ-ノ(男性)、ツィンガーナ(女性)、ツィンガーニ(複数)と呼ぶ。差別を招くからこの名詞を使ってはいけないという意見もあるが、私はあえてツィンガーナと彼女を呼ぶ。なぜなら、私はこの小さな娘の名前を知らない。

どういう理由かわからないが、彼らは私を魅了する。大好きだ。側に来ると話しかけずにはいられない。結局は物乞いされる事がわかっていても。

「ダンスが好きなの?」「うん」「この男の子たちうまいねぇ」「うん、まあね。でも、あたしの方がうんと上手よ」モナスティラキやプラカでよく見る4、5歳のツィンガーニたちを私は良く知っている。小銭をねだられても与えた事はない。親が取り上げる事を知っているから。

ティシオ付近のカフェニオンに座っていると次々に物乞いにやってくるツィンガーニの子たち。こどもらの何人かは楽器を持っている。バグラマを持つ顔見知りの6歳くらいの男の子には演奏してもらったらお金を上げることにしている。腕はまだまだだが、幼くして数曲のレパートリーを持っている。妹の「自称アコーデオン弾き」まだ一曲も弾けない。

この少年にいつも名前をたずねる。そのたびに「コスタ」「ヤニ」などと答える。本当の名前ではないことを、私は知っている。ツィンガーニは仲間以外には本当の名前を教えない。名前はとても大切な物なのだ。定住せず、物を所有しない彼らの、唯一の財産なのだ。

さて、モナスティラキの広場の少女に戻ろう。この子はそれまで一度も見たことがない子だった。
ブレイクダンスが終わると待っていた人が現れて、私は小さなツィンガーナに「じゃあね、私たち友達の家にいくの、さよなら」というと、彼女は小さな声でいった。「あたしも連れて行ってくれない?」

言葉に詰まった。私はこれから郊外のおしゃれな家に呼ばれて、ワインを飲みながら詩や小説や音楽について話す。この子はどこへいくのだろう。近くに親らしき人はいない。やっとの思いで「うん、また今度ね」と答えると、彼女はがっかりした様子もなく再び始まったアフリカン・ダンスの方へ向かっていった。

「あたしの方がうんと踊りが上手よ」といった彼女が片足をひきづりながら歩いているのに気がついた。胸が痛んだ。親は彼女を病院に連れてはいかないだろう。お金がないというよりも、障害があるほうが稼げるから・・・

タクシーに乗りこんでから私は気づいた。彼女が一度もお金をねだらなかったことに。アテネの街の騒音の上に、白いパルテノンの上に、ささやくような薄い夕闇がそっと舞い降りてくる。





海辺の想い出

2010-09-01 | 私のギリシャ物語






ギリシャから戻って、日本の酷暑にへとへとになっているうちに、もう9月を迎えました。

みなさまお元気ですか?

まだまだ涼しさにはほど遠いようなので、
ナクソス島でみつけたお気に入りのビーチの写真をアップしてみました。

ナクソスの中心から南へ10キロにあるミクリ・ビグラというビーチです。
少しでも涼しさを感じていただければ・・・。

ところで、皆さんの好きなビーチとはどんなところですか?
私の好みの条件は、まず水がきれい。これはギリシャの島ならあまり問題がないとは思います。

次にあまり込み合っていないこと。でも人が全くいないところも避けるようにしています。全く誰もいないところが好きという人もいるでしょうが、私は回りに誰もいないと盗難や、万が一の事故の時に不安です。

涼しい木陰があること。パラソルだけでは強烈なギリシャの紫外線から身を守ることは難しいです。

すぐ近くに「おいしいタベルナ」があること。これが日本とギリシャのビーチの大きな違いかな? 気取らない、新鮮なお料理が待っていてくれます。

あとは砂浜、小石、岩場などの組み合わせがほどよくあると、一日いても空きません。

このビーチでスノーケルで岩場を泳ごうと浅瀬で準備していると、何だか足がちくちく。よくみたら小さな魚が私の足をかじっていました。よほどお腹がすいてたのかしら。

そういえば、ミクリ・ビグラでは忘れられない出会いがありました。

泳いでいると誰かが誰かを呼んでいる声が聞こえてきます。
夏の浜辺でよくある光景。海の中から岸にいる人を呼んでいるのです。

でも、その名前を聞いて、私はちょっと感動していました。
「オレステー、オレステー」中年の女性が大声で呼んでいるのはなんとオレステスです。
私は泳ぐのをやめてそちらを見ました。「ここは2010年なのか、それとも泳いでいるうちに古代ギリシャへ到達したのか、」そんな感傷に全く無関係な陽に焼けた15歳くらいの少年が岸で手を振っています。

「そうか、オレステスはあの子のことか・・・」と泳ぎだそうとしたら、今度は「エレクトラー、エレクトラー!こっちへおいで」と呼んでいるではありませんか。

オレステス君の隣にいる少女がエレクトラちゃんのようです。

こうなったら、もう確かめずにはいられません。私はオレステスとエレクトラの母親と思われる女性の方に泳いで近づき、挨拶しました。

こういうとき話しかけやすいのもギリシャと日本の違いでしょうね。

オレステスとエレクトラも加わりしばらく一緒に泳ぎながら世間話、
これもギリシャではごく当たり前。
いよいよ、お母さんに聞いてみました。「ところで、あなたのお名前は??」
すると彼女は笑っていいました「マリアよ」。

ああ、良かった、
もしも彼女の答えが「もちろん、クリュタイムネストラよ」だったら、私はこのビーチで溺れていたかもしれません。








さよならディモス

2010-06-06 | 私のギリシャ物語


ディモス・ナッソスは1919年、トロイ(現在のチャナッカレ)の近くで生まれ
3歳の時、母の腕に抱かれ 着の身着のまま燃え上がるスミルナ(現在のイズミール)を脱出、レスボス島のモリボスでイルカのように泳ぎながら成長しました。

彼が少年の頃は、だれもパスポートなど持っておらず、わずか3キロ先のトルコの岸へ漁船で自由に行き来していたといいます。
成長すると、シンドバットの冒険のような航海にでたり・・戦時中は島を占領していたナチスドイツの将校らを欺いたり・・彼の思い出語りは私を歴史絵巻の世界へ連れていってくれました。レスボス島へ行くと彼の話を聞くのが何よりの楽しみでした。

もうそれが二度とできないことになったという知らせが今朝届きました。
土曜の朝ベッドで亡くなっているのを娘のベティが見つけました。
前日まで元気だったそうで、来月私が会いに来るのを楽しみにしていたそうです。

彼と彼の家族の物語はまさにギリシャの近代史そのものです。彼に出会い
その物語を本に書き留めることができたことを神さまに感謝します。

ねがわくは、先立った最愛の妻マリアと天国で再会していますように
さようなら ディモス・・




ギリシャ語4週間

2010-05-26 | 私のギリシャ物語
私の書棚に色あせた1冊の本があります。

大学書林発行 早稲田大学の古川晴風先生著「ギリシャ語四週間」。初版は昭和33年。私のは第12版で昭和46年の刊。
裏表紙に「'73.3.18 緑星堂で購入 天気雨で肌寒い日」とあります。高校を卒業したものの大学入試に失敗した私は将来の展望を持ちあぐねていました。

当時の私には大金だった1200円を出してこの本を買い、友人がアルバイトをしていた喫茶店でワイン色の布表紙を開き、生まれて初めてギリシャ語と対面したのでした。

聡明な皆さんはお気づきかと思いますが、この本で学べる言葉が紀元前5世紀ころ最盛期のアテナイで使われていた言葉だなんて、無知な18歳の私は全く知りませんでした。

今でこそ世の中には「エクスプレス・フィンランド語」やら、「すぐ話せるアラビア語」とか「指さしスワヒリ語」といった本がありますが、私が初めてギリシャへ行った1974年には日本語ーギリシャ語の会話集なんて存在しなかったのです。

あれから・・いまだにマスターできないギリシャ語ですが、一番始めに覚えたのはアポ・プゥ・イセ?とティ・オラ・イネ・トーラ?でした。

アポ・プゥ・イセ?Από πού είσε;どこからきたの?
そのころは日本人だけでなくアジア人がとても珍しかったので、ことにレスボスでは道を歩くとほんとうにジロジロ見られました。ただし田舎の良い所はニュースがすぐに広がって、ああ、あのコはマリカのペンションにいるヤポネーザだよ、と認知されるようになったことでした。ミティリーニでは有名な自由文化人であったマリカの庇護のもと私はのびのび暮らすことができたように思います。

ひとつだけ困ったことがありました。キプロス扮装のまっただ中だった74年の冬、レスボス島には多くの兵士が駐留していて、彼らのなけなしの小遣いを吸い上げるキャバレーが沢山できていました。そこにひとりのタイ女性が働いていたのです。時々その人と間違えられることがあって、おじさんのニヤニヤ光線やらおばさま方のあからさまな蔑み視線には閉口しました。

「タイランディ(タイ人の女性)だろ?」といわれると、「いや違う。私はヤポネーザ!」とむきになって訂正していましたが、ある時、偶然本人に出会って本当に驚きました。その「子」は17歳くらいで、まっすぐの長い髪と大きな黒目がとっても奇麗で華奢な感じの子だったのです。

一方の私はというと、長旅でぼろぼろになったジーンズを履いて、髪の毛も男の子のように短くしていたのに、どうしたら彼女と私を見間違えることなどあるのだろうか、と不思議でたまりませんでした。あの子は今どこでどうしているのだろうと、彼女の大きくて淋し気な黒い瞳を時々想い出します。どうか幸せに暮らしていますように。

そしてティ・オラ・イネ・トーラ?τι ώρα είναι τώρα;今何時?
少しずつ私が日本人だと知られるようになると、道で出会う人が必ず私にこう聞くのです。そのころレスボスには腕時計をしている人があまりいませんでした。

街の人に「○○までは歩いてどれくらいかかる?」と聞くと「まあタバコ3本だね」などと言われてよけいに困ったものです。

旅の途中は時計が必要なのでいつも身に付けているけれど、普段はつけない私だったのに、あまりにみんなに聞かれるので、時計をつけずには外に出られなくなりました。まるで歩く時計塔ですよね。

ところが時間を聞いた人に、例えば「11時45分よ」と教えてあげると、ありがとうでもなんでもなく、「やっぱり」とか「思った通りだ」などと、みんながいうのです。普段からだいたいの時間がわかっているのだと思うのですが、それならなぜ聞くのだろうと、これもまた不思議でなりませんでした。

同じことが、後に1年ほど住んだモロッコのフェス旧市街でもありました。子どもたちが私を見つけるとうわ~と駆け寄ってきて、「ジャッキー・チェン!」「フォカーシュ?今何時?」と聞くのです。あの子たちは時間が知りたくて聞いていたのではなく、外国人と話したいだけだったことに後で気づきました。もしかすると、ミティリーニの人たちも単に私と話したかっただけなのかもしれません。
ともかく、おかげで数と時間の言い方はすぐに覚えることができたのでした。

「ギリシャ語4週間」のはずだったのに、長い時間がたってしまいました。


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