レスボス島ミティリーニの現在の港からメインストリートのエルムゥ通りに沿い足を進めると、古来ミクラ・アシア(小アジア)の玄関口であった小さな港がある。この浅い港には建築物の基礎部分だけが波間にちらちらと見え隠れしている。
いつの時代の物?と誰に聞いても答えは同じ「パリョ:古い」。これがくせものだ。彼らが古いという時、それは30年から3000年というとらえどころのない時間の枠なのだから。
古い港の地域であるエパノスカラにはエルミスというタベルナがあり、こちらも見るからに古びたそれでも近代の「パリョ」であり、ミティリーニの丘にそびえるベネチア時代の城もまた中世の「パリョ」である。それら歴史的建造物のなかでも正真正銘に「パリョ」な場所が写真の古代劇場だ。
ヘレニズム時代に建造された収容人数1万人という地中海地域でも指折りに大きな劇場だ。西暦63年この劇場を訪れたローマの将軍グナエウス・ポンペイウス・マグヌスが感銘を受け、数年後全く同じ設計の劇場をローマに築いた。 今から60年ほど前の1950年代に松林を切り開いて発掘されたものの、それ以降そのまま。研究も更なる発掘の予定も特にないようで、自然の中で静かにたたずんでいる。
初めてこの場所まで登って行ったのはもう何十年も前の事だけれど、はっきり覚えている。それは不思議な体験をしたからだ。
エパノスカラから中世の城とは反対の方角へゆっくりと長い上り坂が続く。劇場はその丘の頂上のよく茂った松林に囲まれていて、目の前のトルコの岸から心地よい海風が吹いてくる。 歴史的には価値ある場所のはずなのに、ここで観光客に出逢う事は滅多にない。ここまで羊を連れてくる人もいないので、あたりは静寂そのもの、風の音とみつばちの羽音だけだ。 今も蜂の羽音が聞こえると、私の鼻に咲き誇る藤の花の濃密な香りがよみがえる。香りの記憶というのはいつまでたっても色あせる事がないようだ。
切り開かれた劇場の舞台に立った私は、植物の生命力が溢れるような初夏の空気の中で幸福感を感じながら目を閉じて日の光と海風と藤の花の香りを全身に浴びていた。 その時、私の背後で子どもの声がした。それもひとりやふたりではない、多勢の子どもたちが笑いさざめいている。でも、あたりには人っ子ひとり見えない。近くの木陰をのぞいてみた。すると笑い声は消えてまた後ろの方から聞こえてくる。
声がすぐ近くから聞こえるのに姿は見えないのだ。 いったい誰がどこに隠れているのかと、私は辺りを探しまわったが、近づいたと思うとするりと逃げてしまう。 それはまるで花の妖精がふざけて、訪問客をからかっているかのようだった。しばらくすると声は全くしなくなり私はついに誰にも出会う事なく登って来た道を下っていった。
その後ミティリーニにしばらく住むことになって、残念ながら妖精たちとの出逢いの謎はあっけなく暴かれてしまう。
友人の代わりに小さな娘を迎えに行った時の事だ。彼女の通う小学校が松林の丘のちょうど反対側の斜面にあったのだ。 おそらく休み時間か何かで校庭で遊んでいた子どもたちの声が古代劇場にいた私の耳に届いたのだろう。 それにしても、不思議なのは、声がまるで私の耳のすぐ近くから聞こえているように思えたことだ。
ギリシャの古代劇場はすぐれた音響効果を計算の上で設計されていることは周知の事実だけれど、それは舞台から観客への音の伝達を良くするためにすり鉢状につくってあるからで、観客から舞台への音響効果よくする意味などないと思うのだけれど...
それにしても、真実は時として冷酷に人間の夢を破るものだ。 あの初夏のミティリーニの松林で、私は幸運にも藤の花の妖精たちに出逢ったのだと、ずっと信じていたかったなぁ。
素晴らしい遺跡の写真、ありがとうございます。
レスボスの魅力は沢山有りますよ。温泉も、ローマの水道橋も、セオフィロスの美術館も、フラミンゴの飛来する塩田も、山の村アヤソス、数々の修道院も、そしてブズーキやサントゥリなど民族楽器の名人たちもアマネと云う古い歌の名人も、美味しいウニもタコも
ハマグリも~。是非愉しんで下さいませ。