ギリシャへ そして ギリシャから From Greece & To Greece

ギリシャの時事ニュース、文学、映画、音楽がよくわかる
ギリシャの森林再生を支援する『百年の木の下で』の公式ブログです。

Καλή Χρονιά!

2008-12-18 | ギリシャから
Politiki Kouzina - Sta limania anapsane foties


ただいま旅行中。戻るのは年が明けてからです。

更新もコメントもしばらくお休みさせていただきます。
その間、映画「タッチ・オブ・スパイス」の
音楽と映像をお楽しみ下さい。

この映画の中にはクリスマス、新年、復活祭と
ギリシャの季節のお祝いやごちそうが
ふんだんに出てきましたね。

かわいいカランダもあって
それが重要な役割を果たしていましたっけ。

まだ観ていない人はぜひご覧下さい。
ダウンロードでも購入できるようです。 


もうすぐ訪れる2009年が皆さんにとって良い年でありますように。

Καλή Χρονιά!カリ・フローニャ!




それぞれのカランダ

2008-12-16 | ギリシャから
Κάλαντα Πρωτοχρονιάς 2008 στο Αιτωλικό


ギリシャの暴動はまだくすぶっています。
私にはまだ理解できない部分の方が多いのですが

Kathimeriniが行ったアンケート調査では

60%の人が先週の騒ぎは警官の発砲による少年の死が引き金となったと考え、
minority activists「少数派の行動」ではなく
popular uprising「一般市民の蜂起」と捉えているという結果を報じています。
元の記事はこちら(英語)

暴動が弱まった先週の木曜と金曜日、
質問に答えた人の42%が
放火や略奪を行ったのはごく一部と考え、
抗議デモ参加者の大多数がそのような行動を
したと考える人は10%だけでした。

また47%の人が抗議行動は「政治的な動機」ではなく
「自然発生的」に起こったと考えています。

76%の人が警察による暴動の対応に不満を表し、
きちんとした方針をとった政治指導者はひとりもいなかったと
40%の人が考えています。

youtubuの映像にみる、またギリシャの友人たちから聞いた
覆面した黒ずくめの集団と「一般市民の蜂起」が
私の考えの中で一致しません。

全世界的に今私たちは困難な時代を生きています。
でも いつの時代にも困難はあったのです。

私の両親は戦争戦後の混乱の中を生き抜いた人たちです
70年代ヨーロッパはギリシャもスペインもポルトガルも
独裁政権下にありました。

今の若者には未来に「希望」がないから可愛そうというような
意見もよく聞くこの頃。
でも、それは違う、と私は思います。

なぜなら「若い人たち」「子供たち」こそが世界の希望なのだから

カランダを唄う若者たちの屈託のない顔に私はみとれてしまいます。
この笑顔が続きますように。 
彼らを待っているのがより良い未来でありますように。

あ、そうそう
八百屋のおじさんにも良いクリスマスと新年が訪れますように。

子どものカランダ

カリムノス島の八百屋のおじさんのカランダ

Ελπίδα あるいは 希望

2008-12-14 | ギリシャへ
Ο δρόμος είχε την δική του Ιστορία...


Youtubeへギリシャから投稿されている映像の中で
デモやプロテスト関連の数が多いのには驚かされます。
音楽と食ベ物と政治はギリシャ人の会話に欠かせない
三大話でもあります。

この映像は今年の5月15日に投稿されているので
先週の暴動とは関係ありませんが、ギリシャのデモの様子を
よく伝えていると思います。

大規模なデモは珍しいことではなく、多くはこの映像の冒頭のように
整然と、顔を隠したりせずに行われているのです。

この映像をよく見ていると 
デモの先頭に立って誇らしげに歩いているノラ犬が出てきて
ちょっと笑ってしまいます。

今度の事件で 警察によるデモの取り締まりが
必要以上に厳しくならなければ良いのですが・・。


さて 前のブログの続きです。

74年私がアテネにたどり着いた12月6日のページには
「失望。なんてこきたない街なんだろう。」と書いてあります。

実はとってもショックでした。
旧国際空港:エリニコン空港からバスに乗って窓から景色を眺めていると
1950年ー60年代にたてられた 美しさとは無関係の味気ない建物が
バスの行く道路の両側に雑然と積み重なるように並んでいました。

混沌とした感じで どこもくすんだような汚れが染みついてる。
そんな5、6階建てのコンクリートのビルとビルの隙間から、
目の端に何かがちらっと見えました。

日本からの長い旅の間夢に描いていたアクロポリス
パルテノン神殿との 情けないくらいあっけない出会いでした。

アテネはそれ迄に通ってきた
共産主義下で「徹底的に管理された秩序」のモスクワとも
歴史ある重厚な町並みのウィーンとも全く違う
いわば めちゃくちゃな街でした。

今の中央郵便局からマクドナルドの前や地下鉄の入り口と
公園になっているあたりは全部カフェニオンでした。
座っていると「世界」の方が私めがけてやってきます。

その頃のアテネは格安の航空券が見つかる場所でもあって、
アフリカ、ヨーロッパ、アジアを何年もかけて
旅しているような若者が必ず通る交差点だったのです。

シンタグマ広場のカフェニオンに座っていると
ロマの子供たちが靴磨き道具を抱えて回ってきて、
私のスニーカーを磨かせてくれとせがんで離れません。

街にはパレスチナの難民が大勢いて、まだ幼さの残る美しい少女らが
チューインガムを一枚ずつ観光客に売ったりして小銭を稼いでいました。

人々の暮らしは決して豊かには見えませんでしたが、
街を歩いているうちに どんどん新鮮な気持ちになる自分に気づきました。

モスクワにもウィーンになかった
良い香りのように漠然と 
74年のアテネの街の空気に漂っていたのは
Ελπίδα/エルピーダ/希望でした。

誰の財布もからっぽ。
でも、ようやく軍政から解放された人々の顔は
晴れやかに輝いていました。

私をその後30年を超えるギリシャ巡礼に導くことになったのは、
あの時の街を包んでいた希望の香りだったのだと 
今 思いあたるのです。

(続く)


ある既視感

2008-12-10 | ギリシャから
Επεισόδια Αθήνα 08/12/2008 

12月8日19:30ー40のシンタグマ広場から生中継映像 ΣΚΑΪ

この数日 息をのんで 刻々と伝わるニュースや 
インターネットの映像を見ていました。

6日の夜 少年が警官に撃たれて死亡したことから始まりました。
ネットで呼びかけられた 抗議のデモ隊の衝突が
商店の襲撃 放火 略奪へとエスカレートし コロナキから
エルムー通りの高級な商店街の130店以上が被害を受けました。
事態はまだ収束に向かっているとは言えません。


この出来事をどう受け止めれば良いのか、私の気持ちは複雑で混乱しています 
前のブログで74年12月6~8日アテネの様子を書こうとしていた
ところでした。

実は74年12月6日のアテネも大混乱の中にありました。
その年の7月 キプロスの半分を失うという大きな代償を払いながらも
独裁軍事政権がついに崩壊し 11月にはコンスタンティノス・カラマンリス
(なんという偶然でしょう、現首相の叔父です)率いる民主主義政権が誕生し
王制を維持するか、それとも共和制をとるかという
国政を決定する国民投票を2日後に控えていたからです。
 
アテネの街の広場は政治ビラの紙に覆われ、まるで雪が降ったように白くなり
建物のいたるところに 王制を拒否するOXIという文字が書きなぐられ
そこここでちいさなグループ同士が今にも殴り合わんばかりの議論を繰り広げ
ていました。シンタグマの交差点でバスを停止させ屋根によじ上って
叫んでいた人たちもいました。

私の記憶の中で ギリシャは常に政治が揺れている国で
最近が例外的に平穏であったのだという気がします。

大騒ぎをしないと変わらない。変われないギリシャ。
それは みんなで変えていけるギリシャということであり、
きっかけを作るのはいつも若者でした。

73年には軍事政権に反対する学生のデモ隊が大学を占拠。
そこへ軍が戦車まで動員して鎮圧。この衝突で多くの若者が亡くなったことを
引き金に74年にゲオルゲス・パパドプーロスが失脚して軍事政権が倒れます。

80年代の「敵」はアメリカでした。
国内の米軍基地に反対する巨大なデモ隊に巻き込まれて
オモニア広場で数時間立ち往生したことも、付近の催涙ガスのために
シンタグマのホテルから出られなくなったこともありました。

それでも私は怖いと思ったことはありませんでした。
「独裁者」「軍事政権」「アメリカ帝国主義」戦う相手は明確でした。
皆が求めていたのは「民主主義」や「自由」という誰にもわかりやすい対象でした。

しかし、それらを勝ち取り 30年を経た今 
若者をこれほど怒らせているのはなんなのでしょう。
「ユーロ導入後の行き過ぎたインフレ」「社会保障制度の悪化」
「学生の意見とは相容れない大学改革」「現カラマンリス政権の規制緩和により生まれ拡大した格差」
これらは人間の不満や怒りという負のエネルギーを餌に急速に
成長する「社会不安」という名のモンスターです。

閉塞感に息が詰まり怒りを爆発させる若者たちの目にも
攻撃するべき相手の姿ははっきりとは見えていないのではないでしょうか。

インターネットにある73年の学生デモの映像と
現在のデモ隊の映像を見比べていると
強いデジャブ・既視感に襲われます。
そしてそこにある 大きな違いに気づくのです。
長くなってしまったので、その違いについては次のブログで
書くことにしましょう。





ギリシャ記念日

2008-12-06 | 私のギリシャ物語


今日は私の34回目のギリシャ記念日です。

旅の日記をみると
1974年 12月6日 午後2時頃
アテネのエリニコン旧国際空港に到着しています。
生まれて初めての海外旅行。
目的地はギリシャのレスボス島でした。
ひとりで 横浜から船に乗って
荒れる冬のオホーツク海をウラジオストックへ

そこからシベリア鉄道で凍った大地を走り
旧ソ連のモスクワへ

そこからまた列車で旧チェコスロバキアの
ブラティスラーバを経て 
オーストリアのウィーンへ着きました。

ウィーンからアテネへは飛行機でした。

当時ギリシャはとても遠いところでしたが
いったい どれくらい日本から(自分から)遠いのか
その距離感を身体で確かめたいと思って
わざわざ 船と列車を選んで 旅をしていたのに 

なぜ 
ウイーンから飛行機でアテネ入りしたか・・
それにはこんな理由がありました。

ウィーンに一泊して街に出ました。
そこからどのように旅を進めるか
具体的にはまだ決めていませんでした。

どこだったか忘れましたが 街の中心を歩き回っていると
地下鉄の入り口がある円形の広場にでました。

広場に面してオリンピック航空の
オフィスがあるのが目に入りました

ギリシャ人が ここに いるだろうなと思いつくと
もう ドアを開けて中に入っていました。

オフィスの中はがらんとして暇そうでした。

飛行機で行くつもりはなかったので
もし 混みあっていたら 特に用がなかった私には
カウンターの人に話しかける勇気などなかったでしょう。
私はまだほんの子供でした。

背の高い30歳くらいの美しい女性が微笑んでいました。
私は へたくそな英語で、「遠い日本からたったひとりで
旅をしてギリシャを目指している」というようなことを
話した・・・のだと思います。
航空会社のカウンター業務とは関係ないのに
まるで世間話みたいな感じで・・


すると、彼女は不思議な微笑みを私に向け 
カウンターの中からこちら側に出てきました。
その時を想いだすと
彼女がつけていた香水の匂いがよみがえってきます。

なにが彼女の心に触れたのでしょうか

「よくわかったわ。寄り道しないで、まっすぐギリシャにいきなさい」

オフィスを出るとき わたしの手には航空券がありました。
当時(今もかもしれません)
ギリシャの船員は片道で乗船することも多く 
オリンピック航空には
世界中から帰国する彼らのために特別枠が設けられていました。

例えばギリシャ船籍の船が サンフランシスコに停泊中で 
積み荷をプサンへ届けて 仕事が終わるような場合は
目的地で船を降りて もよりのプサンやソウルから
飛行機でギリシャに帰国するのです。

港など どこにもない内陸部に位置するウィーンから
ギリシャへ帰国する日本人の女の子の船員という 
むちゃくちゃな立場で
私は 翌日ガラガラの「オーストリア航空」の
ジェットに乗ったのでした。

え? オーストリア航空?? なぜ?

それはこのブログを続けて読んでいて下さればもうわかるはず・・
よくあることですが 
オリンピック航空はストライキの真っ最中だったのです。

広場のオフィスにいた美しい女性と 
気まぐれなギリシャの神々のご加護(?)で
コードシェア運行をしていたオーストリア航空機に乗り

私は冬晴れのアテネに着いたのでした。

カウンターの人と世間話をするのがごく普通であること
ストだからと いちいち慌てていられないお国柄など
今では良く理解できます。

それにしても物持ちが良いでしょう
上のチケットはその時のものです。

こういうことだから家が片付かないんですけれど
34年も持っていて いまさら捨てられません。






島の女

2008-12-03 | ギリシャから
Sophia Loren - S'Agapo


メリナ・メルクーリ主演の『日曜はダメよ』(1960年制作)が
大ヒットしたおかげで アメリカから観光客が訪れるようになり
第二次大戦で疲弊していたギリシャの復興に大きな力となったことは
ギリシャ通のみなさんご存知でしょう。

実は最初にギリシャに注目を集めたのはその数年前(1957年)
ハリウッドが制作した『島の女』という作品でした。

う~~ん
この邦題がなんとも 良くないですね。

原題は"BOY ON A DOLPHIN" (イルカに乗った少年)
アメリカ映画初主演の ソフィア・ローレンが
野性的で 輝くように美しい。

海底で「イルカに乗った少年」のブロンズ像を見つけた
ローレン演じる「島の女」フェードラは 
それを金持ちに売りつけて 
弟のニコスを大学に進学させてやりたいと思い 
アテネに出てくる。

カフェニオンで偶然見つけたハンサムで誠実な考古学者と、
億万長者の美術品収集家のどちらに協力するか
彼女の気持ちは揺れるが・・・

これから見る方のために種明かしはやめましょう。

ギリシャ語の主題歌も確か
彼女が唄っていたのだと思います。

どこで どういういきさつで
この映画を見たのか もう忘れてしまったのですが

主題歌を聴き
不思議に美しいギリシャ語の音感に初めて触れた 
胸の高鳴りを 今もはっきりと想いだします。

おそらく
私がギリシャの島に恋をする
きっかけとなった瞬間だったのでしょう。

いま観て驚くのは
舞台となったイドラ島です。私の大好きな島で
昨年の夏も数日ですが滞在しました。
 
家の数が驚くほど増えたとはいいながらも
50年という時を経て 島の雰囲気自体はそれほどかわっていません。

 *自動車のないイドラ島の交通手段についてはこちら

残念なことにDVDはなくて
中古のビデオがまれに見つかります。
ぜひ探してみて下さい 
このやさしい歌声を聴くだけでも価値がありますよ。