ギリシャへ そして ギリシャから From Greece & To Greece

ギリシャの時事ニュース、文学、映画、音楽がよくわかる
ギリシャの森林再生を支援する『百年の木の下で』の公式ブログです。

そうだったのか!

2010-03-13 | 私のギリシャ物語
Χωρίς Δεκάρα - Ελένη Βιτάλη


1975年の1月、ギリシャではある歌が大ヒットしていました。
私も、プラカのレコード店でドーナツ盤(知ってますか?)を買って、日本に帰りました。貧乏だったので、お土産はこのレコードとギリシャ語~英語の辞書くらいでしたか。
それこそすり減るほど聴いて、意味はわからないまま、唄えるようになりました。今思えば、この曲こそが、私をギリシャ音楽好きにする洗礼だったのです。

時は流れ、何度か海を渡る引っ越しをくりかえし、そのレコードは私の手元からなくなっていました。曲のタイトルも歌手も、もう思い出せませんでしたが、意味不明の歌詞とクラリネットで始まるメロディーはしっかりと脳に刻み込まれていました。

youtubeができてから、その幻の曲を探して何度か検索してみました。
なにしろ曲名も歌手も不確かなので捜索は難航しました。

ギリシャに行くと、ミュージックショップで出だしを唄ってみて
「この曲ある?」ときいてみるのですが、店員さんは1975年にこの世には存在していなかったような年齢の人たちなので・・不毛な努力でした

ともかく、その一枚のレコードきっかけとなって、私のギリシャ音楽への興味はアメリカやモロッコに住んでいる間も変わることなく、特にライカといわれるポピュラー音楽とギリシャに住むロマの音楽が好きになりました。

ライカではこれまで何度も紹介しているヨルゴス・ダララスとハリス・アレクシウ、ロマの音楽では、コスタス・パブリディスとエレニ・ビタリがお気に入りです。

去年の秋、Youtubeギリシャのロマの歌を検索していて、エレニ・ビタリの映像を見ていたらこの曲が関連映像にあったのです!

1975年に既にエレニ・ビタリの音楽に出逢っていたことを知らず、私はその後も彼女の歌を好んで聴いていたのですから、なんだか不思議な思いがします。

さて、30数年ぶりに聴いて驚きました。

__________________________
Χωρίς Δεκάρα  ホリース・デカーラ
作詞: Βαρβάρα Τσιμπούλη
作曲: Γιάννης Μέτσικας


デカーラもないのにどうやって結婚できるっていうのよ! 
私のマノリさん
聖ヤニスのステファニ(結婚式の花冠)をどうやって手に入れるの?
婚約してもう2年も経つのよ いつまで待たせる気なの
3年目は無理よ 無理!

デカーラもないのに 何を料理しろっていうの
私のマノリさん
愛があるからってお腹がすかない訳じゃないのよ
2年も我慢してるのよ いつまで待たせる気なの
3年目は無理よ 無理! 2年が限界!
__________________________

この「デカーラ」って いったいなんだと思いますか?

料理ができないっていってるんだから 鍋?  
ではありません。デカはギリシャ語の10。友達に「ちょっと、デカーラ貸してよ」といえば「10ユーロ貸して」ということなんです。つまり」貨幣やお札のことで、50ユーロ札はペニンダーラと言います。

この曲が流行った1975年ギリシャの貨幣制度はユーロではなく
デカーラは10ドラクマです。(ああ、懐かしい!)
2001年の切り替え時、1ユーロ=340ドラクマでしたので、
単純に計算すれば10ドラクマは現在の3レプタ(3セント)です。
ギリシャだけではありませんが、時代は確かに変わりました。


婚約者に押し切られ75年に結婚した(?)マノリさんは定年を目前に控え、年金カットに反対して二日前のアテネのデモの列の中にいた・・・かもしれません。
 




たちずさむ時間

2009-12-31 | 私のギリシャ物語
一年の最後の陽が地平線に沈む。
暮れなずめば、掃除の手を停めて
私は空を見上げずにはいられない・・・・

1974年の大晦日 私はミコノス島行きのフェリーの甲板にいた。
暮れても真っ黒にならない濃い紺色の夜空と
それを映し出す群青の海のふれあうあたり、
煙をなびかせてフェリーは進んでいた。

満月ではないおおきな月が出ていた。
まるでバースデーケーキのように真っ白な小島が
見えたときは、心が躍った。

濃い群青の海の上、遠くを行く大型船は 
すべての照明を灯し、準備の整ったオペラ劇場のようだった。

フェリーは湾の外に碇を下ろし、私たち乗客は甲板に並んで
小型船が迎えにくるのを待っていた。当時のミコノス港は水深が
浅く、大型船は着岸できなかったのだ。

やってきた迎えの船は驚くほどに小さい。私たちはこれから
風の穏やかな・.とはいえ 冬の夜の海に揺れる小舟めがけて
飛び降りるのだ。

小舟には 旅客や投げ下ろされる荷物を受け止めようと
屈強な船員が身構えている。しかし、
飛び降りるのが若い女性の時と、太ったおじさんでは
受け止める船員側の意気に明らかな違いがあるように見えた。

大晦日の夜中の船旅をする人は、帰郷する兵士や地元出身者が
ほとんどで、迎えにきた家族に抱きかかえられるように家路についた。

船着き場に残されたのは私とオーストリアから来た少年たちの
グループ。なかに少女のようにかわいらしい男の子がいた。
インゴーという名が、バラ色の頰をした彼にふさわしくない
ように思えて、私は彼をウィーン少年合唱団と呼んでからかった。

黒ずくめの小柄なおばあちゃんが近づいてきて
「ユー・ズリープ?カム、マァーイ、ハウズ。」といったので
泊まるところあるよ、うちにおいでという意味だろうと、
私たちは「ネー、ネー(はい、はい)」と真っ黒なカラスのような
いでたちのおばあちゃんの後ろにくっついていった。

迷路のような細い道をくねくね行ったところにあったのは
おばあちゃんも腰を屈めるくらい小さな青いドアがついた、
でも中は暖かくて居心地のよいペンションだった。

荷物をおろすと早々に、
「少年合唱団」と一緒に冒険に出かけた。大晦日の真夜中、
静まり返った中で、奇跡的に空いているカフェニオンを見つけ
みんなで乾杯した。といってもそれぞれ一杯だけ。
若くて貧乏というのが、私たちの唯一の財産で共通点だった。

カフェニオンを出て はたと立ち止まった。
周囲は真っ白な建物ばかり、目印など見当たらないのだ

私たちはカンで歩きはじめたが、すぐに同じところを
ぐるぐる回っていることに気がついた。

壁も道も真っ白な世界、薄い青の空気と影。
まるで氷河でできた街のようだ。

インゴーが「おばちゃんちは青いドアの建物だったよ」と
役に立たないことをいう。
ここは青でないドアの家のほうが少ないのに・・

でもそんなに遠いわけないよ
私たちは思いつく限りの、ありとあらゆるジョークを
小声で話しながら青い氷でできたような世界を歩き回った。

どのくらい歩いたのだろう。迷って困っているはずなのに
心から楽しくて、私は一生ずーっと、このまま歩いてても
いいなぁと思っていた。

遠くからスニーカーの私たちとは違う、
コツコツという靴音が聞えてきて、曲がり角から、
ちっちゃなエレニおばあちゃんが姿を現した。

迎えにきてくれたおばあちゃんと家に戻り、新年を祝う
バシロピタをごちそうになった。幸運をもたらすという
コインが当たったのは、あのインゴーだった。

たちずさむ時間を私たちは記憶と呼ぶのだろうか。

もしあの時、エレニおばあちゃんが探しにきてくれなかったら
私たちはあの青く透き通るミコノスの迷路を笑い声を上げながら
いまも歩き続けているのかもしれない。

記憶はいつも時間の流れの中に立ちずさんで、
あなたが思い出して、迎えにきてくれるのを待っている。

真っ白な碧い影のミコノスの迷路、角をまがると
あのときの私が、今の私がくるのを待っているのかもしれない。
そう思って、毎年大晦日の夜空を仰ぐ。
今夜は どうやら 満月らしい








哲学タクシー

2009-12-21 | 私のギリシャ物語


今年の夏は都合で 短期間にアテネ~東京を2往復
することになってしまいました。

おまけにエレフテリオス・ヴェニゼロス空港
(世界一長い名前の空港かも)から市内への
直通の地下鉄は工事中で、途中までバスでいって、
乗り換えなければなりませんでした。
 
座りっぱなしの足は、地上を踏みしめ歩きたがっているけれど
日本からの長いフライトで疲れきった身体はフラフラと、
普段は乗らないタクシー乗り場のほうへ
むかってしまいました。

空港からのタクシーは乗り場におよその料金が書いてあります。
ケンドロ:市の中心へ 35-40ユーロ。 

タクシーに乗ると、アテネに住んでいるふりをするし、
降りる場所も友人の住むアパートの前、ホテルではないので
料金をごまかされたことはありません。

乗せてくれたドライバーはハンドルがお腹につかえそうな
中年の男性でした。
彼はこのところ家族の問題で悩んでいました。
彼の妻側の親戚の悪口が車内のBGM。
こういうときにも無視できない小心な私。

疲れきった頭で ぼーっと聞きながら
「そうなの、まぁ大変ね。大丈夫、大丈夫、
きっと良くなるわよ」と
慰め続けた時間の長かったこと・・・・

私はなにか意味のあることでも言ったのでしょうか?
振り向いた彼の顔が明るくなっていました。
(それより、前を見て運転してください、前を・みてね・)

アテネで心療内科、あるいは精神科医を訪ねると
費用はいくらくらいかかるんだろうと考えると、
降りる時 こちらが料金をもらいたいと思いました。

しかし、久しぶりのギリシャ、楽しく過ごして、
悩めるドライバーのことはすぐに記憶のブラックホールへ
消えて行き・・

「身の上話タクシー」を思い出したのは、それからちょうど
ひと月後、今度は友人宅から空港へ向うタクシーに
乗ったときでした。

ドアを閉めたら、強いオーデコロンにむせそうになりました。
ドライバーは若い男性。政府は数日前にくりあげ総選挙を
発表したばかりでした。

タクシードライバーでカッパ・カッパ・イプシロン 
KKE(ギリシャ共産党)の活動家で 
なおかつ 夜はブズーキ奏者だという彼の
「21世紀における共産主義の具現」という
持論を拝聴することになりましたが、
それはなかなか興味深い時間でした。
街なかを乗るタクシーでは、
会話がここまで発展する暇がありません。

「共産主義社会で音楽家や芸術家はどうやって生計を立てるの
ソビエトの国家主義みたいなギリシャ音楽なんて
ありえないんじゃない」という私の質問に
「いや、共産主義と自発的芸術は共存できる。
それは・・・」と彼が答えようとした時、
空港についてしまったので、

「ちょっと降りて、中のカフェで、その話の続きをしない?」と
いったのだけれど KKEの青年ブズーキ奏者には
「新」共産主義の普及よりも今日の稼ぎのほうが
切実な課題だったのでしょう「いやぁ、またいずれ」と
「政治タクシー」を走らせて去って行きました。

ちょっと残念。絶好のギリシャ語武者修行だったのに・・。
ちなみに料金は空港からより安く、28ユーロでした。

ギリシャ語ができないからといって、話しかけられないだろうなどと
タカをくくっていてはなりません。
アテネのタクシー運転手の大多数は英語が「堪能すぎる」のです。

アテネに住んでいる知り合いのイギリス人がこんなことを言っています。
「困ったよ。最近は両親がイギリスから訪ねてきても、
車内でドライバーにレクチャアされるのがいやだって・・・
タクシーに乗るのを嫌がるものでね。迎えに行かなきゃならないんだ。」

私はまったく逆です。 

初めて会った人と、ある程度の時間、議論する面白さに 
はまってしまいました。

「身の上話タクシー」「政治タクシー」の次に
私を待っているのは「哲学タクシー」のドライバ-にちがいない。

よおし、今から勉強しておこうっと。




今日のギリシャ語
KKE Κομμουνιστικό Κόμμα Ελλάδας,





35周年

2009-12-09 | 私のギリシャ物語
ΛΕΣΒΟΣ



1974年12月6日 アテネに着いた私は
初めて見るこの汚れきった街にショックを受けていました。

何もかも予想と違っていましたのです。
海沿いにあったエリニコン空港からアテネ市内へむかう
リムジンバスの窓から見える町並みは
1950年代に建てられた 醜いPost-War建築の
群れで、なんだか薄汚れていました。

排気ガスに曇ったそんな惨めな建物と建物の間に見える
狭い空間からなにか白いものがチラっと見えたと思ったら・・
パルテノン神殿でした。

なんて、アンチ・クライマックスな出会いだったでしょう。
四国 松山の図書館で、横浜の港で、荒れるオホーツク海で、
雪に埋もれたシベリアの平原で、凍ったモスクワ川で
夢見ていた瞬間はあまりにもあっさりと訪れたのでした。

今と違ってgoogle earthも「地球の歩き方」もなかった時代。
東京の観光局で貰ったパンフレットで見たアテネと
目の前の街はかけ離れていました。


それもそのはず 同年7月に軍事政権が崩壊し
王制に戻るのか、共和国になるかを選ぶ国民投票を
二日後にひかえ、街は混乱の極みにあったのです。

歩道に舞い散るビラ、街の建物のあらゆる壁に、
バスの車体に殴り書きにされた政治的メッセージ。

ギリシャ語がまだ少しもわからなかった私には
デモの群集がさけぶ声も カフェで議論する人びとの会話も
荒々しく聞え、身振り手振りで大声を出す彼らが
いますぐ お互いに殴り掛かるのではないかと
思えてとても怖かったのです。

シンタグマで偶然知り合った日本人の大学院生が
私をツーリストオフィスに連れて行ってくれて 
レスボス島行きのフェリー・チケットを買うのを
手伝ってくれました。

ドイツに留学中だった山口さん。山下さんだったかもしれません。 
もしも、このブログをご覧になっていたらぜひ連絡ください。
改めてお礼を申し上げたいです。
たしか、神学を専攻しておられて、アトスの修道院巡りへ行く
途中だったと記憶しています。今はどこにおられるのでしょう。

翌日私をレスボスに運んでいってくれたのは
サッポーという名のフェリーでした。
選挙のために故郷へ帰る人びとと兵士で船は満員。

キプロス紛争の最中、トルコから数キロのレスボス島は
戦略上重要な拠点で全国から兵士が集められていました。

そして、そのトルコの山あいから登る朝日に輝く
レスボス島ミティリーニの港についたのは
12月8日早朝 ディーゼルの匂いのするフェリーから
島に降り立って、冬の晴れた空、松林の中の城、
穏やかな港の水面を見たその時
ほんとうに不思議なのですけれど
「あぁ、やっと帰ってきた」という感覚に
とらわれてしまったのです。

そしてまさにその日 国民の大多数に支持されて実現した
共和国ギリシャの誕生という歴史的瞬間に 
私は思いがけず立ち会うこととなったのでした。

さて
youtubeにはレスボス島の映像がたくさんありますが
この映像が気に入ったのはΜικρα Ασια_小アジアの古歌
ζιβαερι μου_ジバエリ・ムウ(私の大切な人)の
東方のメロディーラインと、ゆったりしたリズムが
レスボス島にいちばん似合っていると思うからです。








時間の残酷

2009-11-16 | 私のギリシャ物語


著書『ギリシャ愛と詩の島』を読んで下さった方々に後日譚をひとつ。

ギリシャ人が語る12の物語からなるこの本。
その最初の3話に登場するのがディモス・ナッソスで
1919年生まれの彼は今年91歳。 
ギリシャの友人の中でも最高齢だ。

レスボス島のモリボスにいくと必ず彼を訪ねるけれど、会いにいく前の日は
決まって怖い。「ディモスは亡くなったよ」と告げられるのが怖いのだ。

若いときは美丈夫だった彼も80を過ぎて心臓のバイパス手術をし、
足腰も弱ってきて 一日のうち数時間しか彼の王座に座ることはない。
彼の王座とは 娘夫婦に譲ったレストランの前におかれたテーブルのことだ。

モリボスの港を見下ろし、緑濃いトルコの山影を望む、その場所で 
彼の思い出語りは私をコンスタンティノポリスのスパイスバザールへ、
燃え上がる1922年のスミルナへ、
ナチと戦うパルチザンの山奥の隠れ家へと連れて行ってくれた。

彼の話を聞きながら、自分の父の思い出話をなぜもっと
聞いてあげなかったのだろうと心が痛む。

どこの国でも この年代の人々は物語の宝庫であり、聴く耳さえあれば
おしげもなく とっておきのストーリーを語ってくれる。

ディモスにはもうそれほど 長い未来はないだろうと私も思っていた。
でも 彼は実によく生きた。スミルナから両親の腕に抱かれて脱出し、
様々な職業をこなし、モリボスに駐屯したナチの裏をかき 
戦後初のレストランを村に開いた。

私が出会った時 彼は83歳だった。
長年連れ添った妻マリアは白髪になったが壮健で
レストランを継いだ娘を助けてキッチンで料理をしていた。

ふたりの息子はそれぞれメインストリートに店を持ち孫も大勢いる。
彼ら家族に見守られて 穏やかな最後を満足とともに迎えるだろう
と誰もが考えていた。


今年の7月、「元気そうね、よかったわ」と
久しぶりにあったディモスにカメラを向けると
彼は耳もとに花を挟み
「あぁ このとおり私は元気だよ。」と微笑んだ。

キッチンに妻の姿がないので、
「マリアはどこなの?」と私が訊くと
「マリアは出かけていてな・・・私はここで待っているんだよ」
「もう3年になる・・・」

2年前の冬 彼の妻はクリスマスのクッキーを焼いていた。
マリアのクレアビディスは最高だと、村の誰もが知っている。
夕方、家の中を甘い香りが満たし、雪のような粉砂糖をまとった
クッキーがたくさん出来上がった。 
「エレニさんのところへお裾分けにいってくるわ」と
マリアはいった。

「5分で戻るからと出ていって、二度と戻ってこなかった。
この先の石段で転んで頭を打って、あっけなく死んでしまった。」
ディモスはもう微笑んではいない。
「心臓が悪い私がこうして90歳を超え 
一度も医者にかかったことがなかったマリアが
さよならも言わないで逝ってしまうなんて・・・」

私はなんといっていいかわからなかった。
先に亡くなるのはディモスと私も思いこんでいた。

「娘は良くしてくれる、だがね、妻を亡くして私はひとりになってしまった。
マリアと最初にあったのは彼女が3歳の時だった。近所で育った幼なじみの
私たちは結婚して70年間一緒だったんだ。マリアなしで、私はもう私ではない。
とるにたらない誰かになってしまった。それでも生きていかねばならない、
元気だけれどね。これほどつらいことはないよ」


時として 
時間はとても残酷な運命を用意している。
 






スコペロス島の夜

2009-10-18 | 私のギリシャ物語
sthn bzoukia Kastro, Skopelos



泊まっていたペンションのベランダから海の方を見ると
古い城壁が見え 独立戦争の時の旗が風になびいていました。

夜が更けて2時頃だったか
もうそろそろ寝ようかなと思っていると どこからともなく
風に乗って ブズーキの音が聞こえてきます。
生演奏のようで 男性の歌声も聞こえます。

良いな どこだろう 
早速 友人たちと 音をたよりに
暗い旧市街の細道をくねくねと下ったり 
またのぼったりして・・ 辿り着いてみると

それは 私たちのペンションから見えた城壁の
あの旗の真下です。「カストロ_城」という店でした。  
 
店といっても全席屋外で、建物らしきはキッチンとトイレだけ、
簡素なテーブルに椅子を並べた夜空の下は満席です。

スポラデス諸島では名の知れたミュージシャン
とふたりの若者が古いレンベティコを演奏しています。

入り口でちょっとためらっていると
「さあ こっちへおいで、おいで」と手招きされ
地元の人が席を詰めて、テーブルを譲ってくれました。

夜風にエレフテリ(自由か死か)の旗がなびき 
音楽が星へはこばれていきます。

振りむいてみると 私たちの泊まっているペンションの
レモンが実るベランダがよく見えます。なんと
迷わずにきたら 3分もかからないような距離でした。

その日は ちょうど一緒に旅していた友人の誕生日
ワインで乾杯しました。

このあと 店の支配人が さらにワインをごちそうしてくれ

だんだん演奏が盛り上がり 踊りだす人も出て・・
私たちが 険しい城壁を下る近道をして
部屋にもどったのは 明け方近くでした。

支払った料金は ひとりワインを2杯ずつ飲んで
3人で15ユーロ(2000円ほど)
物価の高くなったアテネでは考えられないですね











ギリシャ記念日

2008-12-06 | 私のギリシャ物語


今日は私の34回目のギリシャ記念日です。

旅の日記をみると
1974年 12月6日 午後2時頃
アテネのエリニコン旧国際空港に到着しています。
生まれて初めての海外旅行。
目的地はギリシャのレスボス島でした。
ひとりで 横浜から船に乗って
荒れる冬のオホーツク海をウラジオストックへ

そこからシベリア鉄道で凍った大地を走り
旧ソ連のモスクワへ

そこからまた列車で旧チェコスロバキアの
ブラティスラーバを経て 
オーストリアのウィーンへ着きました。

ウィーンからアテネへは飛行機でした。

当時ギリシャはとても遠いところでしたが
いったい どれくらい日本から(自分から)遠いのか
その距離感を身体で確かめたいと思って
わざわざ 船と列車を選んで 旅をしていたのに 

なぜ 
ウイーンから飛行機でアテネ入りしたか・・
それにはこんな理由がありました。

ウィーンに一泊して街に出ました。
そこからどのように旅を進めるか
具体的にはまだ決めていませんでした。

どこだったか忘れましたが 街の中心を歩き回っていると
地下鉄の入り口がある円形の広場にでました。

広場に面してオリンピック航空の
オフィスがあるのが目に入りました

ギリシャ人が ここに いるだろうなと思いつくと
もう ドアを開けて中に入っていました。

オフィスの中はがらんとして暇そうでした。

飛行機で行くつもりはなかったので
もし 混みあっていたら 特に用がなかった私には
カウンターの人に話しかける勇気などなかったでしょう。
私はまだほんの子供でした。

背の高い30歳くらいの美しい女性が微笑んでいました。
私は へたくそな英語で、「遠い日本からたったひとりで
旅をしてギリシャを目指している」というようなことを
話した・・・のだと思います。
航空会社のカウンター業務とは関係ないのに
まるで世間話みたいな感じで・・


すると、彼女は不思議な微笑みを私に向け 
カウンターの中からこちら側に出てきました。
その時を想いだすと
彼女がつけていた香水の匂いがよみがえってきます。

なにが彼女の心に触れたのでしょうか

「よくわかったわ。寄り道しないで、まっすぐギリシャにいきなさい」

オフィスを出るとき わたしの手には航空券がありました。
当時(今もかもしれません)
ギリシャの船員は片道で乗船することも多く 
オリンピック航空には
世界中から帰国する彼らのために特別枠が設けられていました。

例えばギリシャ船籍の船が サンフランシスコに停泊中で 
積み荷をプサンへ届けて 仕事が終わるような場合は
目的地で船を降りて もよりのプサンやソウルから
飛行機でギリシャに帰国するのです。

港など どこにもない内陸部に位置するウィーンから
ギリシャへ帰国する日本人の女の子の船員という 
むちゃくちゃな立場で
私は 翌日ガラガラの「オーストリア航空」の
ジェットに乗ったのでした。

え? オーストリア航空?? なぜ?

それはこのブログを続けて読んでいて下さればもうわかるはず・・
よくあることですが 
オリンピック航空はストライキの真っ最中だったのです。

広場のオフィスにいた美しい女性と 
気まぐれなギリシャの神々のご加護(?)で
コードシェア運行をしていたオーストリア航空機に乗り

私は冬晴れのアテネに着いたのでした。

カウンターの人と世間話をするのがごく普通であること
ストだからと いちいち慌てていられないお国柄など
今では良く理解できます。

それにしても物持ちが良いでしょう
上のチケットはその時のものです。

こういうことだから家が片付かないんですけれど
34年も持っていて いまさら捨てられません。






パナヨータ

2008-11-25 | 私のギリシャ物語


δρόμο δρόμο:ロマの女性と子供たち

パナヨータ
小さなわたしの友達
どこにいるのだろ

レスボスの通りで
ロマの少女を見る度に
あなたのことを憶う

そして気づく
あなたはもう小さくも
10歳でもないと

そして
あなたの30年を想う

金歯のロマの
よく肥えた中年の女性が 
祭りでにぎわうカフェニオンの
テーブルからテーブルへと声をかけ
近づいてくる

「あなたの運勢を占いますよ」
といっているのか それとも
「手編みのレースはどう 安くするわ」

花もようの長いスカートが
太い腰まわりに揺れる
編んだ長い髪を覆うスカーフを
直す手が陽に焼け 荒れている

「パナヨーティ パナヨタキ! 
あなたでしょ?」
思わず声が出そうになる私に
あなたは決して気づかない

私たちの時間は 海の蒼さに溶込んで 
空に映し出され 風が運んでいった

パナヨータ
私たちは出会っただけで 
知合うことができなかった

パナヨタキ 小さなパナヨータ
私の中のロマの娘
今も旅を続ける

δρόμο δρόμο 
といいながら




*δρόμο ギリシャ語で「道」あるいは「旅」





シミ島の過去と現在2

2008-08-25 | 私のギリシャ物語
       
         SymiVistorを通して私たちが借りた家           

「ギリシャの小さな島協会」の会長さんによると
ギリシャには大小あわせて約6000の島があるそうです。

もう ウン10年もギリシャに通っていても
行ったことがない島が まだまだ たくさんあります。

夏のハイシーズンにギリシャへ行くときは
空港のない 小さな島を選びます。(第ニのふるさとレスボス島は特別)

つまり格安のチャーター便で押し寄せて来ては
毎夜飲んだくれる 北ヨーロッパからの観光客が来ないところ。

ピレウスからシミ島への直行便は週に2便。ドデカニッサの島々に寄港しながら、ロードス島を目指すので、15.6時間もかかります。
直行便のない日は、ロードス島まで大型高速フェリーで行って
ドルフィンという水中翼船にとび乗るか、
のんびりと進む、小型フェリーに乗り換えるか
飛行機もロードス島まで、後は船のみです。 

羽田→関空→ドバイ→アテネ・エレフテリオス・ベニゼロス空港と
18時間の旅の後、ブルースター・フェリーのキャビンで
シャワーを浴び、ギリシャ仕様の服に着替え、レストランで
田舎風サラダとよく冷えた白ワインで腹ごしらえをしてから、
デッキに出ました。

7時にピレウス港を出た船は夕陽が沈む頃、
ワイン色のエーゲ海の波を切ってスニオン岬の南を、進んでいます。

うす紫に染まる水平線に目をやると、
顔中の筋肉がじわぁ~っとほころんできます。
ワインのせいではありませんよ。
私にとって、この瞬間以上の幸せはどこにもありません。

さてシミ島との不思議な出会いと、島の歴史は以前に書きました。
読んでない方はこちら Dreaming of Symi1 シミ島の過去と現在1


複雑な支配の歴史の混乱の中もこの島の人たちは、
ネオクラシックの家並みが立ち並ぶ美しい景観を大切に保存してきました。
そして、重要なのは、通り過ぎる観光から、滞在、体験型の観光に変えたことです。この島には訪れる人を村の住人になったような気にさせる素敵な
演出が揃っています。

海賊の襲撃をおそれたギリシャの島々では海から遠く見晴らしの良い
高台に集落を作るのが伝統でした。

シミ島も港があるイェロスからホリヨ(村)へカリ・ストラーダという
石段をのぼって行かなければなりませんが、
公称500段という石段をたどり、歴史のある美しい建物の間を
一歩一歩のぼって行くことが、村人として受け入れられるための
儀式であるかのようです。まるで絵の中に入って行くような不思議な感覚。

私たちもホリヨ(村)にネオクラシックの家を借りました。
朝とことこと歩いてパンを買いにいく村の小さなベーカリーも
スイカやチーズを買う店も、カフェニオンも、特に
観光客のためにある訳ではなく、普通の村人と同じ暮らしです。

ディズニー・ランド的エンタテインメントの対局にあるもの
それこそがギリシャの小さな島の魅力だと思うのです。


Symi Visitor/シミ島案内
シミ島への船の時刻表
ブルースター・フェリー時刻表

シミ島の過去と現在1

2008-08-16 | 私のギリシャ物語



優秀な3隻の船を提供し、トロイア戦争に参戦した王として
シミ島の王、ニレウスは『イリアス』に登場しています。

なんと、ニレウスはトロイに向かった全軍の中でも 
アキレウスに次ぐ美男、とホメロスは讃えています。
どんなひとだったのでしょうか・・想像力を刺激されます。

ヘロドトスの記録によると紀元前5世紀、
シミ島はペルシャ軍のクセルクセースに30隻の船を提供する
責務を与えられたといいます。古代からこの島が造船技術に
優れていたことがよくわかりますね。

クセルクセースが戦に負けて去ったあとは
アテナイがこの島を押さえ武器を蓄ておく基地として
使っていたとツキディディスは書き残しています。

ギリシャの島々の歴史は どの島でも 
時の権力者の手から手へと 
その所有権がかわっていくのが普通ですが
シミ島が独特なのは、ビザンチン、ロードス騎士団、
オスマン(トルコ)帝国、イタリアと権力がかわる度に、
その美しさを増していくことです。

オスマントルコの植民地時代、
イスタンブール/コンスタンティノープルに
物資を納入していたシミ島は特別の庇護と免税の優遇を受け
多くの富を蓄えて栄えます。

ところが、オスマン帝国が崩壊し、イタリアが1912年に島の領有権を持つと、
その富は本国に持ち去られ、島の経済は疲弊します。
そして職を求め多くの人がアメリカなどに移民し、
人口は一挙に減少するのです。

第二次大戦中はナチスドイツに占領され、
島の人々の暮らしは飢餓の一歩手前まで困窮します。
島が晴れてギリシャに返還されたのは戦後の1948年のことでした。

続く


Dreaming of Symi 2

2008-08-12 | 私のギリシャ物語

                   SYMI お気に入りのカフェニオン


「今年はSymi島へ行こうよ」と最初に言い出したのはK。それにDも私も賛成。

数年前 スペッツエ島で開かれたギリシャ語の集中講座で知りあった私たちは
その後かけがえのない友人となり 毎年7月をともにギリシャの島で過ごしています。

日本に住む私、アメリカに住むKは教育者。ドイツに住むDはデザイナー。
年齢も国籍も見た目も異なる私たちがかなり流暢にギリシャ語を話すので
昨年の夏を過ごしたパトモス島では
「アポ・プー・イステ?どちらから来られましたか」と
島の人たちが不思議そうな顔をしたものです。

そんなときは
「私たちの父はギリシャ人の船員で、船が寄港する先々でこどもを作ったの」と
冗談を言って笑わせようとしたのですが、
「まあ、やっぱり」とか「なあるほどね」という反応もあって
もしかして、よくあることなのかしらと考えてしまいました。

以前このブログで書いた

物語の生まれるところ

の美女伝説のように
数年後パトモス島にいってみると日本人、アメリカ人、ドイツ人の
「美女」三姉妹伝説がまことしやかに語り継がれているかもしれません。

さて、今年は泳いだり、散歩したり、絵を描いたりというだけでなく
毎日少しずつ ホメロス/オミロスの『オデッセイ』を3人で読みました。

考えてみれば この物語、主人公「オデッセウス」がいく先々で 
一つ目の人食い怪獣と戦ったり 船が難破したりといった苦労ばかりでなく
美女のニンブに恋されたりしていて、

「それでも 僕はがんばって君のもとに戻ったんだよ」という
帰りが送れた夫が妻に語る壮大な言い訳みたいです


それはともかく、夕方涼しい風が吹く頃
葡萄棚の下 港を見下ろすテラスの南側の空を
若い月がゆっくりと移動してゆく 薄暮のなか 
Kの静かな朗読の声が、私たちをワイン色のエーゲ海にいざない・・・
というのが理想だったのですが、なかなかそうはいきませんでした。

ひっきりなしにこどもらを怒鳴りつけるガミガミばばあが
近所に住んでいたからです。私たちはこの人を「サイレーン」
となづけ、恐れました。

そんな状況でも
この物語が読むためでなく、聴いてもらうために作られたことが
実によくわかりました。 

みなさんも是非どなたかに朗読してもらって、
あるいはご自分の朗読を録音して聴いてみて下さい。



Dreaming of Symi 1

2008-08-09 | 私のギリシャ物語
Photo from The Symi Visitor


もう、ずうっと以前のこと。 おそらく私はまだ20代でした。
ギリシャで夜航のフェリーに乗っていました。

周囲の人がざわざわと動き出す気配で目が覚めると、
船がどこかの島に着くようでした。下船する人たちは階段を下りていき、
旅を続ける私は眠い目をこすりながら階段を上がって甲板に出てみました。

朝早かったのを覚えています。もやの中に不思議な景色がありました。
入り組んだ 細長い湾をぐるっと囲んで、
淡いピンクやブルー、パステル色に塗られた小さな四角い家々が
小高い山の頂上まで積み木のように重なり積み上げられているのです。 

ピンクの家の窓が黄緑だったり、
卵色の家の日除けが淡い紫色だったりしました。
こんなにも美しい島があるのだと見とれていて、
うっかりと島の名を聴き忘れた私は、その後、何度、船旅をしても
その景色に再び出会うことはなかったのです。

時が流れ、思い出はより美しく熟成していきました。
朝もやの中でかいま見たパステル色の町並みは
決して色あせることはありませんでした。 

しかし、どこにあるかわからない、名前すらしらない島。
いつのまにか、夢で見た景色だったのかもしれない、と
思うようになっていました。 

今度の旅でロードス島で乗り換えた船が 汽笛を鳴らし
面舵を切って、小島の陰に隠れたシミ島のイァロの港に
入って行くまでは・・・。

ーーーーー続く

物語の生まれるところ

2008-06-27 | 私のギリシャ物語
          photo by Chris Kanellis

「へぇ、日本人なの、じゃあ アキコを知ってる?」
カフェニオンや タベルナ、食料品店で
アイスクリーム屋さんで
行く先々で何度も 同じことを尋ねられた。
去年の夏 パトモス島でのことだった。

アキコは長い髪をしている
・・・・・・・らしい
そしてアキコは大型のクルーザーに 
イタリア人の夫とともに暮らしている
その夫は大富豪 
・・・・・・・らしい

アキコの住むクルーザーは島の東の外海に
錨を下ろしていることが多く
港に入ってくることはない
・・・・・・・らしい

アキコは時折 小さなボートで島へ来る 
タベルナで見かけたという人もいる
・・・・・・・らしい

パトモスにいた2週間の間
実際にアキコを見たという人には会わなかったが

誰もが口を揃えていうのだ。
「アキコは絶世の美女だ」と。

場所は変わって レスボス島
この島のエレソスという村にユキという名の
日本人女性が住んでいたことがあると聞いた

夫はドイツ人のマジシャンで
ユキは ステージで箱の中に入って
お腹を切られながら微笑むというような
アシスタント役をしていた
・・・・・・・・らしい
夫はドイツではかなり有名なマジシャンだった
・・・・・・・・らしい

ユキと夫はある夏ふらりと現れ
村が気に入って 住み着いたのだったが

村の男たちの熱い視線が ユキに
注がれることに 気をもんだ夫は
ユキを連れ 対岸にあるトルコのアイバリック
へと引っ越していった
・・・・・・・・らしい

大きな屋敷を買って住んでいるユキの美貌は
アイバリックでも 知らない人はいないので
港で 「ユキの家」というと 
タクシーが迷わず連れて行ってくれる
・・・・・・・・らしい

ユキに実際に会った人も 写真も見つからなかったが

「ユキほどの美女はほかにいない」と村の人は口を揃えていう。


異なる文化を運ぶ無数の旅人が足を止めた
歴史的 地理的な背景からか
ホメロスが語ったように
多くの物語が生まれた

そして その伝統は
今も 話し好きのギリシャ人の感性に受け継がれ
物語りを作る 「かたる」力に優れているのだろう


彼らの話を聞いていて あきることがない
この夏はどんな話をしてもらえるのか
楽しみにしている




不思議な体験

2008-03-24 | 私のギリシャ物語
            PHOTO BY YAHOO NEWS giz-ent

この写真はギリシャではないのですが、見た時、
ギリシャでの不思議な体験を想いだしました。

それは、2003年執筆のためにレスボス島のペトラという村で
ひと夏を過ごした時のこと。

隣の村モリボスへ行こうと夜明けと同時に家を出て、
海沿いの道を歩いていました。

朝早く、ギリシャの海辺を歩くくらい
楽しいことは、他にこの世にありません。

空気は冷たく、新鮮な土や夏草の香りに満ちています。
まだ村は眠っています。
ツバメだけが薄紫色の空を忙しく飛び交っていました。

ペトラ村のはずれの、道が上り坂になるあたりまで来たとき、
どこからか音楽が聞こえます。

不思議に思って見回すと、私の立っている崖の真下あたりに
古いトラックがゆっくりと走っています。

そして、ちょうどこの写真のようにテーブルを囲んだ人々が
和やかに食事をしていたのです。
そう、トラックの荷台の上で..。

ブズーキやアコーデオンを演奏している人たちも載っていて、
楽しげな曲を演奏しながら、そのトラックはゆっくりと村の反対方角へと
走ってオリーブの林の中へ消えて行ったのでした。
音楽もだんだん遠くなり、しばらくすると聞こえなくなりました。

あの人たちはいったい誰だったのだろう、
そして、どこへ行ったのだろうと、今でもふと考えてしまいます。

ドラクマは遠く

2007-12-08 | 私のギリシャ物語
       今もそれほど変わっていないLESVOSのMYTILENE

1974年初めてのギリシャ、海外旅行も初めてでした。横浜から船でウラジオストックへ、長いシベリア鉄道を旅し、旧ソ連のモスクワから旧東欧を通り、アテネにたどり着いたのは日記で見ると12月6日のこと。12月8日の朝、私はLesvosMytileneにいました。もう33年もたってしまいました。

日本円が変動相場制になったばかりで、1ドルは290円もしました。
両替の証明書が残っています。5000円で460ドラクマ、1ドラクマ約9円でした。

おこずかい帳を見ると初めて使ったギリシャのお金はシンタグマ広場の角で売っていたごま付きのわっかパン。1個3ドラクマ/27円でした。今いくらでしょう?

ほかにはテロピタ/チーズパイ6ドラクマ/54円とあります。

40ドラクマ/360円あれば、ムサカとサラダ、ビールにデザートまで食べられました。

バス電車ともに4ドラクマ、まだまだ貧しい人が多かったギリシャ、蓄えのない労働者の為に、早朝の電車は無料でした。

なぜこんなことを書いているかというと、 ギリシャでは11月の物価上昇が過去2年で最も高い4%に達し、生活必需品の多くが10%も値上がりしたというニュースをギリシャのインターネットラジオomorfipoliで聞いたからです。

「あ~ドラクマの時代が懐かしい」とため息をつくのは私だけでなく、同じように思っているギリシャ人も実は多いようです。