歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪嵐山光三郎『追悼の達人』を読んで 私のブック・レポート≫

2019-12-31 10:18:29 | 私のブック・レポート
≪嵐山光三郎『追悼の達人』を読んで 私のブック・レポート≫




【はじめに】


年末になると、その年の出来事を振りかえざるをえない。新聞では、「墓碑銘2019」と題して、平成が幕を下ろし令和へと踏み出した2019年に、旅立った人々を特集していた。



国内の俳優では、
・かれんで上品な女優八千草薫さん(88歳、10月24日)
・“高島ファミリー”の顔だった高島忠夫氏(88歳、6月26日)
・映画「羅生門」や「雨月物語」に出演した京マチ子さん(95歳、5月12日)
学術分野では、
・日本国籍を取った米コロンビア大名誉教授ドナルド・キーン氏(96歳、2月24日)
・戦後日本を代表し、「梅原日本学」を打ち立てた哲学者の梅原猛氏(93歳、1月12日)
ジャーナリストとしては、
・海外紀行番組の案内役だった兼高かおるさん(90歳、1月5日)
スポーツでは、
・歴代最多の400勝を達成したプロ野球選手の金田正一氏(86歳、10月6日)
以上の人々が、80代~90代で亡くなられた人々として、印象に残っている。

目を海外に転じてみると、
政治家として、
・欧州統合の深化に貢献し、また大相撲を愛した親日家のフランス元大統領ジャック・シラク氏(86歳、9月26日)
芸術・芸能の分野では、
・ヒチコック映画「知りすぎていた男」で歌った「ケ・セラ・セラ」を大ヒットさせた米歌手ドリス・デイさん(97歳、5月13日)
・映画「イージー・ライダー」で若者のシンボルとなった米俳優ピーター・フォンダ氏(79歳、8月16日)
・イタリア映画の名匠フランコ・ゼフィレッリ氏(96歳、6月15日)は、女優オリビア・ハッセーを見いだし、代表作「ロミオとジュリエット」の主役に起用した
・映画「シェルブールの雨傘」の音楽を手掛けたフランスの作曲家ミシェル・ルグラン氏(86歳、1月26日)
・「ボサノバの父」と呼ばれ、「イパネマの娘」が大ヒットしたブラジルの歌手ジョアン・ジルベルト氏(88歳、7月6日)
そして学術・文化の分野では、
・近代世界を単一システムと捉える「世界システム論」の提唱者として知られる米イマニュエル・ウォーラーステイン氏(88歳、8月31日)
・パリのルーヴル美術館入り口の「ピラミッド」を設計した米建築家イオ・ミン・ペイ氏(102歳、5月16日)
以上の人々は、私の記憶に留め、別れを惜しみたい人々として、印象に残った。




さて、私にとっての一番大切な出来事は、2019年5月に亡くなった父の死であった。86歳であった。
上記の人々のうち、金田正一氏、シラク氏、ミシェル・ルグラン氏が、父と同じ86歳で亡くなり、八千草薫さんや高島忠夫氏も2歳しか違わない88歳であったことを思うと、同じ時代を生き抜き、亡くなった人々の人生行路に思いをはせ、感慨深いものがある。

ところで、身内の死に際して、哀悼の意を表すことは、悲しみの渦中にあり、難しいものである。ましてや、喪主ともなれば、限られた時間内に、葬儀のための挨拶文をまとめ、会場に赴かなければなければならない。
そんな時、嵐山光三郎『追悼の達人』(新潮社、2002年)に出会った。文庫本でも、642頁もある大著である。




※≪嵐山光三郎『追悼の達人』(新潮社、2002年)はこちらから≫


嵐山光三郎『追悼の達人』 (新潮文庫)



執筆項目は次のようになる。


【著者嵐山光三郎氏について】
【岸田劉生と麗子像】
【坪内逍遥と妻セン】
【竹久夢二と3人のモデル】
【高村光太郎と智恵子】
【鈴木三重吉とお酒】
【堀辰雄とフランス語】
【有名作家への追悼文】
【おわりに】






残されたものは故人をどのように追悼したらいいのかということが、常々頭の中にあった。そこで、「追悼」というテーマで、文献を収集していたら、嵐山光三郎氏の『追悼の達人』(新潮文庫、2002年)という本に出会い、読むことにした。巻末で、林望氏は、この嵐山氏の『追悼の達人』を「屈指の名著」と推賞しているが、私も一読して、名著だと思い、その内容を少々まとめてみた。
明治、大正、昭和の主に作家・文学者の追悼文について、書かれているが、中には画家や彫刻家についての追悼文も嵐山光三郎氏が盛り込んでいる。興味のありそうな人物を紹介しておきたい。



【著者嵐山光三郎氏について】


嵐山光三郎氏(本名、祐乗坊英昭)氏は、1942(昭和17)年、静岡県に生まれ、国学院大学文学部国文科を卒業し、1965年、平凡社に入社し、雑誌『太陽』の編集長を経て、作家活動に入る。趣味は料理で、1988年、『素人庖丁記』により、講談社エッセイ賞を受賞し、その後、『芭蕉の誘惑』により、JTB紀行文学大賞を受賞した。旅と温泉を愛し、1年のうち8ヵ月は、国内外を旅しているほど、旅好きな作家である。

著者嵐山光三郎氏も、「文庫本のあとがき」(612頁~613頁)によれば、この本の初版単行本(1999年12月)が刊行された3ヵ月後に、御尊父を亡くされたそうだ(御尊父は祐乗坊宣明氏[1913-2000]で、朝日新聞社社員から、多摩美術大学の教授に転じたグラフィックデザイナーだった)。
その際、父の死の前ではなにひとつ言うことができず、「追悼の極は、なにも言葉を発し得ないことを実感した」という。
2000年の10月から、この書により夏目漱石、芥川龍之介、谷崎潤一郎、三島由紀夫、川端康成の項をNHK教育テレビ「人間講座」で放送された。
嵐山氏は、追悼について、次のような含蓄のある文章を記している。
「追悼はおそろしいもので、死者を追悼することによって、追悼する側の生き方が問われる。それ以上に、文を書くことがさらにおそろしい」(613頁)。
嵐山氏は作家であるから、追悼よりも文を書くことがさらにおそろしいとするが、それはさておき、私のような者には、「死者を追悼することによって、追悼する側の生き方が問われる」という言葉は、私の心に響いた。私の場合、亡父を追悼することは、今後の自分の生き方が問われることを意味したので、この言葉には共感した。

先述したように、この書は600頁を超える大著で、正岡子規に始まり、明治(7人)、大正(6人)、昭和(36人)と小林秀雄にいたるまで、合計49人、およそ50人近くの近代文学者への追悼文が収められている。
ここで、全員を紹介することはできないので、私の関心をひいた人物について、自分なりにまとめて、紹介したいと思う。



【岸田劉生と麗子像】


岸田劉生は、黒田清輝に師事し、『麗子五歳之像』をはじめ、娘の麗子をモデルにした麗子像シリーズが有名である。
劉生の死は突然死で、夭逝であった。38歳で中国大連へ旅行し、帰国そうそう山口県徳山市での宴席がつづき、痛飲をくりかえし、酒席で屏風絵を描き終えた後、突然、胸の苦痛を訴え、死亡した。昭和4年12月20日のことであった。

その劉生に対して、梅原龍三郎は次のような弔詞を述べた。
「ミケランジェロが生れた時代に置けばミケランジェロだけの仕事を成しとげるものである事を、又徽宗皇帝の環境に置けば徽宗以上の名作を残し得るものである」と絶賛した。
高村光太郎は「劉生の死ほど自分の心を痛打したものはない」として、劉生の気風をピカソに似ていると言った。そして劉生にだけは自分の彫刻を今後も見てもらいたかったし、意見が聞きたかったようだ。その一方で、津田青楓(せいふう)は、「模倣の天才岸田」と題して、「岸田の仕事の跡を見るとたいてい昔の偉い奴の仕事の模倣だ。洋画のジュラー(デュラー)、支那画の石濤(せきとう)、線画では春挙、浮世絵では春信あたりをねらっていた」として「天才と云うものは凡て模倣のうまいものである」と分析している。

ところで、麗子像の顔は平べったく、ぽってりと湯気がたちそうな顔である。グロテスクで鼻ぺちゃの不美人である。その麗子像が広くもてはやされるのはなぜか。この点について、嵐山光三郎氏は次のように考えている。麗子像はまるで古代仏像にも似た聖なる美しさをにじませているからであるというのである。黒髪をたらし、細い目で微笑する少女麗子は、この世のものとは思えない神秘をたたえているとみる。一度目にしたら忘れられないが、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」の微笑に匹敵する東洋の美があるという。モナ・リザが姿を変えたダ・ヴィンチの自画像であったように、麗子は姿を変えた劉生ではなかったかと嵐山光三郎氏は推論している。
(この点については、異論が予想されるところである。私もダ・ヴィンチや「モナ・リザ」についての文献を収集しているので、この「モナ・リザ」=ダ・ヴィンチの自画像説については、後日ブログの形でまとめてみたいと考えている)。



【坪内逍遥と妻セン】


坪内逍遥の75年間にわたる生涯は近代文学の歩みそのものであったといわれる。日本近代文学は明治18年に刊行された『小説神髄』に始まった。シェークスピアを紹介し、演劇を改革し、若手を指導し、早稲田大学文学科育成に尽力した。

逍遥の妻は浅草で遊女をしていた鵜飼センである。自分は士族出の秀才でありながら、遊女を妻として恥じることがなかったという。妻センは晩年目を悪くしたため、逍遥は手をひいて連れ歩いた。そのため「仲の悪い夫婦は、逍遥夫妻に会うと、あまりの仲の良さに影響されて夫婦仲が直った」というほどであったようだ。

逍遥は遊女を妻とした男であったので、次のようなエピソードもある。明治44年、逍遥は文芸功労者として表彰され、2200円の賞金をもらった。その一部を山田美妙の遺族扶助として贈ったという。山田美妙は、逍遥の怒りにふれて文壇から消し去られた人物であった。逍遥は山田の何を怒ったのか? 山田は浅草の芸妓おとめを妾として囲っていたことを「万朝報」に暴露され、それを「小説のため」と言い訳して、逍遥の逆鱗にふれたのである。逍遥は「早稲田文学」誌上に「小説家は実験を名として不義を行うの権利ありや」との一文を掲載した。遊女を妻とした逍遥だからこそ山田の行為は許されなかった。ただ、逍遥は山田を消したことを忘れられず、山田の遺族に金を贈ったそうだ。
さて、数多くの逍遥への追悼の中で、異彩を放っているのが、妻センの追悼記「逍遥と偕(とも)に五十年」であると嵐山氏は注目している。それは「婦人公論」の昭和10年5月号に掲載された。7ページにわたる聞き書きで、逍遥像が具体的に語られている。
「私が坪内の許(もと)へ参りましたのは明治19年の7月で、坪内が28歳、私が21歳の時でございます」ではじまる名文であるらしい。「坪内は妻を大変大事にする、と皆さんがよくおっしゃいましたが、別に私を大事にしてくれたとは思われません。ただ、連れそってから50年もの間、大して小言をいただいたことがないというくらいのものにすぎません」と述べている。センの回想は無駄がなく正確で、余計な思い入れがなく沈着そのものであったと嵐山氏は評している。



【竹久夢二と3人のモデル】


夢二式と呼ばれる独特の美人画と抒情詩文で一世を風靡した夢二の美人画には愁いと孤絶が漂い、清純でありつつも頽廃の色が濃い。
夢二の最初の妻は、絵はがき店を開いていた岸たまきで、夢みるような濡れた瞳の妖艶な 女性である。二番目の女性は、夢二より12歳年下の画学生、笠井彦乃で、細面の柳のような麗人で、25歳で亡くなってしまうが、長髪でなで肩の、夢二絶頂期のモデルであった。三番目は藤島武二(たけじ)のモデルをしていたお葉(佐々木カネヨ)で、死んだ彦乃に似ており、彦乃のはかなさに魔的な魅惑をつぎこんだような娘であった。これらの三人は、夢二好みの美人であり、夢二美人画の三つの代表的モデルとして欠かせぬ女性である。
夢二という筆名は、尊敬する藤島武二にあやかって、武二(ムニ)を夢二(ムニ)とおきかえたものだが、その藤島武二は、竹久について「非常に艶福の盛んな人」という噂を耳にしていた。
夢二への追悼は、女性関係がはなやかであったので、その追悼も女ぬきで語ることはできなかった。



【高村光太郎と智恵子】


高村光太郎は木彫界の権威高村光雲の子として、明治16年3月13日に生まれた。ニューヨーク、ロンドン、パリに留学し、彫刻はロダンの弟子であり、イギリスではバーナード・リーチと親交を結び、パリではマチスに学んだ。

31歳で長沼智恵子と同棲し、二人だけの愛の世界を築き上げ、自分たちを世間から遮断した。晩年は花巻郊外山村の小屋にこもって、単身、農耕自炊の生活を通した。詩人で彫刻家である高村光太郎は、恋人長沼智恵子との出会い、結婚生活、その狂気、死後の追慕という一人の女性をテーマにした詩集『智恵子抄』を出版した。光太郎の『智恵子抄』は日本の青春詩集として多くの人に愛誦されてきた。光太郎が『智恵子抄』を出版したのは58歳であり、智恵子はその3年前に52歳で没している。『智恵子抄』は60歳になろうとする初老の男の恋歌であり、その激しく純粋な精神を、友人の佐藤春夫はまぶしい思いで「東京の野蛮人」と追悼した。吉行淳之介は「『智恵子抄』は以前たいそう愛読しました。優しく美しく、しかも男性的な詩だと記憶しています」と追悼した。

また梅原龍三郎は、葬儀で次のような弔辞を読んだ。
「君は僕の画業の最初の知己であった。君は作品を稀にしか人に見せなかった。それは君は無限に高き夢と現し得る処がなお遠かったからであろう。然したとえ一点の作品がなくても君は君の人格と生活の態度に因って高邁なる芸術家であった。
 巴里の冬の霧の深いある朝君がノートルダムのセン塔に昇ったら空中が歩けそうであやうく飛ぶ処であったというていた。又その頃かかっていたお父さんの胸像を夜中無意識にやったらしく翌朝手が泥になっていたと話していた。君の生活は夢と現(うつつ)の間の様に思った。」と。

光太郎は、純粋精神の人であったといわれる。このまっすぐな一本気の気性が、智恵子へのひたむきな愛につながっていく。光太郎は親も閉めだし、兄弟も友人も閉めだして、智恵子と二人だけの愛と芸術の世界へ没入した。智恵子が死んでからは孤高の一人暮らしをつらぬき、死ぬ2年前に、智恵子のおもかげを託した裸婦像を十和田湖畔に建てた。波乱に富んだ生涯はそのまま一編の物語のように完結した。

この十和田湖畔の記念像の建立の経緯は、次のようなものである。すなわち、それは十和田湖の国立公園指定15周年を記念して、青森県知事津島文治(太宰治の実兄)によって計画された。津島知事より相談をうけた谷口吉郎(よしろう)が佐藤春夫に相談し、佐藤春夫の意見で高村光太郎に依頼することになった。佐藤春夫の熱意に動かされた光太郎は、「智恵子を作る」とひとりごとのように述懐したという。さらに「個人的な作意を十和田のモニュマンに含ませるのは、青森県に申しわけない気もする」とも言った。
これに対して谷口は「智恵子さんは高村さんのものであっても、もはや万人の心に響く永遠の像になっている。彫刻家が制作する永遠像が湖に捧げられることは、むしろ詩と彫刻の結合だ」と説得した。こうして、光太郎は「途中で倒れることがあっても、この作品のためにはあらん限りの力をつくしたい」と決意するに至った。

裸像が完成したのは、昭和28年10月で、光太郎は70歳であった。除幕式には光太郎のほか、佐藤春夫、谷口吉郎、土方定一が出席した。光太郎は「智恵子の裸形をこの世に残して わたくしはやがて天然の素中に帰ろう」と詩に書いた。



【鈴木三重吉とお酒】


鈴木三重吉は、夏目漱石の推薦で「千鳥」を発表し、児童文学に進出し、「赤い鳥」を創刊し、芥川龍之介に児童文学の筆をとらせた。
鈴木三重吉は、漱石の弟子のなかで、ひときわ酒ぐせが悪かったそうだ。三重吉は、昭和11年に53歳で死んだが、追悼のなかで、三重吉の酒をほめた人は一人もいない。そして漱石夫人の夏目鏡子は「鈴木さんは御酒が好きで、飲めばくだをまき、人につっかかってこなければ承知のできないのには、だれも困らされたことです」と回想している。酔うとからみ酒になった。三重吉の臨終をみとった主治医は「夏目の奥様に慈母の如くあまえるのも鈴木君が随一でなかったであろうか」と証言している。8歳で母を亡くした三重吉が鏡子夫人に甘えたいという心情もわかると嵐山光三郎氏は述べている。
また鏡子夫人によると、若いころの三重吉は大の子供嫌いで、漱石の誕生日に漱石の子や親戚の子供が集まってうろうろしているのをみて、「子供はうるさいな、たんすのひきだしにでも入れておくといい」とののしったという。

それほど子供嫌いだった三重吉だが、結婚して自分の娘が生まれると、うって変ったように子ぼんのうになり、童話雑誌「赤い鳥」を創刊した。そのことを漱石の長女筆子はいつまでも覚えていて面白がっていた。
その「赤い鳥」を創刊したのは大正7年(36歳)で、それ以後、児童文学や童謡を世に広めた。「赤い鳥」は196冊刊行されており、三重吉追悼号をもって幕を閉じた。
三重吉が児童文学へ移行したのは、ひとつは生活のためであった。成田中学の教師をやめていくつかの小説を書いたけれども、それだけでは食っていけなかった。大正6年、『世界童話集』を出して、どうにか生活できるようになった。そして、持ちまえの商才から「童話は金になる」と気がついた三重吉は、「赤い鳥」創刊にふみきった。創刊号は新鋭の芥川が童話を書いたということが評判になり、よく売れた。その後は、北原白秋の童謡が人気を呼んだ。
「赤い鳥」からは、西条八十の「かなりや」や北原白秋の「揺籠のうた」「あわて床屋」「雨」といった今なお親しまれている童謡が数多く誕生した。芥川龍之介『蜘蛛の糸』、新美南吉『ごんぎつね』、有島武郎『一房の葡萄』といった名作はいずれも「赤い鳥」に発表されたものである。
三重吉の編集者としての腕は天下一品であった。三重吉自身も多くの童話を書いた。そのため、三重吉といえば児童文学者のイメージが強く、世間の人は「赤い鳥」の編集発行人がじつは手のつけられない酔っ払いであったことは信じ難かったろう。



【堀辰雄とフランス語】


嵐山光三郎氏は「堀辰雄 逞しき病人」と題して、堀辰雄(明治37年~昭和28年)について述べている(嵐山光三郎『追悼の達人』新潮文庫、2002年、481頁~491頁)。
堀辰雄は東京に生まれ、室生犀星、芥川龍之介に師事し、芥川の死にあたり、その全集の編纂にたずさわった。結核を病み、富士見高原、信濃追分で療養生活を送る。

堀辰雄の小説のテーマは「死から生への回帰」であって、つねに死と隣りあっていたといわれる。堀辰雄が肺結核にかかったのは19歳で、21歳から毎年のように喀血(かっけつ)するようになる。昭和5年(辰雄26歳)、『聖家族』脱稿後に大量に喀血した。このころの肺病は不治の病であり、世間はもうだめかと思った。辰雄の意識は生と死のぎりぎりの縁を歩いており、死者の側から生を見つめていたともいえる。そのような作家だから、その作品を通して、生きることの尊さと厳しさを学びとれるのかもしれない。

堀辰雄は昭和28年、48歳で亡くなる。東京芝の増上寺で、川端康成を葬儀委員長として告別式が執行されたが、川端は「あいさつ」で堀辰雄訳のリルケの詩を朗読した。弔詞は、堀辰雄が終生師事した室生犀星が読み上げた。「堀君、君こそは生きて、生きぬいた人ではなかろうか(中略)君は一種の根気と勇気をもって生きつづけて来た」という。
ところで、堀辰雄の小説は、コクトーやラディゲ、メリメ、スタンダールなど近代フランス文学を下敷きにして作りあげたものである(但し、晩年は王朝物にこって「更科日記」「竹取物語」「蜻蛉日記」を読んでノートをとった。借物の匂いのする作品が多いとされ、人間探究派の作家、例えば大岡昇平から反感を買った)。

ともあれ、堀辰雄はフランス文学からの応用がうまく、例えば『聖家族』の巻頭の「死があたかも一つの季節を開いたかのようだった」は、ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』からのイメージであるといわれる。『聖家族』のモデルは芥川龍之介と人妻片山広子こと松村みね子であり、軽井沢へ行った堀辰雄は芥川の晩年の恋を目撃した。『風立ちぬ』は、婚約者矢野綾子の死という現実の悲しみを扱いながら、内容はリルケやヴァレリーからの応用であったようだ。
軽井沢という土地にも、この世にはない理想の架空世界が仮託されており、現実とはほど遠い。堀辰雄の小説は嘘のうわ塗りの世界でありながら、私小説と思わせてしまう仕掛けがあるといわれる。
命の終わりが近い人は、「自分はいま生きている」という事実に敏感になる。堀辰雄の目には、病人の特権的な感性があり、現実は極端に虚構化されていった。虚構の私小説を書こうという強靭な意志が、48歳まで堀辰雄を生かしたのであった(嵐山、2002年、481頁~491頁)。

さて、その堀辰雄の代表作に『風立ちぬ』がある。その冒頭にはポール・ヴァレリーのフランス語の詩句が引用されている。
 Le vent se lève, il faut tenter de vivre. PAUL VALÉRY
「風立ちぬ、いざ生きめやも」と堀辰雄は訳している。
この有名な詩句は、ポール・ヴァレリーの詩『海辺の墓地』の一節である。
小説では、次のように書かれてある。
「風立ちぬ、いざ生きめやも
 ふと口を衝いて出て来たそんな詩句を、私は私に靠(もた)れてゐるお前の肩に手をかけながら、口の裡(うち)で繰り返してゐた。」(吉田健一解説『日本文学全集35 梶井基次郎 堀辰雄 中島敦集』筑摩書房、1975年、190頁)。



【有名作家への追悼文】


夏目漱石への和辻哲郎の追悼では、「私は頭が乱れている」としながらも、「夏目先生の人及び芸術」と題して、「先生は眼の作家というより心の作家であった。私は先生が小説家であるよりもむしろ哲人に近いことを感じる」と絶唱し、漱石の公平無私の人柄をたたえた。
森鷗外とかつて論争をした坪内逍遥は、「森君のなくなられたのは、永く償うことの出来ないわが文壇の損失である」と書いた。逍遥は鷗外より3歳上である。逍遥は「君はなんでも出来た人だった」とたたえ、鷗外は、新聞に作品に対する批判がのるとすぐ翌朝の新聞に反駁を書く速筆の人で、それが相手をおどろかした、と述懐している。

小穴隆一は、芥川龍之介が死後、妻文子と結婚させたいとまで願った親友である。そして芥川龍之介のデスマスクを描いた画家でもあるが、死の床に横たわる芥川の肖像は鬼気せまるものがある。その小穴はいくつかの短い追悼文を書いているが、取り乱していて、それゆえに哀切であるそうだ。

太宰治への追悼文としては、河盛好蔵と埴谷雄高の追悼文が印象深い。河盛好蔵は「文学者が死ぬことは何といっても敗北だ。文学とはいかに生きるかの努力ではなかったか。太宰君、君は死ぬべきではなかった」(「太宰君を悼む」)と追悼した。また、埴谷雄高は、「彼はすぐれた芸術家であったが、人間的には失格した。すなわち、現代に生きる人間である以上、永遠なるものあるいは合理主義思想の力をかりるのでなければ、独力で自己の価値を創造する決意をもつほかには道がないのに、彼はこれをしなかったからである。(中略)そして、こうした彼の人間失格はただ彼個人のそれではなくて、多くの現代の人間のそれをはげしい險しいそしてポーズをもった形で示したものである」(「衡量器との闘い」)と断じた。



【おわりに】


最後にもう一人を付記しておきたい。それは巌谷小波である。
巌谷小波(いわやさざなみ、明治3年~昭和8年)は明治文学者の第一者であるが、一見、現代人には余りなじみのない文学者である。しかし実は、日本の民話、伝説に材をとった「桃太郎」「猿蟹合戦」「花咲爺」「舌切雀」「一寸法師」「かちかち山」「浦島太郎」「金太郎」といった『日本昔噺』で、その名を高めた文学者である。いわば、日本近代児童文学の創始者と評される人物が、巌谷小波であった。
小波が昭和8(1933)年に直腸ガンで亡くなる。腸閉塞をおこし、腸に穴をあけられて人工補助肛門がつけられたという(282頁~283頁)。
この一文を読んだ時、小波の闘病生活を想像し、胸が痛む思いがした。

 以上、ごく簡単に嵐山光三郎氏の著作の内容について紹介してみた。著者は、「追悼文は死者の徳をしのぶことこそが常道」(29頁)という。追悼文の本質はこの言葉の中にあり、至言であろう。
 ある人物の追悼文を読むということは、「死を契機にして書かれた掌編の人間論」を読むということにほかならないのかもしれない。


【付記】
今年も、私のブログを読んでいただき、有難うございました。来年が、良き年になることをお祈りしています。来年のブログは、明るく楽しい記事を目指して、執筆することを心がけたいと思います。


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