歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その3≫

2020-07-11 09:52:17 | 私のブック・レポート
ブログ原稿≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その3≫
(2020年7月11日投稿)
【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】


小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』

【はじめに】


 小暮満寿雄氏は、その著『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』(まどか出版、2003年)において、「第Ⅵ章 パリの美術館」を設けて、かつて終着駅だったオルセー美術館と、モダンアートのメッカとしてのポンピドゥー芸術文化センターを取り上げて、解説していた(小暮、2003年、229頁~249頁)。
 ルーヴル美術館の解説本としては、ユニークな章立てであり、私自身も啓発をうけた。いわば、これら三つがパリ三大美術館である。
 このことに触発されて、私も、オルセー美術館とポンピドゥー・センターについて調べてみることにした。
 旅行者がまず最初に参考にする『地球の歩き方 パリ』において、これら二つの観光地はどのように取り扱われているかを紹介しておく。そして、他の著作において、オルセー美術館について、その歴史的背景や展示作品などを中心に、解説してみたい。
 あわせて、オルセー美術館の解説文をフランス語で読んでみたいと思う。



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


観光地としてのオルセー美術館
オルセー美術館の主な作品
観光地としてのポンピドゥー芸術文化センター
【補足】木村尚三郎氏によるオルセー美術館の解説
【補足】オルセー美術館 ~宮殿が駅舎に、そしてオルセー美術館に
オルセー美術館の特色――小島英煕氏の著作を通して――
オルセー美術館の解説をフランス語で読む






【読後の感想とコメント】


観光地としてのオルセー美術館


『地球の歩き方 パリ』(地球の歩き方編集室編、ダイヤモンド社、1996年)には、オルセー美術館を次のように紹介している。
(地球の歩き方編集室編『地球の歩き方 パリ』ダイヤモンド社、1996年、180頁~191頁)

パリの駅は、そのものが一級の芸術品といってもいいくらい素晴らしいけれども、ここオルセーは、かつての駅の建築空間をそのまま利用した美術館である。
オルセー駅の誕生は1900年、オルレアン鉄道の終着駅として、美術学校の教授だったラルーによって設計された。しかし、運営の困難などから、駅としては、たった39年でその務めを終えてしまう。
セーヌに面した絶好のロケーションにあり、完成当時から美術宮殿の風格を持っているとささやかれていたが、奇しくも1986年12月、現実に美術館として復活した。

大きなドーム型の天井はガラス張りで、とても明るい。
奥の階段を上って全体を見渡すと、跨線橋からホームを眺める気分である。美術館の入口から、今にも列車が入線してきそうな感じがする。

造りのユニークさもさることながら、コレクションも逸品揃いである。
閉鎖された印象派美術館 Jeu de Paume(現ジュ・ド・ポーム国立ギャラリー)から珠玉の作品群が移されたほか、またルーヴルやプティ・パレからも、2月革命以後、第1次世界大戦までの作品が移された。バルビゾン派の作品を展観できるのも、ここオルセー美術館である。
オルセー美術館は、原則的に1848年から1914年までの作品が展示され、ルーヴル、ポンピドゥとあわせ観ることで、壮大な美術史の旅を体験できる。
(地球の歩き方編集室編『地球の歩き方 パリ』ダイヤモンド社、1996年、180頁~181頁)
【『地球の歩き方 パリ』はこちらから】
地球の歩き方 Plat01 パリ (地球の歩き方Plat)

【オルセー美術館の写真】(2004年5月筆者撮影)



オルセー美術館がその昔、駅舎であったことが感じられる空間である。
とりわけ、かまぼこ状の大屋根が印象的である。このトレイン・シェッド(train shed)は、かつて鉄道駅のプラットホームと線路を覆っていた。トレイン・シェッドの下の空間が、オルセー美術館の作品の展示場所となっている。建物内部には鉄道駅であった面影が随所に残っている。



オルセー美術館の主な作品


オルセー美術館は次の3つに分かれている。
① 地上階(1階 Rez-de-Chaussée)
② 上階(Niveau Supérieur)
③ 中階(Niveau Médian)

① <地上階>右側
◆古典派のアングルとロマン派のドラクロワ
〇アングル(1780~1867)『泉 La Source』
〇ドラクロワ(1798~1863)『ライオン狩り Chausse aux lions』

彫刻が置かれた中央通路(かつては線路とホームがあった)をはさんで、左右に展示室がある。
右側を行くと、手前にアングル、そしてドラクロワの部屋がある。

優美な線で肉体を描いた古典派アングルと、ダイナミックな表現で迫ってくるロマン派ドラクロワは、同時代に生きたライバル同士であった。
二人の作品をしっかり見比べたいなら、ルーヴル美術館に行った方がよいが、オルセー美術館が所蔵する『泉 La Source』を観るだけでも、アングルの美意識がわかる。
一方、ドラクロワの作品としては、『ライオン狩り Chausse aux lions』が掲げられている。

◆アカデミー派
〇カバネル(1823~1889)『ヴィーナスの誕生 La Naissance de Vénus』
19世紀後半の歴史画などが展示されている。一般に広く普及していたのは、こうしたアカデミックな美術である。今日では、すっかりポピュラーとなった印象派などは、当時としてはむしろ異端のものだった。
アカデミー派の美術には、公共の場を飾るのにふさわしく、大きな作品が多く、扱われるテーマは、古代ローマである。陰影による量感がよく表現されており、表面はなめらかな仕上がりになっている。

<地上階>左側
◆バルビゾン派
〇ミレー(1814~1875)『晩鐘 L’Angélus du soir』
バルビゾン派の好きな人は、ミレーの『晩鐘 L’Angélus du soir』に対面できる。
重い色調の絵から、ミレーのまなざしが感じとれる。
それまで農民は、取るに足らない田舎者として考えられていて、あるがままの姿でキャンバスの上に描かれることはなかった。これは、当時としては、画期的なことだった。

◆写実主義
〇クールベ(1819~1877)『画家のアトリエ L’atelier du peintre』
バルビゾン派の人たちは、必ず屋外で写生して作品を描いていたから、写実的だったといえる。
次に続くクールベも、また別の意味で写実的な画家だった。
クールベが描く人物像は、ことごとく醜く、皆をあきれさせた。『画家のアトリエ L’atelier du peintre』は、1855年の万博に出品することを希望して描いたものだが、サロンの審査員に拒否されたといういわくつきである。
(でも、今はこうしてオルセーの壁にうやうやしく展示されているのだから、名誉回復といったところか)

◆初期印象派
〇マネ(1832~1883)『オランピア Olympia』
〇マネ(1832~1883)『草上の昼食 Le déjeuner sur l’herbe』
印象派は、19世紀のアカデミー派に反発して生み出された新しい前衛的美術である。
まず、先駆者マネの『オランピア Olympia』(1863)と『草上の昼食 Le déjeuner sur l’herbe』(1863)は、ともに新しい絵画の幕開けを象徴する作品である。

これらは、伝統的な技法で描かれた裸婦像にくらべ、マネのヌードは、平たく量感に欠け、むしろ生々しいほど、通俗的である。ここでは、古典的なヴィーナス像に見られた理想化された美としてのヌードは、もはや存在しない。
(このことは、カバネルの『ヴィーナスの誕生 La Naissance de Vénus』と比較してみると一目瞭然である。)
実際、『オランピア』で描かれているのは当時の娼婦にほかならない。『草上の昼食』も、男性を見ると、その頃流行したフロックコートに身を包んでいることから、同時代の一光景がテーマになっていることがわかる。
つまり、画家の生きているその時代、同時代を描いている。これこそ、新しい技法と並んで、マネが提示した、絵画の新しい方向だった。
こうして、マネを中心に若い画家たちが集まり、印象派が開花した。
(ただし、マネが印象派の画家かどうかについては、後述するように、議論がある。)

② <上階>
・美術館のいちばん奥に、上階直通のエスカレーターがある。昇り口のすぐそばに、オペラ座の縦断断面図が展示されている。
(オペラ座といえば、『オペラ座の怪人』という小説の舞台として気になるところ)
・上階は、印象派の作品を中心にして構成されており、お馴染みの作品が目白押しである。
代表的な作品を紹介しておく。

◆印象派
・モネ(Monet, 1840~1926)
モネは、終生、印象派の視点を固守し続けた代表的な画家である。
例えば、おおまかに置かれた筆、動きゆく雲の様相、あたり一面にほのかに感じられる優しい光、そしてタッチ、人物のとらえ方、光の表現、テーマなど、どれも、アカデミー派の画家には見られなかったものである。

〇モネ(1840~1926)『サン・ラザール駅 La Gare St-Lazare』
当時開通したばかりの鉄道をテーマに描いた連作である。
季節、時間、天候によって移り変わる、ほんの一瞬の様相を重視したモネは、同じ場面を連作という形で繰り返し描いている。
鉄道はパリに住む人々の生活に「スピード」をもたらしたが、モネの絵も、そんな新しい世界観に対応しているといわれる。

・ルノワール(Renoir, 1841~1919)とドガ(Degas, 1834~1917)
〇ルノワール(1841~1919)『ムーラン・ド・ラ・ギャレット Bal du Moulin de la Galette』印象派の画家ルノワールの作品では、この作品をぜひ見たい。
モンマルトルの丘に開店したダンス・ホールが舞台で、楽しく陽気な雰囲気を見事に描出されている。木漏れ日の落ちる独特の表現は、ルノワールが得意としたところである。

〇ドガ(1834~1917)『アブサン酒 L’absinthe』
ドガは、しばしば印象派に含められるが、ほかの画家とは少しちがった傾向をもっている。
モネのように光の変化を追求することこそなかったが、同時代を観察する眼はひときわ優れていた。
『アブサン酒 L’absinte』(1876)や、一連の踊り子の絵では、彼女たちのありのままの姿を描きだしている。写真で撮ったスナップ・ショット的な構図は、ドガ独自のものであるといわれる。

・ゴッホ(Gogh, 1853~1890)、セザンヌ(Cézanne, 1839~1906)
さらに後期印象派へと続き、ゴッホの部屋とセザンヌの部屋がある。
〇ゴッホ(1853~1890)『芸術家の肖像 Portrait de l’artiste』
〇ゴッホ(1853~1890)『オーヴェル・シュル・オワーズの教会 L’église d’Auvers-sur-Oise』
〇セザンヌ(1839~1906)『首吊りの家 La maison du pendu』
〇セザンヌ(1839~1906)『コーヒー沸かしと女 La femme à la cafetière』
これらの作品のなかには、パリ近郊のオーヴェル・シュル・オワーズやポントワーズ周辺を舞台にしたものが多い。

◆点描派
次に印象派の光に対するヴィジョンをより突き進めた、点描派の作品群がある。
〇スーラ(1859~1891)『サーカス Le cirque』(1891)
点描派の代表的画家がスーラ(Seurat, 1859~1891)である。
この作品では、プリズムによって分解された色が、細かい点で表現されている。色をパレットで混ぜるかわりに、見る人の目のなかで混ぜてもらおうというのが、点描の絵のねらいである。そうすることによって、より明るい、本物の光に近い輝きを画面にもたらそうとしたようだ。
(絵を見る位置を変えると、点が見えたり、消えたりして興味深い)

◆ポン・タヴェン派のゴーギャン(Gaugin, 1848~1903)とナビ派のボナール(Bonnard,
1867~1947)
〇ゴーギャン(1848~1903)『タヒチの女たち Femmes de Tahiti』(1891)
タヒチに過ごし、独特の画風を打ちたてたゴーギャンの作品は、異国情緒を漂わせている。
描かれた女性たちは、太い手足、がっちりとした体つきを見せている。

〇ボナール(1867~1947)『ベルネム・ド・ヴィレール兄弟の肖像』(1920)
この絵はしだいに明るい色彩を採り入れ、「色彩の魔術師」と呼ばれるようになった53歳のときの作品である。ボナールと親しかった画廊ベルネム=ジュヌの兄弟を描いたものである。
(川又一英『名画に会う旅② オルセー美術館』世界文化社、1995年、55頁参照のこと)

<中階>
ここでの見ものは、アール・ヌーヴォーとロダンの彫刻である。
アール・ヌーヴォーは、1890年代、つまり世紀末に流行した新しい様式である。
うねうねと伸びた曲線をモチーフとしている。オルセー美術館では、この様式の家具や室内調度品を見ることができる。
ギマール(Guimard, 1863~1957)やオルタ(Horta, 1861~1947)などの椅子や棚には、植物的な波線が多用され、優美なカーヴを描いている。
ガレ(Gallé, 1846~1904)のガラス器も当時の代表的な工芸品だが、なかには日本的なモチーフもたくさん見られ、興味深い。

ロダン(Rodin, 1840~1917)の彫刻は、テラスの4分の1を占めている。
(本格的に鑑賞したかったら、ロダン美術館(Musée Rodin)へ行くことを勧めている)
(地球の歩き方編集室編『地球の歩き方 パリ』ダイヤモンド社、1996年、180頁~186頁)
【『地球の歩き方 パリ』はこちらから】


地球の歩き方 Plat01 パリ (地球の歩き方Plat)



観光地としてのポンピドゥー芸術文化センター


小暮満寿雄氏は、ポンピドゥー芸術文化センターについて、言及していた(小暮、2003年、241頁~249頁)。
ここでも、『地球の歩き方 パリ』(ダイヤモンド社、1996年)により、補足しておく。

パリで最も古い通りのひとつであるサン・マルタン通りを歩いていくと、突然視界が開けて、原色を使った鉄とガラスの建物が現れる。それがポンピドゥー芸術文化センター(Centre G.Pompidou)である。20世紀の文化を展観する総合センターである。

「まるで石油コンビナート」、「エッフェル塔以来のショック」、「ピカソのゲルニカ現代版」などと、こき下ろされた。
なるほど、石の色に親しんできたパリジャンにとって、異様な物体に見えたことだろう。とりわけ、古いカルチェのど真ん中に、「動く現代」をめざす建物が置かれたこと、中央市場もあった下町に最先端芸術センターが造られたことは、かなりショッキングだったようだ。

「パリはいつまでも古いだけではいけない」と考えたポンピドゥー大統領の意思が見事に表現されたわけだが、大統領自身、設計図を見たときは、声も出なかったくらい驚いたという。
センターを正面から見て、まず目を奪われるのは、斜めに走るガラス張りの円筒形エスカレーターである。タイム・トンネルを思わせる造りであるが、実際昇るにつれて、歴史の町パリが目の前に広がっていく。

ポンピドゥー・センターは、中央市場の移動、再開発計画の一環として造られた。国際設計コンクールで選出されたロジャーズ(英)とピアノ(伊)による設計である。
多くの非難をあびながら開館した日(1977年2月2日)には、好奇心も手伝って、2万5千人の人がつめかけたそうだ。現在も、超人気の名所である。
(地球の歩き方編集室編『地球の歩き方 パリ』ダイヤモンド社、1996年、187頁)

【『地球の歩き方 パリ』はこちらから】
地球の歩き方 Plat01 パリ (地球の歩き方Plat)

【ポンピドゥー・センターの写真】(2004年5月筆者撮影)



その外観はまさに石油コンビナートのようであった。



【補足】木村尚三郎氏によるオルセー美術館の解説


木村尚三郎氏も、その著『パリ――世界の都市の物語』(文春文庫、1998年)において、オルセー美術館について、解説している。

オルセー美術館は、1986年12月、大きな駅を改造して出来た。
この美術館は、1848年から第一次世界大戦のはじまる1914年までの、フランスの絵画、彫刻、写真、新聞、建築、文学資料などを集めて、入場者の行列が日々できるほどの人気である。
マネ、モネ、ドガその他、印象派の本物の絵画がふんだんに見られるからである。

木村尚三郎氏によれば、オルセー美術館がカバーしている19世紀半ばから20世紀初頭にかけての時代は、フランス史そしてパリの歴史のなかでも、12・13世紀そして現代と並んで、もっとも光に満ち溢れ、輝いた時代であったと捉えている。
そのなかには、19世紀末、そして1900年の万国博覧会からはじまり第一次世界大戦勃発までの、「ベル・エポック」(良い時代)が含まれており、当時、「パリを見ずして死ぬことなかれ」という言い方が流行したほどであったようだ。「日光を見ずして結構というな」という表現に通じるものがある。

オルセー美術館は、まさにフランスないしパリの、「古き良き時代」の掘り起こしであった。
もとの駅そのものが、1900年に完成した記念すべき建築物であった。当時から美術宮殿の風格を備えているといわれていたそうだ。万博に世界中からやってくる見物客を当てこんだからこそ、途方もなく大きく建てたのであり、周りにはホテルがひしめいていた。
(事実、1900年のパリ万博には、約5100万人の人が訪れている)

因みに、約100年前にオルセー駅を建てた建築家は、エコール・デ・ボザール(国立高等美術学校)教授の、ヴィクトール・ラルーであった。
そして、これを現代の壮大な美術館に変身させたのは、フランスのACT建築グループ(ルノー・バルドン、ピエール・コルボック、ジャン=ポール・フィリポン)と、イタリアの建築家ガエ・アウレンティである。
(木村尚三郎『パリ――世界の都市の物語』文春文庫、1998年、37頁~38頁)

【木村尚三郎『パリ』文春文庫はこちらから】

パリ―世界の都市の物語 (文春文庫)

オルセー駅の誕生から美術館へ


鉄道はすでに1850年代、パリ・カレー間、パリ・ルーアン間、パリ・オルレアン間の直行便が通じている。鉄道と河川(船)の乗り継ぎ型を含めて、フランス国内で1800万人もの旅行者を運んでいたそうだ。
(その旅行者数は、1913年になると、なんと5億4700万人に上っている。1900年のフランスには、1万4千台の機関車、40万台以上の車輛があり、従業員は36万人を突破していたという)

そして、同じく1900年の7月14日、1986年いらい改装されてオルセー美術館となっている、壮麗なオルセー駅が誕生した。
オルセー駅は、万博の客を運び込むために作られたものである。そして、パリ・オーステルリッツ駅との間に、同年4月のアンヴァリッド・ムリノー間とともに、駅落成式前の5月28日からパリで、フランスで、はじめて電気機関車が登場した。
オルセー駅は誕生のときから、「美術館のようにすばらしい」といわれており、370室を持つホテル駅でもあった。もちろん、万博客をあてこんでのことである。
それと同時に、このオルセー駅は、パリの周辺に設置されたそれまでの駅とは違って、市心にまで入りこんだ、はじめての駅であったそうだ。
外界に対して自己防衛のパリが、いわば帯を解きはじめたと木村氏は理解している。

さて、オルセー駅は86年後、本当に美術館として生まれ変わる。そこに収蔵・展示されている美術品は、1848年から1914年までの、まさにパリが、そしてフランスが、12・13世紀とともに、もっとも輝いたときのものである。
ドーミエがあり、クールベがある。ドガがあり、マネがあり、セザンヌがある。
ミレーも、ルノワールも、モネも、シスレーも、ロートレックも、スーラも、ロダンも、ゴーギャンも、ゴッホも、アンリ・ルソーもある。
19世紀後半の印象派をはじめ、私たちに親しい絵画が、広大な美術館にひしめいている。
(木村尚三郎『パリ――世界の都市の物語』文春文庫、1998年、263頁~264頁)

【木村尚三郎『パリ』文春文庫はこちらから】
パリ―世界の都市の物語 (文春文庫)


【補足】オルセー美術館 ~宮殿が駅舎に、そしてオルセー美術館に


オルセー美術館はセーヌ河の左岸に、ルーヴルと向かい合うかたちで建っている。
この建物は、1804年に最高裁判所として建てられ、オルセー宮と呼ばれたが、火事で焼け、1900年に現在の建物が鉄道の駅として再建された。
しかし、時代の流れに対応できず、駅は廃止され、この建物を崩してホテルにという話が持ち上がる。ところが、当時のポンピドゥー大統領がルーヴル美術館の学芸員とフランス美術館監督局の「オルセーを美術館に」というアイディアに興味をもつ。
ここからオルセー美術館は実現に向けて大きく動きだし、その後、ジスカールデスタン大統領がオルセー美術館構想を発表し、1986年にはミッテラン大統領によって、ついに開館されることになった。
(川又一英『名画に会う旅② オルセー美術館』世界文化社、1995年、6頁)

【川又一英『名画に会う旅② オルセー美術館』はこちらから】

オルセー美術館―アートを楽しむ最適ガイド (名画に会う旅)

オルセー美術館の特色――小島英煕氏の著作を通して――


小島英煕氏は、『活字でみるオルセー美術館――近代美の回廊をゆく』(丸善ライブラリー、2001年)という著作で、オルセー美術館について述べている。少し、その触りの部分を紹介してみよう。

セーヌ河にかかるロワイヤル橋をはさんで斜め向かい合わせに、オルセー美術館とルーヴル美術館がある。パリを訪れる人々を引きつけてやまない美術館である。
ただ、その魅力は大いに異なっていると小島氏は説いている。
オルセーは、印象派をはじめとする絵画や彫刻、映画、装飾、工芸など近代文化の産物を展示しているが、ルーヴルは古代からの美術品を所蔵している。
ルーヴルが王宮であったのは有名である。それに比べてオルセーの歴史は浅く、1900年のパリ万国博覧会の時に造られた鉄道駅を改造して、1986年にできたものである。
セーヌ河をむいた正面は石や彫刻で覆われているが、建物自体は当時の先端思想を体現して、鉄とガラスをふんだんに使っている。いわば建物全体が、「近代」という時代そのものの美術空間であり、オルセー美術館創設の目的もそこにあった。

ところで、1871年(明治4年)、日本政府は、岩倉具視を特命全権大使として大使節団を欧米先進国に派遣する。米国から英国をまわって、岩倉一行は、1872年(明治5年)11月、ロンドンからドーヴァー海峡をわたり、第三共和政下のパリに着く。
随行員であった久米邦武は旅の報告書の中で、パリの印象を記している。パリはまさに「麗都」の姿であった。
岩倉一行の見たパリは、現在、われわれが見るパリと基本的にあまり変わらない。というのは、1852年、ナポレオン3世によってセーヌ県知事に任命されたオスマン男爵が、パリ大改造を実施し、それまであった城壁を取り壊して、環状道路(ブールヴァール)と放射状道路(アヴェニュー)を組み合わせた新しいパリをつくったからである。

相貌を変えたパリは、かつての貴族に代わって、経済・文化活動の主役になった新興ブルジョワ階級や労働者層が、第二次産業革命のもとに進められた近代生活を享受し、印象主義など新しい芸術が花開く。

日本の使節団がパリにいたのは、1872年11月から73年2月であった。
この時代は、ちょうど絵画の前衛運動であった印象主義がその全容を現しつつあったころに相当する。印象主義の絶頂期は、1873年から75年の間である。
そして注目すべきは、モネらその前衛たちが大いに刺激されたのは、そのころ輸入されてきた日本の版画や工芸品であったことである。1867年のパリ万国博には、日本からも浮世絵や磁器などが出品され、注目を集めた。

さて、オルセー美術館は印象派美術館ともいわれる。
もちろん、小暮満寿雄氏も解説していたように、美術館の成立の事情からルーヴル美術館と国立近代美術館(ポンピドゥー・センター)のコレクションの間隙を埋める、という目的にそって、それに先行するアングル、ドラクロアら多くのジャンルの巨匠の絵画から、後期印象派、自然主義、象徴主義など近代芸術作品までを網羅的に蒐集する。

小島氏の著作では、オルセー美術館の特色を現すために、主に印象主義という西洋絵画の表現を根本から覆した芸術革命にかかわった画家たち(その先輩たちを含めて)の苦闘の生涯を中心に述べている。

ちなみに小島氏の著作の目次は次のようになっている。
第1章 オルセー物語
第2章 クールベのレアリスム宣言
第3章 マネ、近代絵画の父
第4章 印象、日の出、モネ
第5章 ルノワールの幸福絵画
第6章 燃えるゴッホ
第7章 セザンヌ、二十世紀絵画の父

それでは、岩倉一行の日本使節団がパリにいた1872年から73年という年代、印象主義の画家たちは何をしていたか?
・モネはやがて印象派の名称のもとになった「印象、日の出」をル・アーヴルで描く
・ルノワール、ピサロら同志の交流は活発で、サロンに対抗する独立派の芸術家仲間と「画家・彫刻家・版画家等匿名協会」を旗揚げするのは、1873年末のことである。そして衝撃的な第一回印象派展が開かれるのは1874年4、5月である。
・印象派の先輩となるレアリスム宣言で有名なクールベは、パリ・コミューンの軍事裁判で有罪となり、画壇から追放されていた。
・やはり近代絵画の父といわれるマネは、彼の後輩たちがサロンを無視するのに腹を立て、印象派展には参加しない。
・二十世紀絵画の父となるセザンヌは、ピサロに印象主義を教えられ、そのパレットを明るく変え始める。
・ゴッホは画商グーピル商会の社員で、まだ海のものとも山のものとも知れぬ存在であった。

写実主義のクールベ、そして印象主義のマネ、モネ、ルノワール、ゴッホ、セザンヌの生涯とその作品についての詳しい解説は、小島氏の著作の各章を当たっていただきたい。
(このブログでは、ルノワールについて紹介してみたい)
(小島英煕『活字でみるオルセー美術館――近代美の回廊をゆく』(丸善ライブラリー、2001年、iii頁~xi頁)

【小島英煕『活字でみるオルセー美術館』丸善ライブラリーはこちらから】

活字でみるオルセー美術館―近代美の回廊をゆく (丸善ライブラリー)

小島氏は、『活字でみるオルセー美術館――近代美の回廊をゆく』(丸善ライブラリー、2001年)の「おわりに」(173頁~174頁)において、オルセー美術館には格別の思いがあると記している。
それは、次のような経験と重なっているかららしい。
オルセー美術館は、先述したように、1986年12月にオープンした。小島氏は、その年の3月に、日本経済新聞社のパリ特派員として赴任したという。

そして、のっけから、1986年の議会総選挙で、社会党が大敗を喫し、ミッテラン大統領は革新、シラク首相は保守というコアビタシオン(保革共存)の異常事態を招いた。その総選挙を報道することになった。そして、その年12月、鳴り物の美術館の開設を記事にした経験があるそうだ。加えて、小島氏は絵を描くのが趣味とのことである。
また、パリを訪れる出張者や来客の要望に応えて、ルーヴル、オルセーを案内したようだ。ガイドをするには、それなりに勉強され、3年間パリ特派員を体験して、帰国後、文化部で美術に関わるようになった。そして1990年からは、ほぼ毎年のように、オルセー美術館の門をくぐったそうだ。
こうした経験からか、小島氏の著作には、日本語の参考文献もさることながら、フランス語のそれも34冊も掲載してある。フランス語に強い著者の特技を活かして、この著作も内容豊かなものになっている。
なお、小島氏には、ルーヴル美術館についても、同じ丸善ライブラリーから出版された、次のような著作がある。
〇小島英煕『ルーヴル・美と権力の物語』丸善ライブラリー、1994年
 こちらは、日本経済新聞社が主催した「ルーヴル美術館200年展」のための企画として、『日本経済新聞』に1993年6月15日から短期連載(全5回)された「ルーヴル 美と権力の物語」をもとに、新たに書き下ろしたものである。
※機会があれば、小島英煕氏の著作も、このブログで紹介してみたい。

【小島英煕『ルーヴル・美と権力の物語』丸善ライブラリーはこちらから】
ルーヴル・美と権力の物語 (丸善ライブラリー)



オルセー美術館の解説をフランス語で読む


De la gare au musée
« La gare est superbe et a l’air d’un palais
des Beaux-Arts, et le palais des Beaux-Arts
ressemblant à une gare, je propose à Laloux
de faire l’échange s’il en est temps encore »,
écrit en 1900 le peintre Édouard Detaille!
Prophétie bien involontaire qui, quatre-
vingt-six ans plus tard, devient réalité.
Rapidement devenue obsolète, la gare cesse
de fonctionner le 23 novembre 1939, tandis
que l’hôtel ferme définitivement en 1973.
La démolition du bâtiment, qui devait inter-
venir en 1971, est évitée au prix d’un crime
contre l’architecture, la destruction des
halles de Baltard et l’émotion qu’elle sus-
cite... Inscrite à l’Inventaire supplémen-
taire des Monuments historiques, la gare
accueille le théâtre Renaud-Barrault en 1974
et la Compagnie des commissaires-priseurs,
tandis que s’élabore le projet proposé par
la Direction des Musées de France : y établir
un musée qui présenterait l’ensemble des
expressions artistiques de la seconde moitié
du XIXe siècle et des premières années
du XXe (1848-1914), établissant un lien
entre le Louvre et les collections du musée
national d’Art Moderne. Agréé par Georges
Pompidou, le programme sera soutenu par
les présidents Valéry Giscard d’Estaing
et François Mitterrand...
(Caroline Mathieu, Un musée dans une gare. Serge Lemoine, Voir Le musée d’Orsay, L’ŒIL, 2004, pp.11-12.に所収)
※この著作は、2004年にオルセー美術館で買い求めたが、アマゾンには在庫がないようである。

【語句】
La gare est    <êtreである(be)の直説法現在
superbe     [形容詞]実に美しい、すばらしい(superb)
a l’air de <avoir l’air de...~のように見える(look) aはavoirの直説法現在
un palais   [男性名詞]宮殿(palace)
Beaux-Arts   [男性名詞](複数)美術(造形美術、とくに絵画・彫刻)(fine arts)
ressemblant à  <ressembler à(àに)似ている(resemble)の分詞法現在
je propose    <proposer提案する(propose)の直説法現在
 proposer de +不定法 ~することを提案する(propose doing, offer to do)
de faire l’échange  faireする(do)
échange   [男性名詞]交換(exchange)
s’il en est <êtreである(be)の直説法現在
écrit    <écrire 書く(write)の直説法現在
Prophétie    [女性名詞]予言(prophecy)
involontaire [形容詞]故意でない、無意志の(involuntary)
devient    <devenir~になる(become)の直説法現在
Rapidement    [副詞]急速に(rapidly)
devenue <devenir~になる(become)の過去分詞
obsolète     [形容詞]廃れた、廃用の(obsolete)
la gare cesse de <cesser de+不定法 ~することをやめる(stop doing, cease)の直説法現在
fonctionner    機能する、作用する(work)
tandis que   [接続詞句]~する間に(while)、一方では~であるのに(whereas)
l’hôtel ferme   <fermer閉める、閉鎖する(close)の直説法現在
définitivement   [副詞]決定的に、最終的に(definitively)
La démolition   [女性名詞](建物の)取り壊し(demolition)
qui devait intervenir <devoir~しなければならない、~するに違いない(must)
の直説法半過去
 intervenir    干渉する、介入する(intervene)、口を出す(come in)
est évitée   <助動詞êtreの直説法現在+過去分詞(éviter) 受動態の直説法現在
au prix de   ~を犠牲にして、~と引き換えに(at the cost of)
un crime    [男性名詞]犯罪、罪(crime)
la destruction [女性名詞]破壊(destruction)
halles    (複数)中央市場(central food market)
 (cf.) les Halles レアル地区(パリ1区;1969年、Rungis[ランジス]に移転したパリ中央市場[les Halles centrales]の跡地で、現在は公園やフォロム・デ・アールなどの諸施設を中心に再開発されている)(the Halles)
Baltard    バルタール(1805~74):建築家。鉄構造建築の先駆者。パリ中央市場、サン=トーギュスタン教会を建てた[仏和大辞典より]
 ※19世紀の建築家バルタールの代表作であるパリ中央市場(レ・アール)は1971年に取り壊され、跡地に現在のフォロム・デ・アールが建設された
l’émotion    [女性名詞]動揺、ショック(emotion)
qu’elle suscite<susciter(感情を)かき立てる、呼び起こす(stir up, provoke)の直説法現在
Inscrite à <inscrire登録する(inscribe)の過去分詞
l’Inventaire supplémentaire des Monuments historiques
 l’Inventaire   [男性名詞]財産目録(inventory)
supplémentaire [形容詞]追加の(supplementary)
 Monuments historiques 歴史建造物、歴史的文化財
la gare accueille <accueillir迎える(receive)の直説法現在
le théâtre   [男性名詞]演劇、劇場(theatre)
Barrault  バロー(1910~1994)。俳優、演出家。現代演劇の旗手として舞台に映画に活躍。妻マドレーヌ・ルノーとルノー・バロー劇団を組織する[仏和大辞典より]
 ※ジャン=ルイ・バローは映画『天井桟敷の人々』のバチスト役としても知られる
commissaire-priseur  [男性名詞]競売吏、動産公売官
s’élabore     <代名動詞s’élaborer入念に作られる(work out, elaborate)の直説法現在
 <例文>Un art nouveau s’élabore peu à peu. 新しい芸術がしだいに生み出されつつある。
le projet proposé par <proposer提案する(propose)の過去分詞
la Direction [女性名詞](組織の)長の執務室、(官庁の)部、局
(cf.)direction générale 本庁、総局(head office)
y établir   設置する、確立する(establish)
un musée qui présenterait  <présenter見せる、展示する(present)の条件法現在
l’ensemble  [男性名詞]全部(whole)、集合(group)
établissant  <établir設置する、確立する(establish)の分詞法現在
un lien   [男性名詞]ひも、きずな(bond)、[entreの間の](事物の)関係(link, connection)
collection  [女性名詞]収集品、コレクション(collection)
musée national d’Art Moderne 国立近代美術館
Agréé par <agréer承認する(approve)の過去分詞
Georges Pompidou ジョルジュ・ポンピドゥー(1911~1974)
 ※日本の報道関係では慣用的にポンピドーと表記することが多い。ポンピドゥ(こちらの方がフランス語の発音に忠実)、ポンピドウなどの表記もある。
le programme   [男性名詞]番組、(仕事の)計画(program[me])
sera soutenu par  <助動詞êtreの直説法単純未来+過去分詞(soutenir)
受動態の直説法単純未来
soutenir支える、維持する、持続させる(sustain, support)
Valéry Giscard d’Estaing ヴァレリー・ジスカール・デスタン(1926~)
François Mitterrand   フランソワ・ミッテラン(1916~1996)

【語句のコメント】
※文中の建築家Baltard(バルタール)や俳優 Barrault(バロー)といったフランス語の人名が掲載されているのは、『小学館ロベール仏和大辞典』である。電子辞書だからこそ、こうした人名も載っている利点がある。ちなみに、『ロワイヤル仏和中辞典』では、Barrault(バロー)しか出てこない。

【参考】
フランス語の辞書については、私のブログ「フランス語の学び方」を参照にしていただきたい。
≪フランス語の学び方あれこれ その1≫

≪試訳≫
<駅から美術館へ>
「その駅は実に美しく、美術の宮殿のように見える。そして美術の宮殿は駅に似ているので、もし時間がまだあるなら、交換することを私はラルーに提案する」
画家のエドゥアール・ドゥタイユは1900年にこのように記している!
全く故意でない予言は、86年後に現実となる。
駅は急速に廃れて、1939年11月23日に機能しなくなる。一方ではホテルは1973年に結局閉鎖することになる。建物の取り壊しについては、1971年に干渉があり、免れる。つまり、バルタールの建てたパリ中央市場を破壊したことは動揺をかき立て、建築に対する犯罪だというわけである。
オルセー駅舎は、歴史建造物の候補リストに登録され、1974年に、ルノー=バロー劇団を、そして競売会社を迎えることになる。一方では、フランス美術館総局によって提案された計画が入念に作られる。すなわち、ルーヴル美術館と国立近代美術館の収集品との間につながりを築くために、19世紀後半から20世紀初め(1848~1914年)の芸術作品すべてを展示する美術館をそこに建てようとする計画である。その計画は、ジョルジュ・ポンピドゥーによって承認され、ヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領とフランソワ・ミッテラン大統領によって持続されることになる。



【コメント~オルセー美術館の歩み】
上記のフランス語文を解釈するにあたって、オルセー美術館の歩みについて補足しておく。
1986年12月9日、ミッテラン大統領は、新たな美術館の開館を華々しく宣言した。そもそもオルセー美術館創設の運動が起こったのは、開館13年前の1973年のことである。時の大統領ポンピドゥーは、ジュ・ド・ポームやルーヴル美術館に散逸していた印象派絵画を一堂に集め、市民に広く公開することを思い立つ。

1973年、細々と営業を続けていたホテルも閉鎖されると、取り壊して新たな豪華ホテルを建設しようとの計画が持ち上がる。
しかし、解体作業の許可も下り、まさにオルセー駅がパリから姿を消そうとしたとき、市民や政治家を巻き込んだ激しい抗議運動が巻き起こった。
やがて、その強い反対の声は、オルセー駅を歴史建造物へと押し上げ、フランス美術館総局の提案によって、19世紀を代表する名建築を最大限に活かした美術館に再生させることが決定した。
こうして、19世紀のパリを彩ったオルセー駅は、全面的な取り壊しを免れ、美術館として蘇った。

同様のことは、伊集院静氏は、『美の旅人 フランス編Ⅰ』(小学館文庫、2010年)において、次のようにオルセー美術館を解説している。
「 ルーヴル美術館のドゥノン館の小窓から対岸を見ると、そこに美しい建物を見つけることができる。
 オルセー美術館である。
 この美しい建築物はかつてパリで7番目のターミナル駅であった。1900年の万国博覧会の折、リヨン駅とともに建設された。一見、この建物はホテルのように見える。事実、ここには博覧会にやって来る旅行客のために370室の部屋数を持つホテルがあった。この建物自体が博覧会の出展作品と言ってもよいものだった。やがて美しい駅も急速なパリの膨張について行けずに駅としての機能を失い、さらに巨大なホテルへ建て替えられようとする。取り壊しがはじまった時、パリの人々は、この美しい建物の保存を訴えた。改造計画が持ち上がり、美術館計画が立てられる。ポンピドゥー、ジスカールデスタン、ミッテランの3人の大統領が国家事業として計画を進め、1986年、19世紀後半から20世紀初頭までの美術品を所蔵する美術館として誕生する。その代表が、印象派と称される人々の作品である。
(伊集院静『美の旅人 フランス編Ⅰ』小学館文庫、2010年、14頁~16頁)

つまり、次のような点を伊集院氏は指摘している。
・オルセー美術館は、ルーヴル美術館のドゥノン館の小窓から対岸を見える美しい建築物である。
・それは、1900年の万国博覧会の折、パリで7番目のターミナル駅として建設された。
・博覧会にやって来る旅行客のために370室の部屋数を持つホテルがあった。
・やがて美しい駅も、急速なパリの膨張のため、駅としての機能を失った。
・取り壊しがはじまった時、パリ市民は保存を訴えた。
・美術館計画が立てられ、ポンピドゥー、ジスカールデスタン、ミッテランの3人の大統領がその計画を進めた。
・1986年、19世紀後半から20世紀初頭までの美術品を所蔵する美術館として、オルセー美術館は誕生した。

以上、伊集院氏のオルセー美術館の解説の要点を箇条書きに書き出してみると、先に引用したフランス語文の解説に沿ったものであることに気づく。
伊集院氏は、そのオルセーを象徴する作品として、ルノワールの次の作品を取り上げている。
〇ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(1876年 131×175㎝ オルセー美術館)
1876年、ルノワール35歳の時に制作した作品である。モンマルトルでの画家の青年時代、パリが華麗であった19世紀の、青い木洩れ日の美しさが、かくも優雅にキャンバスにとらえた作品として鑑賞してほしいという。
(伊集院静『美の旅人 フランス編Ⅰ』小学館文庫、2010年、13頁、16頁)

【伊集院静『美の旅人 フランス編Ⅰ』小学館文庫はこちらから】

美の旅人 フランス編 (1) (小学館文庫)



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