ブログ原稿≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その8≫
(2020年12月11日投稿)
今回のブログでは、レオナルド・ダ・ヴィンチは「モナ・リザ」をいつ描いたのかについて考えてみる。
これまで、どのような議論が展開されていたのか。
この問題意識に焦点をあて、次の諸氏の見解を紹介してみたい。
〇北川健次氏
〇久保尋二氏と下村寅太郎氏
〇スカイエレーズ氏
〇サスーン氏
〇ヘイルズ氏
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
北川健次氏は「絵画芸術の絶対のカノンといわれるまでに高い知名度を持ちながら、これほど解けない謎にみちた作品も珍しい」と述べ、「モナ・リザ」を「謎の多面体を持ったあやかしの絵画」と捉えている。
北川氏は、その著作『絵画の迷宮―ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』(新人物往来社、2012年)において、「モナ・リザ」に関して次のような7つの疑問を提起している。
【「モナ・リザ」の7つの疑問点】
①モデルは果たして誰なのか?
②描かれた時期は何時(いつ)なのか?
③絵の注文主は実在したのか?
④背景に描かれた現実とかけ離れたような幻想的な風景は、何かの暗喩なのか?
⑤下腹部が僅かに膨らんだ妊婦と覚しきこの女性の着衣が、なぜ黒衣の喪服であるのか?
⑥口元に浮かんだ不気味ともいえる微笑の意味は何なのか?
⑦そもそも画家は、この絵に何を描こうとしたのか。
(北川健次『絵画の迷宮―ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』新人物往来社、2012年、7頁および北川健次『モナ・リザミステリー 名画の謎を追う』新潮社、2004年、10頁~11頁にも同様の叙述がある)
今回のブログでは、②の疑問、すなわち、「モナ・リザ」が描かれた時期は何時(いつ)なのか?という問題について、考えてみたい。
【北川健次『絵画の迷宮』新人物往来社はこちらから】
絵画の迷宮 (新人物往来社文庫)
「モナ・リザ」は果たしていつ描かれたのか?
謎に満ちたレオナルドの年譜を追っていくと、消去法的にその時期が絞られると北川氏は考える。
年譜のある時期に、レオナルドに絡んで、ラファエロの動きが見えてくる。ラファエロはレオナルドから多大な影響を受けながらも、37歳で夭折したこともあって、精神性の深い描出において遂に及ばなかった。そのラファエロの行動の中に「モナ・リザ」の制作時期を絞るヒントが隠されているとみる。
すなわち、一枚のセピア色のインクで書かれた女性像のデッサンは、ラファエロが「モナ・リザ」に感動して実物から写し取ったものである。ただ、そこには、類似点と相違点がある。類似点としては、
①「モナ・リザ」と全く同じ四分の三正面像。
②左右の手の同じ重ね方。
相違点としては、
①「モナ・リザ」が当初描かれていた左右の石柱がそのまま写されている点
②ラファエロの背景には、牧歌的な野の広がりや、教会らしき建物が描かれている事である。
ラファエロがこのデッサンを描いたのは1505年である。これらの点から、次のように推測している。
①1505年時点で「モナ・リザ」の人物像は主要部分が既に描かれていた事。
②また背景の相違から、「モナ・リザ」とは異なるラファエロ独自のヴィジョンに沿った背景を描いたのではないかという推測と、あるいはその時点において「モナ・リザ」の背景はまだ着手されていなかったのではないかという事である。
しかし、ここでは、1505年には既に「モナ・リザ」はある程度まで描写が入っていたという状況証拠面の一点に絞って言えば、そこから遡ること2年の内に、おそらく「モナ・リザ」は着手されていたと、多くの研究者は指摘している。
なぜなら、その前年の1502年という年は、チェーザレ・ボルジア(教皇アレクサンドル6世の庶子で政治家)に召喚されて、レオナルドが法王軍の軍事技師に任命され、各地を視察する事に忙殺された年であるからである。
多くの研究者は1503年説をとっているが、北川氏はレオナルドが「モナ・リザ」に着手したのは、1504年の後半であると推測している。その根拠としては、同年7月9日に父セル・ピエロが死去している事を挙げている。その父の遺言において、12人の子供の内、レオナルド一人だけが遺産相続人から外されていた事実に北川氏は注視している。
(北川健次『絵画の迷宮―ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』新人物往来社、2012年、103頁~106頁)。
久保尋二氏は、その著作『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』(美術出版社、1972年)の第Ⅱ章「レオナルド略伝=生涯と芸術活動」と題して、レオナルドの生涯を4つの時期に区分している。
①第一フィレンツェ時代
②第二ミラーノ時代
③第二フィレンツェ時代
④晩年のレオナルド
(久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』美術出版社、1972年、41頁~77頁)
そして、「モナ・リザ」が描かれたのは、第二フィレンツェ時代であるとして、次のように述べている。
「ボルジアが失脚して、1503年3月、またフィレンツェにもどってきたレオナルドは、同年10月、フィレンツェ政府から皮肉な注文をうける。フィレンツェ政府パラッツォ・ヴェッキオの大会議室サーラ・デル・グラン・コンスィーリオの大壁画をかざる戦争画を依頼されるのである。しかも、ほぼ10ヵ月後、ミケランジェロにその相対する壁画がまかされる。主題は、フィレンツェ市の今日あるをつげる二つの戦勝記念、すなわち、ミラーノとの戦いから<アンギアリの戦い>とピサとの戦いから<カッシーナの戦い>がえらばれ、前者がレオナルド(当時52歳)に後者がミケランジェロ(当時29歳)に託される。(中略)
その動の極致を大作にこめていた同じ時期に、レオナルドは、まさしく世にもまれな静謐を小品にもる。かれが、ルーヴルの『モナ・リザ』をいつから描きはじめたか判然としないが、しかし1503年よりはくだらない。」
(久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』美術出版社、1972年、68頁~70頁)
そして、「レオナルド年譜」(305頁~327頁)において、1503年(51歳)の事項として、
「また、おそらくこの年『モナ・リザ』の制作開始[推定]。
いまやかれは50歳を越え、眼鏡を必要とする。なお、この年ころのウゴリーノ・ヴェリーノの詩作中に、優れた画家の一人としてかれの名あり。」と記している。
(久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』美術出版社、1972年、318頁~319頁)
このように、久保尋二氏は、ルーヴルの『モナ・リザ』がいつから描きはじめたか判然としないと断わりながらも、1503年よりはくだらないとする見解をとっている。
【久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』美術出版社はこちらから】
レオナルド・ダ・ヴィンチ研究―その美術家像 (1972年)
次に、下村寅太郎氏は、「モナ・リザ」制作年代について、どのように考えているのだろうか。
「これらの確実な史料の裏付け、レオナルドの第二次フィレンツェ時代の動静、更に美術史的事実がヴァザーリの記述に適合することから、「モナ・リザ」の制作は少くとも1503年3月から1506年5月の間にフィレンツェに於てなされたといふことが殆ど確定的とされるのである。
この前後のレオナルドの動勢については、1500年ミラノからフィレンツェに帰って来たこと、1502年4月、チェーザレ・ボルジアに聘され、最高軍事技術官として甚だ活潑な活動をしたこと、翌1503年3月、再びフィレンツェに帰り、1506年6月、フィレンツェを去つて再びミラノへ移つたことが知られてゐる。これらのことから「モナ・リザ」の制作はこの1500年から1506年の間と想定される。モナ・リザなる女性も、文献によつて明らかにされた生年から計算すると、21歳から28歳に当るから、この事実も「モナ・リザ」の作品に適合する。美術史家は更にこの年代を限定して、これの制作はレオナルドのチェーザレ仕官(1502年4月)から帰還(1503年3月)する以前ではないとする。その理由とするのは、1501年4月、イザベラ・デステの代理人フラ・ピェトロ・ダ・ノヴェラーラがイザベラ宛の書翰に、レオナルドが「聖アンナ」のカルトンを完成したこと、幾何学に熱中して絵筆を執らないことを報告しているからである。それ故「モナ・リザ」はチェーザレの所から帰還した1503年3月以後で、再びミラノに去る1506年6月までの間とする。これは「これに4年間費して未完成であった」といふヴァザーリの記述に合致する。更に1506年より後ではないとされる理由は、次の如き美術史的事実に基づく。
ラファエロが1506年頃フィレンツェで描いた「マッダレーナ・ドニ」の肖像(ピッティ画廊)はその構図の上から――身体の配置、手の重ね方、眼指しの方向など――明らかに「モナ・リザ」から摂取されたものであり、従つて1505-06年の間に「モナ・リザ」を見たに相違ない。更に、それの準備のためと思はれるものであるが、直接に「モナ・リザ」そのものからの模写とし考へられないスケッチ(ルーヴル)が存在する。このスケッチには右の共通点の外に、「モナ・リザ」の枠をなす欄干の柱まで描かれてゐるから、その由来は殆ど決定とされる。ラファエロのこの両作品共に1505、6年の制作である故に、「モナ・リザ」はこれ以後ではないとされるのである。
これらの事実はすべてヴァザーリの記述と一致し、「モナ・リザ」がフィレンツェに於て1505年頃に成立したことには疑問の余地はないよう見える。
しかし実は最も根本的な問題が残つてゐる。(後略)」
(下村寅太郎『モナ・リザ論考』岩波書店、1974年、112頁~113頁)
また、下村氏は、次のようにも述べている。
「モナ・リザ」制作年代を1505年頃のフィレンツェに於てとする決定的根拠は、ヴァザーリの所伝と、これを基礎付ける様々の美術史的事実である。しかしフィレンツェ以後の行方の手掛りがない。それに反しアントンニオ・デ・ベアティスの所伝は、ルーヴルの「モナ・リザ」の作品そのものと直接の結びつきをもち、極めて有力な資料である。しかしそれによると、より後年の、1513-16年のローマ時代となり、ルーヴルの作品は「モナ・リザ」であるという確証はなくなる。何れにより大なる信憑性があるか。文献的信憑性といふことに関してはベアティス所伝に拠るべきである。美術史家は殆どこれを承認しないが、そのことの十分な理由は認められない。しかしヴァザーリ所伝も全面的に否定或いは無視さるべきではない。レオナルドが第二次フィレンツェ時代に「モナ・リザ」を制作したことを否定すべき理由はない。その記述には相当以上の対応性が認められることも事実である。」
(下村寅太郎『モナ・リザ論考』岩波書店、1974年、160頁)
このように、「モナ・リザ」は、チェーザレの所から帰還した1503年3月以後で、再びミラノに去る1506年6月までの間に、フィレンツェにおいて制作され始めたといえる。
【下村寅太郎『モナ・リザ論考』岩波書店はこちらから】
モナ・リザ論考 (1974年)
スカイエレーズ氏の見解を紹介しておこう 。
第2章の「ジョコンダとグァランダ」の「「モナリザ」 ジョコンドの妻リザ・ゲラルディーニの肖像画」において、制作年代についても言及している。
まず、ヴァザーリ、リザ・ゲラルディーニ、フランチェスコ・デル・ジョコンドについて、説明しつつ、「モナ・リザ」について考察している。
ヴァザーリは、「モナ・リザ」を実際に見たわけではない。しかし、ヴァザーリは1536年から1547年の間に執筆された『芸術家列伝』の初版が出る前に、フランス宮廷に親しく出入りしてから、祖国に戻ったイタリア人芸術家と会い、親交を深めていた。たとえば、アンドレア・デル・サルトはレオナルドと同じ時期にフランソワ1世の宮廷に姿を見せていて、1518年にフィレンツェへ戻っている。またロレンツォ・ナルディーニは1540年にフォンテーヌブロー城を6ヶ月離れてフィレンツェに滞在していた。
そしてフランチェスコ・デル・ジョコンドの親族を筆頭に、レオナルドに絵を依頼した家の人たちから、話を聞くことができた。(注109)
(注109)
F.ツェルナーは、次の論文において、ヴァザーリがフランチェスコ・デル・ジョコンドの2人の従兄弟と知り合っていたことを証明しているという。
Frank Zöllner, “Leonardo da Vinci, Mona Lisa. Das Porträt der Lisa del Giocondo. Legende und Geschichte.”, Francfort, 1994, p.12.
(スカイエレーズ(花岡敬造訳)『モナ・リザの真実』日本テレビ放送網株式会社、2005年、120頁~121頁)
そして、スカイエレーズ氏は、リザ・ゲラルディーニとフランチェスコ・デル・ジョコンドについて、次のように解説している。少々長くなるが、引用しておく。
「こうした真っ当な取材があってこそ、ヴァザーリは「レオナルドはフランチェスコ・デル・ジョコンドのために、(……)その妻モナ・リザの肖像画を引き受けた」と書くことができたのだ。モナ・リザはフランチェスコ・デル・ジョコンドの3番目(ママ)の妻だった。結婚前の名前はリザ・ゲラルディーニで、1479年生まれ。フィレンツェのサント・スピリートとサンタ・クローチェ界隈で育ち、1495年3月5日、16歳のときにフランチェスコ・デル・ジョコンドと結婚(注110)。夫のほうは1460年にフィレンツェの裕福な絹商人の一族に生まれた人物で、ストロッツィ家やドニ家とは仕事上の関係があり、1499年から1524年のあいだは定期的に公務を果たしていた。サンティシマ・アヌンツィアータ教会に埋葬のための小礼拝所を持ち、1539年には彼自身そこに埋葬された。そのサンティシマ・アヌンツィアータ教会は聖母マリア下僕会会員の教会で、長いミラノ滞在の後の1501年にフィレンツェに戻ってきたレオナルドが腰を落ち着けた場所でもある。16世紀の最初の数年間、レオナルドはここで「聖アンナと聖母子像」(ルーヴル美術館)の構成を練り上げていた。フランチェスコ・デル・ジョコンドと知り合ったのは、おそらくこの場所、この時期である。ヴァザーリは、1503年10月、フィレンツェの町から公式に注文された「聖アンナと聖母子像」と「アンギアーリの戦い」にはさまれた時期に、フランチェスコ・デル・ジョコンドの注文があったと位置づけている。」
(セシル・スカイエレーズ(花岡敬造訳)『ルーヴル美術館公式コレクション モナ・リザの真実』日本テレビ放送網株式会社、2005年、51頁)
要点を箇条書きに抽出してみる。
〇レオナルドは、フランチェスコ・デル・ジョコンドのために、その妻リザの肖像画を引き受けたと、ヴァザーリは記している
〇モナ・リザはフランチェスコ・デル・ジョコンドの3番目の妻
(ダイアン・ヘイルズ氏は2番目の妻だとする)
〇結婚前の名前は、リザ・ゲラルディーニで、1479年生まれ
フィレンツェのサント・スピリートとサンタ・クローチェ界隈で育つ
〇1495年3月5日、16歳のときにフランチェスコ・デル・ジョコンドと結婚
※(注110)
Les archives de Florenceから、リザ・ゲラルディーニとフランチェスコ・デル・ジョコンドに関する情報が発掘された。中でも、1993年のツェルナー論文は注目されるという。
Frank Zöllner, “Leonardo’s Portrait of Mona Lisa del Giocondo”,
in Gazette des Beaux-Arts, mars 1993, pp.117-125.
(この論文はサスーン氏の著作でも言及している。D.Sassoon, 2002, pp.18-21, p.336.)
なお、ツェルナー氏は1503年3月から「モナ・リザ」を描き始め、1506年6月までに一応終了したとする。)
なお、このツェルナー論文は、次の著作に再録されているという(Hales, 2014, p.300.)
Reprinted in Claire J. Farago, ed. Leonardo da Vinci : Selected Scholarship, New York : Garland Publishing, 1999, Bd.III, pp.243-266.
〇夫のフランチェスコ・デル・ジョコンドのほうは、1460年にフィレンツェの裕福な絹商人の一族に生まれた
ストロッツィ家やドニ家とは仕事上の関係があった
1499年から1524年の間は定期的に公務を果たしていた
1539年に、サンティシマ・アヌンツィアータ(Santissima Annunziata)教会に埋葬された
〇なおサンティシマ・アヌンツィアータ教会は、フィレンツェに戻ってきたレオナルドが腰を落ち着けた場所である
16世紀初め、レオナルドはここで「聖アンナと聖母子像」(ルーヴル美術館)の構成を練り上げていた
レオナルドとフランチェスコ・デル・ジョコンドと知り合ったのは、この場所、この時期であると推察しうる
〇ヴァザーリは、1503年10月、フィレンツェの町から公式に注文された「聖アンナと聖母子像」と「アンギアーリの戦い」にはさまれた時期に、フランチェスコ・デル・ジョコンドの注文があったと位置づけている
さらに、スカイエレーズ氏は、リザの家族と夫について、次のように説明している。
「ところでそのフランチェスコ・デル・ジョコンドとリザ・ゲラルディーニとの結婚によって、3人の子供が生まれたことが分かっている。1496年5月23日に長男ピエロが、続いて1499年には長女が生まれたが、この子はその年の6月6日に死亡、3人目は1502年12月1日に次男アンドレアが誕生している。さらにフランチェスコ・デル・ジョコンドが1503年4月にロレンツォ教会とメディチ宮のちかくの、スツファ通りに家を買ったことも分かっている。こうした家族の状況は、リザ・ゲラルディーニの肖像画を依頼するのにぴったりだ。フランチェスコ・デル・ジョコンドは4年間にふたりの妻を失った。原因は明らかに出産時の事故で、それぞれカミーラ・ルチェライ(1491年に結婚)とトマサ・ヴィラーニ(1493年に結婚)といった。さらに1499年には、生まれてまもない娘を突然亡くしている。だからこそ次男アンドレアの誕生はなによりも嬉しかったに違いない。もしまだ24歳の丈夫な妻の肖像画が完成していたら、きっと手に入れたばかりの新居に飾っていただろう。」
(セシル・スカイエレーズ(花岡敬造訳)『ルーヴル美術館公式コレクション モナ・リザの真実』日本テレビ放送網株式会社、2005年、51頁~53頁)
ここでの要点を記しておく。
〇リザ夫妻には、1503年までに、3人の子供が生まれた
長男ピエロは1496年5月23日に生まれる
長女は、1499年には生まれたが、その年の6月6日に死亡
3人目の次男アンドレアが、1502年12月1日に誕生
また、フランチェスコ・デル・ジョコンドは、1503年4月に家を買った
(ロレンツォ教会とメディチ宮のちかくの、スツファ通り)
→こうした家族の状況は、リザ・ゲラルディーニの肖像画を依頼するのにぴったりの時期である
〇夫の先妻について、付記している
フランチェスコ・デル・ジョコンドは4年間にふたりの妻を失ったとスカイエレーズ氏は記している。
つまり、カミーラ・ルチェライ(1491年に結婚)
トマサ・ヴィラーニ(1493年に結婚)
いずれも出産時に亡くなったとする
(この点、ヘイルズ氏は、後述するように、異論を唱えている。ヘイルズ(仙名訳)、2015年、164頁)
〇リザ・ゲラルディーニは、1499年には、生まれてまもない娘を突然亡くしている。だから夫フランチェスコは、次男アンドレアの誕生はなによりも嬉しかったとスカイエレーズ氏は推測している。
そして、まだ24歳の丈夫な妻の肖像画が完成していたら、手に入れたばかりの新居に飾っていただろうとする。
次に、スカイエレーズ氏は、絵に描かれた「モナ・リザ」が妊娠していたとする仮説について、次のように述べている。
「ところで、モナ・リザは妊娠していたという仮説がこれまでに何度かたてられたが、これに従うと「モナリザ」の制作年は、彼女が妊娠していた1502年とならざるをえない。だがそのときレオナルドはフィレンツェにおらず、1503年3月まで戻らなかったことが分かっている。
(訳注:この間、ダ・ヴィンチはマキアヴェッリの『君主論』のモデルとされるチェザーレ・ボルジアにしたがって、ロマーニャ州での戦役に軍事建築家として参加していた)。
そのうえ、たとえば1490年頃にボッティチェリによってフィレンツェで描かれた「スメラルダ・ブランディーニを描いたと推定される肖像画」、もしくは1505年から1506年頃にフィレンツェでラファエロが描いた「グラヴィーダ」(フィレンツェ ピッティ宮殿)の肖像画では、はっきりと妊娠の兆候を描いているのにたいし、「モナリザ」にはどこにもそのような表現がない。あるいはまたヴェールを被っていたり、衣服が地味だったり、宝石類をまったくつけていないことを根拠に、モナ・リザは1499年に亡くなった娘の喪に服していたという説も出ている。」
(セシル・スカイエレーズ(花岡敬造訳)『ルーヴル美術館公式コレクション モナ・リザの真実』日本テレビ放送網株式会社、2005年、53頁)
まず、モナ・リザは妊娠していたと仮定すると、「モナ・リザ」の制作年は、リザが妊娠していた1502年となるはずである。
しかしそうすると、レオナルドはフィレンツェにいないことになる。というのは、レオナルドは1503年3月まで戻らなかったからである。
訳注として、花岡敬造氏は、この間、ダ・ヴィンチはチェザーレ・ボルジア(マキアヴェッリの『君主論』のモデル)にしたがって、ロマーニャ州での戦役に軍事建築家として参加したと記している。
ここで、スカイエレーズ氏は、同時代に他の画家が描いた肖像画で、はっきりと妊娠の兆候がみられる絵を例示している。
〇ボッティチェリ「スメラルダ・ブランディーニを描いたと推定される肖像画」
(1475年頃(1490年頃)、フィレンツェで描かれた、65×41㎝、ロンドン、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館)
ここには妊娠して腹の膨らんだ女性が臍の下あたりまで描かれ、その添えた手で妊婦であることをさり気なく強調しているのにくわえ、視線はきっぱりとこちらに向けられている
〇ラファエロ「グラヴィーダ」(1505年から1506年頃、フィレンツェ ピッティ宮殿)
しかし、「モナリザ」は、どこにもそのような妊娠の兆候を描いた表現がない。
また、モナ・リザは1499年に亡くなった娘の喪に服していたという説も出ているにも触れている。その根拠は次の点である。
① ヴェールを被っている
② 衣服が地味である
③ 宝石類をまったくつけていない
ただ、衣服についてはスカイエレーズ氏は、次のように解説している。
たしかに装いが控えめなのは一目瞭然だが、ニスが衣服をくすませ、色彩群を均一にし、コントラストを弱めている点にも注意を要するとする。
サフランイエローの袖は、濃い色の衣装からもっと浮き上がって見えていたはずである。
また、色こそ暗いものの、大きく開いた胸元は、金糸の刺繍の巧みな組み合わせ模様で飾られている点にも注目する必要がある。
(この図柄は、レオナルドが考案したものらしい。「結び目」と題する版画(1497~1500年頃、25×20㎝、ミラノ、アンブロジアーナ美術館)に近いものとされる)
この肖像画に描かれた服装は、1502年頃にイタリアを席巻していたスペイン風ファッションと推測されている。反物商売のフランチェスコ・デル・ジョコンドがその流行を知らないはずはない。
この衣装が地味であるのは、モデルの外観より、むしろ心の内側を描きだすことにレオナルドが固執していたことの表れであると、スカイエレーズ氏は解している。
ヴェールについても、喪の印であると考える必要もないと強調している。「モナリザ」の軽いヴェールは、おろした髪をまとめるためで、まったく飾りがつけられていない。
この点は次の作品のヴェールとそれほど違わないという。
〇レオナルド「チェチリア・ガレラーニと推定される肖像画」(通称、「白貂を抱く貴婦人」)
(1490年頃、ミラノで描かれた肖像画、板[クルミ]、55×40㎝、クラクフ、ツァルトリスキー美術館所蔵)
〇ラファエロ「マッダレーナ・ドニ」
(1505~1506年頃、フィレンツェで描かれた肖像画、板、63×45㎝、フィレンツェ、ピッティ宮殿所蔵)
これらふたりの女性が喪に服しているといった人は、かつてひとりとしていない。このふたりのヴェールは、おそらく貞淑で信心深い婦人が聖母マリアにあやかるという、ごく一般的な装いである。
こうした装いは、たとえば、15世紀から16世紀にかけてのフィレンツェで描かれた肖像画にもみられる。
〇ドメニコ・ギルランダイヨ(1449年~1494年頃)
「娘の肖像」
(1485~1490年頃、灰緑色に染めた紙に金属の筆、白のグアッシュ、32.6×25.4㎝、フィレンツェ、ウフィッツィ美術館デッサン室)
〇ロレンツォ・ディ・クレディ(1456あるいは1460年頃~1537年)
「ジネヴラ・ディ・ジョヴァンニ・ディ・ニッコーロと推定される肖像画」
(1490年頃、板、59×40cm、ニューヨーク、メトロポリタン美術館[リチャード・デ・ウルフ・ブリクシー遺贈])
子供が急死したのは1499年なのに、1503年に注文された肖像画で、まだ喪に服しているのは、遅すぎるとスカイエレーズ氏は、フランク・ツェルナー氏の見解に同意している。さらに、そのような悲痛な事情で描かれる肖像画に、どうして微笑みがこれほど大きな意味をもって描かれているのか、説明がつかなくなるとも付言している。
(セシル・スカイエレーズ(花岡敬造訳)『ルーヴル美術館公式コレクション モナ・リザの真実』日本テレビ放送網株式会社、2005年、53頁~54頁)
「モナリザ」がリザ・デル・ジョコンドの肖像だと認めたところで、すべての疑問が解消するわけではないと、スカイエレーズ氏は釘をさしている。
たとえば、次のような問題が残るとする。
〇なぜレオナルドは強く頼まれていたイザベラ・デステの肖像を少し前に見捨てておきながら、「モナリザ」に没頭したのか。
〇4年たっても未完成のままにされたことを知りながら、なぜフランチェスコは、ほかの画家にあらためて依頼しなかったのか。
〇もしリザ・デル・ジョコンドの第二の肖像画が完成していたら、ルーヴルの絵に描かれたのは同じ人物だといえるだろうとスカイエレーズ氏は述べている。
モナリザがリザ・デル・ジョコンドであるという見解はあくまで仮説であるが、もっとも単純で、もっとも手堅い説であると、2003年(翻訳では2005年)時点で、スカイエレーズ氏は記している。
(ハイデルベルク大学での新資料は、この時点ではまだ発見されていないことに注意)
この説はなにより、ヴァザーリの書いたことや、リザ・デル・ジョコンドの人生、そして特に作品様式の特徴をすべて裏づけることができるとする。
そして、「モナリザ」がリザ・デル・ジョコンドの肖像だと認めることは、大筋のところでは、この作品が、1503年から1507年の間にフィレンツェで構想され、描かれたことを認めることでもある。
(セシル・スカイエレーズ(花岡敬造訳)『ルーヴル美術館公式コレクション モナ・リザの真実』日本テレビ放送網株式会社、2005年、54頁)
【スカイエレーズ『モナリザの真実』日本テレビ放送網株式会社はこちらから】
モナリザの真実―ルーヴル美術館公式コレクション
サスーン氏は、その著作
Donald Sassoon, Mona Lisa :The History of the World’s Most Famous Printing,
Harper Collins Publishers, 2002.
において、「モナ・リザ」の制作年代に関する見解を、次のように述べている。
When did Leonardo actually paint the Mona Lisa? The claim
by Vasari that it was painted during his second Florentine stay
(i.e. between 1500 and 1506) has been largely vindicated by the
most meticulous and evidence-based account we have ― that of
Frank Zöllner in 1993― which proposes March 1503 as the most
likely starting date for the work.(31) Completion would have
occurred around June 1506, when Leonard left Florence for
his second Milanese period (although he might of course have
continued working on the Mona Lisa later). Zöllner’s dating is
unavoidably circumstantial, but it rests on more than speculation.
In the spring and summer of 1503 Leonardo was earning little
or nothing at all. He was withdrawing money from his bank
account and nothing was coming in. He must thus have been
available for work. He could not have started the Mona Lisa
before 1500, because he was still in Milan, and we know everything
he did there.
After short stays in Mantua and Venice he returned to Florence
in April 1500. He could not have accepted a commission to por-
tray the Mona Lisa before June 1502, because he had plenty of
work. There are detailed accounts of Leonardo’s work in progress
in 1501, but none mentions the Mona Lisa.
For most of 1502 until March 1503 he was the architect and
engineer-in-chief of Cesare Borgia, the famous ― or infamous ―
son of Pope Alexander VI. His military work for Cesare took him
to Urbino, Pesaro, Cesena and Porto Cesenatico. He was thus
far too busy to start painting the portrait of a Florentine lady.
It is unlikely he would have started it after October 1503,
because by then he had been offered an important government
commission (and money): painting a mural representing The
Battle of Anghiari (soon completely ruined because Leonardo had
used unsuitable materials).
This leaves a blank: the period between March and October
1503, and this is the most likely starting date. There is some
corroborating evidence: various works by Raphael clearly allude
to the Mona Lisa (see pages 39-40).(32) Raphael must have seen
the portrait, probably not yet finished. Vasari may have been
right after all.
There is, however, no consensus. In 1939 Kenneth Clark had
accepted 1503 as the start date, but by 1973 he had become con-
vinced that Leonardo drew Lisa Gherardini in 1504 and painted
the portrait later, between 1506 and 1510, idealising it in the pro-
cess.(33) It is perfectly possible that during the composition, as
Leonardo was becoming increasingly involved with it, he altered
the original traits of Lisa, and that the result turned out quite
dissimilar to the original drawing, and hence no longer a portrait.
This would also explain why he could not give it to Francesco il
Giocondo; and it leaves open the possibility that Leonardo
painted most of the picture in 1503-06 and continued to work
at it, sporadically, well after that.(34)
The idea that the Mona Lisa may have started life as the portrait
of Lisa and ended as someone else’s opens up further possibilities.
There is a ‘two Lisas’ hypothesis: Leonardo first painted Lisa and
handed the portrait over to her husband, and this is the portrait
described by Vasari; but he had made a copy, then altered its
features, idealising them, and took that with him to France. The
first portrait was lost. The second survives and is the one we
know and love.(35) There is no real evidence for any of this, but
the theory has its charm: perhaps the first portrait was not irre-
trievably lost, in which case it could be anywhere, perhaps in
someone’s attic. When we are not sure of something, anything
is possible.
(Donald Sassoon, Mona Lisa :The History of the World’s Most Famous Painting,
Harper Collins Publishers, 2002. pp.21-22.)
Notes
(31)Frank Zöllner, ‘Leonardo’s Portrait of Mona Lisa del Giocondo’,
in Gazette des beaux-arts, March 1993, pp.115-38.
(この論文は、スカイエレーズ氏も言及していた。スカイエレーズ、2005年、121頁、注110.)
(32)Ibid., p.120.
(33)Kenneth Clark, Leonardo da Vinci, Penguin, Harmondsworth, 1989, p.172.
See also Clark, ‘Mona Lisa’,
in Burlington Magazine, March 1973, pp.144-50.
(34)Martin Kemp, Leonardo da Vinci: The Marvellous Works of Nature and Man,
Dent, London, 1981, pp.268-70.
(35)For a recent example of the two-Lisas theory see Jérôme de Bassano, ‘Le Mythe de la Joconde’, in Bulletin de l’Association Léonard de Vinci, No.16, March 1978, pp.21-3.
(Donald Sassoon, Mona Lisa :The History of the World’s Most Famous Painting,
Harper Collins Publishers, 2002. p.282.)
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Mona Lisa: The History of the World's Most Famous Painting (Story of the Best-Known Painting in the World)
【単語】
claim (n.)主張
vindicate (vt.)立証する、主張する
meticulous (a.)いやに念入りな
account (n.)説明
propose (vt.)提案する
completion (n.)完成、終了
unavoidably (ad.)避け難く、不可避的に
circumstantial (a.)情況による、詳細な (cf.) a circumstantial report 詳細な報告
rest on よりかかる
<例文>
・Her approach rests on the premise that new and better things will come naturally.
彼女のアプローチは新しくてよりよいことは自然にやって来るものだという前提に立っている。
・His theory rested on few facts. 彼の理論はほとんど事実に基づいていなかった。
speculation (n.)思索、推測
earn (vt.)もうける、かせいで得る
withdraw (vt.)引き取る、(預金を~から)引き出す
(cf.) withdraw 10,000 yen from a bank account銀行の預金口座から1万円を引き出す
account (n.)勘定、預金口座(bank account)
(cf.)have an account with a bank 銀行に口座をもつ
come in 入る、[通例 be coming](給料・利益などが収入として)入る
available (a.)役に立つ、利用できる、入手できる
Mantua マントヴァ(イタリア北部ロンバルディア州東部の都市)
commission (n.)注文
portray (vt.)肖像を描く、描写する
in progress 進行中
infamous (a.)悪名の高い(notorious)
Urbino ウルビーノ(イタリア中部、フィレンツェの東約110キロにある芸術都市)
Pesaro ペザロ(イタリア東部、アドリア海沿岸の港湾都市)
Cesena チェゼーナ(イタリア北部、エミリア=ロマーニャ州フォルリ県の都市)
Porto Cesenatico ポルト・チェゼナーティコ(アドリア海と運河で結ばれた港湾都市)
チェゼナーティコの運河港には、チェーザレ・ボルジアの依頼を受けたレオナルドが関わっている。
unlikely (a.)ありそうもない、見込みのない
unsuitable (a.)不適当な
blank (n.)空白、空虚、何もない時間
corroborating ⇒corroborate (vt.)確証する、裏づける (a.)確証された、裏付けられた
allude (vi.)それとなく言及する(to)
after all 結局、やはり
consensus (n.)一致
convince (vt.)確信させる ⇒be convinced 確信する
draw (vt.)(図・絵を)描く
idealise ⇒idealize(英国ではしばしばidealise)(vi., vt.)理想化する
involve (vt.)巻き込む [通例 be involved in[with]]没頭する
trait (n.)特色、特徴、一筆
dissimilar (a.)似ていない、異なる
leave (vt.)残す (cf.)leave the door open (議論の)可能性を残しておく
open (a.)開いた、(問題が)未解決の
drawing (n.)線画、デッサン
sporadically (ad.)散発的に
open up 開く、広げる
(cf.) open up other possibilities 他の可能性を広げる
hypothesis (n.)仮説
hand over (人に~を)引き渡す(to)
theory (n.)理論、学説、仮説(hypothesisより妥当性がある)
irretrievably (ad.)回復できないほど、取り返しがつかないほど
attic (n.)屋根裏部屋
(cf.)Anything’s possible. どんなことでも起こりうる(不可能なことはない)
【大意】
レオナルドは「モナ・リザ」をいつ描いたのか。
ヴァザーリによれば、レオナルドが第2フィレンツェ滞在期(1500年~1506年)に描いたとする。この学説は、1993年にフランク・ツォルナー氏が支持し、1503年3月が「モナ・リザ」着手時期として最もありうるとする。
(一応の完成は、1506年6月頃だったであろう。この時期レオナルドはフィレンツェを去り、第2ミラノ時代に入る。もちろん「モナ・リザ」は後にも手を加えられただろうが)
サスーン氏は、ツォルナー氏の時期設定について、不可避的に状況的であるが、推論以上によっているともコメントとしている。
ところで、レオナルドは、1503年春と夏、レオナルドは収入がほとんど無かったか、もしくは全くなかった。レオナルドは預金口座からお金を引き出したが、入金はない。収入となる仕事を探していたにちがいない。「モナ・リザ」が、1500年以前に着手されたことはありえない。というのは、その頃はまだミラノにいたから。
マントヴァ、ヴェネチアに立ち寄った後、レオナルドは1500年4月にフィレンツェに帰郷した。彼は、1502年6月以前に「モナ・リザ」の肖像を描くという注文を受けたことはありえない。というのは、多くの仕事を引き受けていたから。1501年には進行中の作品に関する詳細な記事があるが、「モナ・リザ」についての言及はない。
1502年の大部分と、1503年3月までは、レオナルドは悪名高いチェーザレ・ボルジア(教皇アレクサンデル6世の息子)のもとで建築家・技術家として働いていた。軍事上の仕事で、ウルビーノ、ペザロ、チェゼーナ、ポルト・チェゼナーティコにお供した。レオナルドはこのように大変忙しく、フィレンツェの婦人の肖像画を描き始めることはできなかった。
また、1503年10月以後に、「モナ・リザ」を着手したこともありえない。というのは、フィレンツェ政庁から、「アンギアーリの戦い」という重要な注文を受けるから。
1503年3月と10月の間の時期なら、空白を残している。この時期が着手時期として最もありうる。裏付ける証拠はある。ラファエロの作品が「モナ・リザ」の存在をほのめかしている。ラファエロは、未完成の「モナ・リザ」を見たにちがいない。ヴァザーリは、やはり正しかったのかもしれない。
しかしながら、見解は一致しているわけではない。
例えば、1939年、ケネス・クラーク氏は、着手時期を1503年とする説を受け入れたが、レオナルドは1504年にリザ・ゲラルディーニを素描し、後に肖像画にしたが、1506年と1510年との間に制作過程で理想化したのだと、1973年までに確信するようになった(註釈33)。
構成過程で、レオナルドは「モナ・リザ」に次第に没頭し、リザの元来の特徴を変えたということ、そしてその結果、元来の素描と似ていなくなり、もはや肖像画でなくなったということは、ありうる。このことが、なぜレオナルドがフランチェスコ・イル・ジョコンド(ママ)に絵を渡さなかった理由ということも考えうる。そして、レオナルドは1503年~06年にその絵の大部分を描き、その後も散発的に手を加え続けたという可能性も残されている。
「モナ・リザ」は、リザの肖像画として出発したが、他の誰かとして終わったという考えも、更なる可能性を広げるかもしれない。「2枚のリザ」という仮説もある。つまり、レオナルドは最初リザ描き、その肖像画を夫に引き渡し、それがヴァザーリの叙述した肖像画である。しかし、レオナルドは複製画をつくり、それからその特徴を変更し理想化し、その絵を携えてフランスに赴いた。
最初の肖像画は失われたが、2枚目の方が、今日われわれが知り愛する作品「モナ・リザ」として残っているとする。
真の証拠はないが、この仮説は魅力的である。つまり、最初の肖像画は修復できないほど失われてしまった(その場合、どこか、おそらく誰かの屋根裏部屋あたりにあるのかもしれないのだが)。
≪レオナルドの第二フィレンツェ時代の経済状況≫
レオナルドの第二フィレンツェ時代の経済状況はどのようなものだったのか。
サスーン氏は、先の英文に、預金の引き出しについて言及している。
この点、久保尋二氏は、『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』(美術出版社、1972年)は、「レオナルド年譜」(305頁~327頁)において、詳しく記しているので、紹介しておこう。
1499年(47歳)12月14日
フィレンツェのサンタ・マリア・ヌオーヴァ病院に、ジォヴァンニ・バッティスタ・ディ・ゴーロに託して600ドゥカーティを預金。M手記。
その後まもなく(あるいは翌年早々)、かれはサライらと、マントヴァとヴェネツィアを経由してフィレンツェに向う。ルカ・パチオリはかれの一行中にあり。
1500年(48歳)4月24日
かれはすでにフィレンツェにあって、ヌオーヴァ病院の預金から50ドゥカーティを引出す。
1501年(48歳)11月19日
かれはヌオーヴァ病院の預金から50ドゥカーティを引出す。
1503年(51歳)3月5日
すでにフィレンツェにあり、ヌオーヴァ病院の預金から50ドゥカーティを引出す(なお、この年の6月14日、9月1日、11月21日にも、それぞれ50ドゥカーティを引出している)。
1504年(52歳)4月1日
『アンギアリの戦い』のための最初の報酬支払い(月額15ドゥカーティ)。
同年4月27日
預金より50ドゥカーティの引出し。
1506年(54歳)5月20日
預金より50ドゥカーティの引出し。このときまでにかれは、預金600ドゥカーティのうち450ドゥカーティを消費。このころ、フランスのミラーノ総督シャルル・ダンボワーズ(ショーモン伯)からミラーノへの招聘をうく。
同年5月30日
ミラーノへ3ヵ月の賜暇を政庁が許可。ただし、違反のときは150ドゥカーティの罰金という条件付(かれの預金残額がその抵当となった)。
(久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』美術出版社、1972年、316頁~321頁)
ミラノを発つ前に、1499年(47歳)12月14日に、フィレンツェのサンタ・マリア・ヌオーヴァ病院に、600ドゥカーティを預金しておいたのを、その後50ドゥカーティずつ引き出していたようだ。
その預金も、1506年(54歳)5月20日に、預金より50ドゥカーティの引出したが、このときまで、預金600ドゥカーティのうち450ドゥカーティを消費したそうだ。そして、10日後の5月30日、ミラーノへ3ヵ月の賜暇を政庁が許可された。ただし、違反のときは150ドゥカーティの罰金という条件付で、預金残額がその抵当となったという。
サスーン氏の記述を具体的に知ると、レオナルドの経済状況が推察できる。
≪チェーザレ・ボルジアのもとでのレオナルドの行動≫
また、1502年から1503年3月までは、チェーザレ・ボルジア(教皇アレクサンデル6世の息子)のもとで建築家・軍事土木技師として働き、軍事上の仕事で、ウルビーノ、ペザロ、チェゼーナ、ポルト・チェゼナーティコにお供したことを、サスーン氏は述べている。
この点についても、久保尋二氏の『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』(美術出版社、1972年)の「レオナルド年譜」(305頁~327頁)により、補足しておく。
1502年(50歳)7月
たぶん7月以降約8ヵ月間、中伊地方におけるチェーザレ・ボルジア軍の軍事土木技師として従軍。かれの行動は、L手記から推してつぎのごとし。
1502年7月30日 在ウルビーノ(L, 6r)。
1502年8月1日 在ペーザロ(L, 表紙r)。
1502年8月8日 在リミニ(L, 78r)。
1502年8月11日 在チェーゼナ(L, 36v)。そこでチェーゼナとポルト・チェゼナーティコを結ぶ運河その他を計画。
1502年8月18日 チェーザレ・ボルジアの、レオナルドに対して特権発揮を許す全軍への布告書(パテンテ・ドゥカーレ)。
1502年9月6日 在ポルト・チェゼナーティコ(L, 66v)。ここの港の改築工事その他に従事。
1502年10月 在イーモラ。
フランス王ルイXII世ミラーノにあり、チェーザレ・ボルジアの訪問をうく。レオナルドがどこまでボルジア軍と行動を共にしたかは判然としないが、ボルジアが翌年初頭、教皇アレクサンドルVI世によってローマに呼戻されるまで同行したかもしない。
(久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』美術出版社、1972年、317頁~318頁)
1502年の夏からほぼ8ヵ月間、中部イタリアにおけるチェーザレ・ボルジアの軍事土木技師として従軍した際、レオナルドについて、久保尋二氏は次のように解説している。
「そのころのかれの機械工学、土木測量学等へのあくなき関心は、1502年の夏(たぶん7月以降)からほぼ8ヵ月間、中部イタリアにおけるチェーザレ・ボルジアの軍事土木技師として従軍させるのである。かれのそのときの行動と行為は、現存のかれのL手記から推測されるが、この従軍から本当にえたものは、しかし他の手記からあきらかなごとく、ただ戦争の狂気に対するつよい憎しみだけであったにちがいない」
(久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』美術出版社、1972年、68頁)
レオナルドの預金の引き出しについては、ヘイルズ氏も次のように言及している。
After eight months with the Borgia campaign, Leonardo made his way
back to Florence. By March 4, 1503, he was withdrawing money from his
account at Santa Maria Nuova ― an indication that he never was paid
for his stint as a military engineer. The experience with Cesare Borgia
drained more than his savings. No longer did Leonardo take pride in de-
signing impregnable fortresses and diabolical killing machines. Never
again did he tout his skills related to military operations.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.155.)
【単語】
campaign (n.)軍事行動
withdraw (vt.)(預金を)引き出す
indication (n.)指示、暗示、徴候
stint (n.)切り詰め、割り当て(の仕事)
drain (vt.)排水する、(財産・精力を)徐々に消耗させる、使い果たす
saving (n.)貯蓄 (pl.)貯金、節約
design (vt.)設計する
impregnable (a.)難攻不落の
fortress (n.)要塞
diabolical (a.)悪魔的な
tout (vt.)しつこく求める、せがむ
relate (vi., vt.)関係がある、関係させる(to)
≪訳文≫
レオナルドはチェーザレ・ボルジアの戦略に8か月間ほど協力したあと、フィレンツェに戻った。1503年3月4日までに、フィレンツェのサンタマリア・ヌオーヴァの預金を引き出している。そこから推察すると、レオナルドはミラノでは軍事技術顧問として支払いを受けていなかったのではないか、と推察できる。つまり、チェーザレ・ボルジアに協力していた時期、レオナルドは自腹を切っていたことになる。レオナルドはそれ以後、難攻不落の城砦を築城するとか、残忍な殺人兵器の開発に関しては情熱を失った。それからは、軍事作戦に時間を費やすことはなかった。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、221頁~222頁)
1503年3月4日までに、フィレンツェのサンタマリア・ヌオーヴァの預金を引き出していることから、レオナルドはミラノではチェーザレ・ボルジアに協力していた時期、軍事技術顧問として支払いを受けず、レオナルドは自腹を切っていたと、ヘイルズ氏は推察している。
ヘイルズ氏が「モナ・リザ」の制作年代について、どのように考えているかについては、後に詳しくみるが、簡潔に次のように、その問題について言及している。
Leonardo da Vinci, most biographers agree, was working on his por-
trait of Lisa in 1503 (some believe he may have begun a year or two earlier),
perhaps most intensely between his return from the Borgia campaign in
the spring and a major new civic commission in the fall. Lisa might not
have known the details of the arrangements; these were matters men ne-
gotiated. Regardless of the when and where of their first encounter, the
manners of the day would have dictated what happened when a Floren-
tine signora was formally presented to a distinguished elder, old enough
(at age fifty-one) to be her father.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.156.)
【Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discoveredはこちらから】
Mona Lisa: A Life Discovered
【単語】
work on (映画・小説などを)製作する、(問題に)取り組む
intensely (ad.)熱烈に
campaign (n.)運動、戦役、軍事行動
civic (a.)市の、市民の
commission (n.)注文、委託、依頼
arrangement (n.) (pl.)手配、準備(→お膳立て)
negotiate (vi., vt.)交渉する
regardless of ~にかかわらず、~にかかわりなく
<例文>
・Regardless of what you may think about him, he is a reliable person.
君が彼についてどう思っているかに関係なく、彼は信頼に足る人だ。
・equal treatment for all, regardless of race, religion, or sex.
人種、宗教、性別にかかわりなく、すべての人に対する平等な扱い
encounter (n.)出会い、遭遇
manner (n.) (pl.)作法、風習、種類
dictate (vi., vt.)口述する、命令する
signora (イタリア語)婦人
distinguished (a.)すぐれた、気品[威厳]のある
≪訳文≫
レオナルドダ・ヴィンチの伝記作家たちの多くは、彼が「モナ・リザ」の制作に入ったのは1503年だとしている(それより1、2年ほど早かったという説もある)。いずれにしても、ボルジアとの結びつきを終えて春にフィレンツェに戻り、秋にヴェッキオ宮殿での仕事を頼まれる前だ。リサは、それまでのお膳立ての詳細は知らされていなかったと思われる。このようなことは、男同士の話し合いで決まる。時期は、フィレンツェの最高議決機関のシニョーリアが、レオナルドダ・ヴィンチに新たな仕事を依頼する前だ。二人がはじめて対面したとき、レオナルドは51歳、リサの父親といってもいいくらいの年齢だった。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、223頁~224頁)
レオナルド・ダ・ヴィンチが「モナ・リザ」の制作に入ったのは、一般的に、1503年だとする見解をヘイルズ氏は紹介している。
(それより1、2年ほど早かったという説もあるという)。
その時期としては、ボルジアとの結びつきを終えて春にフィレンツェに戻り、秋にヴェッキオ宮殿での仕事を頼まれる前だとする。
つまり、その時期は、フィレンツェの最高議決機関のシニョーリアが、レオナルド・ダ・ヴィンチに新たな仕事を依頼する前であるとする。
(2020年12月11日投稿)
【はじめに】
今回のブログでは、レオナルド・ダ・ヴィンチは「モナ・リザ」をいつ描いたのかについて考えてみる。
これまで、どのような議論が展開されていたのか。
この問題意識に焦点をあて、次の諸氏の見解を紹介してみたい。
〇北川健次氏
〇久保尋二氏と下村寅太郎氏
〇スカイエレーズ氏
〇サスーン氏
〇ヘイルズ氏
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・北川健次氏の「モナ・リザ」に関する疑問点
・北川健次氏の「モナ・リザ」制作年代に関する見解
・久保尋二氏と下村寅太郎氏の「モナ・リザ」制作年代に関する見解
・「モナ・リザ」の制作年代およびリザ・ゲラルディーニに関するスカイエレーズ氏の見解
・「モナ・リザ」の制作年代に関するサスーン氏の見解
・【サスーン氏の英文の補足】≪レオナルドの第二フィレンツェ時代の経済状況≫/≪チェーザレ・ボルジアのもとでのレオナルドの行動≫
・レオナルドの預金の引き出し ヘイルズ氏
・「モナ・リザ」の制作年代 ヘイルズ氏
北川健次氏の「モナ・リザ」に関する疑問点
北川健次氏は「絵画芸術の絶対のカノンといわれるまでに高い知名度を持ちながら、これほど解けない謎にみちた作品も珍しい」と述べ、「モナ・リザ」を「謎の多面体を持ったあやかしの絵画」と捉えている。
北川氏は、その著作『絵画の迷宮―ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』(新人物往来社、2012年)において、「モナ・リザ」に関して次のような7つの疑問を提起している。
【「モナ・リザ」の7つの疑問点】
①モデルは果たして誰なのか?
②描かれた時期は何時(いつ)なのか?
③絵の注文主は実在したのか?
④背景に描かれた現実とかけ離れたような幻想的な風景は、何かの暗喩なのか?
⑤下腹部が僅かに膨らんだ妊婦と覚しきこの女性の着衣が、なぜ黒衣の喪服であるのか?
⑥口元に浮かんだ不気味ともいえる微笑の意味は何なのか?
⑦そもそも画家は、この絵に何を描こうとしたのか。
(北川健次『絵画の迷宮―ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』新人物往来社、2012年、7頁および北川健次『モナ・リザミステリー 名画の謎を追う』新潮社、2004年、10頁~11頁にも同様の叙述がある)
今回のブログでは、②の疑問、すなわち、「モナ・リザ」が描かれた時期は何時(いつ)なのか?という問題について、考えてみたい。
【北川健次『絵画の迷宮』新人物往来社はこちらから】
絵画の迷宮 (新人物往来社文庫)
北川健次氏の「モナ・リザ」制作年代に関する見解
「モナ・リザ」は果たしていつ描かれたのか?
謎に満ちたレオナルドの年譜を追っていくと、消去法的にその時期が絞られると北川氏は考える。
年譜のある時期に、レオナルドに絡んで、ラファエロの動きが見えてくる。ラファエロはレオナルドから多大な影響を受けながらも、37歳で夭折したこともあって、精神性の深い描出において遂に及ばなかった。そのラファエロの行動の中に「モナ・リザ」の制作時期を絞るヒントが隠されているとみる。
すなわち、一枚のセピア色のインクで書かれた女性像のデッサンは、ラファエロが「モナ・リザ」に感動して実物から写し取ったものである。ただ、そこには、類似点と相違点がある。類似点としては、
①「モナ・リザ」と全く同じ四分の三正面像。
②左右の手の同じ重ね方。
相違点としては、
①「モナ・リザ」が当初描かれていた左右の石柱がそのまま写されている点
②ラファエロの背景には、牧歌的な野の広がりや、教会らしき建物が描かれている事である。
ラファエロがこのデッサンを描いたのは1505年である。これらの点から、次のように推測している。
①1505年時点で「モナ・リザ」の人物像は主要部分が既に描かれていた事。
②また背景の相違から、「モナ・リザ」とは異なるラファエロ独自のヴィジョンに沿った背景を描いたのではないかという推測と、あるいはその時点において「モナ・リザ」の背景はまだ着手されていなかったのではないかという事である。
しかし、ここでは、1505年には既に「モナ・リザ」はある程度まで描写が入っていたという状況証拠面の一点に絞って言えば、そこから遡ること2年の内に、おそらく「モナ・リザ」は着手されていたと、多くの研究者は指摘している。
なぜなら、その前年の1502年という年は、チェーザレ・ボルジア(教皇アレクサンドル6世の庶子で政治家)に召喚されて、レオナルドが法王軍の軍事技師に任命され、各地を視察する事に忙殺された年であるからである。
多くの研究者は1503年説をとっているが、北川氏はレオナルドが「モナ・リザ」に着手したのは、1504年の後半であると推測している。その根拠としては、同年7月9日に父セル・ピエロが死去している事を挙げている。その父の遺言において、12人の子供の内、レオナルド一人だけが遺産相続人から外されていた事実に北川氏は注視している。
(北川健次『絵画の迷宮―ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』新人物往来社、2012年、103頁~106頁)。
久保尋二氏と下村寅太郎氏の「モナ・リザ」制作年代に関する見解
久保尋二氏は、その著作『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』(美術出版社、1972年)の第Ⅱ章「レオナルド略伝=生涯と芸術活動」と題して、レオナルドの生涯を4つの時期に区分している。
①第一フィレンツェ時代
②第二ミラーノ時代
③第二フィレンツェ時代
④晩年のレオナルド
(久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』美術出版社、1972年、41頁~77頁)
そして、「モナ・リザ」が描かれたのは、第二フィレンツェ時代であるとして、次のように述べている。
「ボルジアが失脚して、1503年3月、またフィレンツェにもどってきたレオナルドは、同年10月、フィレンツェ政府から皮肉な注文をうける。フィレンツェ政府パラッツォ・ヴェッキオの大会議室サーラ・デル・グラン・コンスィーリオの大壁画をかざる戦争画を依頼されるのである。しかも、ほぼ10ヵ月後、ミケランジェロにその相対する壁画がまかされる。主題は、フィレンツェ市の今日あるをつげる二つの戦勝記念、すなわち、ミラーノとの戦いから<アンギアリの戦い>とピサとの戦いから<カッシーナの戦い>がえらばれ、前者がレオナルド(当時52歳)に後者がミケランジェロ(当時29歳)に託される。(中略)
その動の極致を大作にこめていた同じ時期に、レオナルドは、まさしく世にもまれな静謐を小品にもる。かれが、ルーヴルの『モナ・リザ』をいつから描きはじめたか判然としないが、しかし1503年よりはくだらない。」
(久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』美術出版社、1972年、68頁~70頁)
そして、「レオナルド年譜」(305頁~327頁)において、1503年(51歳)の事項として、
「また、おそらくこの年『モナ・リザ』の制作開始[推定]。
いまやかれは50歳を越え、眼鏡を必要とする。なお、この年ころのウゴリーノ・ヴェリーノの詩作中に、優れた画家の一人としてかれの名あり。」と記している。
(久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』美術出版社、1972年、318頁~319頁)
このように、久保尋二氏は、ルーヴルの『モナ・リザ』がいつから描きはじめたか判然としないと断わりながらも、1503年よりはくだらないとする見解をとっている。
【久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』美術出版社はこちらから】
レオナルド・ダ・ヴィンチ研究―その美術家像 (1972年)
次に、下村寅太郎氏は、「モナ・リザ」制作年代について、どのように考えているのだろうか。
「これらの確実な史料の裏付け、レオナルドの第二次フィレンツェ時代の動静、更に美術史的事実がヴァザーリの記述に適合することから、「モナ・リザ」の制作は少くとも1503年3月から1506年5月の間にフィレンツェに於てなされたといふことが殆ど確定的とされるのである。
この前後のレオナルドの動勢については、1500年ミラノからフィレンツェに帰って来たこと、1502年4月、チェーザレ・ボルジアに聘され、最高軍事技術官として甚だ活潑な活動をしたこと、翌1503年3月、再びフィレンツェに帰り、1506年6月、フィレンツェを去つて再びミラノへ移つたことが知られてゐる。これらのことから「モナ・リザ」の制作はこの1500年から1506年の間と想定される。モナ・リザなる女性も、文献によつて明らかにされた生年から計算すると、21歳から28歳に当るから、この事実も「モナ・リザ」の作品に適合する。美術史家は更にこの年代を限定して、これの制作はレオナルドのチェーザレ仕官(1502年4月)から帰還(1503年3月)する以前ではないとする。その理由とするのは、1501年4月、イザベラ・デステの代理人フラ・ピェトロ・ダ・ノヴェラーラがイザベラ宛の書翰に、レオナルドが「聖アンナ」のカルトンを完成したこと、幾何学に熱中して絵筆を執らないことを報告しているからである。それ故「モナ・リザ」はチェーザレの所から帰還した1503年3月以後で、再びミラノに去る1506年6月までの間とする。これは「これに4年間費して未完成であった」といふヴァザーリの記述に合致する。更に1506年より後ではないとされる理由は、次の如き美術史的事実に基づく。
ラファエロが1506年頃フィレンツェで描いた「マッダレーナ・ドニ」の肖像(ピッティ画廊)はその構図の上から――身体の配置、手の重ね方、眼指しの方向など――明らかに「モナ・リザ」から摂取されたものであり、従つて1505-06年の間に「モナ・リザ」を見たに相違ない。更に、それの準備のためと思はれるものであるが、直接に「モナ・リザ」そのものからの模写とし考へられないスケッチ(ルーヴル)が存在する。このスケッチには右の共通点の外に、「モナ・リザ」の枠をなす欄干の柱まで描かれてゐるから、その由来は殆ど決定とされる。ラファエロのこの両作品共に1505、6年の制作である故に、「モナ・リザ」はこれ以後ではないとされるのである。
これらの事実はすべてヴァザーリの記述と一致し、「モナ・リザ」がフィレンツェに於て1505年頃に成立したことには疑問の余地はないよう見える。
しかし実は最も根本的な問題が残つてゐる。(後略)」
(下村寅太郎『モナ・リザ論考』岩波書店、1974年、112頁~113頁)
また、下村氏は、次のようにも述べている。
「モナ・リザ」制作年代を1505年頃のフィレンツェに於てとする決定的根拠は、ヴァザーリの所伝と、これを基礎付ける様々の美術史的事実である。しかしフィレンツェ以後の行方の手掛りがない。それに反しアントンニオ・デ・ベアティスの所伝は、ルーヴルの「モナ・リザ」の作品そのものと直接の結びつきをもち、極めて有力な資料である。しかしそれによると、より後年の、1513-16年のローマ時代となり、ルーヴルの作品は「モナ・リザ」であるという確証はなくなる。何れにより大なる信憑性があるか。文献的信憑性といふことに関してはベアティス所伝に拠るべきである。美術史家は殆どこれを承認しないが、そのことの十分な理由は認められない。しかしヴァザーリ所伝も全面的に否定或いは無視さるべきではない。レオナルドが第二次フィレンツェ時代に「モナ・リザ」を制作したことを否定すべき理由はない。その記述には相当以上の対応性が認められることも事実である。」
(下村寅太郎『モナ・リザ論考』岩波書店、1974年、160頁)
このように、「モナ・リザ」は、チェーザレの所から帰還した1503年3月以後で、再びミラノに去る1506年6月までの間に、フィレンツェにおいて制作され始めたといえる。
【下村寅太郎『モナ・リザ論考』岩波書店はこちらから】
モナ・リザ論考 (1974年)
「モナ・リザ」の制作年代およびリザ・ゲラルディーニに関するスカイエレーズ氏の見解
スカイエレーズ氏の見解を紹介しておこう 。
第2章の「ジョコンダとグァランダ」の「「モナリザ」 ジョコンドの妻リザ・ゲラルディーニの肖像画」において、制作年代についても言及している。
まず、ヴァザーリ、リザ・ゲラルディーニ、フランチェスコ・デル・ジョコンドについて、説明しつつ、「モナ・リザ」について考察している。
ヴァザーリは、「モナ・リザ」を実際に見たわけではない。しかし、ヴァザーリは1536年から1547年の間に執筆された『芸術家列伝』の初版が出る前に、フランス宮廷に親しく出入りしてから、祖国に戻ったイタリア人芸術家と会い、親交を深めていた。たとえば、アンドレア・デル・サルトはレオナルドと同じ時期にフランソワ1世の宮廷に姿を見せていて、1518年にフィレンツェへ戻っている。またロレンツォ・ナルディーニは1540年にフォンテーヌブロー城を6ヶ月離れてフィレンツェに滞在していた。
そしてフランチェスコ・デル・ジョコンドの親族を筆頭に、レオナルドに絵を依頼した家の人たちから、話を聞くことができた。(注109)
(注109)
F.ツェルナーは、次の論文において、ヴァザーリがフランチェスコ・デル・ジョコンドの2人の従兄弟と知り合っていたことを証明しているという。
Frank Zöllner, “Leonardo da Vinci, Mona Lisa. Das Porträt der Lisa del Giocondo. Legende und Geschichte.”, Francfort, 1994, p.12.
(スカイエレーズ(花岡敬造訳)『モナ・リザの真実』日本テレビ放送網株式会社、2005年、120頁~121頁)
そして、スカイエレーズ氏は、リザ・ゲラルディーニとフランチェスコ・デル・ジョコンドについて、次のように解説している。少々長くなるが、引用しておく。
「こうした真っ当な取材があってこそ、ヴァザーリは「レオナルドはフランチェスコ・デル・ジョコンドのために、(……)その妻モナ・リザの肖像画を引き受けた」と書くことができたのだ。モナ・リザはフランチェスコ・デル・ジョコンドの3番目(ママ)の妻だった。結婚前の名前はリザ・ゲラルディーニで、1479年生まれ。フィレンツェのサント・スピリートとサンタ・クローチェ界隈で育ち、1495年3月5日、16歳のときにフランチェスコ・デル・ジョコンドと結婚(注110)。夫のほうは1460年にフィレンツェの裕福な絹商人の一族に生まれた人物で、ストロッツィ家やドニ家とは仕事上の関係があり、1499年から1524年のあいだは定期的に公務を果たしていた。サンティシマ・アヌンツィアータ教会に埋葬のための小礼拝所を持ち、1539年には彼自身そこに埋葬された。そのサンティシマ・アヌンツィアータ教会は聖母マリア下僕会会員の教会で、長いミラノ滞在の後の1501年にフィレンツェに戻ってきたレオナルドが腰を落ち着けた場所でもある。16世紀の最初の数年間、レオナルドはここで「聖アンナと聖母子像」(ルーヴル美術館)の構成を練り上げていた。フランチェスコ・デル・ジョコンドと知り合ったのは、おそらくこの場所、この時期である。ヴァザーリは、1503年10月、フィレンツェの町から公式に注文された「聖アンナと聖母子像」と「アンギアーリの戦い」にはさまれた時期に、フランチェスコ・デル・ジョコンドの注文があったと位置づけている。」
(セシル・スカイエレーズ(花岡敬造訳)『ルーヴル美術館公式コレクション モナ・リザの真実』日本テレビ放送網株式会社、2005年、51頁)
要点を箇条書きに抽出してみる。
〇レオナルドは、フランチェスコ・デル・ジョコンドのために、その妻リザの肖像画を引き受けたと、ヴァザーリは記している
〇モナ・リザはフランチェスコ・デル・ジョコンドの3番目の妻
(ダイアン・ヘイルズ氏は2番目の妻だとする)
〇結婚前の名前は、リザ・ゲラルディーニで、1479年生まれ
フィレンツェのサント・スピリートとサンタ・クローチェ界隈で育つ
〇1495年3月5日、16歳のときにフランチェスコ・デル・ジョコンドと結婚
※(注110)
Les archives de Florenceから、リザ・ゲラルディーニとフランチェスコ・デル・ジョコンドに関する情報が発掘された。中でも、1993年のツェルナー論文は注目されるという。
Frank Zöllner, “Leonardo’s Portrait of Mona Lisa del Giocondo”,
in Gazette des Beaux-Arts, mars 1993, pp.117-125.
(この論文はサスーン氏の著作でも言及している。D.Sassoon, 2002, pp.18-21, p.336.)
なお、ツェルナー氏は1503年3月から「モナ・リザ」を描き始め、1506年6月までに一応終了したとする。)
なお、このツェルナー論文は、次の著作に再録されているという(Hales, 2014, p.300.)
Reprinted in Claire J. Farago, ed. Leonardo da Vinci : Selected Scholarship, New York : Garland Publishing, 1999, Bd.III, pp.243-266.
〇夫のフランチェスコ・デル・ジョコンドのほうは、1460年にフィレンツェの裕福な絹商人の一族に生まれた
ストロッツィ家やドニ家とは仕事上の関係があった
1499年から1524年の間は定期的に公務を果たしていた
1539年に、サンティシマ・アヌンツィアータ(Santissima Annunziata)教会に埋葬された
〇なおサンティシマ・アヌンツィアータ教会は、フィレンツェに戻ってきたレオナルドが腰を落ち着けた場所である
16世紀初め、レオナルドはここで「聖アンナと聖母子像」(ルーヴル美術館)の構成を練り上げていた
レオナルドとフランチェスコ・デル・ジョコンドと知り合ったのは、この場所、この時期であると推察しうる
〇ヴァザーリは、1503年10月、フィレンツェの町から公式に注文された「聖アンナと聖母子像」と「アンギアーリの戦い」にはさまれた時期に、フランチェスコ・デル・ジョコンドの注文があったと位置づけている
さらに、スカイエレーズ氏は、リザの家族と夫について、次のように説明している。
「ところでそのフランチェスコ・デル・ジョコンドとリザ・ゲラルディーニとの結婚によって、3人の子供が生まれたことが分かっている。1496年5月23日に長男ピエロが、続いて1499年には長女が生まれたが、この子はその年の6月6日に死亡、3人目は1502年12月1日に次男アンドレアが誕生している。さらにフランチェスコ・デル・ジョコンドが1503年4月にロレンツォ教会とメディチ宮のちかくの、スツファ通りに家を買ったことも分かっている。こうした家族の状況は、リザ・ゲラルディーニの肖像画を依頼するのにぴったりだ。フランチェスコ・デル・ジョコンドは4年間にふたりの妻を失った。原因は明らかに出産時の事故で、それぞれカミーラ・ルチェライ(1491年に結婚)とトマサ・ヴィラーニ(1493年に結婚)といった。さらに1499年には、生まれてまもない娘を突然亡くしている。だからこそ次男アンドレアの誕生はなによりも嬉しかったに違いない。もしまだ24歳の丈夫な妻の肖像画が完成していたら、きっと手に入れたばかりの新居に飾っていただろう。」
(セシル・スカイエレーズ(花岡敬造訳)『ルーヴル美術館公式コレクション モナ・リザの真実』日本テレビ放送網株式会社、2005年、51頁~53頁)
ここでの要点を記しておく。
〇リザ夫妻には、1503年までに、3人の子供が生まれた
長男ピエロは1496年5月23日に生まれる
長女は、1499年には生まれたが、その年の6月6日に死亡
3人目の次男アンドレアが、1502年12月1日に誕生
また、フランチェスコ・デル・ジョコンドは、1503年4月に家を買った
(ロレンツォ教会とメディチ宮のちかくの、スツファ通り)
→こうした家族の状況は、リザ・ゲラルディーニの肖像画を依頼するのにぴったりの時期である
〇夫の先妻について、付記している
フランチェスコ・デル・ジョコンドは4年間にふたりの妻を失ったとスカイエレーズ氏は記している。
つまり、カミーラ・ルチェライ(1491年に結婚)
トマサ・ヴィラーニ(1493年に結婚)
いずれも出産時に亡くなったとする
(この点、ヘイルズ氏は、後述するように、異論を唱えている。ヘイルズ(仙名訳)、2015年、164頁)
〇リザ・ゲラルディーニは、1499年には、生まれてまもない娘を突然亡くしている。だから夫フランチェスコは、次男アンドレアの誕生はなによりも嬉しかったとスカイエレーズ氏は推測している。
そして、まだ24歳の丈夫な妻の肖像画が完成していたら、手に入れたばかりの新居に飾っていただろうとする。
次に、スカイエレーズ氏は、絵に描かれた「モナ・リザ」が妊娠していたとする仮説について、次のように述べている。
「ところで、モナ・リザは妊娠していたという仮説がこれまでに何度かたてられたが、これに従うと「モナリザ」の制作年は、彼女が妊娠していた1502年とならざるをえない。だがそのときレオナルドはフィレンツェにおらず、1503年3月まで戻らなかったことが分かっている。
(訳注:この間、ダ・ヴィンチはマキアヴェッリの『君主論』のモデルとされるチェザーレ・ボルジアにしたがって、ロマーニャ州での戦役に軍事建築家として参加していた)。
そのうえ、たとえば1490年頃にボッティチェリによってフィレンツェで描かれた「スメラルダ・ブランディーニを描いたと推定される肖像画」、もしくは1505年から1506年頃にフィレンツェでラファエロが描いた「グラヴィーダ」(フィレンツェ ピッティ宮殿)の肖像画では、はっきりと妊娠の兆候を描いているのにたいし、「モナリザ」にはどこにもそのような表現がない。あるいはまたヴェールを被っていたり、衣服が地味だったり、宝石類をまったくつけていないことを根拠に、モナ・リザは1499年に亡くなった娘の喪に服していたという説も出ている。」
(セシル・スカイエレーズ(花岡敬造訳)『ルーヴル美術館公式コレクション モナ・リザの真実』日本テレビ放送網株式会社、2005年、53頁)
まず、モナ・リザは妊娠していたと仮定すると、「モナ・リザ」の制作年は、リザが妊娠していた1502年となるはずである。
しかしそうすると、レオナルドはフィレンツェにいないことになる。というのは、レオナルドは1503年3月まで戻らなかったからである。
訳注として、花岡敬造氏は、この間、ダ・ヴィンチはチェザーレ・ボルジア(マキアヴェッリの『君主論』のモデル)にしたがって、ロマーニャ州での戦役に軍事建築家として参加したと記している。
ここで、スカイエレーズ氏は、同時代に他の画家が描いた肖像画で、はっきりと妊娠の兆候がみられる絵を例示している。
〇ボッティチェリ「スメラルダ・ブランディーニを描いたと推定される肖像画」
(1475年頃(1490年頃)、フィレンツェで描かれた、65×41㎝、ロンドン、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館)
ここには妊娠して腹の膨らんだ女性が臍の下あたりまで描かれ、その添えた手で妊婦であることをさり気なく強調しているのにくわえ、視線はきっぱりとこちらに向けられている
〇ラファエロ「グラヴィーダ」(1505年から1506年頃、フィレンツェ ピッティ宮殿)
しかし、「モナリザ」は、どこにもそのような妊娠の兆候を描いた表現がない。
また、モナ・リザは1499年に亡くなった娘の喪に服していたという説も出ているにも触れている。その根拠は次の点である。
① ヴェールを被っている
② 衣服が地味である
③ 宝石類をまったくつけていない
ただ、衣服についてはスカイエレーズ氏は、次のように解説している。
たしかに装いが控えめなのは一目瞭然だが、ニスが衣服をくすませ、色彩群を均一にし、コントラストを弱めている点にも注意を要するとする。
サフランイエローの袖は、濃い色の衣装からもっと浮き上がって見えていたはずである。
また、色こそ暗いものの、大きく開いた胸元は、金糸の刺繍の巧みな組み合わせ模様で飾られている点にも注目する必要がある。
(この図柄は、レオナルドが考案したものらしい。「結び目」と題する版画(1497~1500年頃、25×20㎝、ミラノ、アンブロジアーナ美術館)に近いものとされる)
この肖像画に描かれた服装は、1502年頃にイタリアを席巻していたスペイン風ファッションと推測されている。反物商売のフランチェスコ・デル・ジョコンドがその流行を知らないはずはない。
この衣装が地味であるのは、モデルの外観より、むしろ心の内側を描きだすことにレオナルドが固執していたことの表れであると、スカイエレーズ氏は解している。
ヴェールについても、喪の印であると考える必要もないと強調している。「モナリザ」の軽いヴェールは、おろした髪をまとめるためで、まったく飾りがつけられていない。
この点は次の作品のヴェールとそれほど違わないという。
〇レオナルド「チェチリア・ガレラーニと推定される肖像画」(通称、「白貂を抱く貴婦人」)
(1490年頃、ミラノで描かれた肖像画、板[クルミ]、55×40㎝、クラクフ、ツァルトリスキー美術館所蔵)
〇ラファエロ「マッダレーナ・ドニ」
(1505~1506年頃、フィレンツェで描かれた肖像画、板、63×45㎝、フィレンツェ、ピッティ宮殿所蔵)
これらふたりの女性が喪に服しているといった人は、かつてひとりとしていない。このふたりのヴェールは、おそらく貞淑で信心深い婦人が聖母マリアにあやかるという、ごく一般的な装いである。
こうした装いは、たとえば、15世紀から16世紀にかけてのフィレンツェで描かれた肖像画にもみられる。
〇ドメニコ・ギルランダイヨ(1449年~1494年頃)
「娘の肖像」
(1485~1490年頃、灰緑色に染めた紙に金属の筆、白のグアッシュ、32.6×25.4㎝、フィレンツェ、ウフィッツィ美術館デッサン室)
〇ロレンツォ・ディ・クレディ(1456あるいは1460年頃~1537年)
「ジネヴラ・ディ・ジョヴァンニ・ディ・ニッコーロと推定される肖像画」
(1490年頃、板、59×40cm、ニューヨーク、メトロポリタン美術館[リチャード・デ・ウルフ・ブリクシー遺贈])
子供が急死したのは1499年なのに、1503年に注文された肖像画で、まだ喪に服しているのは、遅すぎるとスカイエレーズ氏は、フランク・ツェルナー氏の見解に同意している。さらに、そのような悲痛な事情で描かれる肖像画に、どうして微笑みがこれほど大きな意味をもって描かれているのか、説明がつかなくなるとも付言している。
(セシル・スカイエレーズ(花岡敬造訳)『ルーヴル美術館公式コレクション モナ・リザの真実』日本テレビ放送網株式会社、2005年、53頁~54頁)
「モナリザ」がリザ・デル・ジョコンドの肖像だと認めたところで、すべての疑問が解消するわけではないと、スカイエレーズ氏は釘をさしている。
たとえば、次のような問題が残るとする。
〇なぜレオナルドは強く頼まれていたイザベラ・デステの肖像を少し前に見捨てておきながら、「モナリザ」に没頭したのか。
〇4年たっても未完成のままにされたことを知りながら、なぜフランチェスコは、ほかの画家にあらためて依頼しなかったのか。
〇もしリザ・デル・ジョコンドの第二の肖像画が完成していたら、ルーヴルの絵に描かれたのは同じ人物だといえるだろうとスカイエレーズ氏は述べている。
モナリザがリザ・デル・ジョコンドであるという見解はあくまで仮説であるが、もっとも単純で、もっとも手堅い説であると、2003年(翻訳では2005年)時点で、スカイエレーズ氏は記している。
(ハイデルベルク大学での新資料は、この時点ではまだ発見されていないことに注意)
この説はなにより、ヴァザーリの書いたことや、リザ・デル・ジョコンドの人生、そして特に作品様式の特徴をすべて裏づけることができるとする。
そして、「モナリザ」がリザ・デル・ジョコンドの肖像だと認めることは、大筋のところでは、この作品が、1503年から1507年の間にフィレンツェで構想され、描かれたことを認めることでもある。
(セシル・スカイエレーズ(花岡敬造訳)『ルーヴル美術館公式コレクション モナ・リザの真実』日本テレビ放送網株式会社、2005年、54頁)
【スカイエレーズ『モナリザの真実』日本テレビ放送網株式会社はこちらから】
モナリザの真実―ルーヴル美術館公式コレクション
「モナ・リザ」の制作年代に関するサスーン氏の見解
サスーン氏は、その著作
Donald Sassoon, Mona Lisa :The History of the World’s Most Famous Printing,
Harper Collins Publishers, 2002.
において、「モナ・リザ」の制作年代に関する見解を、次のように述べている。
When did Leonardo actually paint the Mona Lisa? The claim
by Vasari that it was painted during his second Florentine stay
(i.e. between 1500 and 1506) has been largely vindicated by the
most meticulous and evidence-based account we have ― that of
Frank Zöllner in 1993― which proposes March 1503 as the most
likely starting date for the work.(31) Completion would have
occurred around June 1506, when Leonard left Florence for
his second Milanese period (although he might of course have
continued working on the Mona Lisa later). Zöllner’s dating is
unavoidably circumstantial, but it rests on more than speculation.
In the spring and summer of 1503 Leonardo was earning little
or nothing at all. He was withdrawing money from his bank
account and nothing was coming in. He must thus have been
available for work. He could not have started the Mona Lisa
before 1500, because he was still in Milan, and we know everything
he did there.
After short stays in Mantua and Venice he returned to Florence
in April 1500. He could not have accepted a commission to por-
tray the Mona Lisa before June 1502, because he had plenty of
work. There are detailed accounts of Leonardo’s work in progress
in 1501, but none mentions the Mona Lisa.
For most of 1502 until March 1503 he was the architect and
engineer-in-chief of Cesare Borgia, the famous ― or infamous ―
son of Pope Alexander VI. His military work for Cesare took him
to Urbino, Pesaro, Cesena and Porto Cesenatico. He was thus
far too busy to start painting the portrait of a Florentine lady.
It is unlikely he would have started it after October 1503,
because by then he had been offered an important government
commission (and money): painting a mural representing The
Battle of Anghiari (soon completely ruined because Leonardo had
used unsuitable materials).
This leaves a blank: the period between March and October
1503, and this is the most likely starting date. There is some
corroborating evidence: various works by Raphael clearly allude
to the Mona Lisa (see pages 39-40).(32) Raphael must have seen
the portrait, probably not yet finished. Vasari may have been
right after all.
There is, however, no consensus. In 1939 Kenneth Clark had
accepted 1503 as the start date, but by 1973 he had become con-
vinced that Leonardo drew Lisa Gherardini in 1504 and painted
the portrait later, between 1506 and 1510, idealising it in the pro-
cess.(33) It is perfectly possible that during the composition, as
Leonardo was becoming increasingly involved with it, he altered
the original traits of Lisa, and that the result turned out quite
dissimilar to the original drawing, and hence no longer a portrait.
This would also explain why he could not give it to Francesco il
Giocondo; and it leaves open the possibility that Leonardo
painted most of the picture in 1503-06 and continued to work
at it, sporadically, well after that.(34)
The idea that the Mona Lisa may have started life as the portrait
of Lisa and ended as someone else’s opens up further possibilities.
There is a ‘two Lisas’ hypothesis: Leonardo first painted Lisa and
handed the portrait over to her husband, and this is the portrait
described by Vasari; but he had made a copy, then altered its
features, idealising them, and took that with him to France. The
first portrait was lost. The second survives and is the one we
know and love.(35) There is no real evidence for any of this, but
the theory has its charm: perhaps the first portrait was not irre-
trievably lost, in which case it could be anywhere, perhaps in
someone’s attic. When we are not sure of something, anything
is possible.
(Donald Sassoon, Mona Lisa :The History of the World’s Most Famous Painting,
Harper Collins Publishers, 2002. pp.21-22.)
Notes
(31)Frank Zöllner, ‘Leonardo’s Portrait of Mona Lisa del Giocondo’,
in Gazette des beaux-arts, March 1993, pp.115-38.
(この論文は、スカイエレーズ氏も言及していた。スカイエレーズ、2005年、121頁、注110.)
(32)Ibid., p.120.
(33)Kenneth Clark, Leonardo da Vinci, Penguin, Harmondsworth, 1989, p.172.
See also Clark, ‘Mona Lisa’,
in Burlington Magazine, March 1973, pp.144-50.
(34)Martin Kemp, Leonardo da Vinci: The Marvellous Works of Nature and Man,
Dent, London, 1981, pp.268-70.
(35)For a recent example of the two-Lisas theory see Jérôme de Bassano, ‘Le Mythe de la Joconde’, in Bulletin de l’Association Léonard de Vinci, No.16, March 1978, pp.21-3.
(Donald Sassoon, Mona Lisa :The History of the World’s Most Famous Painting,
Harper Collins Publishers, 2002. p.282.)
【Donald Sassoon, Mona Lisa はこちらから】
Mona Lisa: The History of the World's Most Famous Painting (Story of the Best-Known Painting in the World)
【単語】
claim (n.)主張
vindicate (vt.)立証する、主張する
meticulous (a.)いやに念入りな
account (n.)説明
propose (vt.)提案する
completion (n.)完成、終了
unavoidably (ad.)避け難く、不可避的に
circumstantial (a.)情況による、詳細な (cf.) a circumstantial report 詳細な報告
rest on よりかかる
<例文>
・Her approach rests on the premise that new and better things will come naturally.
彼女のアプローチは新しくてよりよいことは自然にやって来るものだという前提に立っている。
・His theory rested on few facts. 彼の理論はほとんど事実に基づいていなかった。
speculation (n.)思索、推測
earn (vt.)もうける、かせいで得る
withdraw (vt.)引き取る、(預金を~から)引き出す
(cf.) withdraw 10,000 yen from a bank account銀行の預金口座から1万円を引き出す
account (n.)勘定、預金口座(bank account)
(cf.)have an account with a bank 銀行に口座をもつ
come in 入る、[通例 be coming](給料・利益などが収入として)入る
available (a.)役に立つ、利用できる、入手できる
Mantua マントヴァ(イタリア北部ロンバルディア州東部の都市)
commission (n.)注文
portray (vt.)肖像を描く、描写する
in progress 進行中
infamous (a.)悪名の高い(notorious)
Urbino ウルビーノ(イタリア中部、フィレンツェの東約110キロにある芸術都市)
Pesaro ペザロ(イタリア東部、アドリア海沿岸の港湾都市)
Cesena チェゼーナ(イタリア北部、エミリア=ロマーニャ州フォルリ県の都市)
Porto Cesenatico ポルト・チェゼナーティコ(アドリア海と運河で結ばれた港湾都市)
チェゼナーティコの運河港には、チェーザレ・ボルジアの依頼を受けたレオナルドが関わっている。
unlikely (a.)ありそうもない、見込みのない
unsuitable (a.)不適当な
blank (n.)空白、空虚、何もない時間
corroborating ⇒corroborate (vt.)確証する、裏づける (a.)確証された、裏付けられた
allude (vi.)それとなく言及する(to)
after all 結局、やはり
consensus (n.)一致
convince (vt.)確信させる ⇒be convinced 確信する
draw (vt.)(図・絵を)描く
idealise ⇒idealize(英国ではしばしばidealise)(vi., vt.)理想化する
involve (vt.)巻き込む [通例 be involved in[with]]没頭する
trait (n.)特色、特徴、一筆
dissimilar (a.)似ていない、異なる
leave (vt.)残す (cf.)leave the door open (議論の)可能性を残しておく
open (a.)開いた、(問題が)未解決の
drawing (n.)線画、デッサン
sporadically (ad.)散発的に
open up 開く、広げる
(cf.) open up other possibilities 他の可能性を広げる
hypothesis (n.)仮説
hand over (人に~を)引き渡す(to)
theory (n.)理論、学説、仮説(hypothesisより妥当性がある)
irretrievably (ad.)回復できないほど、取り返しがつかないほど
attic (n.)屋根裏部屋
(cf.)Anything’s possible. どんなことでも起こりうる(不可能なことはない)
【大意】
レオナルドは「モナ・リザ」をいつ描いたのか。
ヴァザーリによれば、レオナルドが第2フィレンツェ滞在期(1500年~1506年)に描いたとする。この学説は、1993年にフランク・ツォルナー氏が支持し、1503年3月が「モナ・リザ」着手時期として最もありうるとする。
(一応の完成は、1506年6月頃だったであろう。この時期レオナルドはフィレンツェを去り、第2ミラノ時代に入る。もちろん「モナ・リザ」は後にも手を加えられただろうが)
サスーン氏は、ツォルナー氏の時期設定について、不可避的に状況的であるが、推論以上によっているともコメントとしている。
ところで、レオナルドは、1503年春と夏、レオナルドは収入がほとんど無かったか、もしくは全くなかった。レオナルドは預金口座からお金を引き出したが、入金はない。収入となる仕事を探していたにちがいない。「モナ・リザ」が、1500年以前に着手されたことはありえない。というのは、その頃はまだミラノにいたから。
マントヴァ、ヴェネチアに立ち寄った後、レオナルドは1500年4月にフィレンツェに帰郷した。彼は、1502年6月以前に「モナ・リザ」の肖像を描くという注文を受けたことはありえない。というのは、多くの仕事を引き受けていたから。1501年には進行中の作品に関する詳細な記事があるが、「モナ・リザ」についての言及はない。
1502年の大部分と、1503年3月までは、レオナルドは悪名高いチェーザレ・ボルジア(教皇アレクサンデル6世の息子)のもとで建築家・技術家として働いていた。軍事上の仕事で、ウルビーノ、ペザロ、チェゼーナ、ポルト・チェゼナーティコにお供した。レオナルドはこのように大変忙しく、フィレンツェの婦人の肖像画を描き始めることはできなかった。
また、1503年10月以後に、「モナ・リザ」を着手したこともありえない。というのは、フィレンツェ政庁から、「アンギアーリの戦い」という重要な注文を受けるから。
1503年3月と10月の間の時期なら、空白を残している。この時期が着手時期として最もありうる。裏付ける証拠はある。ラファエロの作品が「モナ・リザ」の存在をほのめかしている。ラファエロは、未完成の「モナ・リザ」を見たにちがいない。ヴァザーリは、やはり正しかったのかもしれない。
しかしながら、見解は一致しているわけではない。
例えば、1939年、ケネス・クラーク氏は、着手時期を1503年とする説を受け入れたが、レオナルドは1504年にリザ・ゲラルディーニを素描し、後に肖像画にしたが、1506年と1510年との間に制作過程で理想化したのだと、1973年までに確信するようになった(註釈33)。
構成過程で、レオナルドは「モナ・リザ」に次第に没頭し、リザの元来の特徴を変えたということ、そしてその結果、元来の素描と似ていなくなり、もはや肖像画でなくなったということは、ありうる。このことが、なぜレオナルドがフランチェスコ・イル・ジョコンド(ママ)に絵を渡さなかった理由ということも考えうる。そして、レオナルドは1503年~06年にその絵の大部分を描き、その後も散発的に手を加え続けたという可能性も残されている。
「モナ・リザ」は、リザの肖像画として出発したが、他の誰かとして終わったという考えも、更なる可能性を広げるかもしれない。「2枚のリザ」という仮説もある。つまり、レオナルドは最初リザ描き、その肖像画を夫に引き渡し、それがヴァザーリの叙述した肖像画である。しかし、レオナルドは複製画をつくり、それからその特徴を変更し理想化し、その絵を携えてフランスに赴いた。
最初の肖像画は失われたが、2枚目の方が、今日われわれが知り愛する作品「モナ・リザ」として残っているとする。
真の証拠はないが、この仮説は魅力的である。つまり、最初の肖像画は修復できないほど失われてしまった(その場合、どこか、おそらく誰かの屋根裏部屋あたりにあるのかもしれないのだが)。
【サスーン氏の英文の補足】
≪レオナルドの第二フィレンツェ時代の経済状況≫
レオナルドの第二フィレンツェ時代の経済状況はどのようなものだったのか。
サスーン氏は、先の英文に、預金の引き出しについて言及している。
この点、久保尋二氏は、『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』(美術出版社、1972年)は、「レオナルド年譜」(305頁~327頁)において、詳しく記しているので、紹介しておこう。
1499年(47歳)12月14日
フィレンツェのサンタ・マリア・ヌオーヴァ病院に、ジォヴァンニ・バッティスタ・ディ・ゴーロに託して600ドゥカーティを預金。M手記。
その後まもなく(あるいは翌年早々)、かれはサライらと、マントヴァとヴェネツィアを経由してフィレンツェに向う。ルカ・パチオリはかれの一行中にあり。
1500年(48歳)4月24日
かれはすでにフィレンツェにあって、ヌオーヴァ病院の預金から50ドゥカーティを引出す。
1501年(48歳)11月19日
かれはヌオーヴァ病院の預金から50ドゥカーティを引出す。
1503年(51歳)3月5日
すでにフィレンツェにあり、ヌオーヴァ病院の預金から50ドゥカーティを引出す(なお、この年の6月14日、9月1日、11月21日にも、それぞれ50ドゥカーティを引出している)。
1504年(52歳)4月1日
『アンギアリの戦い』のための最初の報酬支払い(月額15ドゥカーティ)。
同年4月27日
預金より50ドゥカーティの引出し。
1506年(54歳)5月20日
預金より50ドゥカーティの引出し。このときまでにかれは、預金600ドゥカーティのうち450ドゥカーティを消費。このころ、フランスのミラーノ総督シャルル・ダンボワーズ(ショーモン伯)からミラーノへの招聘をうく。
同年5月30日
ミラーノへ3ヵ月の賜暇を政庁が許可。ただし、違反のときは150ドゥカーティの罰金という条件付(かれの預金残額がその抵当となった)。
(久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』美術出版社、1972年、316頁~321頁)
ミラノを発つ前に、1499年(47歳)12月14日に、フィレンツェのサンタ・マリア・ヌオーヴァ病院に、600ドゥカーティを預金しておいたのを、その後50ドゥカーティずつ引き出していたようだ。
その預金も、1506年(54歳)5月20日に、預金より50ドゥカーティの引出したが、このときまで、預金600ドゥカーティのうち450ドゥカーティを消費したそうだ。そして、10日後の5月30日、ミラーノへ3ヵ月の賜暇を政庁が許可された。ただし、違反のときは150ドゥカーティの罰金という条件付で、預金残額がその抵当となったという。
サスーン氏の記述を具体的に知ると、レオナルドの経済状況が推察できる。
≪チェーザレ・ボルジアのもとでのレオナルドの行動≫
また、1502年から1503年3月までは、チェーザレ・ボルジア(教皇アレクサンデル6世の息子)のもとで建築家・軍事土木技師として働き、軍事上の仕事で、ウルビーノ、ペザロ、チェゼーナ、ポルト・チェゼナーティコにお供したことを、サスーン氏は述べている。
この点についても、久保尋二氏の『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』(美術出版社、1972年)の「レオナルド年譜」(305頁~327頁)により、補足しておく。
1502年(50歳)7月
たぶん7月以降約8ヵ月間、中伊地方におけるチェーザレ・ボルジア軍の軍事土木技師として従軍。かれの行動は、L手記から推してつぎのごとし。
1502年7月30日 在ウルビーノ(L, 6r)。
1502年8月1日 在ペーザロ(L, 表紙r)。
1502年8月8日 在リミニ(L, 78r)。
1502年8月11日 在チェーゼナ(L, 36v)。そこでチェーゼナとポルト・チェゼナーティコを結ぶ運河その他を計画。
1502年8月18日 チェーザレ・ボルジアの、レオナルドに対して特権発揮を許す全軍への布告書(パテンテ・ドゥカーレ)。
1502年9月6日 在ポルト・チェゼナーティコ(L, 66v)。ここの港の改築工事その他に従事。
1502年10月 在イーモラ。
フランス王ルイXII世ミラーノにあり、チェーザレ・ボルジアの訪問をうく。レオナルドがどこまでボルジア軍と行動を共にしたかは判然としないが、ボルジアが翌年初頭、教皇アレクサンドルVI世によってローマに呼戻されるまで同行したかもしない。
(久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』美術出版社、1972年、317頁~318頁)
1502年の夏からほぼ8ヵ月間、中部イタリアにおけるチェーザレ・ボルジアの軍事土木技師として従軍した際、レオナルドについて、久保尋二氏は次のように解説している。
「そのころのかれの機械工学、土木測量学等へのあくなき関心は、1502年の夏(たぶん7月以降)からほぼ8ヵ月間、中部イタリアにおけるチェーザレ・ボルジアの軍事土木技師として従軍させるのである。かれのそのときの行動と行為は、現存のかれのL手記から推測されるが、この従軍から本当にえたものは、しかし他の手記からあきらかなごとく、ただ戦争の狂気に対するつよい憎しみだけであったにちがいない」
(久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』美術出版社、1972年、68頁)
レオナルドの預金の引き出し ヘイルズ氏
レオナルドの預金の引き出しについては、ヘイルズ氏も次のように言及している。
After eight months with the Borgia campaign, Leonardo made his way
back to Florence. By March 4, 1503, he was withdrawing money from his
account at Santa Maria Nuova ― an indication that he never was paid
for his stint as a military engineer. The experience with Cesare Borgia
drained more than his savings. No longer did Leonardo take pride in de-
signing impregnable fortresses and diabolical killing machines. Never
again did he tout his skills related to military operations.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.155.)
【単語】
campaign (n.)軍事行動
withdraw (vt.)(預金を)引き出す
indication (n.)指示、暗示、徴候
stint (n.)切り詰め、割り当て(の仕事)
drain (vt.)排水する、(財産・精力を)徐々に消耗させる、使い果たす
saving (n.)貯蓄 (pl.)貯金、節約
design (vt.)設計する
impregnable (a.)難攻不落の
fortress (n.)要塞
diabolical (a.)悪魔的な
tout (vt.)しつこく求める、せがむ
relate (vi., vt.)関係がある、関係させる(to)
≪訳文≫
レオナルドはチェーザレ・ボルジアの戦略に8か月間ほど協力したあと、フィレンツェに戻った。1503年3月4日までに、フィレンツェのサンタマリア・ヌオーヴァの預金を引き出している。そこから推察すると、レオナルドはミラノでは軍事技術顧問として支払いを受けていなかったのではないか、と推察できる。つまり、チェーザレ・ボルジアに協力していた時期、レオナルドは自腹を切っていたことになる。レオナルドはそれ以後、難攻不落の城砦を築城するとか、残忍な殺人兵器の開発に関しては情熱を失った。それからは、軍事作戦に時間を費やすことはなかった。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、221頁~222頁)
1503年3月4日までに、フィレンツェのサンタマリア・ヌオーヴァの預金を引き出していることから、レオナルドはミラノではチェーザレ・ボルジアに協力していた時期、軍事技術顧問として支払いを受けず、レオナルドは自腹を切っていたと、ヘイルズ氏は推察している。
「モナ・リザ」の制作年代 ヘイルズ氏
ヘイルズ氏が「モナ・リザ」の制作年代について、どのように考えているかについては、後に詳しくみるが、簡潔に次のように、その問題について言及している。
Leonardo da Vinci, most biographers agree, was working on his por-
trait of Lisa in 1503 (some believe he may have begun a year or two earlier),
perhaps most intensely between his return from the Borgia campaign in
the spring and a major new civic commission in the fall. Lisa might not
have known the details of the arrangements; these were matters men ne-
gotiated. Regardless of the when and where of their first encounter, the
manners of the day would have dictated what happened when a Floren-
tine signora was formally presented to a distinguished elder, old enough
(at age fifty-one) to be her father.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.156.)
【Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discoveredはこちらから】
Mona Lisa: A Life Discovered
【単語】
work on (映画・小説などを)製作する、(問題に)取り組む
intensely (ad.)熱烈に
campaign (n.)運動、戦役、軍事行動
civic (a.)市の、市民の
commission (n.)注文、委託、依頼
arrangement (n.) (pl.)手配、準備(→お膳立て)
negotiate (vi., vt.)交渉する
regardless of ~にかかわらず、~にかかわりなく
<例文>
・Regardless of what you may think about him, he is a reliable person.
君が彼についてどう思っているかに関係なく、彼は信頼に足る人だ。
・equal treatment for all, regardless of race, religion, or sex.
人種、宗教、性別にかかわりなく、すべての人に対する平等な扱い
encounter (n.)出会い、遭遇
manner (n.) (pl.)作法、風習、種類
dictate (vi., vt.)口述する、命令する
signora (イタリア語)婦人
distinguished (a.)すぐれた、気品[威厳]のある
≪訳文≫
レオナルドダ・ヴィンチの伝記作家たちの多くは、彼が「モナ・リザ」の制作に入ったのは1503年だとしている(それより1、2年ほど早かったという説もある)。いずれにしても、ボルジアとの結びつきを終えて春にフィレンツェに戻り、秋にヴェッキオ宮殿での仕事を頼まれる前だ。リサは、それまでのお膳立ての詳細は知らされていなかったと思われる。このようなことは、男同士の話し合いで決まる。時期は、フィレンツェの最高議決機関のシニョーリアが、レオナルドダ・ヴィンチに新たな仕事を依頼する前だ。二人がはじめて対面したとき、レオナルドは51歳、リサの父親といってもいいくらいの年齢だった。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、223頁~224頁)
レオナルド・ダ・ヴィンチが「モナ・リザ」の制作に入ったのは、一般的に、1503年だとする見解をヘイルズ氏は紹介している。
(それより1、2年ほど早かったという説もあるという)。
その時期としては、ボルジアとの結びつきを終えて春にフィレンツェに戻り、秋にヴェッキオ宮殿での仕事を頼まれる前だとする。
つまり、その時期は、フィレンツェの最高議決機関のシニョーリアが、レオナルド・ダ・ヴィンチに新たな仕事を依頼する前であるとする。
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