先日の南陽市赤湯探訪の折、宮内熊野大社に行ってきました。寒い日でしたが、銀杏の大木がまだきれい黄色く染めた葉をとどめて、その姿を見せてくれていました。
案内板には以下のようにありました。
「宮内熊野大社と直江兼続公
熊野大社から北へ約300m、左手の小高い丘に「宮沢城」と呼ばれる館がありました。その最後の城主は、尾崎三郎左衞門重誉という徳川家康をうならせたほどの武勇が伝わる人物です。慶長三年(1598)、豊臣秀吉の命による上杉藩の国替えで、直江兼続と共に信州飯山から置賜に入り宮内の城主になりました。実はこの尾崎家こそ、直江兼続公の実母「蘭子」の実家です。兼続の母すなわち樋口兼豊の妻・蘭子は、重誉の曾祖父泉氏宗家尾崎弥七郎重歳の娘。慶長九年(1604)に没し、直江家の菩提樹である徳昌寺に葬られたとの記録が残っています。法名は蘭室妙香大姉でした。 尾崎重誉は半年ほどで福島へ移ります。宮沢城は廃城となり、慶長三年九月からは越後平林城主色部光長が金山城主としてこの地を治めることになります。光長は兼続の妹を妻としていました。 熊野大社には、尾崎家代々の氏神様である和光神社をはじめ、飯山から遷された尾崎家ゆかりの皇大神社、八幡神社・菅原神社、また色部光長が越後平林から御遷しした保呂羽神社が末社としてお祀りされておろます。」
石段をのぼると、見事な狛犬が鎮座しています。
石段をのぼりきると巫女さんや社で働く方々が落ち葉を掃いていました。空気が地上とは違う清流にかわっています。さらに寒さを体に感じます。
お参りして、おみくじをひいて、お守りを購入して、石段を降りました。
案内板には以下のようにありました。
「宮内熊野大社と直江兼続公
熊野大社から北へ約300m、左手の小高い丘に「宮沢城」と呼ばれる館がありました。その最後の城主は、尾崎三郎左衞門重誉という徳川家康をうならせたほどの武勇が伝わる人物です。慶長三年(1598)、豊臣秀吉の命による上杉藩の国替えで、直江兼続と共に信州飯山から置賜に入り宮内の城主になりました。実はこの尾崎家こそ、直江兼続公の実母「蘭子」の実家です。兼続の母すなわち樋口兼豊の妻・蘭子は、重誉の曾祖父泉氏宗家尾崎弥七郎重歳の娘。慶長九年(1604)に没し、直江家の菩提樹である徳昌寺に葬られたとの記録が残っています。法名は蘭室妙香大姉でした。 尾崎重誉は半年ほどで福島へ移ります。宮沢城は廃城となり、慶長三年九月からは越後平林城主色部光長が金山城主としてこの地を治めることになります。光長は兼続の妹を妻としていました。 熊野大社には、尾崎家代々の氏神様である和光神社をはじめ、飯山から遷された尾崎家ゆかりの皇大神社、八幡神社・菅原神社、また色部光長が越後平林から御遷しした保呂羽神社が末社としてお祀りされておろます。」
石段をのぼると、見事な狛犬が鎮座しています。
石段をのぼりきると巫女さんや社で働く方々が落ち葉を掃いていました。空気が地上とは違う清流にかわっています。さらに寒さを体に感じます。
お参りして、おみくじをひいて、お守りを購入して、石段を降りました。