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京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

京への恋文

2009年03月04日 | 催しごと
暮らしに息づく京都の奥深い魅力を発信しているNPO法人「遊悠舎京すずめ」が「京都への恋文」を募集している。

多彩な視点で語られる魅力が京都活性化のヒントになるとの思いから、この街を訪れて、この街に暮らして気付いた魅力、愛すればこその改善点をあなた独自の視点で表現してほしいとしている。郵便はがき一枚分のスペースに文章で詩歌・川柳・絵手紙で。京都の歴史や文化、芸術・自然・暮らし・エコなどに思いを寄せて、いかがでしょう。(かりそめにも私などへの“恋文”などお寄せになりませぬように。)

市の財政悪化には拍車がかかり、まちづくりの分野では身動きが取れない状態に陥っていると説明されている。めざす姿・方向はどこにあるのか……?

ここに暮らす私たちには、今一度、どのような愛着を持ち何を誇りに暮らしているか、自ら魅力を語れる努力や視野の広さを持つ工夫も求められそうだ。
まちづくりは人の力、地域の力が支えていくものでもあろう。手を差し伸べ合えるつながりを、まずは自分がかかわりを持つ地域で構築するのに力を貸せるかかどうか。温かな人間関係なくして活性化はあるだろうか。

歩いていてそこかしこでふと出会える“歴史”に安らぎや潤いを与えられるまち、京都。「この世をばわが世とぞ思ふ……」、御苑の闇夜を歩けば、式部が道長がこの月を眺めたのか、と感慨に浸れる。それはここに暮らす何よりの魅力でもある。
五木寛之氏の連載『親鸞』と六角堂を結ぶ思いにもいえる。

こうした歴史の積み重なりや文化の力を、まちの活性化にどう活路を見いだすか。
私も応募してみようか。

六角堂の本尊如意輪観音のご開帳が始まった。136年ぶりの公開だそうだ。

    
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右に?左に?

2009年03月03日 | 今日も生かされて
『「有職」とは先例のしきたりに即することを意味する言葉で、平安京の宮廷から遥かな時を越えて今日に受け継がれてきました。儀式や行事において定めを取り違えることのないように、大切な決まりごとを代々継承し京文化の正統の証となっていったのです。』
精魂傾けて伝統美が息づくひな人形を仕上げていると。
「時を惜しまず、名を惜しむ」と語られるのは、有職司七代司の豊泉さん。

その人形は、きれ長で伏せ目がちな気品に満ちた「うりざね顔」が特徴とされる。
さあ~~て、四人も女がいる我が家においていったい誰が最上段にふさわしいだろうか。
いくら年齢に似あわず元気とはいえ○○様ではちと、3歳ではこれまた……、となると娘と私と?? あつかましいお話だ。純粋の京雛ではないしなあ。

京の有職ひなは、古来よりの序列に従って(左が上位という)、向かって殿を右、姫を左に飾るとされる。
東京の人形店から届いた娘の初節句祝いの雛段。向かって右に女びなを飾っている。飾り付けの案内書にそってそのままずっと続いている。混在しているのは京都特有の現象だと聞く。あなたのおたくでは?

古式の置き方を希少価値としてあまり取り上げすぎるのも、自ら「絶滅危惧種」と言いはやすようでカッコヨクナイとかだが……。

災いを流し健やかな成長を祈る流し雛の行事。不況のご時世も一緒に流せればいいのに。

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ただ広いだけでいいのに

2009年03月01日 | 今日も生かされて
週末、思わぬプレゼントをもらったような好天気に恵まれた。
植物園では温室内の「花の回廊」を巡り、豊な色彩に酔う今が盛りの“春”がそこに。
母親と動物園に行った3歳児、小さな観覧車が音をたて揺れた怖さを真っ先に報告してきた。ここも少し規模を大きくする計画があるようだ。

下京区の梅小路公園隣接地に水族館を整備する構想、さらには交通博物館の計画までがある。
「森と海と都市を一つの空間に融合」とうたいあげ、内陸型大規模水族館・環境共生型水族館・地域に愛される水族館―を提案している。

休日は家族連れで賑わい、子どもたちが駆け廻れるところ、大人の憩いの場にもなる、ただ何もない広い空間が存在する。
周囲から生きている緑が消滅しようとしているとき、何かしみじみ、切実な感情で本当に必要なんだろうかと考えさせられる。

海がないからこそ、海を体感できる学習施設には大賛成だという声、そう言われればそうかも、だけれど……。
大きな「箱もの」を一度作ってしまえば、概してその維持や運営の状況は厳しいことも各地に認められる事実ではないのか。

健全な人間が、よく学び、よく働き、何よりもよく遊んで自然界の中に存続できるように、緑の復元に協力することならともかく、素直に喜べない部分が大だ。
自然界の中で一番ちっぽけで弱いのが人間だと思えば、大きな自然、豊な緑があることは生きる上で前提でもあり、不可欠なのだろうに。

「箱もの」で視界をさらに遮られるよりも、子どもが思いきり走り回り、お弁当食べてお昼寝でもできる何もないスペースをそのままに、とどうしても考えてしまう。
コメント (9)
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