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京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

どーも・どーもで日が暮れる

2009年03月14日 | 今日も生かされて
「ごえんさん、いつもおおきにー。……お世話になってますー」(来客だ)
「どーも」
「実は、来月の法事のことで……」
「はい」「はい」「わかりました」
「ほな、五日の十時から、お願いします。おおきにー」
「どーも」

全く無駄のない、必要最低限の表現でしか会話がなされていない。我先にとさえずる方々は多いのにだ。

昔、横井正一氏の体験談を聞く機会があった。グァム島のジャングルで二十八年、人との対話や会話のない孤独な時間。それは日本語で物を考えることになり、ともすると陥る自問自答にも日本語で答え、かえって日本語との密着度は高まることになるようだ。
蓄えられたことば、Jessieと同様に、横井氏の思いの全てのことばを受け止めたような記憶がある。

ことばは経済的に使わねば―とはいえ、これほどにそぎ落とした一言で対話が成立してしまうことの潔さ。「なにがどーもなの? ほんとにわかってるの?」内輪の悲劇も数々生じてきた。

単一メッセージが低品質だと言うなら、この「どーも」は、幾筋ものとらえ方を見つけ出させる、高等動物が仕組む技なのか。
駆使する御仁は「どーもどーも」で日が暮れるのだが、周囲のものにはなんだかよくわからない「どーも」、答えの出ない中を巡るばかりだ。

思いの八分は口にして。隙間は埋めるから、満たす楽しみを取って置いて……。

ことばを介在させ、思いを共有してナンボやなあ~~。
とはいえ、Jessieがお泊まりで不在の今日ばかりは、しゃべるのもメンドクサイ。
コメント (8)
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