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京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

笑って暮らしてほしいから

2025年05月07日 | こんなところ訪ねて
門前で休館日とわかって落胆したのはこれで2回目。しかもなんと2回とも同じ場所である。

リニューアルされた泉屋博古館。
行ったことがないという友人の要望もあって10日以上前から約束していた。通常は月曜日が休館だが5日はGW中で開館され、その代休ともいう日にあたるのだった。アタマまわらんかったよー。

当てが外れて「まあ、どうしよう?」と閉まったままの門扉の前で二人…。哲学の道を歩きたいという彼女の希望に沿って歩きだした。
途中、大豊神社、

法然院と立ち寄り、

銀閣寺へ。
彼女、銀閣寺は知らないという。法然院も初めてだった。もちろん神社も。
大阪N市で育ち、大学時代は京都で過ごしたというのに? 金閣寺も行ったことないと聞いて二重に驚いた。
20年を超えるお付き合いがあるのに、知らないことはあるものだ。ちょっとおかしくもあった。

その彼女が「銀閣寺に寄って行こう」と言う。
「あまりオモシロクナイヨー」と私は引き気味だった。
「でもせっかくここまで来たんだから」「そうだね、私も久しぶりだから入ろうか」
「えっ!? お金いるの」ときたわ。しばし考えたのか、外国人ばかりが目立つ列に並んだ。

ひっきりなしに賞賛の言葉をつぶやき、東側の小高くなった月待山の石段をハア、ハアと口にして登っていく。
中腹からの眺めは西に向かってひらけている。
「あれは吉田山でしょ。今年節分のときに来たのよ」


眼下には白砂を平面に盛った銀紗灘(ぎんしゃだん)のある小さな境内と、銀閣が見える。
金閣に倣って、もし銀箔が貼られていたら、今とは異なる趣だったろう。良かったねえと、銀箔のない漆塗りを讃えていた。

「義政もここに立ち、西の空を朱に染めながら沈んでいく夕日の輝きのなかに浄土を見ていたのだろうか」(『百時巡礼 京都Ⅰ』五木寛之)
 銀閣寺を訪ねた折の文章はこう結ばれている。 


この2カ月、97歳の実母、夫、姪っ子と次々と思わぬ事故、入院ごとが続き、気力体力限界近くをこらえてきたのを知っている。
ストレス太りだと嘆きつつもランチをおいしく味えたようだし、楽しい散策になったと喜ばれた。気分転換になったら何よりと思う。
休館でよかったのかもしれない。
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穴太の盛安寺という寺で

2025年05月03日 | こんなところ訪ねて

天智天皇が近江に都を作ったときの鎮護の寺・崇福寺(すふくじ)は、かつて15大寺の一つに数えられたらしいが、変遷を経て火災や地震で壊滅してしまった。
その崇福寺伝来の十一面観音菩薩像が盛安寺で守り伝えられていて、今日は公開日でもあり拝観してきた。
初めて訪ねた2022年11月の折はご住職不在で、本堂も参拝ままならずあとにしたのだった。

白洲正子さんの『十一面観音巡礼』の中で写真が掲載され、
「先年、近江を廻っていた時、穴太(あのう)の盛安寺という寺で、美しい十一面観音にお目にかかった。」と始まるエッセイが収められている。

京阪電車石山坂本線の穴太(あノお - 「ノ」にアクセントが置かれるアナウンスだ)の駅を降りると、付近から琵琶湖がむこうに望める。


山門を囲む、野面積みという穴太衆による石組みは、威圧感さえある構えだが、それもまた美しい門前だ。かつて穴太に住んだ石工集団・穴太衆を主人公にした小説、『塞翁の楯』(今村翔吾)がある。

鉄壁とか堅固さなどとは反して、雰囲気のある本堂内の気配だった。


安置されたご本尊の阿弥陀如来像のお顔は穏やかで見惚れる。片袖の阿弥陀さま(袈裟を右肩につける姿からの呼称で、良いお顔だちだ。説法印を結ぶというのが珍しいと。右手小指は第二関節から欠けていた)がおいでだし、聖観音立像、地蔵菩薩立像のお姿も、忘れず持ったメガネのおかげでじっくり拝見できた。
すっきりとして、おだやかな優美さには親しみが生まれる。そんな心安らぐものが漂う、良い空間だった。

大きな目当てでもあった十一面さんは、ガラス戸越しではなく一部が開けられているので仕切りなし。素で、しかも3mあるかないかのところに、180.5センチの生身のお姿を目にする。

 

平安初期のもので、十一面で四臂という珍しさに、錫杖を持つ。杖をついて「どこをどういう風にして穴太まで辿りついたのか」と白洲さん。

観音さま、お立ちの場所から目線を挙げればはるか真向かいに、琵琶湖対岸の近江富士が見えるのではないかしら。
朱印帳のかわりに数珠を持って結縁。
名残を惜しみ、余韻をとどめつつ、もひとつ、聖林寺(奈良県)の十一面観音像に今度は是非お堂でお会いしたいものと願いを新たにした。

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いちはつの花咲きいでて

2025年04月28日 | こんなところ訪ねて
イチハツが境内に咲きだして、通常非公開の門跡寺院・得浄明院で鑑賞会が催されている。


三条通から白川筋の東側を南に下がって…、このあたり知恩院の山内だそうで、近辺には華頂女子中・高・短大があり、平安神宮へ、あるいは青蓮院、知恩院にも近い東山区になる。

御本尊は信州の善光寺の本尊を模した一光三尊形式の阿弥陀如来像とのこと。しかし、眼鏡を持たずに出て、お姿は見えない。
「ぜひご縁を結んで帰って下さい」と戒壇巡りをすすめられた。
外陣の脇から階段で本堂の下へと下り、真っ暗闇の中を右手で壁伝いに本堂をぐるりと回るように進んでいく。
ご本尊の真下にあって阿弥陀如来とつながっているという錠前に触れたところで、お念仏。
そして願い事ひとつ(いえ二つ、と欲張った)。

関西から信州の善光寺さんまでは遠い。関西にいて善光寺如来との縁が結ばれるようにと明治27年建立の尼寺だから、まだ新しいお寺ではある。
人生も暗闇の中を手探りで生きていくようなもの、と言った念に通じるのではないかとのお話だ。



いちはつは中国原産の多年生草本。アヤメ科の中では、いち早く咲くので「イチハツ」と呼ばれる。水辺に育つわけではない。
漢字で「鳶尾」と書くとは知らなかった。トンビのしっぽ? 
いえ、トンビじゃなくて、読みは「えんび」。

「かきつばたの紫に比べると、色に深みを欠くうらみがある」と杉本秀太郎さんだ。
中途からあいにくの雨が降り出したが、小雨に濡れるイチハツはかえって美しさを増したかもしれない。
花の優しさ。花それぞれに特色あり、でしょう。


   いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす
        まずは子規の歌が思い出される。
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今日のひと日をよろこびて

2025年04月23日 | こんなところ訪ねて

「近江の中でどこが一番美しいかと聞かれたら、私は長命寺のあたりと答えるだろう」
白洲正子さんが「沖つ島山」(『近江山河抄』収)で冒頭に綴っている。

琵琶湖岸の道を近江八幡にある長命寺目指して出かけた昨日。
初めて行ったのは12年ほど前、小説『群青の湖』(芝木好子)を読んだのがきっかけとなった。

  (←808段の始まり 2013.5.3)
前回のしんどさは忘れてしまっている。「石段で上がるわ」という同行者を「ではご自由に」ともいかず、再度の挑戦となった。
車での参道(下から1.3キロ)も用意されていて、その駐車場からなら8分の1ほどだろうか。


後方へよろけたたら転がり落ちるしかなさそうで、その怖さが頭を離れなかった。

「あそこまで」を何度も繰り返しては息を整え、整えし、
駐車場わきから設えられた手すりに手を添え出したら、足が重くなった。

見あげて、「あと少し」と思ったことでちょっと気合いがキレた、かな。
実は本堂まで、この奥から少しばかり階段があったのだ。

本堂で無事お参りさせていただけたことに感謝し手を合わせ、縁にあった腰掛でひと休み。うっすら汗をかいた身体に風が心地よい。

山内、楓の花盛りだった。

この景色(↓写真は’13年のもの)の記憶はあるので、鐘楼のある高台まで行かなかった。
それが10数年経過の証かもしれない。


長命寺は西国33霊場の第31番札所。
景行天皇の世に竹内宿祢(たけうちすくね)がここで長寿を願い、その後、聖徳太子が寺を創り、十一面観音を祀って「長命寺」と名付けたと伝わる。808段の石段を上り詰めると正面が本堂、右手に三重塔が目に入り、護摩堂や鐘楼など建ち並ぶ。

歩かなければ見られない琵琶湖の風景を望み、シャガの花の群生に目をやりながら、帰りは車の道を歩いて降りた。
生かさるる喜びに鶯の声が降る。
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天も花に酔ふべき

2025年04月08日 | こんなところ訪ねて

「京でよく見た白い花ばかりの染井吉野。花ばっかりで気品に欠けますわ」
「山桜が正絹やとすれば、染井はスフいうとこですね」 (水上勉『櫻守』)
こんな会話が交わされているが、やっぱり目を楽しませてくれます。


長岡京市にある長岡天満宮を訪ねた。
遠目には満開の花盛り。今日を盛りと咲き満ちているようであって、時折強い風が吹く午後、いっせいに花びらを散らしている。もう散り始めたのだ。
二条城の標本木の開花宣言がなされたのはつい先ごろだった気がする。



昨年は4月の下旬に少し見ごろを過ぎたキリシマツツジを見て回った。
ツツジは「火よりも赤し」と言うのが一般的だとか。北村季吟が、東山のあたりに咲き満ちたツツジを見て「天も花に酔ふべき」と記している(『山乃井』)と読んだこともあって、いかばかりのものかとずいぶんと期待して出かけたのだった。

延喜元年(901)、右大臣の菅原道真が大納言帥(そつ)という地方官に格落ちさせられ、九州に左遷となった。左大臣に次ぐナンバー2のポストで、一地方官に落とされたのは藤原氏との権力争いに敗れた結果だった。2年後に、恨みを残して大宰府で死ぬ。
すると都では天災人災が相次いで起こり、それらは道真の祟りだと怖れられ、…とは知られるところ。

生前、道真はここ長岡天満宮を訪れては、六歌仙の一人在原業平(十輪寺‐業平寺)とよく詩歌管弦の遊びをしたことが伝わっているという。
大宰府へ下る前にも立ち寄っていて、名残を惜しんで彫られた木像をお祀りしたことが神社の創立となったのだとか。
もっとも、この大きな八条ケ池は寛永15年(1638)に築造されたもの。
道真が業平とこの地で…。思いはそこにあるくらいだったが、まだまだ美しい桜を楽しませてもらった。

そして楓の花が咲いていた。


ここも梅から桜、そしてツツジへと季節は進んでいる。
再び「天も花に酔ふべき」時季は間もなくだ。

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寺は…石山

2025年04月03日 | こんなところ訪ねて

京阪石山坂本線には昨年度のNHK大河ドラマ関連のラッピングカーが走っていたが、石山駅もこのような色調で化粧されていた。昨年はどれくらいのお参りがあったのだろうか。
放映中に訪れることはなかったが、2日朝のテレビで座主・鷲尾龍華さんが、ほころび始めた桜を背景にインタビューに応じているのを拝見し、石山寺を訪れてみた。

石山寺は天平勝宝元(749)年、聖武天皇の命を受けて良弁(ろうべん)によって建立されたと伝わる。
琵琶湖に流れ込む川は数々あれど、流れ出る唯一の川である瀬田川のほとりにあって東向きに建つ東大門。この門は頼朝による寄進で、仁王像は運慶・湛慶作と伝わるものだから、平安の女流文学を代表する女人たちが目にすることはなかったのだ。



参道を進み、石段を上がりきると目の前に巨岩がそびえ、一段高いところに多宝塔が建つのも目に入る。
本堂への階段を上がると、参拝者の一つのお目当てなのかもしれない源氏の間。



ここから琵琶湖が見えることはないし、参籠しここで物語の構想を得たとかが言い伝えや紫式部の伝説だったとしても、私は学生時代から京都に住む伯母を訪ねて一緒に川沿いを歩いてお参りするなど、やはり古を偲んだりしたものだ。

桜は思っていたよりずっと開花は遅れていた。未生の美、満開の美しさを想像しておこう。

山内には本堂手前(桜の後方)に蓮如堂があり、浄土真宗中興の祖といわれる蓮如上人の六歳の御影や遺品が祀られている。

蓮如が生まれたとき父の存如は20歳だった。本願寺の当主となる存如が高貴の女性を正妻として迎えることになり、蓮如の母は幼いわが子を残して黙ってすがたを隠したのだった。
蓮如6歳。立ち去る前に、鹿子の小袖を着た蓮如の姿を絵師に描いてもらい、その絵を抱えていずこともなく去った。切ないような母と子の物語。
のちに蓮如は母の行方を探し求め、その絵師を見つけ出し、同じ絵をもう一幅描かせたと言われ、それが「鹿子の御影」と呼ばれ現存している。

石山の人だった。石山に隠れ住んだのではないか。石山観音の化身だった。蓮如の母の様々な物語が生まれた。人びとは五百年以上もくり返し伝えつづけてきた。
大事なのは、蓮如をそういう人として受けとめたい、という民衆の心根が、物語を支えてきたということで、物語と言うのは、歴史的な信ぴょう性とか真偽とかとはまったく別ものだ

 ー と五木寛之氏が『百寺巡礼 第4巻』で書かれているが得心する。


現世利益の観音信仰に思いをはせてひと巡り、門を出た。門前の店でちょっと一服していると雀がやってきて、ちょんちょんちょん。
「うつくしきもの。瓜にかきたるちごの顔。雀の子の、鼠鳴きするに踊り来る。・・・」
(枕草子 151段)

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女の身でも極楽往生信じ

2025年03月21日 | こんなところ訪ねて
「莬芸泥赴」という、貞観元年(1684)に北村季吟が著した神社などの由来・遍歴を記した文書があります。名所、名勝記でもあるようです。
なんと読むのかです。「莬芸泥赴」は「つぎねふ」と読みます。


その「莬芸泥赴」で季吟は、和泉式部寺と呼ばれ親しまれる誠心院には式部が愛した軒端の梅が境内にあることを、〈春はただわが宿にのみ梅咲かば かれにし人も見にと来なまし〉の歌とともに案内しているというのです。
「誠心院」は、晩年の和泉式部が住んだとされる東北院(左京区)の小さなお堂を移築し、式部の法名にちなんで寺名にしたのだと伝わります。


そして今、境内には歌碑とともにゆかりの梅もあり、3月21日は和泉式部忌が営まれること、
坂井輝久氏の『京近江 名所句巡り』で知ることができます。

新京極通という繁華な中に寺はあります。初めて本堂に入らせていただきました。
真言宗、ご本尊は阿弥陀如来。美しい荘厳です。


和泉式部忌では和泉式部にゆかりがある謡曲「東北(とうぼく)」・「誓願寺」が、喜多流高吟会(高林社中)と金剛流銀謡奉納会によって奉納されてきているようです。

「東北」は旅の僧侶が梅の名所である東北院に行くとひとりの女性が現れ、梅は和泉式部が植えたことを知ります。僧侶は女性が和泉式部であることを悟り、お経を唱えると和泉式部が歌舞の菩薩となって現れ、和歌の徳・仏法のありがたさを説くというもの。

「誓願寺」は世阿弥が作り、和泉式部と時宗の開祖である一遍上人が登場する演目です。和泉式部は一遍上人に名号額「南無阿弥陀仏」の掛け替えを願い、叶うと喜びのあまり歌舞の菩薩となって現れ、念仏の功徳を説くというものだということを、
帰宅後に調べて知ったのでした。

式部が一条天皇の中宮・藤原彰子(上東門院)から賜った打掛から作られたとも言われる屏風の特別公開があり、拝見。



歌碑には、鎌倉時代中期の私撰和歌集『万代和歌集』に収められている春の歌が記されています。 〈霞たつ春きにけりとこの花を 見るにぞ鳥の声も待たるる〉

何度もこの寺は訪れていながら、パネルの絵伝も読みはしていたものの、読んだというだけで
定着もなく深く知ろうともしない自分だったことを痛感です。
「壇徒の参りも少のうなったな。高齢になって出てくるのも煩わしいんかのう」
そんな声が聴こえてきました。

紫式部、赤染衛門たちとともに…。昨年のNHK大河ドラマ「光る君へ」では、どなたが演じておられたのだったか…。
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ぎょうさんの齢いただく

2025年02月02日 | こんなところ訪ねて
【「鬼の目にも涙や流す節分の 窓の柊に行きあたりつつ」
浅井了意の「出来斎京土産(できさいきょうみやげ)」が狂歌に詠んだ五条天神社の節分祭。
平安遷都に際し大和から勧請した古社。五条大路にあり、五条天神宮とも称した。

祭神少彦名命(すくなひこなのみこと)は医薬の祖神。近世、節分に朮(おけら)を受け家でくすべ悪鬼を払う習いがあった。日本最古という宝船図の授与は今も有名で、神朮(しんじゅつ)の風習を訪ね求める参詣者もある。】


と記された坂井輝久氏の『京近江 名所句巡り』に導かれ、初めて五条天神社を訪ねてみた。
烏丸四条から西へ、西洞院通を南に松原通まで下がると右手に鳥居が目に入る。




近隣の氏子さん?か、顔見知りらしい人が多かった。


宝船と聞いてうかぶ七福神のイメージとは大きく異なって、船には一束の稲穂が乗っているだけ。
日本最古という宝船図には関心もあったが、こうして見本が貼り出されていて、それをこともあろうか?写真に収めてすます。
そんな人間でも、この一年の息災の祈りは医薬の祖神にとどくものかしら…。


※「出来斎京土産」というのはネットで検索してみたところ、出来斎という主人公が洛中洛外の名所を遍歴して狂歌を詠む趣向の名所案内記と説明されたものがあった。作者の浅井了意は、江戸前期の仮名草紙作者で、浄土真宗の僧となったという。


  
  ぎょうさんの齢いただく年の豆  桂信子

ああ、豆ばらに…。

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初まいりは

2025年01月09日 | こんなところ訪ねて
  折々に伊吹を見てや冬籠り   (元禄4年)

滋賀県彦根市高宮にある高宮神社の境内に、この芭蕉の句碑があるという。
芭蕉が宿泊したと言われる小林家は今も残っており、表札も小林のままだと嵐山光三郎氏が『芭蕉紀行』で書いていた。


昨日、琵琶湖の湖上にたたずむ堅田の浮御堂から冠雪した伊吹山を目にした。
強い風に波が立ち、ユリカモメが乱舞し、耳がちぎれそうな冷たさだった。よりによってなぜこんな日に水辺に来たのかって問われても、気まぐれにすぎない。



浮御堂は海門山満月寺と称する禅寺で、京都の大徳寺に属している。
一条天皇の時代、比叡山横川恵心院に住した源信(恵心)僧都によって湖中に堂宇が建立され、自ら千体の阿弥陀仏を刻んだ。湖上通船の安全と衆生済度を発願したのに始まると伝わる。
スリッパに履き替えてお堂を一巡する。琵琶湖大橋の向こう、東に伊吹山、長命山、近江富士、ぐるっと巡れば一部まだらに冠雪した比良の連峰に比叡山も。

初詣りであった。
扉が開けられているので、小さな千体の阿弥陀仏は目の前に。芭蕉の「鎖(じょう)あけて月さし入れよ浮御堂」の句碑がある。
元禄4年の中秋の名月の翌日、十六夜の月見の宴で詠まれた句。湖上の堂の隙間に月あかりが差し込んで、千体仏の輝きがもれ光るさまを想像してみたい。


室井其角寓居の址

堅田は一番弟子の其角の父が生まれた地で、其角は何度も訪れている。「帆かけ舟あれや堅田の冬けしき」と詠んでいる。
其角は地元の曲水(膳所藩の重臣)や彦根の許六(芭蕉晩年の弟子で彦根藩士)との親交があった。
大津は膳所藩6万石の城下町で、東海道の要衝にあって隆盛をきわめていた。近江商人の旦那衆が多くいて、其角の実家もある。土地の生活と旅するものとの交流があり、ゆったりとした自然に恵まれている。そして、どこか深川の芭蕉庵の景観とも似る。
芭蕉さんには、大津は心おきなく落ち着ける、心から安らげる地ではなかったか。と嵐山さんは思いを深める。

ここに来れたということを感謝し、つつましくも健やかにこれからの日々も過ごせることを念じた。
お初は縁起良いもの。命をいただき限りない知恵を授けていただく。
雄琴でお風呂に入って温まって帰りたいなあと思ったのに、直行での帰宅となった。愛想ないこと、一人が楽だなあ…なんてちょっぴり思う初詣に。
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雨上がりも一興

2024年10月28日 | こんなところ訪ねて
比叡山の西麓にある詩仙堂、曼殊院、修学院離宮を過ぎて赤山禅院のあたりを南から北(あるいは北から南)へ歩くのが、私が好む散策コースの一つになる。

時には勘を頼りに、初めての道を選んでみる。不安を覚える頃に、前方に見覚えのある建物や店舗が見えてほっとする一幕もあるが、まあ、歩いてさえいれば道はどこかに通じている。


昨夜来の雨が上がって、薄日が差し始めた。秋晴ればかりが良いのではないだろう。
曼殊院の白壁に土塁と、雨上がりの微妙な光を受けてしっとりと生きづく苔との調和もまた一興という感じだった。楓の青さは、はっきりしない天候を少し晴らしてくれるものだった。
何度も訪れて拝観もしているので今日はソ~リ~、ソ~リ~と心の中で手を合わせ、『駆け入りの寺』(澤田瞳子)の舞台、林丘寺が見える道へと抜けた。何やら草が茫々としている。


そして赤山さんを目指す。赤山大明神とある石の鳥居をくぐって





「赤山明神 是より不一」とした先に見えてくる門には、「天台宗修験道本山管領所」と看板が掛かっている。
「叡山で行をするひとびとの本締めでもあるのだろう」

「赤山(せきざん)という変な漢音の名称の赤山明神(禅院)」。寺なのか神社なのか。
本来「明神」なのを「禅院」にしたのは、明治初期政府の神仏分離策をごまかすためであったろう。「明神」なら神社にされてしまうが、「禅院」なら寺として残されるから、と司馬さんは『街道をゆく 叡山の諸道』で書いておられる。


緩やかなのぼり道を進むとなにやら大声が響いてきた。マイクを通しているような声だから、威嚇されてるような怖さを覚えるものだった。
ドスの効いた早口で怒鳴り声のよう。「あーのくたーらーさんみゃくさんぼーだい」? と聞き取るものの…。

お参りがあったのか、10人ほどの人たちが出てきたのに合わせて、年配の上品な女性がテント張りの小屋から姿を現し、出くわした私に「お参りありがとうございます」と言葉をかけて下さる。きれいな方だった。


拝殿の屋根の上には猿。「危難ヲ去ル」で、京の東北の鬼門を守るお猿さんだと以前ここで聞いたことがあったような。

少し疲れたのを感じながら、下校時間となって弾んだ声をあげる小学生たちと白川通りへと下りた。

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あかあかや明恵

2024年10月21日 | こんなところ訪ねて
「 序
  栂尾高山寺を囲む山の稜線から朝日が少しずつ覗いてくる」
の一文で始まる『あかあかや明恵』(梓澤要)。



冒頭の一文には、高山寺の寺号の由来となる「日出先照高山」 - 日出でて先ず高山を照らす、が下敷きあるのだろう。
一途に華厳思想復興を志した明恵上人。8歳で両親と死別した明恵は、亡き父母の面影を釈迦に重ね合わせるかのように深く信仰したという。

明恵上人時代の唯一の遺構、石水院

富岡鉄斎による「石水院」の木額   財善童子(華厳経に出てくる求道の菩薩)

34歳の時、後鳥羽院から神護寺の別所・栂尾の地を賜り、ここが明恵上人の後半生の活動拠点となっていく。その徳業は多くの人々の信仰を集め、そして「鳥獣人物絵巻」に代表される多くの文化財も集積されていった。

梓澤氏の『荒仏師運慶』にも明恵は登場した。
〈人気のない薄暗い木立の中でひとり、座禅している…年若い色白で華奢な美僧の姿は、神々しいまでの静寂に包まれていて驚嘆したが、よく見ると衣の裾のあたりや腰のあたりに、リスが何匹もちょろちょろ動き回り、肩には小鳥が止まっているのだった。〉(運慶の弁)

樹上座禅象

世俗を嫌い、隠遁を繰り返した孤高の生涯。印象深い言葉がある。
※「人は阿留辺幾夜宇和(あるべきよう)と云う七文字を持つべきなり」- 人はそれぞれの立場や状況における理想の姿(あるべきよう)とは何かを、常に自分自身に問いかけながら生きてゆくべきである。日々、日常の中で。
※「愛心なきはすなわち法器にあらざる人なり」 - 愛する心がなければ、仏法を十分に理解できる人とはいえない。

24歳の時、右耳を切ったこと。そしてこの御詠草
「あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月」

などは読み知るが、何度か高山寺を訪れてはいても明恵上人についてこれといった書を読んだことがない。
ちょっと敷居が高くて…。それなのに、これまではずっと書店で背表紙を眺めるだけだった『あかあかや明恵』を読んでみよう、とまさに一念発起の感で思いついた。なぜかわからないけれど。
その前に、今日は高山寺を訪ねてみたのだった。


史実と虚構や脚色。どのような世界が描かれているのか。少し気持ちに力を入れて一歩踏み込まなくてはならないものがあるようだ。
コメント (2)
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歳月に耐え、新たな時間を重ねて

2024年10月14日 | こんなところ訪ねて

きのう日曜日、13日の奈良の空はすばらしい青空だった。
西ノ京駅の改札を出ると目の前に薬師寺方向を示す矢印があって、なんの思慮もなく歩きだしていた。
杉山二郎氏が「近鉄駅を西に渡り迂回して六条大路を東して、薬師寺八幡宮を拝した後、正面から訪問することを勧める」と書いていたのを読んでいたのに。
  東院堂

初めて訪れた大阪の四天王寺では、西の鳥居をくぐって境内地をうろうろキョロキョロ。整えられた伽藍配置を正面から拝すことに気も回らなかった失敗の経験をした。幸いにもなぜかそれが思い出され、「白鳳伽藍」の姿を見なくちゃと東院堂に寄り、回廊など眺めつつ南門へと歩き、中門をくぐることにした。



  左手に西塔

西塔には風鐸があった。けれど、東塔にはないことに気づいた。
風鐸と言えば、たくさんの風鐸が揺れる高野山の根本大塔が思い出される。寂聴さんがその音を「天来の妙音」と讃え、私も聞いてみたくて塔を仰ぎ時を過ごしたことがあった。
この西塔は1528年に焼失してのち、東塔への綿密な調査に基づいて設計され、伝統的な木造建築の工法で1981年に再建されている。この令和の世に至って、どのような音を奏でるのだろう。
  こちらは東塔

古色の趣のためか東塔の姿は美しく感じる。三重塔でありながら、裳階による装飾があるせいで、その軒の出が全体を六重塔のような姿で見せてくれている。
東塔は創建当時から残る建物だが、2009年から12年かけて全面解体修理が行われた。母を誘い二人で奈良を巡った20代前半、以前の姿の東塔前で写真におさまる母と私が残されたが、ここに来たのもそれ以来となる。


金堂には薬師三尊像(中央に薬師如来、右に日光菩薩、左に月光菩薩)が安置されている。風に幕が揺れて・・・、失礼ながらカメラを向けてしまった。
薬師如来像造立の意図には、病気の治癒祈願が主であって、温和で雅潤な顔貌を造形するものだが、ここ金堂の薬師如来像のお姿は「隙のない王者の風格、畏厳に満ちている」と杉田氏は指摘される。
当時の国際情勢の投影を見いだし、また、不祥事が続いた薬師寺の歴史への記述にも興味深いものがある。


今度は、眼前に塔!ではない姿を望みたい。屋並み越しにとか木立の向こうに…塔の姿を眺めてみたいものだ。
歩いて10分ほどのところに唐招提寺があるが、いずれまた訪れようと帰路に着いた。
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上賀茂の社

2024年10月09日 | こんなところ訪ねて
年に何度も訪れる上賀茂神社。


秋はこの萩の花を見るため“だけ”に、と言っても過言ではない。


「花を愛おしむわれわれの心はいつでも、花を愛おしむわが心を愛おしんでいるのであり、
また、そういう心を宿して生き続けているわが身をさらに愛おしんでいるのにちがいない」


上賀茂の社を流れる御手洗川の紅萩。
花にも花どき。伸びてたわんだ枝が、微かに風に揺れる風情など、たおやかで美しい。
草カンムリに「秋」と書く、まことに愛すべき花。
どうやら良いタイミングで今年の命を共にした、と言っておきたいな。

などとのあれこれも、なるほど杉本秀太郎氏が書かれていた通りかもしれないと思うのでした。

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ささやかな今日のひと日

2024年10月05日 | こんなところ訪ねて
思いのほか良い天気になった。2日ほど雨にこめられていたので行こうと誘って、京北町山国の常照皇寺に向かった。

龍安寺、仁和寺の門前を過ぎ、周山街道を三尾の神護寺・西明寺・高山寺に至るころには、道路わきの気温表示も28℃あったのが次第に26℃、23℃、21度とさがっていく。
高山寺の脇に市営駐車場があるが、そこから道なりにもう30分余。トンネルを3つ4つ抜けたあと、美山へと北進せずに右折する。
桂川沿いに山懐へと入っていく風景は、いつ来ても心落ち着く穏やかなたたずまいだ。

清流の向こうに茅葺の屋根が見え、常緑樹に囲まれるようにひっそりと家々が建ち、そこかしこに彼岸花やコスモスが咲き、ススキの穂が群れそよぐのを眺め、山国神社、山国護国神社と過ぎて、そのまましばらく、まだかなと思ううちにお寺への道が現れる。

駐車場から

更に石段を上がって本堂へ

もう何度も訪れているので目新しさってのはないけれど、かなりヒンヤリした風が何とも心地よかった。聞こえるのはカラスとコオロギの声。
縁も板戸も,ずいぶんと傷みが進んでいる。本堂の屋根も修理が必要らしい。北側の縁は日当たりも悪く、雨ざらし吹き曝し、足が汚れそうな気分にさせられる。

天皇陵は寺の北側、更に階段を上った高所に南面している。

南北朝争乱の時代。北朝の光厳天皇は吉野の山中をさまよい歩くなど難渋の日々を過ごされてのち皇位を去って、ついにこの地にたどり着き、終の棲家と定めて落ち着かれた。 
「こんな寂しいところにおかわいそう」と言われる人に、そのようなことはなく、ようやくのこと「安心(あんじん)を得てお幸せだったのだ」と住職は言われたとか。


朱印帳を持つことをやめて何年にもなるし、数珠だけ持ってお参りした。
静寂の安堵感の中で、何を考えるでもない。
このただただぼんやりの時間にも、目には見えないけれどなにかとの出会いが生じている。
仏との縁はあとになって気づかされることもあり、仏縁はひそかに結ばれる。
こんなひとときがほしい。
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ここはどこよ

2024年08月08日 | こんなところ訪ねて
ここはどこよと船頭衆に問へば  ここは枚方鍵屋裏
鍵屋浦には碇が要らぬ  三味や太鼓で船とめる  
                  「三十石船唄」


京阪「枚方市」駅(東見附)から隣の「枚方公園」駅(西見附)の区間を歩いて、江戸時代に「三十石船」の乗降地としてにぎわった鍵屋(資料館)を訪ねてみた。

本来は30石相当の積載量を持つ船のこと、江戸時代に淀川の伏見-大阪間を定期的に上下する客船を「三十石船」と呼ぶようになった。
屋形はなく苫掛けで、船員4人、乗客乗員28人。伏見から大阪への下りは半日か半夜、しかし上りは竿をさしたり綱を引いて船を引き上げるために倍の一日か一夜を要し、費用も下りの倍額だった - と資料館での記述を拝見。



船が枚方にさしかかると小さな船がそっと近づき、船客相手に大声で、汚い言葉で「酒くらわんか 餅くらわんか」と飲食物を商う。
煮売茶船は「くらわんか船」と呼ばれ、淀川の名物だった。
「三十石船」の乗客相手に煮売りの商いをした「くらわんか船」で使われたことから「食らわんか茶碗」という呼び名が生まれたのだろうという。

「食らわんか茶碗」を知るきっかけは向田邦子のエッセイ「食らわんか」だった。
気に入った季節のものを盛るとき、なくてはならない5枚の「くらわんか」の天塩皿があると書いていた(『夜の薔薇』収)。
「食らわんか」「よし、もらおう」となれば、大きい船から投げ下ろしたザルなどに厚手の皿小鉢を入れた。落としても割れないような丈夫な焼き物は(長崎県波佐見産のものが多かったそうだが)、汚れたような白地に、藍のさっぱりした絵付けだとも書いている。

 


この道は秀吉による文禄堤の上にできた道だ、と立寄った塩屋(屋号)さんで教えて下さった。店の向いが本陣の跡地になる。

 

庄屋と問屋役人を兼ね、幕末には農業経営を発展させ、金融業を営んでいたという大南善衛門家(屋号 田葉粉屋)が碑の後方に。



広大な敷地に蔵4棟を持つ泥町の大商家。泥町っていうには、水害も多かったのだろうか。

鍵屋資料館を訪ねた。

左手が主屋。

淀川沿いに、天正年間(1573-92)創業と伝わる鍵屋は「三十石船」の乗降地として賑わった。堤防で隔てられるまで、建物の裏手は川に面していたようだが、2Fから川が望める風景だった。大広間で、舟待ちの人々を想像してみた。


暑い中、案内するからと言ってくれた隣市に住む友人と汗をふきふきの半日だった。彼女も少し前に歩いたばかりだったのだ。
エッセイを読んで以来の心残りも晴れた。今一度もっと広範囲に川のほうまでも、秋風の吹くころならゆっくり歩けそうな気がする。
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