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京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

やれ私服警備員が、やれ万引き防止と

2025年03月29日 | 今日も生かされて
「当店は私服警備員が店内を巡回していますが…」と始まるアナウンスで、客個人も自分の手荷物は自分で十分気をつけるよう促される。
そこに続くのは「当店は万引き防止対策云々…」のアナウンス。
これがセットで繰り返される書店に、ちょっと遠出をした折に立ち寄ることがある。
なぜかすごく不快な気分になる。
この店には以前、「万引きはあなたの未来に傷がつく」の言葉が書かれたポスターが貼られていたものだ。


京都から東京の三鷹へ移り、書店「ユニテ」を経営する大森さんが、ある雑誌に寄稿された文章を読んだことがあったが、そこで万引きのことに触れていた。
「万引き1冊で本の利益の5冊分が吹き飛ぶ」

単純計算ではない。
「書店にある本は版元や取り次ぎからいわば借りている本だ。“借りている”本は、売り上げのうち決まった割合の金額が書店の取り分になり、それを引いた金額が取り次ぎから請求される。書店で売る一冊の本の売り上げを、取り次ぎや出版社と分け合うシステムになっている。
盗られてしまえば、そのぶんの売り上げがない上に、その本の代金も支払わねばならず、売り上げの数倍の出費が生じる」
「全国の書店の万引きの総被害額が合計で200億円になる年があった。」
(『桜風堂ものがたり』村山早紀)

書店側が万引き防止に躍起になるのはもちろん理解するけれど、長居して書棚を見て回れば、嫌というほど耳にすることになる。
その頻度や、いい加減にしてと思うくらいだ。万引きなんてしませんよ!!って言いたくなっちゃって…。


三鷹の書店ユニテ。
店を象徴する3冊として大森さんが選ぶのは、『読書からはじまる』(長田弘)、『常識のない喫茶店』(僕のマリ)、『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る: アフガンとの約束』(中村哲、澤地久枝)だそうな。

熊本には橙書店があるようで、田尻久子さんのエッセイが収められた『橙書店にて』で覗いた日常があったけれど、行くなら、やはり三鷹かな。
「人生の贈り物としての読書」(長田弘)の一冊を選ぶのだから、なんといっても本屋さんは居心地よくなくっちゃ。

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図書館は異なる文化を結ぶ

2025年03月27日 | こんな本も読んでみた
3月の初めに知人が何気なく話題にして帰られた『あの図書館の彼女たち』(3/7記)
早速書店に走り、勢い込んで読み始めたものの、翻訳の文章に慣れないせいか半分ほどは展開を読むだけに追われた。個人の名前が定着し始め、ドイツ軍がパリに侵攻してくるあたりから引き込まれていく。
多くの文学書のタイトルが、その一節が、文中に組みこまれ、引用され、なかなか洒落ていると感じることも多かった。


戦時中のパリの物語と言うと、ナチスに対抗するレジスタンスの人々を思い浮かべる人も少なくない。しかし、実際に地下活動に加わったのはごくわずかだ。多くの市民は日々の生活を過ごすだけで精一杯で、自分たちに危害が加えられるのではないかと怯え、疑心暗鬼にかられていた。ナチスに売り渡そうとする密告が横行していたことも、今ではよく知られている。(「解説」)

「(非常時ばかりでなく、何気ない日常生活においても)異なる文化的背景を持つ者どうしが出会ったとき、偏見や先入観に邪魔されずに意思疎通ができるかどうかで、きっと世界は大きくちがってくるだろう。他者を受け入れることで、それは相手を理解し、自分の気持ちもわかってもらい、思ってもいなかった幸せを招くことができるかもしれない。
パリの住人やアメリカ図書館に出入りする人々、そしてモンタナ州の少女リリーなど、オディールを巡る人々の悲喜こもごものエピソードに、そんなチャールズ(作者)の想いがうかがえる。(「訳者あとがき」)

「わたしが本書を書いた目的は、第二次世界大戦の歴史の中の、このほとんど知られていない章を読者と分け合い、登録者を助けるためにナチスに抵抗した勇気ある司書たちの声を記録し、文学への愛を共有するためだった。
いかに私たちが互いに助け合い、邪魔し合うのかと言うだけではなく、わたしたちの在り方を決める人間関係を探求したかった。
言葉は、他者に対して開いたり閉じたりできるゲートだ。わたしたちが読んだ本、互いに話す物語、自分に言い聞かせる物語がそうであるように、単語を使ってわたしたちは知覚を形成する。
外国人職員と図書館の登録者は、“敵性外国人”とみなされて、拘留された者もいた。ユダヤ人登録者は図書館に入ることを許されず、多くはのちに収容所で殺された。ある友人は、第二次世界大戦の時代の物語を読むことによって、人は自分だったらどうしただろうと自問したいのだと言った。
わたしとしては、図書館と学習がすべての人に許され、人々を尊厳と情熱を持って扱えるような状態を確保するために、自分たちに何ができるかというほうが、もっといい問いかけだと思う。」(「著者の覚書」)


1939年、20歳でアメリカ図書館の司書に採用されたオディール。1983年、オディールはアメリカのモンタナ州に住んでいた。隣家の12歳の少女リリーと出会い、良き隣人として友人として歳の差を超えた関係が紡がれる。
人は過ちを犯す。図書館の仕事を放りだし、オディールがアメリカに「逃げた」わけも明らかになった。

コロンビア大学への入学が決まったリリーに、オディールはパリ行きの航空券と絵葉書が入った封筒を渡した。葉書には、「 “リリーへ。夏のために、愛をこめて” パリ  」とあり、アメリカ図書館と白い服の女性が映っていた。
「パリのアメリカ図書館 毎日開館」の文字と。  -これが結びだった。

リリーが心から願ったオディールとマーガレットにとってのハッピーエンド。リリーにとっても「思ってもいなかった幸せ」が訪れた。
二人の心の底にあった思いが、切れたかに見えた縁をつないでいたのだ。
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春は空から

2025年03月25日 | 今日も生かされて
潤いのある霞んだ空が春天と言えるようだが、春を知らせる風が吹き、ものの芽が土の塊を除けて顔をだす。
「春は空からさうして土から微かに動く」(長塚隆節『土』)と書かれた感覚に共感しながら、近づく春を心待ちにしてきた。


花数が年々減るが、ようやくここにきて今を盛りと咲く老木のけなげさに(お写真一枚! いいねえ、白梅好きよ)と語りかける。
紅梅は平安時代になって伝わり、「木の花は、梅の濃くも薄くも紅梅」と『枕草子』に挙げられるけど、古くは白梅なのだ。
世間よりひと足遅れの梅見なのに、毎年のことよと打つ手もなく花は近隣国からの黄砂を浴びる。


2014年の今頃…。
春季永代経を勤め終えたこともあって、東京藝術大学大学美術館で開催されていた観音展「観音の里の祈りと暮らし -びわ湖・長浜のホトケたち」を拝見に行こうと計画していた。
久しぶりの上京に、いそいそと準備を進めていた。息子宅で二日間のお邪魔を受け入れてもらっていたのも楽しみだった。


義母は私に顔を向け、じっと眼を注いでひと言、「おはようおかえり」。
「いってきますね」と私は障子を閉めた。
4月に入って、予定通り出発した。

義母が96歳と高齢だったので、よくよく考えたうえで決めたことだった。
けれど、どんなに配慮を重ねても、予想外の出来事は誰にだって訪れるのだった。

                    (ヒメオドリコソウが咲いていた)
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ぼてじゃこになったらいかんえ

2025年03月23日 | 今日も生かされて

「草津駅(滋賀県)のプラットフォームは、底冷えと音を立てて吹く風に、吐く息まで凍てつくようで痛かった。
〈比良の八荒、荒れじまい〉
湖国に住む人たちは、この琵琶湖を中にはさんで荒れ狂う風を、そう呼んでいる。
しかし、この風がすめばもう春、そんな希望がある言葉である。
その季節は、ちょうど、奈良のお水取りの儀式の頃でもあった。」

大津市に生まれた花登筐の『ぼてじゃこ物語』(1971年-昭和46)の書き出し部分は、こう綴られていた。

少し前、点訳の作業をよく共にしているメンバーでひとときを過ごした折、この作品が話題にあがったのだった。
「このあたりじゃ比良八荒が終わらないと本当の春が来ない」と口々に言われる私より少しばかり年長の方々は、この作品がドラマ化されたのをご存じだった。
主人公を演じた女優さんのイメージを払いのけてしまいたい。読む前に聞かなきゃよかった、と実は思った。

浜大津の湖岸緑地公園に建つ記念碑には「泣くは人生 / 笑うは修行 / 勝つは根性」の文字が刻まれてるという。
55歳で亡くなっているが、残された台本、脚本等の作品はおよそ6千冊に及ぶというから驚きだ。

ぼてじゃこ、って…。
「琵琶湖で、そう呼ばれる魚である。雑魚の類で、雑魚、腹がふくれているからぼてである。貪欲な魚で、鉤をおろすとすぐに喰いつく。釣れても食えた魚ではなく、鶏の餌になるくらいである」。


「どんなときでも、ぼてじゃこになったらいかんえ」

さて、どのような生き方を母は娘の心に遺して死んだのか。
私などはともすると楽な方へと逃げる。根性論は好みではない。が、彼女にとって生きている価値とは何だったのか。捜し求めた生涯とは、読んでみよう。


顔は練白粉の花嫁化粧のまま。ショールで顔を隠すようにして電車の座席に腰をおろした。
「次は石山、次は石山」
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女の身でも極楽往生信じ

2025年03月21日 | こんなところ訪ねて
「莬芸泥赴」という、貞観元年(1684)に北村季吟が著した神社などの由来・遍歴を記した文書があります。名所、名勝記でもあるようです。
なんと読むのかです。「莬芸泥赴」は「つぎねふ」と読みます。


その「莬芸泥赴」で季吟は、和泉式部寺と呼ばれ親しまれる誠心院には式部が愛した軒端の梅が境内にあることを、〈春はただわが宿にのみ梅咲かば かれにし人も見にと来なまし〉の歌とともに案内しているというのです。
「誠心院」は、晩年の和泉式部が住んだとされる東北院(左京区)の小さなお堂を移築し、式部の法名にちなんで寺名にしたのだと伝わります。


そして今、境内には歌碑とともにゆかりの梅もあり、3月21日は和泉式部忌が営まれること、
坂井輝久氏の『京近江 名所句巡り』で知ることができます。

新京極通という繁華な中に寺はあります。初めて本堂に入らせていただきました。
真言宗、ご本尊は阿弥陀如来。美しい荘厳です。


和泉式部忌では和泉式部にゆかりがある謡曲「東北(とうぼく)」・「誓願寺」が、喜多流高吟会(高林社中)と金剛流銀謡奉納会によって奉納されてきているようです。

「東北」は旅の僧侶が梅の名所である東北院に行くとひとりの女性が現れ、梅は和泉式部が植えたことを知ります。僧侶は女性が和泉式部であることを悟り、お経を唱えると和泉式部が歌舞の菩薩となって現れ、和歌の徳・仏法のありがたさを説くというもの。

「誓願寺」は世阿弥が作り、和泉式部と時宗の開祖である一遍上人が登場する演目です。和泉式部は一遍上人に名号額「南無阿弥陀仏」の掛け替えを願い、叶うと喜びのあまり歌舞の菩薩となって現れ、念仏の功徳を説くというものだということを、
帰宅後に調べて知ったのでした。

式部が一条天皇の中宮・藤原彰子(上東門院)から賜った打掛から作られたとも言われる屏風の特別公開があり、拝見。



歌碑には、鎌倉時代中期の私撰和歌集『万代和歌集』に収められている春の歌が記されています。 〈霞たつ春きにけりとこの花を 見るにぞ鳥の声も待たるる〉

何度もこの寺は訪れていながら、パネルの絵伝も読みはしていたものの、読んだというだけで
定着もなく深く知ろうともしない自分だったことを痛感です。
「壇徒の参りも少のうなったな。高齢になって出てくるのも煩わしいんかのう」
そんな声が聴こえてきました。

紫式部、赤染衛門たちとともに…。昨年のNHK大河ドラマ「光る君へ」では、どなたが演じておられたのだったか…。
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二上山憧憬(しょうけい)

2025年03月19日 | 今日も生かされて
学生時代に所属していた研究会の旅行で當麻寺宿坊に泊まり、翌日、山頂に葬られた大津皇子を訪ねて二上山を目指した年があった。
12月も半ばを過ぎた頃。時に上から伸ばしてくれた手にすがって引き上げてもらい、辿り着いた雄岳山頂の明るさは今でも眼裏によみがえる気がする。

大和盆地の西にある二上山。春分の日には、その雄岳と雌岳の間に陽が沈むという。
真西に沈んでいく太陽のかなたに極楽浄土があるとされ、古くから二上山は西方浄土の境界としてあがめられている。
犬養孝氏がNHKから全国放送されたものの書き起こしとなる『万葉の人びと』から、大津皇子の回を開いてみた。


「大津皇子という人は、人柄がお父さん(天武天皇)に生き写しみたいな人なんじゃないんでしょうか」
当時の漢詩集『懐風藻』など見てもとてもほめて書いてある。
「男性的で、頭がよくて、言葉がハキハキしていて、文が上手で、武が上手、よく剣を打ち、漢詩が盛んになったのは大津皇子から起こるといい、物にこだわらず、豪放磊落で、人望が高い」
こんな青年に生きていられたら草壁皇子のためにならない。「悲劇の原因はここにあったのではないでしょうか」
「大津皇子の悲劇はまことに複雑怪奇」と。


この回の最後の言葉が好きです。
「24歳の大津皇子の霊魂は、あの吹きさらしの山頂では、いつまでも休まることができないと思う。その証拠には、今日もこの話を知っているすべての人の胸の中に、大津皇子の亡き御霊は今も生きているのではないでしょうか。大和へ来た青年諸君がまず何というでしょう、『二上山はどれですか』と先ず聞かれますね、ということは、24歳で非業の死を遂げた、しかもすばらしい歌を残している、その大津皇子の霊魂が、人々の胸にそれぞれ生きているからではないでしょうか」

彼岸を迎えるたびに、(来年ぐらいはお暇をいただいて…)などと、いったい何度思ってきたことやら。
ある方は言われた。琵琶湖の西に沈む夕日も素晴らしいですよ、と。

思いだして『死者の書』(折口信夫)を取り出した。
古墳の闇から復活した大津皇子の魂・・・
「彼(カ)の人の眠りは、徐(シズ)かに覚めて行った。まつ黒い夜の中に、更に冷え圧するものゝ澱んでゐるなかに、目のあいてくるのを、覚えたのである」と書き出される。
日を改めて読んでみよう。
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ナンバープレート

2025年03月17日 | 今日も生かされて
前を走る車のナンバープレートに、いわゆるご当地ナンバー「飛鳥」が表記されていた。
飛鳥とは、初めて見た。
よくよく見ると、8.9.10.11画目の点の向きが4つそろって右から左下へ、 となっている。
 というわけだ。
うーん、これはちょっと残念だったが、「飛鳥」っていいなあとは思って見ていた。



5、6年ほど前、9歳の少年がナンバープレートの数字で遊んでいるという話を聞いたのを思い出した。
大学レベルという数学検定一級に合格したという少年だった。
プレートの4桁の数字すべてを使って、足したり引いたり掛けたり割ったりして、答えを10に導くというのだ。

やってみなはれ?? ひさしぶりだったが、これが意外と面白い。
車間距離をとって、ついつい暗算に走る。
あまり熱中しては危ない! 

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鈴とむつんで1600キロ

2025年03月15日 | 今日も生かされて
足元の一輪の花を愛で、心を凝らし、耳を傾けながら、うらうらとした陽気を楽しんで歩いているのは、まさに精神のセルフケアと言えそうだ。


周囲の森では、木をつつくような音が響いていた。コゲラという鳥を思い浮かべた。
トンビが地上に影を落とす。静かだ。
紅梅が白梅よりひと足早く満開に近かった。


今日は朝からずっと薄暗く、雨音が世間との隔絶感を生み出してもくれて、奥にすっこんでの家籠り。
お彼岸前だが訪い来る人もなく、久しぶりに土曜日をくつろいだ。


黛まどかさんが四国八十八か所札所と四国別格二十霊場、合わせて百八か寺を巡った折の『私の同行二人 人生の四国遍路』を読んだりしていた。
先日来ゆっくりと後を追っている。

「一度は父のため、一度は母のため、一度は自分のため、三たび巡礼せよ」
この真鍋俊照氏の言葉に出会って以来、生涯で3回は遍路をしようと決めたのだという。
私には一度の経験もなく、そのような思いに至ったこともないままだ。
おそらくこの先も、その機会はないだろう。


2023年秋、2度目の遍路をすることを決めた。行程1600キロ、「同行二人」の旅が始まる。
  おのが振る鈴とむつんで秋遍路

風や雨、花、鳥、虫、団栗などを介して、命の根源を思う。
  観音の千手に余る木の実かな

出発して早々から生じた右膝の痛み。
遍路5日目にして、顔から突っ込んで派手に転んだ。
救急車か?という周囲の声に、頭にもたげたのは“お遍路魂”だったそうな。
翌朝、負けたボクサーのような顔をしながら歩きだすうちに、喜びが満ちてきたという。
遍路というのは「聖地に行きつくまでの“間”こそがすべてであり、歩くことそのものが目的だ」と書いている。


俳句が詠みこまれ、落ち着いた筆致で心にしみじみと染みてくる。
この本に出会うまでは無縁だった私だけれど、読むことで同行させていただき、有縁の衆の1人となりたい。精神のケアにもつながるだろうか。

〈ひとりで歩く時の巡礼は、しみじみとした淋しさが身につきまとうが、巡礼の淋しさは悲しさを伴わない〉
とは寂聴さん。
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BUTSUDORI ブツドリ

2025年03月13日 | 今日も生かされて

ウグイスが鳴いた。
近江の人に誘われてBUTSUDORI ブツドリ : モノをめぐる写真表現展開催中の滋賀県立美術館に行った。車を駐車場において、歩きだして間もなくのこと。花の盛りを過ぎた山茶花が道路脇には連なるが、姿は見えない。
「えーっ、ウグイスよね!?」と顔を見合わせ、ぐるりを見回し、耳を澄ます。ひと鳴き、ふた鳴き、5回ほど、思いがけない出迎えを受け、一気に足取りもかるく歩いた。

BUTSUDORI ってなに? 
以前からこの展覧会の案内は目にしていたが、関心がなかった。で、ちょっと下調べ。

ブツドリ(物撮り)」という言葉は、もともとは商業広告などに使う商品(モノ)を撮影すること」とあった。「物」を「撮」るという行為として広く捉えてみる。
「モノ」を撮影することで生まれた写真作品、が重要文化財含み200点以上出品されているということだった。

さて、「ブツドリ」。奥深さ? 単なるモノ以上の豊かさ? と意識してはみるものの感性がないのか、あまり楽しめなかった。
一人ではこの場にいなかっただろう。
同行の1人(男性)は写真を趣味とし、これまで入選作品は数多く、「大賞」を射止めて東京での表彰式に参加するほどの才を持つ。対象は風景や人物だが、カメラを覗く撮り手のあたたかな眼差しが映しだされていると思う。氏の作品のほうがずっと好きだ。好き嫌いの話ではないはずだけど…。


昨日、東本願寺に参拝した。
手水屋形(重要文化財)が仮設の素屋根に覆われて、夏から修理工事に入る。


そのための足場と言っていいのかしら。組み上げる順序、組み方があるのだろうけど、パイプ、木材ありで、斜交いには、強度を高めるのかしら?
ここまで組み上げられていく姿も美しいものだなと思ってカメラを向けてしまった。
「ブツ・物」ではないだろう。


(初期の写真をネットより拝借)

梅は古木がいいけれど、年輪を重ねたものにはみな相応の風格がある。
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わがこと・自分事

2025年03月11日 | 今日も生かされて
14年前の3月11日の夜。
私はインターネットを通じて知った〈FMいわき〉を頼って、福島県いわき市に住む伯父夫婦の安否情報を求めたのだった。
「伯父さん、無事だったら連絡を」という趣旨だったが、電話も通じないかもしれない状況下で、高齢の二人におかしな呼びかけではあった。
他にはだれも私の名前を知る人などなく、聞き伝えてくれる人は存在しないはずだった。けれどそこに奇跡が起きた。
伯父の名前を聞きとめた小名浜の女性がいた。

今日は(今日も)佐伯一麦氏の『月をみあげて』を開いていた。
2010年10月から河北新聞に身辺雑記の連載を始めて5か月目。22回の「柊鰯」が夕刊で読者の目に触れるはずだった3月11日に東日本大震災が起こった。
「当日の夕刊を目にした人はわずかだったのではないだろうか。」
あとがきに記されているのだ。


震災から5日間、停電していた中で見た月は本当にきれいだった。震災の日は、旧暦では2月7日にあたっており、日中は雪が舞っていたが、深夜になって空が晴れ渡り、満天の星が輝き、七夜の月も出た。それから満月になっていくまでをずっと見て暮らしていたときには、「月を友とする」という言葉が実感された。同様の言葉は周囲の人からもずいぶんと聞いた。

4月15日掲載の「国見峠の月」では、
80歳の母を横浜の兄のもとに預けに向かう途中、「高速バスが休憩に立ち寄った県境の国見峠のサービスエリアから、母とともに満月を眺めたことが忘れられない」と結んである。
地上は地獄の様相を呈している…。

あの日は、息子が「そちらは大丈夫?」とメールをしてきてくれた。
本人は渋谷で写真撮影に立ち会っていたが、会社にも戻れず、結局当時目黒にあった自宅まで日をまたいで歩いて帰ったことも忘れてはいない。
連絡を取りながら、それでも時おり電波がつながらない状況にもなった。


毎年同じように記憶を反芻し、テレビ画面で津波の映像を目にしたりする。
「わがこと」「自分事」という言葉を、今日は何度か見聞した。

「時空を超えた他者と自分を重ね合わせることで」、他者に起きた出来事を理解できることもある。
自分が生きていることと、他人が生きていることとは、けっして別個なものではない。他人の痛みや哀しみに思いを巡らせたり、心を寄せたり、感情移入をしながら血の通った人間の情で切れることなく結び合っていることを証していると思う。

「自分事の危機として捉えられているだろうか」
これが問題だ。
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ひとりのつぶやき

2025年03月09日 | 今日も生かされて
なんとはなしに周囲を明るく染める気配だったのが、色味を濃くしてきたのを見知れるようになってきた、よそさんの梅。
どんな具合だろうと、この時期は何度か足を向けている。




7日投稿文の最後の一文を削除した。
タイトルにしようとしていた言葉だったから、「置き土産ですね」などと書いて、満タンに満たさなくてもよかったのに念を押してしまった。 
生前河野裕子さんが指摘されていた、短歌の「結句病」が思い出されたことがある。
ただまあ私は、「読んだらわかるでしょ」とばかりに投げ出していて言葉が足りないことを、かつてずいぶん指摘されてきた。べつに強迫観念があったわけではないが、無駄なおしゃべりをしたようだ。

竹中郁さんの『こどもの言いぶん』の前書きにある一節だと、ブログを通じて教えていただいたことがあった。

「書くという作業は、他人に伝えるのが半分以上の目的ではある。
しかし、子供の場合は必ずしも、そうとばかりは限らない。
ひとりのつぶやきのようなものを書くことが、刺激になって、心が応じて成長するのだ。
身体は食べることで成長する。食べて身体を動かすことで成長する。
精神の方は感じて考えて、しかもその上書いて、成長する」


大人の寺子屋エッセーサロンとは別に、小中生対象の作文教室のような場があってもいいなあ…という思いが頭の中をすり抜けた昨日。
人にはものに感じる心がある。その心を、互いの言葉で知り合う。
書くことで自分の内面に向き合うおしゃべりをしてみようではないの。賛同してくれる子たちはいるものかしら。

もやっとした朧な思い…、大きく膨らまないかな???

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置き土産

2025年03月07日 | 今日も生かされて

道すがら、ご近所さん宅の塀越しに2階にも達しようかという白梅を見あげて立ち止まった、
梅は枝ぶりの良さも賞賛されるのではなかったかな。


馥郁とした香りを幾度も吸い込んで、右にまわり左にまわりと眺めた。
古木には古木の佇まいがあるのだからと、我が家の老木の様子見は続く。



昨日、知人がやってきた。おっとりとした話し方をする女性だけど、とてつもない教養を宿している。
私は彼女の問いかけに、高校生だった息子が夏休みに読んでいた『シンドラーのリスト』を借りて読んだことがあるくらいだと答えたが、
「過酷な環境にあっても他人のために他人と一緒に生きることができる強さってどこからくるのかしらね。生きることそのものに思える」てな感じの言葉を残して帰られた。
その言葉を反芻しながら思った。へえ~!と気持ちが動いたら、あれこれ考えまい。この波動に乗ってしまえと。

彼女が話題にしたのは、『あの図書館の彼女たち』(ジャネット・スケスリン・チャール著 高山祥子訳)だった。
1939年、20歳の主人公オディールはパリのアメリカ図書館(ALF 1920年の設立で現在も実在する)に就職する。
パリで初めて書架を公衆に開放した図書館だそうで、登録者の出身国は30ヵ国に渡っていたという。
熱心な利用者からサービスを提供する側に立場を移して働き始めたのは、第2次世界大戦が始まろうとする時代で、やがてパリはナチスに占領される。
そうした中で、望む人すべてに本を届けようとオディールは仲間とともに奔走する…、らしい。それについてはまだ今38ページだから。


物語は、館長との面接後いっきに1983年へと移り、アメリカにいるオディールが描かれる。
この間の経過は今わからないままだが、隣家に住む12歳の少女リリーがオディールに関心を持ちはじめていた。リリーは訪問し、家に招いた。
オディールは問われるままに、パリがどんな街だったかを聞かせ始めた。

どんな人生を歩んでいるのだろうか。不穏な時代が人々の運命を翻弄したことは容易に予想できる。オディールは何を語るだろう。
当分の間、オディールの人生を追いかけそうだ。
それを見越すかのように一粒の種をまいてくださった。
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礼儀正しく、と

2025年03月05日 | 訃報.追悼.文学忌
曽野綾子さんの訃報を目にした。 93歳。
有吉佐和子さん、瀬戸内寂聴さんとともに「才女時代」の到来と注目された、とある。
一冊の小説も読んでこなかったが、『人生の収穫』『人生の旅路』をずいぶんと昔に読んだことがあった。

2冊の著書の中から、それぞれこの一節を書き写していた。

「自分の内心がどのようであろうと、平静と礼儀を失わないように取り繕え! 心からでなくとも、理性だけでもいいから愛を実行せよ、とキリスト教は教える。心と行動は違っても仕方がない。せめて心と行動とは裏腹でいいから、相手に優しくせよ、と教えているのだ」

「宗教の違いを超えることは、人間的な礼儀である。相手の信仰を何かのために使うことではない。相手の考えや信仰の対象に対して尊敬を払い、その人の心の安らぎを乱そうとは思わないから、私たちはできるのである。」
「根本のところでは立場の違いはある。…かなりものの考え方が違う。違いはあくまで礼儀正しく認め合えばいいのだ。」


さまざまな考えを持つ人の中で生きている。身近な小集団ほど人間関係は狭い。
そんなとき私のように感情が顔に出やすかったり、あまりに主観的な立場や考えを示していると、どことなく不平不満の裏返しに受け取られかねないし、不快感を与えるかもしれない。

嫁いだころ、義母はよく「出しゃばったらあかん」「後ろで見ていたらいんや」と小言めいたひと言をくれたものだった。右から左だった人間でも少しずつ、「わたしは」「わたしは…考えます」とは控えることを身につけていった。
むろん、どのような場でも言うべき時は発言している。思ったこと、感じたこと含めて。

心の内には思っていてもそのように行動、実践できないこと(とき)はある。
だから曽野さんからいただいた言葉は、言うならタカラモノ。

ただ曽野さんはこうも言われていた。
「どこかに欠陥がある体に耐えることは、凡庸な自己修行法だと思える」って。
体を「性格」とも置き換えて、心に刻んでいる。

大切なことは、心にしまうだけでなく、考えていることを自分の生活の上に証していくことなのだと思っている。
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縁に咲く華もある

2025年03月04日 | こんな本も読んでみた
昨年の大河ドラマは(ああ、ドラマだなあ)と思いつつ、途中パスする回もでてきたが、今年の「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺 」は、はるかに興味を持って観ている。江戸の出版文化が作られていく過程が、蔦屋重三郎を通してどう描かれるかに関心がある。


山東京伝のもとに書塾を営む沢田東里が訪れ、越後の鈴木儀三治(俳号・牧之ぼくし)が書き集めた北國の奇談の草稿に目を通してもらえないかと相談をもちかけた。

その絵の巧みさに目を奪われた京伝。
聞けば儀三治は19歳のとき行商で江戸に出た折、沢田東里の父のもとで書の手ほどきを受け、越後にあっては狩野派の門人に絵を学び、俳諧も村人たちと楽しむ男だった。
耕書堂を営む蔦屋重三郎と京伝とは17年にも及ぶ付き合いがあったが、この5月に死んでしまった。どの板元に…。
「承知の助だ。まずは預かってみる」と京伝だったが、さてここからが長い。

京伝、馬琴、玉山、芙蓉、様々な戯作者の手に渡りながらも頓挫が続く。『北越雪譜』刊行まで40年のときを要した。
実に多くの板元や戯作者(その作品名もだが)が登場し、交錯する人間関係、思惑が展開するが、何を機に、どうあって実を結ぶに至るのかと興味を引っぱられる形で読み終えた。

松岡正剛氏によると、鈴木牧之が交流した人士は、交わした往復書簡を貼りつけて綴じた『筆かがみ』というものに丁寧に残しているため、大体がわかるのだという。
また氏は「原画は牧之が描いたが、仕上げは京伝の息子の京山の手が入った」と書いているが、作品中では京山は弟であった。京伝に実子はいなかった。史実の脚色はさほど簡単ではないというが、どうなのだろうか。
それにしても越後と江戸の遠さよ。



夫・吉村昭の死から3年あまり
〈生き残った者のかなしみを描く小説集〉、5作が収められた『遍路みち』(津村節子)。
「私の身辺のことを綴ったものばかりを選び、ほとんど事実に近い」とあとがきにあった。


「楽しいことも 嬉しいことも あったはずなのに…、
 悔いのみ抱いて 生きてゆく遍路みち」

夫の死にまつわる騒動のいきさつなど語られ、自らの軽率を省みている。
十分な介護ができなかった悔い。
作家夫婦の暮らしぶりも垣間見え、情愛など染み入るが、どうあっても苦はなくならないという生きることの事実を深く強く思い知らされ、胸を突いてくる作品だった。一気に読んだ。
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思い出の器

2025年03月03日 | 今日も生かされて
 「折に触れての幸せはおもいだすことばのあること」

と西野文代さんの著書にあった。

娘家族が5年間ほど大阪に住まいを移していたとき。
長女の孫娘が小学校卒業を控えて、家族でやって来た。雛膳づくりに一緒に包丁を持っていたとき、突然、娘の悲鳴にも似た声が上がった。
「あぁ―、ルーカスあぶない! こわれるよ!」
1歳3ヵ月になる第3子が仕丁の人形を払いのけ、赤い毛氈が敷かれた壇上に上がろうとしたのだ。

「あー、あー」としきりに指を指す。
女雛を見ていたのかしら。きれいだよね。
橘の花の黄色い花芯が落ちていた。

ひなあられのつまみ食いはよくあることでも、この雛段に上るという発想はなかったので、
夫と二人の眠りかけたような平素とうって変わった、こらえても笑いがこぼれるひとときを過ごさせてもらっていた。


何かに触れて、普段は眠っている思い出が器のなかから顔をだす。
「人間とは思い出の器」とは福島泰樹さんの言葉だが、古いものの上に新しいものが積み重なっても、けっして器が満杯になることはない。
意識的に忘れ去ったり、こぼし棄てたり、あたためつづけたり、出したりしまったり様々あれど、人は記憶で出来ていると納得する。

折に触れて思いだすことがある、できることは、幸せなのだ。

「あー、あー」とおしゃべりしていた子も3年生になってひと月余りがすぎた。
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