この門は日本最大だと言われる知恩院の木造の「三門」です。圧倒される重量感でのしかかってきて、見事というより、ここを通るたびに威圧される思いがします。「山門」ではなく「三門」ですが、「三」というのは、空・無相・無作の三つの解脱の境地を表すものだそうで三解脱門を意味しているのだとのこと。普通は禅寺の仏殿前にある門を三門と呼ぶようです。だがここは、浄土宗大本山。華頂山の麓にあって、広大な寺域に堂宇は100以上もあると。堂々たる伽藍です。
これまでは、法然ゆかりの念仏寺で、親鸞との出会いの地、そして蓮如生誕の地がすぐそば、といったことに個人的な関心はあったのですが、知恩院が徳川家康の手で整備され、徳川将軍家の菩提寺として栄えてきたという歴史を再認識することにもなりました。
【この三門の上から旗を振って、それを二条城のやぐらから見て京都御所を看視した】【知恩院には抜け穴があって二条城に通じている】
などという話が伝わっているとのこと。五木寛之氏は梅原猛さんがこう書かれていると紹介されています(『百寺巡礼』)。
先日は、大田垣連月尼(1791-1875)が晩年を過ごした西賀茂の神光院を訪ねてみましたが、再婚(28、9歳頃)した夫との死別後、33歳で剃髪し、子供と養父とで移り住んだという知恩院の真葛庵をも訪ねてみました。土曜日(14日)のことです。ここでの暮らしでも2年目、4年目と子供との別れに襲われ、42歳のとき養父も亡くなります。
女坂の石段を息を切らして上り詰めた右手、奥にある庵です。
木立に囲まれて奥にひっそりと建っています。立ち止まって見ていくような人もなそうです。囲いがある前から京都市街を遠望。日日、眺めたであろう西山に沈む夕日。彼女の身上を思うと胸が詰まるようでもあり…。170年に近い時代を遡って、ここに暮らす尼の気配に思いを巡らせてみたくなるものの、さまざまな言語が飛び交い、石段を上がってくる人が絶えることない山内でした。
「このちかきところにをらばやとおもへど 山の上にて 人の住むところにあらねばなくなくかぐら岡ざきにうつりぬ」
共に出家して、ここで職を得ていた養父亡きあとは住み続けることかなわず、蓮月尼は知恩院を出ます。神楽岡、吉田山近くは真如堂や金戒光明寺もあって、岡崎には6年を過ごしたらしい。
1853年には浦賀沖に黒船来航。幕末から維新、明治の代へと京の街も大きく揺れ動く中で、どのような人生をたどったのか、もっと知りたいと思うところですが、蓮月尼自身は歌も書も残そうとはしなかったとか。ふっと、セミの抜け殻のように自分も乾いて砕けて消えていきたいといった意味のことを口にした知人を思い出したりして…。