東大寺二月堂で修二会が始まった三月一日、午後から奈良を訪れた。
踏み切りを渡ると目線の先に、周囲を森に囲まれて山門が目に入ってきた。屋根の流線が美しい、写真でだけ見ていた本堂が脳裏に浮かぶ。ドキドキしだしたのは、これから確かめたいことがあったからだ。
縁に腰をかけ友人とほほ笑む懐かしい一枚の写真が手元にある。かれこれ四十年近くにもなろうとしているが、学生時代の“源氏万葉旅行”でのものだ。厚手のオーバーを着込み寄り添うのは美智子妃殿下似の美しい友。
残された写真を撮った日は、夕刻から春日大社若宮のおん祭りでの演目を夜遅くまで見ていた。篝火が焚かれて12月半ば、厳しい足元からの冷え込みがつらくて早く宿に帰りたいばかりだった。泣きそうな思いで時間がたつのを待っていたのをしっかり記憶している。
宿は奈良公園に近い日吉館だった。今はすでに跡形もないが、多くの文化人が愛したという宿だった。狭い部屋で雑魚寝状態。そんなところにも部屋があったのか?というところから朝には人が現れて、若い時とはいえ慣れぬことで神経質な私にはあまりよい心地ではなかった。
昼間歩いたどこかの寺での一枚、ここ不退寺の境内であったことにようやく得心がいった日となった。
門をくぐり入ると、「ピンポーン」が鳴った。拝観料を納めるべく案内された。花の季節にも間があって訪れる者は少ない時季だ。本堂に上がりかけると今度は老僧が出てこられて正面に導かれた。立ちっぱなしでは、と座りかけるや機関銃のような解説が繰り出された。人の動きや気持ちなど量ろうともしない。
私自身は少しの記憶も残っていなかったが、椅子でふんぞり返る老僧に「実は一度こちらへ…」とお話させてもらうと、「40年も前やったらここらはみな田んぼで…」とお顔も柔らかに口はいっそう滑らかに愛相が増す。観光への振興策もおぼつかない様子で、このごろはさっぱりだと嘆かれる。
在原業平によって建立された由緒あるこの寺は、「法輪を転じて退かず」と発願、「不退転法輪寺」と号し略して不退寺(業平寺)と呼ばれている。長いこと秘仏であった業平自作の本尊は、光背や像に色彩を宿したまま静かに長い歴史の中で佇んでおられる。
「奈良は仏 京は庭」!と老僧だった。
法華寺の美しく整えた門跡尼寺の“品格”もさることながら、ひっそりと柔らかな風情の不退寺や、海竜王子に見た崩れた土塀に感じる年月の持つ温かみをむしろ好ましくさえ思う。京都とは異なる古都・奈良の魅力、もっともっと知りたい別格の地なのだ。栄華を極めた平城京の中心地、平城宮跡。復元された第一次大極殿脇を歩き過ぎながら、はるか向こうに朱雀門を眺めていた。ああ~、ロマン~。