京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

世間並の「春」にしよう…

2009年02月28日 | 日々の暮らしの中で
“朝は真夜中に始まる。まだ夜の帳が上がりきらないうち、朝の仕事は始まっている。日々繰り返されるお勤めをいつものように勤めているうちに、木々のざわめき、小鳥の声、やがて木漏れ日の輝きが届く。”

目覚まし時計のアラームを消して何分が経過するのか、朦朧とした頭で朝であることを認識することから始まり、あ~、起きなくちゃなあとやっとこさ起き上がる人間の朝に比べると、なんと満ち足りた穏やかな朝だろう。まだ暗い闇のあとに静かに迎える朝。
過去へのこだわりよりも、まさに未来への希望を抱くにふさわしい朝。私の朝ではない。

日々遠望する比叡山の春は遅い。
風害や厳しい寒気を避け、琵琶湖側の稜線にあるという僧坊の暮らし。
いくつもの風の道によって霊気は山の隅々にまで運ばれる。そうした峰々を歩き回っている酒井阿闍梨さんによると、人間であることを忘れ、自然と一体になって心には何も思い浮かばないのだという。

早くに母親を亡くしたが、祖父をよく手伝い、早朝の鐘をついていた中学生がいた。日本最古の木造の○○○○がある古寺を継いだ彼は、今お山で修行中。
眺める先にはあの静かで優しい笑顔のままに彼の顔さえ浮かんでくる。二十七・八歳になるところ。どんな道を見つけ何を学ぶだろう……。

連日比叡山から六角堂へと通い夜明け前には横川に戻る親鸞もいた。お山をおり、いよいよ「浮浪の徒の一人となった」『親鸞』の連載も興味深い。

多くの人が卒業などという形で一区切りし、新たな出発をも同月に迎える春3月。
私も心の杖をもっともっと太くしながら、新たな試みを自らに課そうと……オモッテイルノダ。私にとってこの道には何があるだろうか。

世間並に春のスタートを味わっていこうかな。楽しみながら。

   (写真は六角堂)


コメント (13)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生きること・死ぬこと…春のなかで

2009年02月27日 | 日々の暮らしの中で
風はまだ冷たい。日が陰ると寒々しくもあるが、どことなく霞んだ春の空の下、今日の日差しはお弁当持ってお散歩にうってつけのお日和。

ここのところの雨で水かさが増した賀茂川。
「川を渡ろう」と、一目散にお目当ての現場に駆け寄っていった3歳児だったが……。
向こう岸まで続く飛び石はそれなりの水力で洗われていて、無理なのが見てとれる。
「あしたまた行こかー」「そうだねー、明日また来ようか―」「あしたにしよーっ」
「♪あしたという字は明るい日と書く」のに、
いつも「あしたね」とかわされる彼女にとって、「あした」は来ない。

蝉の抜け殻を見つけた。ひと冬しがみつき通した殻を手に取って差し出すと、すさまじい悲鳴が二つ!葉っぱに乗せても持つ事が出来ないのは意外だったが、それが風で飛ばされるや、またも母娘の悲鳴の二重唱。あきれる~!

この抜け殻の背後に隠された“蝉さん”の人生ならぬ一生の崇高さ。
言葉にしなくてもすべてわかりあえるなんて嘘だ。ましてや伝わり切らないことも知るべきだ。ひと夏で燃え尽きる激しく強い輝きを目の当たりにすればこそ、蝉さんの命に何かしら共感できるのだろう。

古来、日本人は美しい自然の推移の中で死と再生を見て過ごしてきた。そして「無常観」といった観念とともに「死」を受け入れてきた……。

昨今、ともすると「生きる力」とか「共生」などをスローガンに掲げられて、死を受け入れる力などそう簡単に備わるものでもあるまい?
果たしてどこまで相手の時間や人生を全面的に受け入れた優しさ、柔らかな心でもって他者に寄り添えるだろうか。

こうした、生きることや死ぬこと・他者に寄り添うことへの共感、不安・問いかけは思想や信仰の枠を超えて誰にとっても平等にあるものだと理解すればよいのだろうか。
『おくりびと』絶賛の声がそれか。それとも、春だからそうした心が一斉に芽吹いたのだろうか。

映画を見ていない私には、『おくりびと』について語る資格はない。
この映画が評価されたという事実とみながみな語る「素晴らしい」という言葉を理解するのとは別問題として存在している。
コメント (8)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わざわざみらい館へ

2009年02月25日 | 日々の暮らしの中で
京都市子育て支援総合センター・こどもみらい館。
親同士、さらには館長さんを交えて気軽に語り合えるサロンを提供したり、紙芝居や読み聞かせなどの催しもある。プレイランドには親子連れがあふれている。

昨夜来の雨も昼近くになって上がり“二人づれ”はさっそく出かけて行った。
ちょっとその場の空気に触れる程度でしかないのだろうが、ウキウキと出かけていく。どうしても大人の世界にいることが多い3歳児の環境は気になるところ。

ほとんどがお年寄りではあったが、日ごろから人の出入りが多い我が家だった。
やがて娘息子それぞれの仲間ができ、多くの子供達が放課後の時間帯を過ごしていった。部屋で、あるいはTVの前で、本堂で、境内でと遊び場には事欠かない。年長の子も就学前の子も一緒になって…。

「昔」はこうした場があちらこちらにあったのではないだろうか。我が家に集まる子どもたちを、さらに近所のおばちゃんたちが見ていてくれた。
行き先がない年上の子が幼い子たちと遊んでいるとしても、何の違和感なく受け入れていた。地域でも子供は育つのだ。地域でこそ守ってやらねばならないこともあったのだ。
刃物をちらつかせだした一人のお兄ちゃん、淋しさは乗り越えた。
彼が中学生となって野球に熱中しだし、人が変わった。

長くなる日本での生活に、子供を求めてみらい館へ?……、仕方ないとしても複雑だ。
子供は子供同士、その環境を作ってやれないことがかわいそうかな。

合流し北野天満宮へむかう。
毎月25日の「天神さん」。今ちょうど梅花祭が催されている。5分から7分咲き。毎月2回は大勢の人であふれる場所。満員のバスだが、収益はあまりないのだそうだ。「敬老パス」のご利用者が多いからだとか。

どこか重たげな空気が漂う中、香りも今ひとつだが、きれいだったな…

コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「最初はグー」

2009年02月24日 | JESSICAの日本滞在記
「勝たんと打つべからず、負けじと打つべきなり」
こんな一節が、双六遊びの名人のことばとして『徒然草』にある。“一目でも遅く負けになる手でいきなさい”と。

もう手がないとわかるや、ぐちゃぐちゃっ!と証拠隠滅にかかり勝負を御破算にしてしまう。家族でゲームやトランプなど楽しんでいた子供の頃の記憶にある。
どうでもいいことはどうでもいい反面、案外こだわった勝ち負け。勝ちたがりの性癖か。

クラス対抗のリレー競走。欠席者による穴は進んで埋めに加わる。2人分・200メートル走るなど朝飯前。もう半周ぐらい…の余裕を残して。抜くことの快感ね……。相手は中学生だというのに。放課後のレクレーションだというのに、一生懸命になって勝ちに行くことで盛り上がり……楽しんだなあ。まだ23・4歳の時だったから、負けやしなかった。
ちょっぴりの“わる”など、ニコッと笑ってコロッとさせて、単~純、みんなついてきた。

「最初はグー、じゃんけんポン!」「つぎはJessieグーだすからね」???
途中で集中切れ、わけもわからずグッチーパーを繰り出す“赤ご”を相手に本気になって、勝っちゃえ!真っ赤ないちごが姿を消してゆく。
「あーん!マミィ―!!!」悲鳴が上がる。「Jessieのいちごない―っ!!」
どこで覚えたか(見当はつくが)、「とろいおばさん」を連呼するこしゃくな3歳児だ。情けなど無用。

「物に争わず、己をまげて人に随い、わが身を後にして人を先に」するべきだそうな。
あの若く美しき在りし日は消え、“とろい”どころかあさましい婆さまになり下がってしまった。
この報い、Jessieは何を要求してくるだろう。三つ子の魂、ああ怖い。

コメント (11)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母の思いを宿し

2009年02月22日 | 日々の暮らしの中で
ふすま・障子を開け放し廊下の向こう、境内側からの光を目いっぱい取り入れた昼間の華やかさとは趣を異にして、静寂さに包まれた深夜、ぼんぼりの明かりに浮かびあがる雛の顔顔顔。決して闇夜の異様さなどはない。

じっと向き合う。
切れ長の目、やさしく上品な微笑みをたたえ、白くふっくらとした顔がまことに美しい。
私の日常すべてを見つめている。なにもかも、静かに、ただただ黙ってみている「目」。私に語りかけてくるようなまなざしに、母親の顔が浮かぶ。

苦労させたくない……、そんなごく当たり前の母親としての奥底の気持ちも知っていた。
孫の初節句を共に祝い、何度か一緒に過ごした桃の節句。
「keiちゃん」「元気にやってるね」、そんな明るい声が今年も聞こえてくるのだ。
元気だよ……
話したいことはいっぱいあるよ~
今年はJessieがここにいるよ~

いつか娘がこの段飾りを飾る日があるとすれば、私と同様、母親の娘の幸せを願う思いが雛の表情に宿るのを感じてくれることだろう。

赤・緑・白の三色の菱餅は、桃の花・花の芽・残雪の春景色を表しているとか。
赤は魔除け、緑は健康、白は清浄。「縁起を尽くし幸せを招く」桃の節句。
テーマカラーは赤緑白。待ち遠しい春の訪れだ。

コメント (6)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「小人」以下、となると

2009年02月21日 | 日々の暮らしの中で
『論語』(顔淵篇)
季康殿が政治について孔子に質問した。
「もし(見せしめのためも含めて)無道な連中は皆殺しに(するなど、きれいに始末)してしまって、世の中の正しい規律を完成するというのは、どうだろうか。」

孔子がお答え申し上げた。
「……
【君子の徳は風なり。小人の徳は草なり。草之に風を上(くわ)うれば、必ず偃(ふ)す、と。】
為政者の品位(身分)は風のようなもの、民衆の品位(身分)は風のようなものです。草に風が吹きますれば、草は必ず(なびいて)仆(たお)れます」と。

この一節を引きながらの、加地伸行氏の文章を目にした。

論語には「君子」と「小人」の違いが何度も出てくるのだが……。
普通、君子―立派な人・大人物、小人―つまらない人・とるに足らない人などと解釈する。

この場合は君子―為政者、小人―民。
そうした中で「君子―教養人、小人―知識人」とした筆者の解釈が述べられている。

『教養人とは、知識人であって、さらにその上に道徳なども身につけた人格的に優れている人のこと。
知識人とは、ただ知識だけがあるだけで、判断する力、構想する力、徳性、人間的魅力……要するに人間性・人格性が必ずしも伴っていない人です。』とある。

これをもっていうなら、
政治を行う立場の者が、その品格をもって政治を行えば、民衆はその品格の力から良い影響を受けて、おのずと行動の面も感化されるってこと……になるのでしょう。

「教養人であれ。知識人に終わるなかれ」、これも孔子のことばだった……。

いつぞやブログ上で、どなたかに「品格」について問われ、また先日はどなたかに「知識人」について問われた……。
偶然触れた加地氏の小文だが、ブログを通しても様々な考え方・人間性に接することができる恩恵を強く感じることとなった。

知識さえ危うい人間は「小人」にも入らないとなると…… なんや~~?

ps:…闇夜の妖怪???


コメント (15)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新たな時間の流れに寄り添いながら

2009年02月19日 | 日々の暮らしの中で
『時計から解放される自由を、時には味わうべきではないか。時計に縛られては、悠々たる暮らしは消える』……とか。

日本に来て2カ月2日。
進みゆく時間の中で、大きくなった。第一に背が伸びた。独り言も日本語になっているという。この世に生まれ出でて3年余。彼女一人のために家族としての時間の流れが新たに作られ、そこに寄り添いながら暮らしている。

時により日により遅かったり早かったりの「24時間」だが、午後から、就寝・夕飯時間を見据えての煮詰まった濃さと言ったらない。娘との協力で乗り越えているが、少々疲れも感じるところ。今朝も「おはよーござぃますー」と言いながらぼっとした顔で起きてきた。
う~~ん、解放されるのも先送り、このかわいい顔に、悠々とはしていないが今日の“一日”を受け入れる。

午後からの消えた2時間分は深夜に延長して、私の帳尻合わせは続く。

障害のある方への援助の必要性、音声化が進む中、点字の生き残りへの道、地域の現状など、遠く離れた地でありながら話し合ったりさせていただける方がいる。彼の奥さまが亡くなられた知らせを受けた。一週間が経ったという。まだお若いはずだ……。
時間は停止し、一方では容赦なく過ぎる。時間の存在など意識し得ない連続だろうか。

みんなが同じ時間を生きているわけではない。
それぞれの速さや密度をもって流れているのを思ったりしている。

雪に囲まれて、梅の花にもまだ早いことだろう。
寂しい春の光景となるのであろうか。

  (写真はおべんきょうー中、外は寒いから…)

コメント (11)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ほんの薄明かりの希望

2009年02月17日 | 日々の暮らしの中で
春めく数日間も、“Re”、再びの冬、寒戻る、身を固くする一日になった。

庫裏は南北に奥行きを持ち、東側は軒が張り出しているので、日射しが奥まで入らない部屋がある。障子越しに、何となく感じる程度の明るさにある予感を、期待を持って確かめた。たったこれだけの雪化粧、しかし屋内はかすかだが白むのだ。

『……位高く、やん事なきをしも、すぐれたる人とやいふべき。
……偏に高き官・位を望むも、次に愚かなり。……』

状況が見えているのかいないのか、何か良くわからぬ自信満々さ、傲慢さ、見下したような姿勢。おそまつな辞任劇があった。
こうした世界に身を置く方々には、失敗とかつまずき、挫折のような経験などは無いのだろうか。人間として多くの経験を積み、ひとの痛みを感じ、慈しみの心などを秘めて生きてきておられるのだろうか。

国民への真摯なまなざし、やり抜こうとする力などをどこに見い出したらよいのだろう。輝くものがない。つまりは、希望がないのよ!
わが家の、「うす明かり」ほどのものでも、楽しく生きるために「今」を「将来」を感じたいものだ。

「グラッツェ・グラッツェ~~♪あそぼお~」
3歳児の横に母親、二人並んで、“しんちゃん”のテーマソングにリズムを取って興じるこの姿の方が、よほど希望を感じる。
ただし、じっくりじっくり希望し続ける、長~い時間をかけて得るだろう実りへの希望ではあるけれど。


コメント (8)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エコは「Re」、世はエコ

2009年02月16日 | 日々の暮らしの中で
世はエコ。
量から質へのライフスタイルは進行している。必要で厳選されたものが残っていくのだろう。

ごみ減量意識の浸透や経費削減もあるのか、市では23年ぶりとかで、過大包装の規制に着手。点字用紙も凸凹を少しならして、一筆箋やはがき・ぽち袋などに加工。温かみがあってよいと好評らしく、一か月当たり約5000枚の用紙を製品化しているという。
この2月から、繰り返し使えるビール・一升瓶に限っての回収方法が見直された。
衣類・電化製品・家具類なども新しい使用者を待ち、店からあふれ道路際まで並ぶ時期も近い。

「3R」。リデュース(減らす)・リユース(再び使う)・リサイクル(再資源化)は知られている。エコの最大の認識は、「Re」=「再び」、「~し直す」の概念だろうか。
リフォーム・リセット・リノベーション・レクリエーション……

エコを考慮しない商品やサービスは成立しえなくなる。となると、「エコ」もまた競争か。
豊かさや便利さを求め経済大国に自信を持ち、失われた物さえ気づかずに来て、かといって後戻りが不可能な時に、やはり目線は変わりゆくこれからの社会をどう構築していくかにあるのだろう。
梅が咲いたと感動し、文化や芸術を享受し、家族、近隣、仲間のつながりを実感し、働きたい意欲が満たされ、なんら特別ではない日常を濃く実感しながら豊かに暮らす……。

地球環境・温暖化対策も待ったなしの今、二酸化炭素の排出量取引やカーボンオフセットの仕組みを駆使した、京滋の企業の試みにも関心が寄せられている。
カタカナ語であるだけでもわかりにくいが、まあ、ひとつ頭をひねってみることも個人の責任の持ち方かと思って紙面とにらめっこしている。

個人で何ができるか、何から始めようか。
蔵の「お宝の山」。いつからのものか、価値は? 婆さまのみぞ知る骨董品だが、むやみに処分もできず、また一代ここに眠るのだろうか。場所ふさぎだけで終わるのやもしれぬお宝だが。
「引き算の生活」への見直しに、第一歩を踏み出すことも必要みたいだ。

    (写真は、寒さに震える老木)
コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バレンタインデーにバラの花束が

2009年02月14日 | JESSICAの日本滞在記
              

GNP(国民総生産)ならぬGNH(国民総幸福量)。そのHは HAPPINESS:幸せを意味し、ブータンで掲げる、社会全体の幸せの指標だという。

地球環境問題に関する課題山積みの現代社会、モノと心のバランスが問い直されてくるのは必然のことと言える。
文化や環境を破壊する代償を払っての経済発展は今や不要というわけだ。
豊かさのかげで見え隠れする孤独な心、格差・不公平感。

ブータンはGDP(国内総生産)で見ると「最貧国」、しかし、国民の90%以上が「幸せ」と回答したという。「スロー・ダウン。自分も人も追い詰めることなく、ゆっくりと。少し立ち止まってみたら」。チベットの高僧の言葉に幸せのとらえ方を見る。

国が違うからいい。日本とは異なる文化を身につけているから楽しい。女性陣の名が連なるカードを添えて、今朝、“オーストラリアから”バラの花束が届いた。
Dearest N… /H… /K… /Jessica
Happy Valentine’s day
Love always Jay

商戦に乗せられて、苦痛だと言いつつ(思っても言わないで~~)義理チョコをばらまくのは、愚かなことだ。せめて小さな心を渡そう。
とは、きつ過ぎか、な……。
日本人とて多様性があるのだ。楽しむなら楽しめばいいのだ。楽しむことだ。

   いつ渡そバレンタインのチョコレート   田畑美穂女

     『上品なニュアンスに……
      そわそわした感じ……
      茶目っ気……』
いい、これはよしだ。 
バレンタインどころではない人もいる、……。  
               
妻子と離れて寂しいJayに思いを馳せ、豊かな心遣いと花の香りに感謝しよう。
“人生がラブストーリー”(これではMeijiの商業主義に乗ったかな)でありますように。
Thank you for flowers. しばし感嘆、のサプライズをありがとう。

コメント (6)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春浅き日…

2009年02月12日 | JESSICAの日本滞在記
ガラス窓越しの明るさに気付き、春浅き湿った空気の中、夜空を高く見上げた午前一時半。
夕刻からの雨もいつの間にか上がっていた。確か九日が満月だった?珍しく遅くまで起きていた娘に「もう寝よ~」と声をかけ横になる……。

春めく気配が漂い、お使いに、公園にと、徒歩での足取りも楽しげにさえ見える母娘のこの頃。
洗濯、掃除のかたわらで「書きモンするの」と物を広げまくる三歳児を「ちょっとどいて・どいて」とせかしているうちに、たちまちのお昼。
梅茶漬けで、姫と「カンパーイ」「いっただきまーす」「ごちそさまでした」。
急いでスーパー銭湯、ねねの湯へ。

見かけと体脂肪率とは関係なしと、サウナ風呂と水風呂を繰り返す母親をあきらめ顔で見遣る娘は、私をマッサージチェアへと誘う。彼女は私の上に乗っかって遊んでるだけなのだが。

たまに仁左衛門の湯に行くが、ここ、ねねの湯には、“自分向け”の小さな椅子や洗面器・おもちゃがあるのを認識しており、「ねねの湯行きたい」と言う。日替わり風呂の“色”に期待し、のどの渇きを潤す1本の飲み物、甘いアイスクリームをねだるタイミングも心得出した。スチームサウナ・サウナ・塩サウナ、誰が何を好むかを知る。
裸のお付き合い、声をかけられて、にっこり笑って返す言葉も出るようになる。
好みの場所で湯につかる。

何度か足を運んだ。三歳児にとって、さまざまな経験的な学習の場となっている。日本の銭湯も、多様な要素を温かく包みこんだ人育ての場、社交場と言えそうだ。
何事も知識が有用なものとなるには、具体的な経験に裏付けられねばならないものだ。

いつもなら春寒の風で、上着を重ねたい午後四時が、やけに暖かい。
お風呂につかっているにはもったいなかったかな……



コメント (6)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美(うま)し国

2009年02月11日 | 日々の暮らしの中で

大和には 群山(むらやま)あれど 
とりよろふ 天(あめ)の香具山
登り立ち 国見をすれば
国原(くにはら)は煙(けぶり)立ち立つ
海原(うなはら)は鴎(かまめ)立ち立つ
美(うま)し国そ 蜻蛉島(あきつしま)大和の国は

なぜか思い出した国見の歌。
2月11日「建国を記念する日」。
その趣旨は、【国を愛する心を養う、国民の祝日】となるようだ。
かつては家の玄関先に日の丸を掲げているのをよく見かけた。旗を翻して走る車もよく目にした。今や、すっかりその陰を潜めてしまっている。

国際的に見ても、国が制定した建国の記念日を、政府自らが祝わないというのは異例なことと言わざるをえない。
― 将来の国のデザインを考えていかなければならない
― 国の成り立ちに思いをはせる日にしたい  (産経NEWSより)

小さな奈良盆地の世界を眼下にし、…「美し国」。
日々、炊飯の煙が立ち上る「美し国」。
「日本」を投影してみる。活力みなぎる「美し国」とは到底讃えかねる現在の暮らしぶりには、今日は単なる休日であって、祝意どころではないだろう。

何をもって「建国」とするのか……もあるが。
二十歳をもって成人への仲間入りだと祝うが、“国を愛する心を養おうとする国民の祝日”にあっては、どこからもそうした声を聞けない。何か変だ…と感じるけれど。

いつかしきりに聞いた“美しい日本”の構想のことばは、なんだったかな…。

幼い子が「べんきょうーする」と言ってコンピューターを開き塗り絵にいそしんでいる。Shall we play game? How lovely! の声に励まされて。
まっ、テキトーにべんきょうーしてネ。
「日本は大好き」、そんな言葉を20年後に聞けるだろうか。

☆冒頭、舒明天皇の国見の歌、解釈には諸説ありますことご了解願います。
コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

DO YOU KYOTO?

2009年02月10日 | 日々の暮らしの中で
合言葉は「DO YOU KYOTO?」― 環境にいいことしていますか?

温室効果ガスへの「認識」は高まった。
車の利用は極力控え、歩こう、自転車を利用しよう。省エネの工夫をしよう。夏の打ち水、風の道を作ろう。冬は自ら1枚2枚多く着込めばいいか。

風呂の残り湯の活用。物を粗末にするな。お米は一粒たりとも残すな。もったいないお化けが出るゾ。 多くの声も耳にした。
が、“何かいいことをしているか”と問われてみると、さほど、思い当たらない。つまり、行動に結びついていない。

不便さが、豊かさを生み出してきた。
京都発のコンビニの営業時間短縮への提言も、業界の賛同が得られないと聞く。
今、行き過ぎを嘆いたとて昔に変えることが不可能ならば、よりよい形での移行を見据えた議論や模索が必要なのだろう。

人間は自然に合わせて生活を変え、自然も人間の影響を受け変わってきた。
持ちつ持たれつ?は、ちと思いあがり。自然をコントロールするなどとは思いあがりだろう。
豊かな自然環境を残しつつ、人間の生き方、ライフスタイルの見直しには待ったなしのようだ。共存の可能性を探ってきた、長い歴史が京都にはあるという。

「DO YOU KYOTO? デー」
京都議定書発効の2月16日にちなみ、毎月16日は“環境にいいことする日”とされている。
つい便利に車を使い、安易な方向に流れ、面倒だなと頭によぎることもある。
16日、ろうそくの明かりで夕食を楽しむのもいい。
電気をつけてみれば、ご飯粒だらけ・しみだらけってこともあり得そうだ。
でも3歳だから、それはそれで仕方ないことだな。

京都駅前のタワーも消灯される。節電デーとでもしようかしら。

コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

防犯か信仰か

2009年02月09日 | 日々の暮らしの中で
平安遷都の時、都の南の入り口である羅城門を守りかためるために道幅85mの朱雀大路をはさんで創建された東寺。約55mの五重塔は安らぎさえ感じる対象に近い。空海に与えられ、いつの世も保護を受け、信仰を集めてきている。毎月21日の「弘法さん」は賑わぐ縁日だ。不動明王立像が盗まれた。

「仁和寺にある法師…」(「徒然草」)でも親しんだ仁和寺では、御室八十八ヵ所霊場の本尊四十体余り、昨年には十一面観音菩薩像一体が盗まれていた。
昨年八件・今年もすでに三件起きている。

施錠や防犯カメラ・警備員配置などを呼びかける指導がなされている。すでに赤外線センサー、収蔵庫での保管という対策を取る寺もある。
防犯への対策を高めるようにと説かれるが……。

美術館のようにガラス越しで拝観するのも寂しい。そもそもは信仰の対象として存在するからだ。

“京都”という地に幾重にも積み重ねられた歴史の層に、時を越えてイメージをかき立てられ思いを馳せる。
山並み、月の満ち欠け、街に潜む季節の移り変わりに、千年前も今も、きっと変わらない人間の思いを想像したりする。歴史の興亡に消えて行った人々、王朝人の世は?と文学の世界にも傾倒してきた。

しなやかな美しい仏像に出会いたいと寺を訪れもするだろう。ああ、これがあの本で読んだ…と感慨にふけることも。イメージは膨らむ。ひなびた小さな寺で人心地つくこともある。人間らしい感情を揺すられる。

盗まれてしまっては何にもならない。
かといって“鍵”をかけてしまってよいものだろうか。“壁”を作ってしまうのか。
防犯強化はやむを得まいが、相対して拝みたいものだ。
心が育つ事こそ大切であろう。

『その往時のイメージを心に思い描きながら寺々を巡るのは、心躍る冒険の旅だと私は思う』(『百寺巡礼』五木寛之著)。私もそう思う。

防犯か信仰か……
コメント (5)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

未来形の社会…

2009年02月07日 | 日々の暮らしの中で
(①) 2か月以上、 裏返しても揃えても蹴飛ばされて飛び散っていた点字ブロック板だった。

1月29日(写真①)から二日後(写真②)。(②)
線状の向きが不揃いだが、キチンとその場所に収まってある。まだ補修されているわけではない。
どなたがされたのだろう。それからは散乱する状態は見られない。

土木事務所が関係機関であることを知る。
とともに、視覚障害者の拠点でもあるライトハウスにこの件を再度伝えた。
交通安全面に取り組む視協の関係者がいるから彼にこの件を伝え、土木事務所及び市側と連絡を取る形で対処したいとの言葉であった。

即刻の対応が認められた。浮いて散乱していたブロック板は、“まっ黄色”のものと変わる。(写真③)
(③)
道路側から見ると、つなぎ目が少し浮いているようにも見える。しっかり付けられたのだろうか。

未来形の社会、そこに暮らす人々が互いにサポートし合える社会。温かな手を、お互い、勇気を持って差し伸べさえすれば、少しづつでも変わっていくだろうに。

私はもっと早く形にすべきであったことを反省している。


コメント (10)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする