二〇〇六年三月二十五日、
埼玉県羽生市と群馬県館林を結ぶ昭和橋が新たに開通しました。
七年後にはさらに四車線になるそうです。
今後は利根川の土手の改修工事も始まりますから、その辺りの景色は一変するでしょう。
この昭和橋付近(川俣・新郷)にはいろいろな歴史が詰まっています。
まず羽生市から昭和橋を渡るところには「川俣関所址」があります。
これは利根川の土手に石碑が建っていますが、現在遺構はなく、
関所のあった場所は川の中とです。
忍藩が代々管理し、とても厳しい関所だったと伝えられています。
いまでも刑場だった田んぼの地中から、杭の破片が出てくるそうです。
ここは日光脇往還の道筋でもあります。
寛永五年(一六二八)に徳川家光の日光参拝におりに植えられたという「勘兵衛松」が、
いまでも道沿いに立っています。
新郷の宿場町には、「本陣」や「脇本陣」が存在していますし、
近くに鎮座する愛宕神社の塚は古墳で、
利根川土手の麓にある白山神社は加藤清正にまつわる伝説が残っています。
これは利根川が羽生市川俣で二つに分かれていた頃の奇談です。
いまから約四百年前、利根川はこの昭和橋付近から二俣に分水していました。
(「川俣」という地名もここからきています)。
利根川の河口は現在千葉県銚子ですが、往古は江戸湾(東京湾)に注ぎ、
その流れは八百八筋だったといいます。
利根川は川俣で東と南に分かれると、東を「浅間川」、南を「会の川」と言い、
本流は後者の「会の川」でした。
現在でも会の川は羽生市内を流れ、その流路沿いには自然堤防や、
内陸砂丘の「河畔砂丘」が発達しています。
いまでこそ小さな用水路のように見えますが、往古は暴れ川だったのでしょう。
天正十八年(一五九〇)、関東へ入府した徳川家康は、
洪水から江戸を守るために忍城主松平忠吉に会の川の締切を命じました。
松平忠吉は家康の四男で、筆頭家老の小笠原三郎左衛門吉次にその大役を任せます。
三郎左衛門は治水技術の優れた伊奈備前守忠次に協力を求めると、
会の川締切工事に着手します。
現在、羽生市内には当時の締切址付近の絵図があります。
それには利根川が東と南に分水し、その間に中洲があったことがわかります。
締切工事にはこの中洲が利用されたことでしょう。
しかし、利根川の流れは激しく、川を締め切るのは容易なことではありませんでした。
『新編武蔵風土記稿』(以下『風土記稿』)には「水勢はげしかりしに」とありますし、
さらには、行者が工事成功のために祈祷を捧げたと記されています。
このことからも、いかに難工事であったことが窺えるでしょう。
祈祷後に工事は成功し、小笠原三郎左衛門はその行者に褒美として、
屋敷を与えたと『風土記稿』にはあります。
これとは別にあるのが人柱伝説です。
すなわち、締切工事がうまくいかず、
小笠原三郎左衛門をはじめ村人たちが困り果てていたとき、
一人の行者が現れ、村人たちに向かってこう言いました。
「今年は午年ゆえ、午年生まれの者が人柱にならないといけない」
村人たちは顔を見合わせました。
人柱は川と密接した地域に古くから伝わる風習です。
洪水で切れた土手を修築するために、
親子が人柱になったという話が同市稲子にも残っています。
しかし、村人たちが相談する間もない一瞬のことでした。
行者は突然裸になると、数珠を片手に川に飛び込んだのです。
ザブリと水しぶき。行者はたちまち濁流に呑み込まれます。
村人たちは唖然と川を見つめるほかありませんでした。
行者はそれから一度も浮かび上がることなく、そのまま消えてしまいます。
村人たちは項垂れ、その場でいつまでも両手を合わせていました。
この行者の人柱により、工事は順調に進み、ついに完成。
それは文禄三年(一五九四)のことでした。
村人たちは人柱になった行者に感謝し、「〆切神社」を建立すると、
その霊を祀ったということです。
これが川俣に伝わる人柱伝説です。
〆切神社はすでになく、その名が刻まれた石碑があるだけです。
現在、羽生市から昭和橋を渡る直前の東方に、
川俣締切址碑と並んでその石碑が建っています。
以前は土手の麓にありましたが、昭和橋工事に伴い移動しました。
川俣締切址碑に次のような碑文が刻まれています。
「往古の利根川はこの地点で二つに分かれ、幹川は南に流れ(現在の会の川は、その遺跡である。)派川は東に流れていた。文禄三年(一五九四)三月、忍城主松平忠吉の家老小笠原三郎左衛門は徳川家康の命により、幹川を締め切った。これが世にいう利根川東遷の第一期工事である」
すなわち、会の川の締切工事は、江戸湾に注いでいた利根川を、
現在の銚子へと流路を変える最初の工事ということになります。
利根川の瀬替えは謎が多く、はっきりとしたことはよくわかっていません。
しかし本などでは、壮絶なドラマとして語られることが多いようです。
いわば、長い歳月をかけたそのドラマのスタートが、羽生市の川俣だったというわけです。
昭和橋の工事や土手の改修が続き、
数年前に比べて景観はすでに一変しています。
ここで利根川が二俣に流れていたことを偲ぶのはなかなか難しいです。
しかし、整備されたばかりの土手に立ち、南方を眺めれば、
利根川の悠々とした流れが聞こえてくるかもしれません。
「現」と「古」が折衷したような情緒漂う昭和橋と石碑の組み合わせは、
時代の変遷の岐路に立つ史跡スポットかもしれません。
埼玉県羽生市と群馬県館林を結ぶ昭和橋が新たに開通しました。
七年後にはさらに四車線になるそうです。
今後は利根川の土手の改修工事も始まりますから、その辺りの景色は一変するでしょう。
この昭和橋付近(川俣・新郷)にはいろいろな歴史が詰まっています。
まず羽生市から昭和橋を渡るところには「川俣関所址」があります。
これは利根川の土手に石碑が建っていますが、現在遺構はなく、
関所のあった場所は川の中とです。
忍藩が代々管理し、とても厳しい関所だったと伝えられています。
いまでも刑場だった田んぼの地中から、杭の破片が出てくるそうです。
ここは日光脇往還の道筋でもあります。
寛永五年(一六二八)に徳川家光の日光参拝におりに植えられたという「勘兵衛松」が、
いまでも道沿いに立っています。
新郷の宿場町には、「本陣」や「脇本陣」が存在していますし、
近くに鎮座する愛宕神社の塚は古墳で、
利根川土手の麓にある白山神社は加藤清正にまつわる伝説が残っています。
これは利根川が羽生市川俣で二つに分かれていた頃の奇談です。
いまから約四百年前、利根川はこの昭和橋付近から二俣に分水していました。
(「川俣」という地名もここからきています)。
利根川の河口は現在千葉県銚子ですが、往古は江戸湾(東京湾)に注ぎ、
その流れは八百八筋だったといいます。
利根川は川俣で東と南に分かれると、東を「浅間川」、南を「会の川」と言い、
本流は後者の「会の川」でした。
現在でも会の川は羽生市内を流れ、その流路沿いには自然堤防や、
内陸砂丘の「河畔砂丘」が発達しています。
いまでこそ小さな用水路のように見えますが、往古は暴れ川だったのでしょう。
天正十八年(一五九〇)、関東へ入府した徳川家康は、
洪水から江戸を守るために忍城主松平忠吉に会の川の締切を命じました。
松平忠吉は家康の四男で、筆頭家老の小笠原三郎左衛門吉次にその大役を任せます。
三郎左衛門は治水技術の優れた伊奈備前守忠次に協力を求めると、
会の川締切工事に着手します。
現在、羽生市内には当時の締切址付近の絵図があります。
それには利根川が東と南に分水し、その間に中洲があったことがわかります。
締切工事にはこの中洲が利用されたことでしょう。
しかし、利根川の流れは激しく、川を締め切るのは容易なことではありませんでした。
『新編武蔵風土記稿』(以下『風土記稿』)には「水勢はげしかりしに」とありますし、
さらには、行者が工事成功のために祈祷を捧げたと記されています。
このことからも、いかに難工事であったことが窺えるでしょう。
祈祷後に工事は成功し、小笠原三郎左衛門はその行者に褒美として、
屋敷を与えたと『風土記稿』にはあります。
これとは別にあるのが人柱伝説です。
すなわち、締切工事がうまくいかず、
小笠原三郎左衛門をはじめ村人たちが困り果てていたとき、
一人の行者が現れ、村人たちに向かってこう言いました。
「今年は午年ゆえ、午年生まれの者が人柱にならないといけない」
村人たちは顔を見合わせました。
人柱は川と密接した地域に古くから伝わる風習です。
洪水で切れた土手を修築するために、
親子が人柱になったという話が同市稲子にも残っています。
しかし、村人たちが相談する間もない一瞬のことでした。
行者は突然裸になると、数珠を片手に川に飛び込んだのです。
ザブリと水しぶき。行者はたちまち濁流に呑み込まれます。
村人たちは唖然と川を見つめるほかありませんでした。
行者はそれから一度も浮かび上がることなく、そのまま消えてしまいます。
村人たちは項垂れ、その場でいつまでも両手を合わせていました。
この行者の人柱により、工事は順調に進み、ついに完成。
それは文禄三年(一五九四)のことでした。
村人たちは人柱になった行者に感謝し、「〆切神社」を建立すると、
その霊を祀ったということです。
これが川俣に伝わる人柱伝説です。
〆切神社はすでになく、その名が刻まれた石碑があるだけです。
現在、羽生市から昭和橋を渡る直前の東方に、
川俣締切址碑と並んでその石碑が建っています。
以前は土手の麓にありましたが、昭和橋工事に伴い移動しました。
川俣締切址碑に次のような碑文が刻まれています。
「往古の利根川はこの地点で二つに分かれ、幹川は南に流れ(現在の会の川は、その遺跡である。)派川は東に流れていた。文禄三年(一五九四)三月、忍城主松平忠吉の家老小笠原三郎左衛門は徳川家康の命により、幹川を締め切った。これが世にいう利根川東遷の第一期工事である」
すなわち、会の川の締切工事は、江戸湾に注いでいた利根川を、
現在の銚子へと流路を変える最初の工事ということになります。
利根川の瀬替えは謎が多く、はっきりとしたことはよくわかっていません。
しかし本などでは、壮絶なドラマとして語られることが多いようです。
いわば、長い歳月をかけたそのドラマのスタートが、羽生市の川俣だったというわけです。
昭和橋の工事や土手の改修が続き、
数年前に比べて景観はすでに一変しています。
ここで利根川が二俣に流れていたことを偲ぶのはなかなか難しいです。
しかし、整備されたばかりの土手に立ち、南方を眺めれば、
利根川の悠々とした流れが聞こえてくるかもしれません。
「現」と「古」が折衷したような情緒漂う昭和橋と石碑の組み合わせは、
時代の変遷の岐路に立つ史跡スポットかもしれません。
大きな構造物ではない「ちょっとした石碑」にも深い歴史があるんですね。
私も館林を散策するとき、そのようなものに注意しながら歩いてます。
あとこちらのサイトご存知でしょうか。
http://www.geocities.jp/ryomobito/index.html
羽生から見ると隣の隣ぐらいな感じの地域ですが、興味深いサイトです。
コメントありがとうございます。
人づての話だと、先日「おもいっきりテレビ」で
館林の鯉のぼりが放送されたそうですね。
ギネスに認定された観光地があって、羨ましい限りです。
サイトのご紹介もありがとうございます。
確かに羽生から見ると、遠いような近いような微妙な距離ですが、
こうした地域活性化サイトがあるのは、自ずと関心が高まりますね。
して亡くなった娘を悼んで建立した石碑に(江戸時代)記された文言に涙がこぼれそうでした。家の娘もかわいい盛りだったので・・・。いい町ですよね。タカトリさん、先日は大久保の地名調べありがとうございました。私が興味深く思った説は地形からではないかという大窪という説です。
このあたりは神田川沿いの水が良く(古くからの産業としてあまなっとうなどのお菓子や染めものなど良い水資源に依拠してまだ続いている。茶道の本部会館もある)縄文遺跡もありその後もずーと人がすみつづけたらしく、我が社宅が建つときは江戸時代の幕府下役の社宅?跡の遺跡がでて茶碗などの雑器がでてきたそうです。あまり質もよくなく彼らの内職のつつじ作りが江戸名物になったそうですが、その出土品からも内職せねばならない生活レベルが証明されたそうです。(身につまされましたネ)。先日おつかいに行くとき、そういえば都のごみ焼却施設の工事が去年から中々進まないなぁと看板をよくみたら、旧石器時代の石器が発見されて調査のため遅れていますとの張り紙があった。一万数千年も人が住みついだこのあたりの地形を色々空想してたとこ(戸山ヶ原)だったので大窪にはピンときました。
大久保の調査、はかどっているみたいですね。「大窪説」について、虹さん独自の視点からいろいろ推理していて、とても面白いです。
現在の生活や景観の中にも、歴史を解く鍵があるということを実感させられます。
確かに、産業や名物はその土地との結びつきがかなり強いわけですし、特に地形や自然環境の影響は大きいですよね。
(一万数千年前の地形を想像する虹さんはすごいです)
ちなみに、羽生にも「大久保耕地」や「久保田」の小字があります。
これもやはり羽生が往古に古利根川が乱流していて湿地帯だったことから、「久保」は「窪」を意味しています。言い換えれば、旧流路を開拓して耕地にしたということですね。
虹さんの調査をきっかけに、羽生と都内の大久保との隠れた結びつきがあることを
秘かに期待していますが、これは欲張りすぎでしょうか……
虹さんのさらなる調査を期待しています。
ところで、「旧石器時代の石器が発見されて調査のため遅れています」という張り紙を、一度でいいから羽生で見てみたいものです。
つい先日試掘調査が行われましたが、どうやら試掘のまま終わりそうです。
茂林寺のタヌキに頼んで遺物に化けて貰えれば、本格調査は行われそうですが……