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クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

伝説の羽生城攻防戦 -忍城主成田氏長の侵攻Ⅰ-

2006年03月24日 | 奇談・昔語りの部屋
かつて城があった戦国期において、羽生城址碑の建つ東谷天神社は、
血腥い合戦の場所になっていました。
この神社の御神体は、菅原道真公をかたどった木像です。
社殿の奥深くに祀られています。

しかし、この神社にはもともと2体の御神体があったと伝えられています。
古老の話によると、それは埼玉県騎西町にあり、
昭和のはじめに氏子たちが返却を求めたのですが、結局御神体は戻りませんでした。
なぜ御神体は騎西町に移ったのでしょう。

それは、戦国期における羽生城の熾烈な攻防戦と深く関係してます。
羽生城史を伝える文献に、『簑沢一城根元亡落記』(以下『亡落記』)というものがあります。
『埼玉叢書第六巻』『羽生市史』に載っていますが、
一般的にはあまり知られていない史料かもしれません。
羽生城史はつい近年まで確固とした定説を持っていませんでした。
冨田勝治という郷土史家によって、羽生城史は初めて解明されたのですが、
それまでは迷路のように諸説錯綜としていました。

『亡落記』も、その錯綜時代に書かれた説のひとつです。
史実として捉えることはできませんが、
これを繙くと羽生城の落城の様子が生々しく目の前に浮かび上がってきます。
『亡落記』によると、天正3年(1575)に武田信玄の属城だった羽生城は、
後北条氏に属していた忍城主成田氏長にことごとく攻められます。
その寄手は6千余騎で、羽生城を何重も取り囲みました。

これに対し、城兵は必死に抵抗します。
その城兵の働きによって寄手も多く手負いの者を出しましたが、所詮は多勢に無勢、
次々に繰り出される新手に城は追い込まれていきました。
そしてその日の夜、成田氏長の家臣酒巻勒負は兵を率い、
闇に紛れて城中へ押し入りました。
城兵の荒川一学、須影小源治は果敢に闘いますが、
やがて力尽きて討たれてしまいます。
これを機に寄手は門を打ち破り、次々と羽生城へ押しかけ火をつけました。

城主をはじめ、家臣たちも最早これまでと覚悟を決めます。
奥方と姫が、家臣の匂坂軍蔵につれられて駆け込んだのは天神社。
そして天神の森より、予め用意してあった舟に乗ります。
当時、天神社の東には大沼が広がっており、
彼らは舟を乗り継いで逃げ延びたのです。

城では南風に吹かれ、火の勢いはどんどん増していきました。
黒煙が立ち上り、大沼の水面は炎の色で真っ赤に染まります。
城主は「己の運命これまで」と観念しました。
『亡落記』には、城主は数百人の城兵と共に自害したと記されています。
これに似た内容は『木戸氏系図』と、中岩瀬天神社の『天神宮縁起』にも見られます。すなわち、天正3年(1575)に忍城の成田氏長によって、
羽生城が落城したという説です。

『木戸氏系図』には、城から逃げ延びた奥方たちが、
近郷(騎西町)に逃れたと書いてますし、
『天神宮縁起』には、城から脱出する際、奥方は天神社から御神体を一体取り出すと、
懐に抱えて落ち延びたと伝えています。
東谷天神社の御神体が一体欠けていると言われる所以は、
『亡落記』をはじめとするこれらの史料の説が混合して、生まれたのかもしれません。
昭和のはじめに氏子たちが御神体の返却を求めたというのは、
その家が所蔵する系図だったと思われます。
系図には菅原道真公の絵が描かれますから、
天神社との結びつきを否応なしに感じたのでしょう。

先に述べましたが、羽生城は「落城」ではなく「自落」です。
それも年代は「天正3年」ではなく、「天正2年閏11月」で、
羽生城を守りきることができないと悟った上杉謙信が、
自ら破却したというのが本当のところです。
(ですから、『亡落記』にある「武田信玄の旗下」というのは上杉謙信の誤りです)
羽生城兵はそのまま謙信に引き取られました。
その数は千余人にのぼったと史料にはあります。

市内の正覚院にあった鐘銘には、
「城主地を易えて越州に移居す」と刻されていましたが、
城主木戸忠朝は天正2年以降その名前が見えないことから、
生きる望みを失って、自ら果てたと考えられます。
市内の稲子という場所で果てたとも口碑に残っていますが、
確かなことはわかりません。
すなわち、『亡落記』に描かれたような戦闘は天正3年においてはなかったわけです。

しかし、一概にこれを否定することはできません。
ここに描かれたような戦闘は、実際にあったのでしょう。
具体的に言えば、元亀3年(1572)に成田氏長の要請を受けた北条氏繁が、
ことごとく羽生城を攻撃しましたし、
天正年間に入ってからも北条氏政による侵攻が続きました。
それを裏付けるかのように、東谷天神社や市内の香取神社の境内から、
鉄砲の弾がたびたび見付かったそうです。
いまでは閑静な住宅街になっていますが、
混沌とした時代に生きた人々の足跡は、確かに残っています。

参考文献
羽生市史編集委員会『羽生市史 上』
冨田勝治著『羽生城 -上杉謙信の属城-』私家版

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14 コメント

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坂本氏の出自 (田邉信雄)
2010-09-26 16:17:17
群馬県邑楽郡大泉町寄木戸の峯家文書に、坂本氏が羽生より移ると書かれています。年代は明記されていませんが、文書に記録されている内容の前後関係から、羽生城落城の頃と思われます。
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田邉信雄さんへ (クニ)
2010-09-27 06:19:15
貴重な情報をありがとうございます。
坂本藤左衛門ですね。
さりげなく「武州羽生領ヨリ……」と記されているところにドキリとします。
何かまた情報がありましたら御教示下さい。
館林領と羽生城は少なからずの関係があるので、まだ貴重な史料が眠っているかもしれませんね。
返信する
坂本氏の現況 (田邉)
2010-10-01 21:37:46
ご指摘の通り寄木戸の坂本氏は坂本藤左衛門の子孫です。藤左衛門は、寛永18(1641)年2月21日に亡くなっていて、戒名は來室道本信士です。妻は明暦4(1658)年2月29日亡くなっていて、戒名は來安妙本信女です。戒名というのは、一字目と四字目で意味を持たせている場合が多く、この場合「來本」または「本來」という意味になります。寄木戸に移り住んできた坂本の本家という意味だろうと思われます。ちなみに、その坂本本家の屋号は「おもてんち」と言います。おもてんち」があるなら「うらんち」もありそうなものですが、「うらんち」というのはありません。そもそも裏は田んぼになっています。これはおそらく、大本の家(おおもとのうち)が訛ったものではないかと思います。
 ところで、寄木戸の坂本家は、今では13~14代目の子孫の時代になっていて、分家の数は40軒以上と思われます。一族の結束は固く、代々日枝神社(山王さま)を祀っています。調べたところ羽生市には日枝神社はなさそうなので、なぜ日枝神社を祀っているのか分かりません。明智光秀の居城があった近江坂本の日枝神社と何か関係があるのかという気もしますが不明です。また、関八州古戦録に行田忍城の武将として坂本将監という人物が登場していますが、坂本藤左衛門と関係があるのか、ぜひ知りたいところです。何かご存じでしたら教えて下さい。
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田邊さんへ (クニ)
2010-10-02 07:31:17
寄木戸は坂本氏が40軒以上も住んでらっしゃるのですね。
峯崎家文書には坂本藤左衛門が武州羽生領より移るとありますが、具体的に羽生領のどこから移ったのかわかりません。
いまのところ、祖が羽生城将士と伝える坂本家は把握していません。
羽生城が天正二年に自落したあと、忍城主成田氏に仕えた可能性があり、
「天正年間成田氏忍城之図」の中にも「坂本将監」の名が見えます。
ただ、「成田家分限帳」をざっとみましたが、その名はありません。
寄木戸の坂本氏と忍城の同氏に何らかの関係があるのかは不明です。
地元の旧家に古い史料があったり、日枝神社の創建や古くから伝わる伝説等があれば、
歴史の謎を解くヒントになることがあるのですが……
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坂本氏の家紋 (田邉)
2010-10-04 13:32:48
 家紋について、その正確な種類・数は知りませんが、多くの場合その図案は動植物をデザイン化したものと思います。石田三成のように、希に文字を使用している例もありますが、坂本氏の家紋もめずらしいもので、○に「本」の一文字だけのものです。自らの出自を隠すための仮の家紋ではないかとすら思えてきます。
 もし羽生市や行田市、またはそれ以外の所に住んでおられる坂本氏でも構わないのですが、同じ家紋を用いている例があれば、坂本氏の出自を調べる上で、何らかの手がかりが得られるのではないかと思っています。なお、寄木戸地区の旧家に残っている資料は、すでにほとんど調べており、新しい資料が発見される可能性は残念ながらほとんどないだろうと思っています。
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田邊さんへ (クニ)
2010-10-04 21:19:48
私の身内でも、坂本姓を名乗る人がいます。
最近はとんとお会いしていないのですが、会う機会があったら訊ねてみたいと思います。
果たして、どんな家紋を使っているのか……
新資料は意外なところから発見されるかもしれません。
日頃アンテナを張っていると、予期せぬところから情報が寄せられることもあるかと思います。
あるいは、これまでなかった視点が得られて、全く別の考えが出てくることもあるかもしれません。
史実というのはそう簡単に明らかになるものではなく、根気と地道な努力が大切ということでしょうね。
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クニさんへ(田邉) (田邉信雄)
2011-09-07 17:13:54
最近何気なく過去帳を見ていましたら、安永3年没(1774)、坂本某母、戒名:明秀智三禅定尼とあるのに気づきました。一字だけ違いますが並べ替えると明智三秀となります。当時の住職の遊び心によるものなのか、それとも、明智光秀と何らかの関係があることを意味しているのか分かりませんが、羽生には日枝神社がなさそうですし、ひょっとしてという気になりました。ところで、私もこの度ホームページを開設しました。『天徳山宝寿院』で検索するとすぐ開くと思います。一般的なお寺のHPとは一風変わった内容かもしれませんが、よろしかったらご覧下さい。
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田邉信雄さんへ (クニ)
2011-09-08 23:44:51
明秀智三禅定尼!
意味深な戒名ですね。
やはり明智光秀と何らかの関係があるのでしょうか。
ちなみに、現在の羽生市に日枝神社はありませんが、
「羽生領」なら存在しています。
現在の加須市志多見です。
羽生城主の次男木戸元斎が赤城神社に奉納した願文には、
志多見郷を含めた三貫文の地を寄進する旨が書かれているので、
志多見は羽生領だったことがわかります。
もしかしたら坂本氏と何か関係があるかもしれませんね。
貴ホームページ、足を運ばさせていただきます。
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田辺さんへ (Unknown)
2011-09-11 20:28:38
 面白い戒名ですが、
こんなものがありますよ。、坂本龍馬は、先祖が明智であると。関ヶ原の戦いの後に遁れて
土佐に行ったということですが。
 これと関係があるかな坂本という名は。
羽生城と坂本龍馬が結びつく?
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Unknownさんへ(田邉) (Unknown)
2011-09-15 20:45:19
 坂本龍馬が明智光秀の子孫だとする説は私も興味はありますが、分からないことが多すぎて何とも言えません。ただ、当地寄木戸の坂本氏が明智一族の可能性はあるかも知れません。
 坂本藤左衛門が寄木戸に何年に来たかは書かれていませんが、当地に伝わる峰崎家文書の記述内容から推測すると小田原城落城の頃のようです。明智一族が秀吉と対峙する北条氏を頼みに関東にやってきて奮戦したが、その北条氏も滅びてしまい、明智狩りを恐れた坂本氏が身を隠すように寄木戸に移り住んで帰農したとも考えられます。
 当時の寄木戸は私のHPの野村勘解由允藤原勝久の系図を見ていただければ分かると思いますが、北関東の名門小山氏や結城氏と同族である小泉城主富岡氏の一族峰崎氏・野村氏・服部氏・根岸氏だけが住む村でした。
 坂本氏は、その寄木戸の中心部に移り住み、かの四氏と姻戚関係を結んでいきます。
 この時代の結婚は何よりも家格を重んじていたことを考え合わせると、少なくても坂本氏は四氏と対等以上の家格を備えていると認められたのだと思われます。ただしそれらも状況証拠にしか過ぎません。真実が知りたいところす。
 なお、坂本氏と同時期に江原(深谷)から小沼氏も寄木戸に移り住んでいます。
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