くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

城008 大和郡山城(3) 三重の掘、秀長の菩提寺

2014年09月10日 00時10分27秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、奈良県の大和郡山城(やまとこおりやまじょう)の話です。大和郡山城は、豊臣秀長(とよとみひでなが、秀吉の弟)100万石の城として有名です。江戸時代も大和・郡山藩の城でした。
 前回は城の南西側に進みましたが、今回は城の東側です。
 下の写真には、大和郡山城に復元された追手向櫓(写真中)と追手門(おうてもん、写真中奥)があります。

 写真右側の建物は、大和郡山市民会館で、写真左側の石垣は、毘沙門曲輪の石垣です。
 撮影している場所で左を向くと、内掘りの奥に本丸と二ノ丸を結ぶ台所橋が見えます。
(絵画調)

 内掘左外にある二ノ丸(現在は県立郡山高校の敷地)へ続く道の途中には、表門がありました。

 城の南東側の門である鉄門跡の石垣です。他の門と同様に入口が直角に曲がった虎口(こぐち)でした。
(絵画調)

 大和郡山城の堀は三重になっていて、鉄門跡の石垣外側は中掘の東側となります。
 中掘の右手には、現在は近鉄の線路が走っています。

 右の踏み切りを渡り、線路沿いに進むと、追手東隅櫓が右手に見えてきます。左側は追手向櫓です。

 年末(休日)の昼間ですから、あまり電車が通りません。

 東隅櫓の横には十九間多聞櫓が続いています。
(絵画調)

 写真の下の石垣の所には、桜門と呼ばれる門がありました。
 中掘はここで西に折れて続きますが、 台地の部分を削って造ったらしく、ここからは水は無くなり、空掘(からぼり)になります。なかなか深い掘りですが、現代の冬は枯れ草がぼうぼうですから、三重の掘りの一番外側にある外堀コースに移動する事にします。時間があれば、大和郡山城の大きさを実感するには良いコースです。

 桜門跡から東に進むと、春岳院(しゅんがくいん、高野山真言宗)というお寺があります。豊臣秀長の菩提寺です。

 天正19年(西暦1591年)に豊臣秀長が亡くなると、城の南側に墓所が造られました。
 菩提寺は大光院というお寺が開創されましたが、その後、京都に移転する事になり、
 藤堂高虎(とうどうたかとら)により、墓の管理と位牌を春岳院(当時は東光寺とうい寺名)に託しました。

 「春岳院」とういう名は、豊臣秀長の法名から来ています。
 藤堂高虎は、秀長の元家臣(最初は300石)で、最後は22万石(当時は8万石)の大名にまで出世した武将です。

 山門の脇に、小さなお地蔵様が並んでいました。

 それから、秀長の菩提寺だった大光院の蒲庵古渓(ほあんこけい、古渓宗陳)は、秀長の葬儀の導師(どうし)も務めたお坊さんですが、なかなか、この人は硬骨漢なお坊さんですよ・・・!
 下の写真は、城の南側にある豊臣秀長の墓です。「大納言塚」と呼ばれています。

 江戸時代は豊臣政権を滅ぼした徳川幕府の時代で、大和郡山藩は京・大阪のすぐ近くですから徳川譜代の大名が治めていたので、その後、墓も荒廃したそうです。
 江戸時代後期の10代将軍・徳川家治(とくがわいえはる)の安永6年(西暦1777年)に岳院の住職が現在ある
姿に復興したとのことでした。
 下は説明板にあった豊臣秀長像です。

 秀長の朝廷の官位は、従二位権大納言にまでなりましたので、「大和大納言」の尊称がありました。

 長くなりましたので、外堀コースは次回とさせていただきます。

 前回までのブログは、ブログ右欄の「カテゴリーアーカイブ」にある「訪城記」をクリックすると、過去のお城周りのブログ一覧が表示されます。
(1)奈良県の大和郡山城の過去のブログは、
 「城008 大和郡山城(1) 羽柴秀長100万石の城」
 「城008 大和郡山城(2) 柳沢家・大和郡山藩15万石」
 「城008 大和郡山城(3) 三重の掘、秀長の菩提寺」 (今回分です)

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 次回は、朝来市の陣屋・城跡の話の続きです。
 テスト的に、「城007 秀吉の但馬攻め」と「城008 大和郡山城」を並行して進めてみます。
 後で見ると分かりにくくなると思いますので、話しが一段落した所で、番号整列の為、順番を入れ替えます。
 次々回は、大和郡山城の話です。

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