くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

城005 奈良県の織田家 柳本藩(2) 黒塚古墳

2014年03月25日 12時25分16秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回のお城訪問は、奈良県(ならけん)・天理市(てんりし)・柳本町にある黒塚古墳(くろつかこふん)です。江戸時代には、織田家の柳本藩(やなぎもとはん)の陣屋(じんや、藩庁)のあった所です。
 下の写真は、黒塚古墳の後円墳と周囲の周濠(水濠)です。

 前回の「城005 奈良県の織田家 柳本藩(1) 橿原神宮の文華殿」からの続きになりますが、
 話の流れから、前回と今回の間に立ち寄った訪問先は、順番を次回とさせていただきます。

 黒塚古墳に到着して案内板を見ると、見ての通り全長130mの前方後円墳 (ぜんぽうこうえんふん)です。

 古墳時代前期(3世紀末頃)前方後円墳で、平成9年の発掘調査で33面の三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)と画文帯神獣鏡1面が出土したことで有名です。

 下は、前の方墳側から後円墳側を見た写真ですが、前方後円墳らしいラインが出ています。

 護岸はコンクリートに覆われて味気ないですが、現代では、カルガモの休憩場となっているようです。
 後方に見える水濠の石垣は陣屋の石垣らしいですが、いつの時代に造られたものなのでしょうか・・・・・??

(1)この柳本の地は興福寺(こうふくじ)の荘園として、荘官の楊本氏が治めていました。
 室町時代の大和国(現在の奈良県)は、南北朝時代や戦国時代以外の時も戦乱が多く、黒塚古墳南側にある柳本小学校付近の伊射奈岐(いざなぎ)神社西北付近が城跡で、柳本城の一部に黒塚古墳を含んでいた可能性もあります。
 後円墳部分の小高さや、周囲を囲む環濠(かんごう)の水濠は、中世の城の形状としては便利です。
 下の写真の手前は前方部ですが、長さが48m程あります。

 中世の頃には古墳の存在自体が忘れ去られていたのか、下の写真のように前方部と後円部の間を分断する掘割が発掘されたそうです。その他にも、城として活用する目的で古墳の形に改修が加えられているようです。

(2)室町時代から戦国時代にかけて、柳本城の城主はたびたび変わり、松永一族の支配下になりますが、安土桃山時代の天正5年に、織田信長に松永久秀(まつながひさひで、松永弾正)が滅ぼされると、一時廃城となります。

 後円墳の上部に登って行きます。前方部が高さ6m、後円部が高さ11mですから高低差があります。

(3)慶長5年(西暦1600年)の関ヶ原の戦い後は、前回も話しましたように、東軍についた織田有楽斎(おだうらくさい、織田長益)は大和国の一部を加増されて、柳本周辺はの織田有楽斎の所領となります。
 さらに大阪夏の陣があった元和元年(西暦1615年)には、織田有楽斎は所領3万石の内、1万石を隠居領として残し、1万石を四男長政(ながまさ、戒重藩)に、残りの1万石を五男尚長(なおなが、柳本藩)に与え、柳本の周辺は柳本藩領となりました。

 後円墳頂上部の写真です。土中の石棺が崩れた事もあり、盗掘を逃れ、副葬品もそのままで保存されていました。

 後円部は径約72m、高さ約11mあり、古墳自体が台地の端にあるので、見晴らしが良い場所です。
 濠の向こうに奈良盆地の町並みと山並みを遠望できます。

(4)柳本藩の初代藩主・織田尚長は、当初は大泉村(現桜井市)に在住しましたが、3代将軍・家光の寛永年間になると、柳本城の跡地に柳本陣屋を構え、柳本が明治になるまでの藩庁となりました。黒塚古墳も陣屋の一部となり、古墳の周りにある水濠も西側に続けて掘られていったそうです。
 武家屋敷のあった柳本町の旧上街道筋には、昔の雰囲気を残す町並が残っています。
 陣屋の西門もどこかに移築されているそうですが、見つけることができませんでした・・・・・・・・

 下の写真は、古墳の東側の濠です。

 この先の古墳の東側に隣接して、竪穴式石室と副葬品を配列した実物大模型(レプリカ)などを展示する「天理市立黒塚古墳展示館」があるのですが、年末年始は休館と思い、時間も無かったので行っておりません。
 (写真なしです。)

 最後に、柳本の村民が立てた石碑です。

 「くまドン」には全く詠めませんが・・・、「文政6年(西暦1822年)に黒塚を整地して稲荷神の祠と碑を建てた。藩中の平安と、穀物の豊穣を神に祈り、鎮守の森になるように」と書かれているそうです。

 なお、黒塚古墳は、奈良盆地の東南部に位置する大和古墳群の一つで、台地の縁辺部に立地しています。
 「くまドン」見学する時間はありませんでしたが、近くには、崇神天皇陵(すじんてんのうりょう、第10代天皇)や景行天皇陵(けいこうてんのうりょう、第12代天皇)と、巨大な前方後円墳が並んでおり、古代ロマンの「山の辺の道」コースとなっています。
 奈良県は古代遺跡がゴロゴロしていますので、戦国・江戸時代の遺跡は陰(穴場)に隠れがちです・・・・・・・・・

 長くなりましたので、この続きは次回とさせていただきます。

前回までのブログは、
 「城005 奈良県の織田家 柳本藩(1) 橿原神宮の文華殿」
 (ブログ上部のバーに直近前後のブログが表示されていますので、そちらをクリックしても、移動できます。)

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 次回も、奈良県のお城ブログが続きます。