くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

名所江戸百景108 第75景 神田紺屋町 東京駅とイチョウ並木

2013年11月15日 07時55分15秒 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、東京駅とイチョウ(銀杏)並木の黄葉です。
 江戸時代は、人と馬が陸上の主な交通手段でしたから、日本橋が五街道の起点でした。
 現代の東京(江戸)においては、東京駅は東京から各地に向かう起点になります。
 昨年・2012年(平成24年)の10月には、明治時代からの丸の内駅舎の復原工事が完成しています。
(絵画調)

 今回の写真は、昨年・平成24年11月の撮影です。東京駅の向こう側に見える工事用のクレーンは、東京駅八重洲口(やえすぐち、東口)のグランルーフ(今年・平成25年9月完成)建設中の風景です。

【観光お得情報】
 左のイチョウ並木には、赤い2階建バス「スカイバス」が信号待ちしています。2階は天井のない開放型です。
 丸の内三菱ビルを起点・終点に、浅草・スカイツリーコース・お台場コース・東京タワーなど色々なコースがあります。特に、スカイ・ホット・バスは、特定の3コースが乗降自由の1日券・2日券があり、お得かも。
 以前、旧中川の水陸両用船「スカイダック」の話をした事がありますが、同じ会社です。

 東京駅に到着した時は、夕暮れ時の空に月が昇っていましたが、まだ空が明るかったです。

 東京駅の開業は、大正3年12月(西暦1914年)です。来年2014年(平成26年)は開業100年ですね。
 ここで、「あれ、大正?」と思うい人もいるかもしれません。

【東京の鉄道の歴史】
(1)日本の鉄道網の始まりは、明治5年の新橋駅~横浜駅間の開通です。東京駅ではありません。
 この時の新橋駅は、現在の貨物駅である汐留駅(しおどめえき)、横浜駅は、現在の桜木町駅だそうです。
 当時から銀座周辺は繁華街で、用地取得が難しく、駅・車庫・鉄道工場の為に、まとまった広さの土地を確保するために江戸時代の大名屋敷の跡地を利用した結果、新橋(汐留)駅になったそうです。
 また、その先の新橋駅~品川駅間も、土地の取得が難しく、当時の海を埋め立てて、線路を造りました。
 明治22年には、新橋駅~神戸駅までの東海道本線が完成しました。この時点で東京駅はありませんでした。

 下の写真は、皇居方面を望む景色です。

 このイチョウ並木の黄葉は、皇居側の黄葉が早く、東京駅側の黄葉は遅い(青い葉の状態)のですが、東京駅側の方が、ビルが密集している関係で、気温が高いのでしょうか?

(2)明治10年の西南戦争の後、政府の財政が悪化して、民間による鉄道建設に方針が変更になりました。
 明治16年に日本最初の私鉄・日本鉄道による上野駅~熊谷駅(埼玉県)間が開通になりました。
 明治22年には上野駅~青森駅間(東北本線)が完成しています。(もの凄い建設速度ですが・・・・)
 さらに、明治31年には常磐線(じょうばんせん、水戸方向)が完成して、上野駅は北の玄関口となりました。
 明治23年に、上野駅~秋葉原駅間の貨物線が開通しましたが、相変わらず、上野駅と新橋駅を結ぶ線路はありませんでした。

 レトロ調の建物ですから、撮影者の数も多いです。


(3)当時の山手線は、新橋駅から上野駅まで、鉄道の資材(貨物)輸送の為に建設されました。
 明治18年には、赤羽駅~品川駅間が、明治36年には、田端駅~池袋駅間が開通しています。
 では、新橋駅と上野駅の間を移動する旅行者はどうしていたかと言うと、銀座のなどの繁華街の道路を
  最初は徒歩か人力車で移動 →馬車鉄道(明治15年~) →路面電車(明治36年~)と変化していきました。

 東の空の青が濃くなった頃、街灯の灯り(あかり)に照らされた黄葉したイチョウ並木との共演です。

 分かり難いですが、月が右上の樹の枝の隙間にあります。

(4)東京の西方向(現在の中央本線)は、明治22年に私鉄の甲武鉄道が新宿駅~立川駅間で開業し、明治28年には、飯田町駅まで開通していました。
 東京の東方向(現在の総武線)も、明治37年に私鉄の総武鉄道が、両国橋駅(現在の両国駅)始発で開業しています。当時の総武鉄道の資金力では、隅田川に橋を架けるのは難しかったので、両国駅が始発になりました。
 昭和57年までは、房総(千葉県)方向の特急は東京駅始発ではなく、両国駅始発でしたので、その名残のホームが現在の両国駅にも残っています。
 東京の東西南北の鉄道は揃いましたが、この時点で、鉄道間を結ぶ旅客用線路はありませんでした。

 上の写真の写真ですと、東京駅が小さすぎるので、フレーミング(レンズで画面を切り取る)しました。

 この写真を、広重の名所江戸百景「第75景 神田紺屋町」に対応する「くまドン板」の景(確定・秋景)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)

(5)明治23年に、新橋駅と上野駅を結ぶ鉄道を造ることになりましたが、
 銀座から日本橋にかけての繁華街は土地の入手が困難の為、当時は野原だった銀座と皇居の間にある現在のルートを通すことになり、その中間の野原に中央停車場(東京駅)が造られることになります。
 しかし、高架線路で建設予算が大きくなる為、上野側の私鉄・日本鉄道は負担できず、新橋側からのみの建設になります。その後、明治39年の鉄道国有法により、私鉄が国有化されました。
 明治41年には、東京駅北側の呉服橋駅(仮駅)まで延長しましたが、東京駅は工事中だったので、駅構内を止まらず、通過していました。
 そして、4年後の大正3年12月に、東京駅の丸の内駅舎が完成し、東海道本線の起点となりました。

 さらに、望遠にズームして、東京駅を大きくしましたが、イチョウ並木の雰囲気がなくなりました。
(絵画調)


(6)大正8年に中央本線が東京駅と接続、昭和7年に総武本線がお茶の水駅まで伸びて、ようやく東京の東西南北の各線が接続されるようになりました。

 西の空も夕闇が迫ってきて、空の青にイチョウの黄葉が美しく照らし出されていました。


 最後は、皇居の和田蔵門から、馬場先濠の眺めた夜景です。


 下の絵は、広重の名所江戸百景「第75景 神田紺屋町」(秋景)です。

 神田紺屋町(かんだこんやちょう)は、JR神田駅の東側にある町です。
 町名の由来になった紺屋(染色業者)が多く、屋根の上に高い台をつくり、大量の布を干してる光景がよく見られたそうです。町内には藍染川(あいぞめがわ)と呼ばれる水路が流れ、晒し(さらし)に利用されていました。

 構図として、近くの染物を大きく描く、名所江戸百景の特徴である近景構図で表現されています。両側に物干し台や染物を絵の外側に出すことにより、絵の外側に広がっていく風景を作りだしています。
 なを、右手の布には、「魚」の字が見えますが、出版元の「魚栄」の意味で、宣伝でもあり、洒落(しゃれ)でもあります。その後ろの布は、「ロ」の中に「ヒ」を入れた模様がありますが、これは、広重(ひろしげ)を意味しています。広重の絵の中には、このような文字が描かれている絵がいくつかあります。
 この絵が描かれた場所は、現在、繊維関係企業のビルなどの建物が建ち並んでいます。撮影に不向きですので、自由に使える景として使用させていただきます。

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 次回も、紅葉(黄葉)に関係する景が続きます。

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名所江戸百景107 第34景 待乳山山谷掘夜景 待乳山聖天の黄葉

2013年11月13日 07時55分21秒 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、台東区(だいとうく)・浅草(あさくさ)の待乳山聖天(まつちやましょうでん)のイチョウ(銀杏)の黄葉です。
(絵画調)

 現代の東京都心はヒートアイランド現象で周辺より暖かい為、紅葉は遅く、11月後半から12月上旬が紅葉(黄葉)の季節となります。
 特に昨年・平成24年は暖かく、紅葉の進みが遅かったです。今年も、ようやく黄葉の時期になりました。
 ただし、都心は同じような高さでも、場所により紅葉(黄葉)の進み具合がバラバラです。
 待乳山聖天のイチョウが色づくのは、早い方です。
(絵画調)

 待乳山聖天の入り口ですが、現代でも築地塀(つきじべい、泥土をつき固めて作った塀)が残っています。
 まだ、11月20日頃では、黄葉しているイチョウと、青い葉のままのイチョウが混在しています。

 一回、「名所江戸百景013 第90景 猿わか町よるの景 浅草寺と墨田公園の桜」でお見せしましたが、
 下の絵は、広重の名所江戸百景「第34景 待乳山山谷堀夜景」(春景)です。

 この絵は、現在の墨田区の対岸から、隅田川越しに待乳山聖天を望んだ夜景です。
 左右に流れる墨田川の向こうに見える水路が山谷掘(さんやぼり)で、真ん中の樹が茂る小高い丘が待乳山聖天です。
 暗い夜の星空の上に、葉桜(はざくら)がシルエットで描かれています。
 現代でも隅田川に行くと、川岸に桜の木が並んでいます。隅田川の桜は八代将軍・吉宗の命にて植えられ、江戸時代から花見の名所でした。
 手前を歩く女性は、近くの料理屋などで 、夜桜見物の客を相手にした帰りの芸者(げいしゃ)だといわれています。

 待乳山聖天の境内に入ると、さらに一段高い所に本堂があります。
(絵画調)


【待乳山聖天、本龍院(ほんりゅういん)、待乳山は山号】
 浅草寺(せんそうじ)の子院で、聖観音宗(総本山は浅草寺)の寺院、本尊は歓喜天(聖天)・十一面観音です。
 例年1月に「大根まつり」か行われます。浅草名所七福神のうち毘沙門天が祀られています。
 推古天皇9年(西暦601年、なんと聖徳太子の時代です)に、この土地で旱魃(かんばつ、水不足)があり 歓喜天と十一面観音が安置されたと伝えられています。


 待乳山(標高10m)は、東京の最低峰とも呼ばれていますが、かつては周囲が見渡せる山であり、江戸時代には文人墨客がこの地を訪れています。
 現在でも、待乳山は建物に囲まれていますが、境内からスカイツリーを眺めることができすます。
 下のスカイツリーの写真だけ、春先に待乳山聖天から撮影した写真です。


 下の写真のお地蔵さんの近くに歓喜地蔵尊(子育てのお地蔵様)があります。
 歓喜地蔵尊は、数度の火災で、その姿は残していませんが、昔より子育て地蔵として信仰されてきました。


 待乳山聖天は、日本三大聖天の一つです。
 他の一つは奈良県・生駒市(いこまし)の生駒聖天(宝山寺(ほうざんじ))です。
 「三大」という言葉によくある話ですが、残りの一つの聖天は、人によりまちまちです。挙げてみると、
  妻沼聖天(埼玉県熊谷市の歓喜院)、足柄聖天(静岡県小山町の足柄山聖天堂)、
  桑名聖天(三重県桑名市の大福田寺)、豊岡聖天(兵庫県豊岡市の東楽寺)

 関東三大聖天になると、浅草の待乳山聖天と、平井聖天(江戸川区の燈明寺(とうみょうじ))、妻沼聖天(埼玉県熊谷市の歓喜院)となります。

 ちなみに、平井聖天(ひらいしょうてん)は、「名所江戸百景090 平井諏訪神社の大祭・・・・」に載せましたが、
 戻るのが大変ですので、下の写真を新規で乗せます。平井聖天の聖天堂から本堂を見ています。

 左下の幟(のぼり)に、2本の大根を交差させたマークがあります。この大根は、聖天のトレードマークです。
【聖天様と大根、巾着袋(きんちゃくぶくろ)】
 聖天様では、大根は清浄、淡白な味わいのある食物として、しかも、体内の毒素を中和して消化を助ける働きがあるところから、聖天様の「おはたらき」として尊ばれ、聖天様に大根をお供えすることでも有名です。
 そして、「お供えした大根を、おさがりとして頂くことによって、聖天様のお徳をそっくり頂戴し、身体と、心の健康を得ることができる。」という考え方です。
 聖天様では、大根の他に、灯篭(とうろう)の模様となっている巾着袋のデザインをよく見かけます。

 巾着袋は砂金(さきん)袋を表しており、商売繁盛を願って、多くの人が、お供えにやってきます。

 二又大根は根元で引っ付くことから、良縁を成就させ、夫婦和合の神として、浅草観光コースの有名スポットです。

 この写真を、広重の名所江戸百景「第34景 待乳山山谷掘夜景」に対応する「くまドン板」の景(確定・秋景)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)

 後ろの方のイチョウは緑の葉のままですので、少し早いかなぐらいの時でした。


 本堂は、震災と戦災で焼失してしまい、昭和36年に再建された建物です。
 本堂の周りを一周することができます。小さな神社などがあります。
(絵画調)


 もう一つの妻沼聖天の方は、お寺の写真がありませんが、
 「名所江戸百景100 第44景 日本橋通一丁目略図 日本橋・京橋まつり」の時の行列(平成24年)に、
 武州妻沼練り込み囃子(ぶしゅう・めぬま・ねりこみばやし)が参加していました。前回と写真と同じです。


 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 次回は、今回の撮影後に行った場所ですが、別の場所での黄葉の話となります。

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名所江戸百景106 第76景 京橋竹がし 首都高速道路 

2013年11月12日 11時55分10秒 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、京橋付近で、首都高速道路の撮影の話です。
 「名所江戸百景100・・・日本橋・京橋まつり」を撮影した後の話になりますが、全く別の話となります。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第76景 京橋竹がし」(秋景)です。

 この絵の手前に大きく描かれた京橋(きょうばし)の架かる川は、京橋川(きょうばしがわ)です。
 京橋付近には、竹の市場があり、その付近を竹河岸(たけがし)と呼んでいました。
 良く見ると、川の左側に林立しているのは、建物ではなく、なんと「竹」です・・・・!!
 絵の構図としては、橋や竹を遠近法を使用して、奥に行くほど小さく描く事により、絵の奥行きを出しています。さらに、遠方の中心を右端に大きく移動させることにより、絵が左右対称になる単調な表現を回避しています。
 東の空には満月が浮かび、川を行く船と川岸の竹の壁が、江戸に張り巡らせた水路網が、江戸時代の交通の動脈であった事を教えてくれます。

 下の写真は、日本橋川に架かる常盤橋(ときわばし)です。

 現代の交通の動脈は、自動車の走る道路です。
 京橋川は、昭和29年から34年までの間に埋め立てられ道路となり、現在では、川があった所に首都高速道路が走っています。この区間は高架なので、地上からの首都高速を走る風景を撮るのは難しいです。
 江戸時代に京橋付近から江戸橋まで、直線的に作られた楓川(もみじがわ)も、現在は埋め立てれて、首都高速都心環状線が走っていますが、その大部分は半地下式の構造になっています。
 この付近で、「京橋竹がし」のイメージで首都高速の写真が撮れないか思っていましたので、挑戦してみました。


(1)首都高速道路は、1964年の東京オリンピックの開催に間に合わせる為に、急ピッチに整備が進められました。
 日本橋~羽田間の首都高速1号羽田線と日本橋~代々木(国立競技場)間は、その代表的な道路です。
 この区間の一般の土地には、ビルや住宅が隙間なく立てられていて、結果的には、江戸時代からある河川に高速道路を造ることになりました。日本橋などは、首都高速の下になりました。
 (当時の土木技術レベルと財政予算では、それ以外に方法はありませんでしたが・・・・・)

 実際に行ってみると、首都高速に架かる橋は多く、下に走る自動車は見る事が出来ますが、金網があるので、デジタルカメラでは、思うようには撮影できませんでした。

 しかし、道路に人や物が落ちたりすると、大事故になりますので、仕方が無いですね。

 それでも、金網の隙間が大きい所が何カ所かあり、カメラのレンズだけ、金網の隙間に入れて、撮影ができました。

 京橋インターの所で、撮影し易い所がありましたので、ここで夕暮れ時を待ちました。
 (高速道路への出入口ですので、車の通行を妨げるの禁止です。交通量も多く、車道での撮影は危険で、ルール違反です。自動車の通行が不可能なエリアで撮影しました。)

 日も暮れて、大分暗くなりました。車のライトも、明るく見えます。

 南の空に月が登っていましたので、画面に変化を与える為に、京橋ICも入れて構図を作りました。

 江戸時代の川の跡を首都高速がビルの谷間を走るのも、現代の東京の風景です。
 この写真を、広重の名所江戸百景「第76景 京橋竹がし」に対応する「くまドン板」の景(確定・秋景)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)

 今回は、地味な風景となりましたが、これで終わりとさせていただきます。

 次回からは、東京も紅葉の季節になりましたので、紅葉(黄葉)関連の話になります。

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(2)東京オリンピック招致に伴う首都高速道の再生計画について話します。(また、脱線です。ごめんなさい。)
 ある意味、江戸の川の歴史が、現代・将来へと続く歴史として合わせて話しても良いのかもしれませんが、
 名所江戸百景の雰囲気から外れてきますので、文面から外して続けます。
 (「くまドン」は、あまり政治には関わらないので、政党には無関係の無党派です。)

 論点がぼやけないように、結論を先に言いますと、
 「目先の経済効果にとらわれずに、国民・都民・利用者に迷惑をかけない長期的に安定した財政計画・インフラ再生計画を立てて欲しい。いまだに高度成長期やバブル時代の考えが抜けない人達のごまかしやすり替えの意見を認めず、はびこらせない為に排除しましょう。」です。

 2020年の東京オリンピックが決まった後のマスコミの報道や番組で、「東京オリンピックに向けて、・・・・を」という言葉が飛び交ってます。東京オリンピック決定の嬉しいニュースの後では、喜んでいて、何もかもが正しく思えてしまうのが、人の情かもしれません。しかし、冷静に考えれば、オリンピックを利用した、おかしな言葉が飛び交っています。
 世の中の社会人には、それぞれ所属している組織があり、立場がありますので、自由に物は言えないのかもしれません。しがらみのない「くまドン」ですから、自由に言わせていただきます。表現を緩めると、何を言いたいのか分かりませんので、少しきつい表現かもしれません。


1.首都高速の老朽化に伴う再生計画は、利用者や国民・都民の負担を増やさないように、もっと超長期的な健全な計画を立てて欲しい。「2020年のオリンピックまで」という言葉は止めて欲しい。
 国民や都民、高速利用者に迷惑をかけるオリンピックバブル的な考え(2020年のオリンピックまでに首都高速を再生を間に合わせる等の加速計画)は、拒否して欲しいです。

2.現代の日本は、成熟した社会であり、長期的に無理なく安定した経営のような健全な財政計画が要求されます。
 もはや、日本では高度成長期やバブル時代の考え方は、長期的に経済を破たんさせるだけで、お断りです。
 オリンピックに限らず、高度成長期やバブル時代を忘れられないような人達や、誤魔化しやすり替えで過大な計画を立てる人達は、排除して、堅実な人達で、長期的な健全で無理のない計画を立てて欲しいです。
 私たち国民・都民の生活は、オリンピックが終了しても、営々と変化無く生活を続けていかなければならないのだから、オリンピック名目の過大な出費は一切お断りです。

3.元々、日本のオリンピック招致は、成熟したの国のオリンピックを行うという理由で招致していました。
 それが、オリンピック招致に成功した途端、バブル時代のような甘い過大な計画の考えを宣伝し始め、それが正しいと言いふらしている事自体、バブル崩壊後の「失われた20年」を発生させ、日本を停滞させた原因の人達や、その同類の人達がはびこっているのと変わりない。浮かれた人気稼ぎの甘い意見、業界の都合だけの意見や受け付けず、いい加減な人達を排除して、無理のない長期的な計画を立てて欲しいです。
 過大な計画(招致前で結構いい加減だった国立競技場など)は、見た目の外観にとらわれず、適正な計画に縮小して、予算内にして欲しいと思います。
 (羽田空港も、空から見た外観など要らないと、計画変更したのだから、それぐらいやって欲しいです。)

 現在の日本橋です。見た目も奇麗な白い橋です。地元の有志の「日本橋保存会」方々が、かっての日本橋の魅力と活気を取り戻そうと定期的に掃除されているそうです。7月後半には、日本橋洗いのイベントも行われます。

 その他にも「日本橋保存会」方々は、日本橋川の浄化にも取り組んでいます。

 「日本橋保存会」方々が、日本橋の上に架かる首都高速道路が無くなれば、昔の景観を取り戻せると思うのは当然の成り行きでしょう。念のため言えば、この方々の多くは、善良な人達が多く、上で話した高度成長期やバブル時代の考えで、過大な計画を立てようとする人達とは別でしょう。(一部に企業の再開発計画が絡んでいるらしいですが)また、その思いが、いたずらに需要を増やそうとする業界・政治家の都合に利用されている可能性もあります。

 現在の首都高速が、「1964年の東京オリンピックに待ち合わせる為に、東京の河川の景観を壊した。」ことが問題と言うのであれば、
 「2020年の東京オリンピックに間に合わせる為に、急ぎの再生計画を行い、最終的に国民や都民、利用者にいたずらに迷惑(増税・通行料金の値上げ)をかけた。」というは問題であり、迷惑なことです。
 首都高速が造られてから、50年以上経ち、首都高速の再生が必要なのは変わりませんが、オリンピックに間に合わせる必要は無いでしょう。首都高速の再生計画は、30年~50年の長期スパンで計画を立てて欲しいです。

(3)さらに、問題を難しくするのは、他の道路公団の圏央道・外環道の開通による首都高速側の収入減少でしょう。
 いい加減な甘い考えで、首都高速の新規の道路計画を立てるのは止めて欲しいと思います。極力、既存路線の再生に予算に回して欲しいです。

 元々都心三環状線(圏央道、外環道、首都高速の中央環状線(C2))は、首都高速都心環状線の1日の交通量が車40万台(昔の記憶ですが?、現在の資料では10万台)が限界で、すでに超えている為に、その容量(キャパシティ)を増大させる為に計画された道路でした。

【平成25年度(今年度)に、圏央道の相模原相川IC~高尾山ICが開通の予定】
 首都高速3号線(東名高速方面)と首都高速4号線(中央高速方面)のバイパスに相当し、さらに既存道路と合わせると、東名高速・中央高速から首都高5号線(関越方面)と首都高速4号線(東北方面)までのバイパスルートが完成します。工場が多く、迂回の放射線角度としては60°から135°ぐらいなので、かなり効果が大きいと考えています。(逆に角度が小さかったり、180°に近いとバイパス効果が無くなるでしょう。)
 結果として、首都高速に出入りする車の台数が大幅に減少(渋滞は緩和)します。
 圏央道に関しては、常磐道(水戸)方面にも伸ばしてますが、道路の曲がり多いので、効果が低いそうです。さらに千葉方面は迂回し過ぎで、バイパスの効果は無いと思います。

【平成27年度に、外環道の三郷JCT~市川~高谷JCT(東関東自動車道)間が開通予定】
 首都高速湾岸線と首都高速6号線(水戸方面)とのバイパスに相当し、さらに既存道路と合わせると、湾岸千葉方面から首都高速S1号線(東北方面)と首都高5号線(関越方面)までのバイパスルートが完成します。こちらも、放射線角度としては60°から135°ぐらいなので、かなり効果が大きいと考えています。
 結果として、首都高速に出入りする車の台数が大幅に減少(渋滞は緩和)します。

 この2経路の高速道路完成の影響は大きく、地方から来た大半の貨物車両は、渋滞をする都心を通過せずに他の方面へ移動することができます。結果的に都心周辺部に向かう車両のみが首都高を使用することになります。
 (逆に、そのような結果にならなければ、外環道や圏央道を造った意味が無く、無駄な道路を造った事になるのですが・・・)

 同時に、この事は(首都高速を使用する車両が減少)=(首都高速道路(公)の収入が減少)となります。
 いい加減な甘い考えによる計画で、収入減の影響を吸収できず、利用者の負担に押しつけられるのはお断りです。

(4)ついでにですが、相変わらず、「くまドン」は消費税増税反対です。8%も反対です。
 国民の負担になる消費税増税分を年金に組み込んで問題無いように見せて、年金に入れてた一般会計分を減らし、浮いた一般会計分を公共事業の増分や企業減税、その他一般会計分に回そうというのだから、
 国民にだけ負担を押し付けて、企業・政治家が得をしようとしているだから、国民をバカにしてます!!!
 そもそも、自民党が前に政権を失ったのは、企業の方にばかり甘く、有権者の方を見ていなかったからです。
 国民も、仕方ないとあきらめないで、断固反対の意思表示するべきしょう。世論調査の結果を見ると、がっかりしています。(マスコミなどを利用して、世論誘導で数字の操作をしているのかもしれませんが・・・)
 ただ、安倍首相だけを責めても仕方ないのですが、その周辺にも、それで利益を得ようとしている人達がうようよしているのですからね。

・・・・素直な「旅日記」のブログだけを書いているだけの方が良いのかもしれませんが・・・・・・
二度とバブルを発生させたような人達がはびこることも、その挙句に国民への負担の押しつけも、嫌なのですよ・・・


名所江戸百景105 第103景 千住の大はし 千住大橋と水上バス

2013年11月10日 09時30分59秒 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、隅田川(すみだがわ)に架かる千住大橋(せんじゅおおはし)です。
 下の橋は、現在の千住大橋(昭和2年竣工)です。橋の南側は荒川区(あらからく)、北側は足立区(あだちく)です。
(絵画調)

 現在は日光街道(東北道、国道4号線)に架かる橋です。時代が変わっても、東京(江戸)と北を結ぶ交通の要所です。

【千住大橋】
 徳川家康の江戸入府時に、「千住大橋」(せんじゅおおはし、文禄、1594年架橋)が架けられた後、江戸時代の初期においては、江戸城の防衛の為、隅田川(江戸時代は荒川)には、それ以外の橋は架けられていませんでした。
 隅田川を江戸城の外側にある、もう一つの堀とする考え方です。

 江戸時代が安定期になっても、日光・東北方面につながる街道に架かる橋は、千住の大橋一つだけでしたから、日光街道・奥州街道の第1宿として千住宿が整備され、発展していきました。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第103景 千住の大はし」(冬景)です。

 千住大橋の南側から、絵の手前に千住大橋を置き、隅田川(荒川)の上流側(北西方向)を望んだ絵です。
 ごく自然な俯瞰(上から下を見下ろす)の遠近法を使用しています。川を「S」字型に配置して、その先に関東の山並み(方向的には秩父方面の山ですが、正確には分かっていません。)を配置しています。
 江戸時代の大量輸送や木材などの重量物の運搬は、川による水運でしたので、隅田川を行き来きする帆船が描かれています。川の両岸の舟、橋を行き交う人・馬・駕籠(かご)かき、右端の千住宿が当時の賑わいを物語っています

 下の写真は、千住大橋の北西側にある「奥の細道」の「矢立て初めの地」の碑です。

 5代将軍・綱吉(つなよし)の元禄時代には、松尾芭蕉(まつおばしょう)の奥の細道(おくのほそみち)の出発点となりました。その奥の細道の中で、東北(みちのく)へ旅立つ芭蕉を親しい人達が、前の晩に集まって、舟で送ってくれることになったそうです。千住に着き、舟を下りた芭蕉さんは、見送りの門弟たちとの別れを
 「行く春や 鳥啼魚の目は泪」
 (もう春は過ぎ去ろうとしている。その離別を思い、鳥も泣き(鳴き)、魚の目も涙を流しているようだ)
と詠んだのは、矢立て初め(旅の句の書き始め)の有名な句です。
 下の松尾芭蕉像は、千住大橋の北東側にある足立市場の入り口右側にあります。


 さて、「くまドン」が、この「千住の大はし」に対応する「くまドン版」の景をどのようにするか考えてみました。
 隅田川に架かる橋はなるべく入れる方針でしたので、千住大橋を入れての撮影になります。
 ここで、水上バスからの撮影を考えてみました。そこで、千住大橋を通る水上バスがあるか調べた所、
  「江戸東京ぶらり旅」 平成25年11月の運航日は、11/13(水)
  「いちにちゆらり旅」  平成25年11月の運航日は、11/14(木)
 丸一日コースしかなく、しかも、月1便で、今年最後の運航日(冬は無し)でした。(昨年平成24年も同様)
 両コースとも、とりあえず、予約制ですので、電話してみると、
 「どちらのコースも満員です。一ヶ月前の予約開始日には、満員になってしまいます。」とのことでした・・・(汗)
 あっさり、あきらめて、次の手を考えます。水上バスから撮影できないなら、水上バスを入れて撮影しよう。
 運行コースの時刻表で、前後の発着場の時間から通過時間はある程度予測できます。
 「江戸東京ぶらり旅」の水上バスは一日2回(午後と夕方)、千住大橋を通過します。

 とりあえず、南千住駅(JR常磐線、東京メトロ日比谷線)に着きました。早めに家を出たので時間があります。
 時間まで、周辺を見て回ります。

 最初に訪問したのは、荒川区の素盞雄神社(すさのおじんじゃ)です。荒川区では最も広い氏子領域(61カ町)を持つ神社です。地元では天王様(てんのうさま)と呼ばれています。
(絵画調)

 祭神は、素盞雄大神(すさのおおおかみ)と飛鳥大神(あすかおおかみ)です。
 神社の本殿の横から見た写真です。
(絵画調)

 11月でしたので、七五三の幟(のぼり)が多数ありました。右のイチョウの樹には、絵馬(えま)が一杯あります。
 松尾芭蕉の「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の矢立初めの句碑や、富士塚が境内にあります。
 下の写真は、境内の庚申塔3基です。左から延宝6年(1687年)、寛文13年(1673年)、文化8年(1811年)


 水上バスが千住大橋を通る時間帯が近づきましたので、千住大橋の北側(足立区)側に渡ると、船宿の乗船乗り場があります。(日中のみ入れます。)
 橋の下には、色々な説明資料が設置してあるので、待ち時間には困りません。
 下の絵は、江戸時代の千住宿・千住大橋の絵です。右上の大きな赤い舟は徳川将軍が乗船する御成船です。
 将軍が千葉県松戸市の小金原(こがねはら)の鹿狩りに出かける時に千住の船着き場に12代・家慶(いえよし)が到着した時の絵です。

 資料を読みながら待っていると、隅田川下流のJR常磐線の架橋の向こうから水上バスがやってきました。

 水上バスのある川岸付近から、広重の「千住の大はし」は描かれていますが、現在は高い堤防があり、侵入禁止です。
 水上バスが千住大橋を通過する瞬間を撮影しましたが、水上バスが日陰にあり、明暗比が大き過ぎて失敗です。
(絵画調)

 水上バスが通り過ぎ、上流に走っていきますが、逆光で、今一つです。

 後に見える青い橋は、東京電力管理の「荒川専用橋」ですが、侵入禁止です。
 千住大橋の北側にある撮影ポイントは、限られていますので、別の場所で撮影することにしました。

 とりあえず、水上バスが戻ってくるまでに時間がかなりありますので、橋の近くを見て回ることにしました。
 最初は、撮影場所の近くにある橋戸稲荷神社(はしどいなりじんじゃ)です。
 この神社は、千住の渡し場(江戸時代以前は橋がありません)の河原の小高い丘に小さな社(やしろ)があったそうです。その後、本殿と拝殿が造られ、土地の開拓農民や荒川の上流から荷物を運ぶ船頭からの信仰を集めたそうです。
(絵画調)

 拝殿の前扉に江戸時代末期から明治にかけて活躍した名工(左官職人)である伊豆長八(いずちょうはち、入江長八)が創作の二匹の白狐の彫刻が残されています。(作品の大半が、震災や戦災で焼失してしまい、現存するのは、45点と珍しいのです。)

 さて、荒川区側も千住大橋付近は、堤防の上に上がれる所はありませんでしたが、上流側(西)に移動していくと、川岸が親水テラスになっている場所があります。ここで、水上バスが戻ってくるのを待つことにしました。
 千住大橋の手前に荒川専用橋と水道用(?)橋がありますが、止む得ません。

 町のビルに夕日に照らされる中、東の空に月が明るく輝いていました。

 下流の浅草付近に比べると、通過する船も限られていますので、風の弱いこの日の水面は穏やかでした。
 すぐ上流には、京成本線の架橋があり、成田空港へ行く「京成スカイライナー」が通過しています。
(絵画調)

 日が暮れて、大分時間が過ぎてから、水上バスが上流からやってきました。
 残念ながら京成線の電車は橋を渡っていませんでした。

 水上バスが千住大橋に向かいます。一番奥が千住大橋ですが、二つの専用橋で3つの弧(こ)が重なっています。

 この写真を、広重の名所江戸百景「第103景 千住の大はし」に対応する「くまドン板」の景(確定・秋景)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)
 撮影は11月でしたが、このコース運行は冬はありませんので、秋景にさせていただきました。

 隅田川に架かる橋の歴史につきましては、下のブログで説明いたしましたので、そちらを参照お願いします。
  「名所江戸百景018 第58景 大はしあけたの夕立 隅田川の大橋(1)」~「名所江戸百景020 ・・・・(3)」

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 次回からは、10月分の景の写真となります。

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名所江戸百景104 第49景 水道橋駿河台 雪化粧の富士山

2013年11月07日 07時55分15秒 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、文京区(ぶんきょうく)の文京シビックセンターからの白い富士山の撮影です。
 11月になると、富士山も冠雪(かんせつ)して、白い雪化粧(ゆきげしょう)した姿を見る日が多くなります。
 今年は暖かいので、空気の透明度が悪く、富士山が見えない日が多いです。
 原因は、首都圏の自動車の排気ガスです。

 話の流れとしては、「名所江戸百景028 第49景 水道橋駿河台 鯉のぼり」からの続きです。
 文京シビックセンターの生き方や周辺の話は、上の回でしましたので、省略します。
 昨年も、寒くなるのが遅かったのですが、それでも空気が冷えてくると、遠くの山が良く見えるようになります。
 1回目は、11月18日頃でした。

 左手前は小石川後楽園(こいしかわこうらくえん)です。江戸時代は水戸藩の屋敷です。紅葉は始まったばかりです。
 後楽園の先に見えるビルの谷間の水面は、JR飯田橋駅(いいだばしえき)から先に残る外濠(そとぼり)です。
 真ん中手前は、東京メトロ丸の内線の後楽園駅から池袋方面に線路が伸びています。
 右手前は礫泉公園(れきせんこうえん)です。春日局(かすがのつぼね)の銅像があります。
 礫泉公園の後方のビルは中央大学(ちゅうおうだいがく)理工学部の建物です。

 真ん中奥の新宿高層ビル群の左側に富士山があるのですが、残念ながら、風が強いのか雲に覆われて富士山だけ見えないのです。ビルの後ろにある丹沢山塊(たんざわさんかい)は良くみえているのですが・・・・・

 北西方向には、奥多摩(おくたま)や奥秩父(おくちちぶ)の山々が広がり、その右には、池袋(いけぶくろ)のサンシャイン60を含む高層ビル群が見えます。さらに、その右方向には、北関東の山々まで、はっきり見えました。

 江戸時代は蒸気機関もありませんので、空気は澄んでいて、「江戸時代の小氷期」といわれるように、今より寒く、遮る建物もありませんでした。名所江戸百景で北関東の山が描かれているのも納得します。
 この日は、北東の方向を望むと、筑波山(つくばさん)まで良く見えました。


 11月25日頃に再訪しましたが、今回は、新宿新宿高層ビル群の左に白富士が見えています。
 富士山のすぐ右には、東京都の第一庁舎が、上部だけ見えています。

 富士山が左端にあるのは、左側のビルを入れないようにしたからです。
 左側の無い頃は、富士山の両側に新宿高層ビル群が広がっていました。

 ビルと富士山だけでは、味気なく、名所江戸百景らしくありませんので、手前の黄葉が1週間前より色づいた後楽園(江戸時代は水戸藩の屋敷)と丸ノ内線、礫泉公園を入れて構図を撮りました。写真は広重の絵のように遠近法に逆らって、大きくすることはできませんので、小さな白富士となりましたが、広がりのある風景となりました。
 都心はあまり気温が下がらず、昨年の紅葉のピークが12月初め頃で、紅葉が色づきが良くありませんでした。

 この写真を、広重の名所江戸百景「第49景 水道橋駿河台」に対応する「くまドン板」の景(確定・秋景)とさせていただきます。
 季節は11月で、旧暦10月(冬)になりますが、都心の黄葉は遅く、行事では無いので、秋景とします。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第49景 水道橋駿河台」(夏景)です。

 絵の説明は、「名所江戸百景028 第49景 水道橋駿河台 鯉のぼり」で説明しましたので、割愛します。

 この日は、別の場所で撮影した後、また文京シビックセンターに戻ってきました。
 日が沈む時間には間に合いませんでしたが、美しい夕焼けでした。

 休日でしたので、残念ながら、新宿の高層ビル群の灯りは消えています。

 次第に夕闇が迫ってきました。上の写真よりは、ビルのライトの数が増えたような気がします。

 この日の残照のトーンは、名所江戸百景の絵を思わせるような本当に奇麗なグラデーションでした。


 右奥に見える高層ビルのある池袋へ向かう道路が春日通り(国道254号)です。

 東の空には、スカイツリーの冬粋(いき)のライトアップが輝いています。
 こちらも春日通り(国道254号)が、湯島天神(ゆしまてんじん)や上野(うえの)へと続いています。

 後楽園遊園地のライトも美しく輝いています。これで撮影終了です。

 年末になると、後楽園遊園地だけでなく、周辺の道路もイルミネーションで装飾されます。きれいですよ。

 11月上旬は、都心の高層展望台がダイヤモンド富士の日を迎えるのですが、展望台で撮影できる場所は限られており、撮影者も多く、せっかく行っても、混み合って撮影できない可能性が高いのです。
 文京シビックセンターも、そろそろダイヤモンド富士の撮影日を迎えるのですが、とても混むそうです。
 その為、文京シビックセンターでは、三脚の長時間使用は禁止になったそうです。
 狭い展望台で無理をして狙うよりは、横に広い河川敷などで狙う方が楽しめるかもしれません。
 もっとも、こちらも人が沢山いて、大変みたいですが・・・・・・・・・
 (人が少ない場所で撮影の場合は、単独は危険かもしれません。集団で行動してください。)
 また、ダイヤモンド富士の日以外は、都内の高層展望台も隙間がありますので、今回は11月後半の話でしたが、ダイヤモンド富士以外の日の方が展望を楽しめると思い、このブログにしました。

 「くまドン」のダイヤモンド富士撮影は、相変わらず、撮影チャンスに恵まれません。
 「くまドン」が狙っていた場所も、手前の丹沢の山も見えず、夕焼けにすらならず、撮影が終わりました。
 今年は暖かいので、空気の透明度が、あまり良くありません。
 今回ダメだったので、残りは2月上旬頃まで待つことになりますが、それを逃すと、来年の秋までチャンスがきません。
 いつまでも、ずるずると続ける分けに行きませんので、残念ながら、方針を変更させていただきます。
(1)とりあえず、ダイヤモンド富士に拘らず、狙っていた場所は仮の景を作り、
  来年2月のチャンスでダイヤモンド富士が撮影できなかった場合は、仮景を確定にします。
(2)ダイヤモンド富士は、チャンスがあれば、百景の場所に関わらず、狙ってみる事にします。

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 次回は、他の景の話になります。

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