こんにちわ、「くまドン」です。
今回は、東京駅とイチョウ(銀杏)並木の黄葉です。
江戸時代は、人と馬が陸上の主な交通手段でしたから、日本橋が五街道の起点でした。
現代の東京(江戸)においては、東京駅は東京から各地に向かう起点になります。
昨年・2012年(平成24年)の10月には、明治時代からの丸の内駅舎の復原工事が完成しています。
(絵画調)
今回の写真は、昨年・平成24年11月の撮影です。東京駅の向こう側に見える工事用のクレーンは、東京駅八重洲口(やえすぐち、東口)のグランルーフ(今年・平成25年9月完成)建設中の風景です。
【観光お得情報】
左のイチョウ並木には、赤い2階建バス「スカイバス」が信号待ちしています。2階は天井のない開放型です。
丸の内三菱ビルを起点・終点に、浅草・スカイツリーコース・お台場コース・東京タワーなど色々なコースがあります。特に、スカイ・ホット・バスは、特定の3コースが乗降自由の1日券・2日券があり、お得かも。
以前、旧中川の水陸両用船「スカイダック」の話をした事がありますが、同じ会社です。
東京駅に到着した時は、夕暮れ時の空に月が昇っていましたが、まだ空が明るかったです。
東京駅の開業は、大正3年12月(西暦1914年)です。来年2014年(平成26年)は開業100年ですね。
ここで、「あれ、大正?」と思うい人もいるかもしれません。
【東京の鉄道の歴史】
(1)日本の鉄道網の始まりは、明治5年の新橋駅~横浜駅間の開通です。東京駅ではありません。
この時の新橋駅は、現在の貨物駅である汐留駅(しおどめえき)、横浜駅は、現在の桜木町駅だそうです。
当時から銀座周辺は繁華街で、用地取得が難しく、駅・車庫・鉄道工場の為に、まとまった広さの土地を確保するために江戸時代の大名屋敷の跡地を利用した結果、新橋(汐留)駅になったそうです。
また、その先の新橋駅~品川駅間も、土地の取得が難しく、当時の海を埋め立てて、線路を造りました。
明治22年には、新橋駅~神戸駅までの東海道本線が完成しました。この時点で東京駅はありませんでした。
下の写真は、皇居方面を望む景色です。
このイチョウ並木の黄葉は、皇居側の黄葉が早く、東京駅側の黄葉は遅い(青い葉の状態)のですが、東京駅側の方が、ビルが密集している関係で、気温が高いのでしょうか?
(2)明治10年の西南戦争の後、政府の財政が悪化して、民間による鉄道建設に方針が変更になりました。
明治16年に日本最初の私鉄・日本鉄道による上野駅~熊谷駅(埼玉県)間が開通になりました。
明治22年には上野駅~青森駅間(東北本線)が完成しています。(もの凄い建設速度ですが・・・・)
さらに、明治31年には常磐線(じょうばんせん、水戸方向)が完成して、上野駅は北の玄関口となりました。
明治23年に、上野駅~秋葉原駅間の貨物線が開通しましたが、相変わらず、上野駅と新橋駅を結ぶ線路はありませんでした。
レトロ調の建物ですから、撮影者の数も多いです。
(3)当時の山手線は、新橋駅から上野駅まで、鉄道の資材(貨物)輸送の為に建設されました。
明治18年には、赤羽駅~品川駅間が、明治36年には、田端駅~池袋駅間が開通しています。
では、新橋駅と上野駅の間を移動する旅行者はどうしていたかと言うと、銀座のなどの繁華街の道路を
最初は徒歩か人力車で移動 →馬車鉄道(明治15年~) →路面電車(明治36年~)と変化していきました。
東の空の青が濃くなった頃、街灯の灯り(あかり)に照らされた黄葉したイチョウ並木との共演です。
分かり難いですが、月が右上の樹の枝の隙間にあります。
(4)東京の西方向(現在の中央本線)は、明治22年に私鉄の甲武鉄道が新宿駅~立川駅間で開業し、明治28年には、飯田町駅まで開通していました。
東京の東方向(現在の総武線)も、明治37年に私鉄の総武鉄道が、両国橋駅(現在の両国駅)始発で開業しています。当時の総武鉄道の資金力では、隅田川に橋を架けるのは難しかったので、両国駅が始発になりました。
昭和57年までは、房総(千葉県)方向の特急は東京駅始発ではなく、両国駅始発でしたので、その名残のホームが現在の両国駅にも残っています。
東京の東西南北の鉄道は揃いましたが、この時点で、鉄道間を結ぶ旅客用線路はありませんでした。
上の写真の写真ですと、東京駅が小さすぎるので、フレーミング(レンズで画面を切り取る)しました。
この写真を、広重の名所江戸百景「第75景 神田紺屋町」に対応する「くまドン板」の景(確定・秋景)とさせていただきます。
(このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)
(5)明治23年に、新橋駅と上野駅を結ぶ鉄道を造ることになりましたが、
銀座から日本橋にかけての繁華街は土地の入手が困難の為、当時は野原だった銀座と皇居の間にある現在のルートを通すことになり、その中間の野原に中央停車場(東京駅)が造られることになります。
しかし、高架線路で建設予算が大きくなる為、上野側の私鉄・日本鉄道は負担できず、新橋側からのみの建設になります。その後、明治39年の鉄道国有法により、私鉄が国有化されました。
明治41年には、東京駅北側の呉服橋駅(仮駅)まで延長しましたが、東京駅は工事中だったので、駅構内を止まらず、通過していました。
そして、4年後の大正3年12月に、東京駅の丸の内駅舎が完成し、東海道本線の起点となりました。
さらに、望遠にズームして、東京駅を大きくしましたが、イチョウ並木の雰囲気がなくなりました。
(絵画調)
(6)大正8年に中央本線が東京駅と接続、昭和7年に総武本線がお茶の水駅まで伸びて、ようやく東京の東西南北の各線が接続されるようになりました。
西の空も夕闇が迫ってきて、空の青にイチョウの黄葉が美しく照らし出されていました。
最後は、皇居の和田蔵門から、馬場先濠の眺めた夜景です。
下の絵は、広重の名所江戸百景「第75景 神田紺屋町」(秋景)です。
神田紺屋町(かんだこんやちょう)は、JR神田駅の東側にある町です。
町名の由来になった紺屋(染色業者)が多く、屋根の上に高い台をつくり、大量の布を干してる光景がよく見られたそうです。町内には藍染川(あいぞめがわ)と呼ばれる水路が流れ、晒し(さらし)に利用されていました。
構図として、近くの染物を大きく描く、名所江戸百景の特徴である近景構図で表現されています。両側に物干し台や染物を絵の外側に出すことにより、絵の外側に広がっていく風景を作りだしています。
なを、右手の布には、「魚」の字が見えますが、出版元の「魚栄」の意味で、宣伝でもあり、洒落(しゃれ)でもあります。その後ろの布は、「ロ」の中に「ヒ」を入れた模様がありますが、これは、広重(ひろしげ)を意味しています。広重の絵の中には、このような文字が描かれている絵がいくつかあります。
この絵が描かれた場所は、現在、繊維関係企業のビルなどの建物が建ち並んでいます。撮影に不向きですので、自由に使える景として使用させていただきます。
今回は、これで終わりとさせていただきます。
次回も、紅葉(黄葉)に関係する景が続きます。
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今回は、東京駅とイチョウ(銀杏)並木の黄葉です。
江戸時代は、人と馬が陸上の主な交通手段でしたから、日本橋が五街道の起点でした。
現代の東京(江戸)においては、東京駅は東京から各地に向かう起点になります。
昨年・2012年(平成24年)の10月には、明治時代からの丸の内駅舎の復原工事が完成しています。
(絵画調)
今回の写真は、昨年・平成24年11月の撮影です。東京駅の向こう側に見える工事用のクレーンは、東京駅八重洲口(やえすぐち、東口)のグランルーフ(今年・平成25年9月完成)建設中の風景です。
【観光お得情報】
左のイチョウ並木には、赤い2階建バス「スカイバス」が信号待ちしています。2階は天井のない開放型です。
丸の内三菱ビルを起点・終点に、浅草・スカイツリーコース・お台場コース・東京タワーなど色々なコースがあります。特に、スカイ・ホット・バスは、特定の3コースが乗降自由の1日券・2日券があり、お得かも。
以前、旧中川の水陸両用船「スカイダック」の話をした事がありますが、同じ会社です。
東京駅に到着した時は、夕暮れ時の空に月が昇っていましたが、まだ空が明るかったです。
東京駅の開業は、大正3年12月(西暦1914年)です。来年2014年(平成26年)は開業100年ですね。
ここで、「あれ、大正?」と思うい人もいるかもしれません。
【東京の鉄道の歴史】
(1)日本の鉄道網の始まりは、明治5年の新橋駅~横浜駅間の開通です。東京駅ではありません。
この時の新橋駅は、現在の貨物駅である汐留駅(しおどめえき)、横浜駅は、現在の桜木町駅だそうです。
当時から銀座周辺は繁華街で、用地取得が難しく、駅・車庫・鉄道工場の為に、まとまった広さの土地を確保するために江戸時代の大名屋敷の跡地を利用した結果、新橋(汐留)駅になったそうです。
また、その先の新橋駅~品川駅間も、土地の取得が難しく、当時の海を埋め立てて、線路を造りました。
明治22年には、新橋駅~神戸駅までの東海道本線が完成しました。この時点で東京駅はありませんでした。
下の写真は、皇居方面を望む景色です。
このイチョウ並木の黄葉は、皇居側の黄葉が早く、東京駅側の黄葉は遅い(青い葉の状態)のですが、東京駅側の方が、ビルが密集している関係で、気温が高いのでしょうか?
(2)明治10年の西南戦争の後、政府の財政が悪化して、民間による鉄道建設に方針が変更になりました。
明治16年に日本最初の私鉄・日本鉄道による上野駅~熊谷駅(埼玉県)間が開通になりました。
明治22年には上野駅~青森駅間(東北本線)が完成しています。(もの凄い建設速度ですが・・・・)
さらに、明治31年には常磐線(じょうばんせん、水戸方向)が完成して、上野駅は北の玄関口となりました。
明治23年に、上野駅~秋葉原駅間の貨物線が開通しましたが、相変わらず、上野駅と新橋駅を結ぶ線路はありませんでした。
レトロ調の建物ですから、撮影者の数も多いです。
(3)当時の山手線は、新橋駅から上野駅まで、鉄道の資材(貨物)輸送の為に建設されました。
明治18年には、赤羽駅~品川駅間が、明治36年には、田端駅~池袋駅間が開通しています。
では、新橋駅と上野駅の間を移動する旅行者はどうしていたかと言うと、銀座のなどの繁華街の道路を
最初は徒歩か人力車で移動 →馬車鉄道(明治15年~) →路面電車(明治36年~)と変化していきました。
東の空の青が濃くなった頃、街灯の灯り(あかり)に照らされた黄葉したイチョウ並木との共演です。
分かり難いですが、月が右上の樹の枝の隙間にあります。
(4)東京の西方向(現在の中央本線)は、明治22年に私鉄の甲武鉄道が新宿駅~立川駅間で開業し、明治28年には、飯田町駅まで開通していました。
東京の東方向(現在の総武線)も、明治37年に私鉄の総武鉄道が、両国橋駅(現在の両国駅)始発で開業しています。当時の総武鉄道の資金力では、隅田川に橋を架けるのは難しかったので、両国駅が始発になりました。
昭和57年までは、房総(千葉県)方向の特急は東京駅始発ではなく、両国駅始発でしたので、その名残のホームが現在の両国駅にも残っています。
東京の東西南北の鉄道は揃いましたが、この時点で、鉄道間を結ぶ旅客用線路はありませんでした。
上の写真の写真ですと、東京駅が小さすぎるので、フレーミング(レンズで画面を切り取る)しました。
この写真を、広重の名所江戸百景「第75景 神田紺屋町」に対応する「くまドン板」の景(確定・秋景)とさせていただきます。
(このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)
(5)明治23年に、新橋駅と上野駅を結ぶ鉄道を造ることになりましたが、
銀座から日本橋にかけての繁華街は土地の入手が困難の為、当時は野原だった銀座と皇居の間にある現在のルートを通すことになり、その中間の野原に中央停車場(東京駅)が造られることになります。
しかし、高架線路で建設予算が大きくなる為、上野側の私鉄・日本鉄道は負担できず、新橋側からのみの建設になります。その後、明治39年の鉄道国有法により、私鉄が国有化されました。
明治41年には、東京駅北側の呉服橋駅(仮駅)まで延長しましたが、東京駅は工事中だったので、駅構内を止まらず、通過していました。
そして、4年後の大正3年12月に、東京駅の丸の内駅舎が完成し、東海道本線の起点となりました。
さらに、望遠にズームして、東京駅を大きくしましたが、イチョウ並木の雰囲気がなくなりました。
(絵画調)
(6)大正8年に中央本線が東京駅と接続、昭和7年に総武本線がお茶の水駅まで伸びて、ようやく東京の東西南北の各線が接続されるようになりました。
西の空も夕闇が迫ってきて、空の青にイチョウの黄葉が美しく照らし出されていました。
最後は、皇居の和田蔵門から、馬場先濠の眺めた夜景です。
下の絵は、広重の名所江戸百景「第75景 神田紺屋町」(秋景)です。
神田紺屋町(かんだこんやちょう)は、JR神田駅の東側にある町です。
町名の由来になった紺屋(染色業者)が多く、屋根の上に高い台をつくり、大量の布を干してる光景がよく見られたそうです。町内には藍染川(あいぞめがわ)と呼ばれる水路が流れ、晒し(さらし)に利用されていました。
構図として、近くの染物を大きく描く、名所江戸百景の特徴である近景構図で表現されています。両側に物干し台や染物を絵の外側に出すことにより、絵の外側に広がっていく風景を作りだしています。
なを、右手の布には、「魚」の字が見えますが、出版元の「魚栄」の意味で、宣伝でもあり、洒落(しゃれ)でもあります。その後ろの布は、「ロ」の中に「ヒ」を入れた模様がありますが、これは、広重(ひろしげ)を意味しています。広重の絵の中には、このような文字が描かれている絵がいくつかあります。
この絵が描かれた場所は、現在、繊維関係企業のビルなどの建物が建ち並んでいます。撮影に不向きですので、自由に使える景として使用させていただきます。
今回は、これで終わりとさせていただきます。
次回も、紅葉(黄葉)に関係する景が続きます。
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