こんにちわ、「くまドン」です。
今回は、千葉県・市川市(いちかわし)の国府台(こうのだい)で、紅葉と赤い富士山の撮影が目的です。
いきなり、国府台のから望む富士山の超望遠アップ写真から始まります。
朝日を浴びる富士山は雪で真白でした。撮影日は、昨年・平成24年11月25日頃です。(日の出時間は6:26頃)

よく見ると、富士山の下に、見たことがある尖ったビルがあります。NTTドコモ代々木(よよぎ)ビル(渋谷区)です。
このビルは、新宿高層ビル群の南にあり、東京都のビルの中ではミッドタウンタワー(248m)、東京都庁第一本庁舎(234.4m)に次いで3番目(屋上239.85m、最頂部272m)の高さがありますので、目立つ形の為、新宿方向を探すのに助かります。
NTTドコモ代々木ビルは、新宿の南にあるので、東から見ると、右側に新宿の高層ビル群が見つかります。
カメラを広角側に回すと、周辺が広く入ります。新宿の都庁らしき建物が、富士山から右側に少し離れた場所に見えます。撮影位置を移動したので、手前の建物と富士山の位置関係が変わりましたが、分かりますでしょうか?
富士山の手前の丹沢(たんざわ)の山塊も良く見えます。左には、スカイツリー(634m)も見えます。

手前の川は、東京都と千葉県の間を流れる江戸川(えどがわ)です。江戸川沿いの堤防の上は、遮る建物が少ない為、富士山を撮影に向いている所です。
当然、江戸川の堤防沿いに移動していくと、スカイツリーと富士山を重ねて撮影することも可能です。
朝日が昇る前に到着して撮影する予定でしたが、ものの見事に寝坊(ねぼう)して、朝日が明るくなってから到着したので、富士山が赤というより、オレンジ色になってしまいました。再度、挑戦となりました。
下の絵は、広重の名所江戸百景「第95景 鴻の台とね川風景」(秋景)です。

国府台(鴻の台)から、江戸川(利根川)の下流方向(南側)を眺めた風景です。
江戸川の左側に迫った崖が国府台(現在の里見公園)です。崖に紅葉している木があり、展望台になっています。
真ん中を緩やかに流れる江戸川(利根川)の右に関東平野が広がり、右奥に富士山が見えていますが、
上の写真のように国府台から見ると、富士山は西側にあるので、江戸川の対岸に見る事になります。
現在の国府台を江戸川下流方向に見ると、下の写真(これは5月頃撮影した写真です。)のようになります。

富士山は、真横の右にありますので、絵のように写真を撮影しようとすると画角が90°を超える対角魚眼レンズで撮影することになってしまいます。(当然、富士山は、もの凄く小さく写りますが・・・・)
左の木が茂っている斜面が国府台の崖です。実際に崖に近づいてみると、結構、急な斜面なのですが、広重の絵のようにオーバーハング(上部が前にせり出している)していません。
江戸時代の頃は現在と異なっていて、国府台の台地が、もっと江戸川(利根川)の中に張り出していたという指摘もあります。
広重が国府台の景色を描く時に、崖の急峻(きゅうしゅん)さを誇張(こちょう)して描いたのか?
この場所は、明治時代は、軍の施設になっていて、現代では、川沿いに車道が走っていますので、崖が崩されている可能性もありますので、今となっては、なんとも言えませんが・・・・・・・・謎として残る所です。
せっかく、ここまで来たのですから、里見公園内を回ってみます。
昨年、平成24年は暖かく、なかなか紅葉が進みませんでした。
この時も、公園の真ん中に池付近の樹は紅葉していませんでした。
それでも、比較的早めに黄葉するイチョウは黄色に色づいて、朝日を浴びて輝いていました。

【国府台 (こうのだい、鴻の台)】
広重の絵の題名にある鴻の台(こうのだい)は、千葉県市川市国府台 (こうのだい)の別名です。
国府台の関東平野の低地部の端にある台地で、その歴史は古いです。
(1)はるか昔、約6000年前の縄文時代(じょうもんじだい)の頃には、現在より海面が3m程度高く(縄文海進)、東京湾は現在の栃木県や群馬県まで入り込んでいました。
江戸川の東側には、下総台地(しもうさだいち)が連なり、西側の関東平野は海に沈んでしまいますで、
国府台の目の前は江戸川でなく、東京湾の海が広がっていた事になります。
国府台は、市川市の標高最高地点(30.1m)でもあります。

縄文時代の人達は、狩猟を中心とした生活ですから、魚貝類が獲れる海沿いの国府台は、格好の生活の場だったことでしょう。
その後、海面の水位は下がり、川から運ばれた土砂も河口部に堆積していった為、海は次第に後退していきました。
農耕の始まった弥生時代頃には、国府台の対岸に見える江戸川区の北小岩付近に集落あったらしいです。
(2)古墳時代(6~7世紀)になると、地方の豪族(ごうぞく)が古墳(こふん)を作るようになります。埼玉県(さいたまけん)の荒川などの川の近くにある台地には、古墳が多くあります。
国府台付近にも古墳がいくつかあり、里見公園内でも明戸古墳(あけどこふん)と呼ばれる小さな前方後円墳があります。

小高くなった上に2つの石棺(せっかん)が並んで置かれています。
数枚の緑泥片岩を組み合わせた箱式石棺ですが、野ざらし状態で展示している、とんでもない遺跡です。
現在では、石棺の上のふた(蓋)はありません。
(3)大化の改新以降に、律令制度(りつりょうせいど)が整備されると、地方行政の中心である国府が置かれるようになります。
国府台の地名は、下総国府が国府台付近にあった事から来ています。周辺には国分寺跡もあり、国府の遺構らしき跡も見つかっていますが、正確な位置は判明していないようです。
その後、平安時代になると、平将門(たいらのまさかど)の乱などで、国府が占領されたり、律令制度が崩壊していくにつれて、下総国府も衰退していきます。
足元には、黄色のイチョウの落ち葉の絨毯(じゅうたん)が敷き詰められています。

(4)明戸古墳の2つの石棺は、室町時代(西暦1479年)の武将・太田道灌(おおたどうかん)が、千葉自胤(ちばよりたね)を援助して、臼井の千葉孝胤(ちばたかたね)を攻めたとき、陣(国府台城)を築こうとして盛土を取り除いた際に露出して発見されたと伝えられています。その当時は出土品もあったようです。
下の写真は、里見公園の東側にある国府台天満神社です。(5月頃撮影した写真です。)
太田道灌持資がこの土地の鎮守として創建したと伝えられています。

元々は、里見公園の南東側にある東京医科歯科大学構内にある法皇塚古墳(ほうおうづかこふん)の上に祀られていましたが、明治八年に大学を建てる為に、現在の場所に移されました。
この神社は、毎年1/17に「辻切り(つじぎり)」と呼ばれる民族行事が行われています。
ワラで2m程の大蛇(だいじゃ)を四体作り、お神酒を飲ませ魂入れをして、町の四隅の樹に頭を外に向けて掛けるそうです。時代の流れもあり、市川市で昔の姿を伝えているのは、この国府台天満神社のみとなったそうです。
以前は、獅子舞(ししまい)も行われていたそうですが、その継承者が各々の家の相続者に限られていたことと、社会情勢の変化等から、昭和13年を最後に継承が絶えてたとのことです。
【辻切り(道切り)】
村と周辺との境(出入口)にあたる四隅の辻に、しめ縄(注連縄)やワラで作った大蛇を造り、悪霊や悪疫が村に侵入するのを防ぐため、霊力によって遮断できると信じられてきた日本の伝統行事です。
同じ理由から、道祖神(どうそじん)が祀られることもありました。
千葉県の南部では、しめ縄を張る村が多く、北部では大蛇を作る村多いそうです。
公園の散策路も、すでに秋の落ち葉ロードとなっています。写真の左外には、夜泣き石などの史跡があります。

(5)戦国時代になると、小田原の戦国大名・北条氏(ほうじょうし)と関東の諸将の間で、二度にわたる国府台合戦(こうのだいかっせん)が行われました。
第二次国府台合戦は、房総の戦国大名・里見氏(さとみし)と北条氏(ほうじょうし)との間で、行われました。
結果は、北条氏の夜襲により、里見氏の大敗です。里見方の武将も討ち死にしました。
里見公園には夜泣き石と言われる史跡があり、合戦で戦死した里見広次の美しい姫の伝説があります。
「戦死した里見広次の美しい姫が父の霊を弔うため、遠い安房(あわ)の国から国府台を訪ねてきました。
姫は身も心も疲れ果て、そばにあった石にもたれ弱いかすかな声で父の名を呼びながら、幾日か泣き続け、
とうとう息が絶えてしまいました。以来、この石から夜になると悲しい声が聞こえてきた。」という伝説です。
カエデ(楓)の樹が紅葉するのは、遅い方です。公園内の他のカエデの木が青いままなのに、この場所だけ、なぜか奇麗に赤く紅葉していましたのか?・・・不思議です・・・?

(6)このような伝説から、江戸時代後期には、滝沢馬琴(たきざわ ばきん、曲亭馬琴)の「南総里見八犬伝」ゆかりの地として扱われるようになります。国府台は江戸の名所として、有名観光地となっていたのです。
「南総里見八犬伝」は、文化11年(1814年、馬琴47歳頃)から天保13年(1842年刊行、馬琴75歳頃)までの28年間もかかり完成した馬琴(明和4年(1767年)生まれ)の大作です。
執筆途中で失明しても、息子の嫁「お路」との口述筆記により完成させたそうです。その後、82歳で亡くなるまで執筆を続けたそうです。
広重(寛政9年(1797年)生まれ)を有名にした「東海道五十三次」の保永堂版が(天保年間1833年~1834年)、「名所江戸百景」が安政年間(1856年~1858年、同年・コレラにより死去)です。
読本(よみほん、江戸時代の伝奇小説)作者と浮世絵師(うきよえし)では分野が違いますが、広重にとって、馬琴は同時代の20歳年上の先輩ということになります。
広重は、江戸で馬琴の「南総里見八犬伝」が評判になり、この絵を描く時に、どのような考えでいたのでしょうか?
どちらも、亡くなるまで旺盛な創作意欲を持っていた点は、共通ですが・・・・・・・・・・
【国府台までのアクセス】
「くまドン」は、朝が早過ぎて、電車では家からのアクセスに時間がかかり過ぎるので、マイカーで行きましたが、
最寄駅は京成本線の国府台駅です。歩いて15分~20分かかります。
国府台駅の700m程、南東に離れた所にJR総武線の市川駅があります。市川駅からは、京成バスで「国立病院・矢切駅経由 松戸駅行き」に乗り、「国立病院」か「公民館」のバス停で下車となります。(6時過ぎ頃が始発です。)
長くなりましたので、今回は、これで終わりとさせていただきます。
先週と今週は仕事が忙しくて、ブログ作成の時間が取れませんでした。
このブログをまとめるのにも手間取り、残念ながら、ブログの更新が1週間以上停滞してしまいました。
11月分の紅葉の景は、まだまだ続くのですが、どうやら終わりそうもなさそうです・・・・・・・・(汗)。
次回も、国府台の紅葉と朝焼けに染まる富士山撮影の続きです。
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今回は、千葉県・市川市(いちかわし)の国府台(こうのだい)で、紅葉と赤い富士山の撮影が目的です。
いきなり、国府台のから望む富士山の超望遠アップ写真から始まります。
朝日を浴びる富士山は雪で真白でした。撮影日は、昨年・平成24年11月25日頃です。(日の出時間は6:26頃)

よく見ると、富士山の下に、見たことがある尖ったビルがあります。NTTドコモ代々木(よよぎ)ビル(渋谷区)です。
このビルは、新宿高層ビル群の南にあり、東京都のビルの中ではミッドタウンタワー(248m)、東京都庁第一本庁舎(234.4m)に次いで3番目(屋上239.85m、最頂部272m)の高さがありますので、目立つ形の為、新宿方向を探すのに助かります。
NTTドコモ代々木ビルは、新宿の南にあるので、東から見ると、右側に新宿の高層ビル群が見つかります。
カメラを広角側に回すと、周辺が広く入ります。新宿の都庁らしき建物が、富士山から右側に少し離れた場所に見えます。撮影位置を移動したので、手前の建物と富士山の位置関係が変わりましたが、分かりますでしょうか?
富士山の手前の丹沢(たんざわ)の山塊も良く見えます。左には、スカイツリー(634m)も見えます。

手前の川は、東京都と千葉県の間を流れる江戸川(えどがわ)です。江戸川沿いの堤防の上は、遮る建物が少ない為、富士山を撮影に向いている所です。
当然、江戸川の堤防沿いに移動していくと、スカイツリーと富士山を重ねて撮影することも可能です。
朝日が昇る前に到着して撮影する予定でしたが、ものの見事に寝坊(ねぼう)して、朝日が明るくなってから到着したので、富士山が赤というより、オレンジ色になってしまいました。再度、挑戦となりました。
下の絵は、広重の名所江戸百景「第95景 鴻の台とね川風景」(秋景)です。

国府台(鴻の台)から、江戸川(利根川)の下流方向(南側)を眺めた風景です。
江戸川の左側に迫った崖が国府台(現在の里見公園)です。崖に紅葉している木があり、展望台になっています。
真ん中を緩やかに流れる江戸川(利根川)の右に関東平野が広がり、右奥に富士山が見えていますが、
上の写真のように国府台から見ると、富士山は西側にあるので、江戸川の対岸に見る事になります。
現在の国府台を江戸川下流方向に見ると、下の写真(これは5月頃撮影した写真です。)のようになります。

富士山は、真横の右にありますので、絵のように写真を撮影しようとすると画角が90°を超える対角魚眼レンズで撮影することになってしまいます。(当然、富士山は、もの凄く小さく写りますが・・・・)
左の木が茂っている斜面が国府台の崖です。実際に崖に近づいてみると、結構、急な斜面なのですが、広重の絵のようにオーバーハング(上部が前にせり出している)していません。
江戸時代の頃は現在と異なっていて、国府台の台地が、もっと江戸川(利根川)の中に張り出していたという指摘もあります。
広重が国府台の景色を描く時に、崖の急峻(きゅうしゅん)さを誇張(こちょう)して描いたのか?
この場所は、明治時代は、軍の施設になっていて、現代では、川沿いに車道が走っていますので、崖が崩されている可能性もありますので、今となっては、なんとも言えませんが・・・・・・・・謎として残る所です。
せっかく、ここまで来たのですから、里見公園内を回ってみます。
昨年、平成24年は暖かく、なかなか紅葉が進みませんでした。
この時も、公園の真ん中に池付近の樹は紅葉していませんでした。
それでも、比較的早めに黄葉するイチョウは黄色に色づいて、朝日を浴びて輝いていました。

【国府台 (こうのだい、鴻の台)】
広重の絵の題名にある鴻の台(こうのだい)は、千葉県市川市国府台 (こうのだい)の別名です。
国府台の関東平野の低地部の端にある台地で、その歴史は古いです。
(1)はるか昔、約6000年前の縄文時代(じょうもんじだい)の頃には、現在より海面が3m程度高く(縄文海進)、東京湾は現在の栃木県や群馬県まで入り込んでいました。
江戸川の東側には、下総台地(しもうさだいち)が連なり、西側の関東平野は海に沈んでしまいますで、
国府台の目の前は江戸川でなく、東京湾の海が広がっていた事になります。
国府台は、市川市の標高最高地点(30.1m)でもあります。

縄文時代の人達は、狩猟を中心とした生活ですから、魚貝類が獲れる海沿いの国府台は、格好の生活の場だったことでしょう。
その後、海面の水位は下がり、川から運ばれた土砂も河口部に堆積していった為、海は次第に後退していきました。
農耕の始まった弥生時代頃には、国府台の対岸に見える江戸川区の北小岩付近に集落あったらしいです。
(2)古墳時代(6~7世紀)になると、地方の豪族(ごうぞく)が古墳(こふん)を作るようになります。埼玉県(さいたまけん)の荒川などの川の近くにある台地には、古墳が多くあります。
国府台付近にも古墳がいくつかあり、里見公園内でも明戸古墳(あけどこふん)と呼ばれる小さな前方後円墳があります。

小高くなった上に2つの石棺(せっかん)が並んで置かれています。
数枚の緑泥片岩を組み合わせた箱式石棺ですが、野ざらし状態で展示している、とんでもない遺跡です。
現在では、石棺の上のふた(蓋)はありません。
(3)大化の改新以降に、律令制度(りつりょうせいど)が整備されると、地方行政の中心である国府が置かれるようになります。
国府台の地名は、下総国府が国府台付近にあった事から来ています。周辺には国分寺跡もあり、国府の遺構らしき跡も見つかっていますが、正確な位置は判明していないようです。
その後、平安時代になると、平将門(たいらのまさかど)の乱などで、国府が占領されたり、律令制度が崩壊していくにつれて、下総国府も衰退していきます。
足元には、黄色のイチョウの落ち葉の絨毯(じゅうたん)が敷き詰められています。

(4)明戸古墳の2つの石棺は、室町時代(西暦1479年)の武将・太田道灌(おおたどうかん)が、千葉自胤(ちばよりたね)を援助して、臼井の千葉孝胤(ちばたかたね)を攻めたとき、陣(国府台城)を築こうとして盛土を取り除いた際に露出して発見されたと伝えられています。その当時は出土品もあったようです。
下の写真は、里見公園の東側にある国府台天満神社です。(5月頃撮影した写真です。)
太田道灌持資がこの土地の鎮守として創建したと伝えられています。

元々は、里見公園の南東側にある東京医科歯科大学構内にある法皇塚古墳(ほうおうづかこふん)の上に祀られていましたが、明治八年に大学を建てる為に、現在の場所に移されました。
この神社は、毎年1/17に「辻切り(つじぎり)」と呼ばれる民族行事が行われています。
ワラで2m程の大蛇(だいじゃ)を四体作り、お神酒を飲ませ魂入れをして、町の四隅の樹に頭を外に向けて掛けるそうです。時代の流れもあり、市川市で昔の姿を伝えているのは、この国府台天満神社のみとなったそうです。
以前は、獅子舞(ししまい)も行われていたそうですが、その継承者が各々の家の相続者に限られていたことと、社会情勢の変化等から、昭和13年を最後に継承が絶えてたとのことです。
【辻切り(道切り)】
村と周辺との境(出入口)にあたる四隅の辻に、しめ縄(注連縄)やワラで作った大蛇を造り、悪霊や悪疫が村に侵入するのを防ぐため、霊力によって遮断できると信じられてきた日本の伝統行事です。
同じ理由から、道祖神(どうそじん)が祀られることもありました。
千葉県の南部では、しめ縄を張る村が多く、北部では大蛇を作る村多いそうです。
公園の散策路も、すでに秋の落ち葉ロードとなっています。写真の左外には、夜泣き石などの史跡があります。

(5)戦国時代になると、小田原の戦国大名・北条氏(ほうじょうし)と関東の諸将の間で、二度にわたる国府台合戦(こうのだいかっせん)が行われました。
第二次国府台合戦は、房総の戦国大名・里見氏(さとみし)と北条氏(ほうじょうし)との間で、行われました。
結果は、北条氏の夜襲により、里見氏の大敗です。里見方の武将も討ち死にしました。
里見公園には夜泣き石と言われる史跡があり、合戦で戦死した里見広次の美しい姫の伝説があります。
「戦死した里見広次の美しい姫が父の霊を弔うため、遠い安房(あわ)の国から国府台を訪ねてきました。
姫は身も心も疲れ果て、そばにあった石にもたれ弱いかすかな声で父の名を呼びながら、幾日か泣き続け、
とうとう息が絶えてしまいました。以来、この石から夜になると悲しい声が聞こえてきた。」という伝説です。
カエデ(楓)の樹が紅葉するのは、遅い方です。公園内の他のカエデの木が青いままなのに、この場所だけ、なぜか奇麗に赤く紅葉していましたのか?・・・不思議です・・・?

(6)このような伝説から、江戸時代後期には、滝沢馬琴(たきざわ ばきん、曲亭馬琴)の「南総里見八犬伝」ゆかりの地として扱われるようになります。国府台は江戸の名所として、有名観光地となっていたのです。
「南総里見八犬伝」は、文化11年(1814年、馬琴47歳頃)から天保13年(1842年刊行、馬琴75歳頃)までの28年間もかかり完成した馬琴(明和4年(1767年)生まれ)の大作です。
執筆途中で失明しても、息子の嫁「お路」との口述筆記により完成させたそうです。その後、82歳で亡くなるまで執筆を続けたそうです。
広重(寛政9年(1797年)生まれ)を有名にした「東海道五十三次」の保永堂版が(天保年間1833年~1834年)、「名所江戸百景」が安政年間(1856年~1858年、同年・コレラにより死去)です。
読本(よみほん、江戸時代の伝奇小説)作者と浮世絵師(うきよえし)では分野が違いますが、広重にとって、馬琴は同時代の20歳年上の先輩ということになります。
広重は、江戸で馬琴の「南総里見八犬伝」が評判になり、この絵を描く時に、どのような考えでいたのでしょうか?
どちらも、亡くなるまで旺盛な創作意欲を持っていた点は、共通ですが・・・・・・・・・・
【国府台までのアクセス】
「くまドン」は、朝が早過ぎて、電車では家からのアクセスに時間がかかり過ぎるので、マイカーで行きましたが、
最寄駅は京成本線の国府台駅です。歩いて15分~20分かかります。
国府台駅の700m程、南東に離れた所にJR総武線の市川駅があります。市川駅からは、京成バスで「国立病院・矢切駅経由 松戸駅行き」に乗り、「国立病院」か「公民館」のバス停で下車となります。(6時過ぎ頃が始発です。)
長くなりましたので、今回は、これで終わりとさせていただきます。
先週と今週は仕事が忙しくて、ブログ作成の時間が取れませんでした。
このブログをまとめるのにも手間取り、残念ながら、ブログの更新が1週間以上停滞してしまいました。
11月分の紅葉の景は、まだまだ続くのですが、どうやら終わりそうもなさそうです・・・・・・・・(汗)。
次回も、国府台の紅葉と朝焼けに染まる富士山撮影の続きです。
日本プログ村に参加しています。良ければ、「ポチッ」応援お願いします。(携帯からは無効ですので、不要です。)
