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名所江戸百景057 第59景 両国橋大川ばた 両国橋・柳橋の夜景

2013-07-29 19:30:28 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、前回の柳橋からの続きとして、浅草橋から両国橋(りょうごくばし)までの話題をとりあげます。
 下の写真は、両国橋の墨田区側から、柳橋に向かって撮影した写真です。
(絵画調)

 柳橋は、緑色の美しいライトアップが特徴ですが、この時は下見に行った時で、天気は曇りで、空に街の光が反射して、絵画調にすると、白く飛んでしまいました。後日、再挑戦となりました。

【両国】
 さて、両国と言う地名は、「武蔵野国」(むさしのくに)と「下総国」(しもうさのくに)との間にある所を指しています。

 江戸時代の初期においては、、「武蔵野国」(むさしのくに)と「下総国」(しもうさのくに)の境は、現在の隅田川だったそうです。(古い時代の利根川・荒川の本流は、洪水のたびに、流れが変わっていました)
 4代将軍・家綱(いえつな)の時代に両国橋が架けられます。江戸時代は、「大橋」と言う名前でしたが、二つの国にまたがっていた事から「両国橋」と呼ばれるようになりました。
 同じ頃に、隅田川の東から、現在の江戸川(利根川の東遷により、利根川の本流になる)の西側までのエリアが武蔵野国に編入されました。(編入時期が2説あって、前後関係がはっきりしていません。)
 両国橋の架橋(かきょう)により、隅田川の東側が便利になり、街が隅田川を超えて、発展していきます。そこが、現在の墨田区両国の周辺となります。

 隅田川に架かる橋の歴史については、「名所江戸百景018~020 隅田川の大橋(1)~(3)」でふれましたので、割愛させていただきます。


 下の絵は、広重の名所江戸百景「第59景 両国橋大川ばた」(夏景)です。

 絵の表現としては、俯瞰(ふかん、上から下を見下ろす)で描かれていますが、他の名所江戸百景に見られる極端な遠近法は使用しておらず、比較的、素直な構図となっています。
 川と橋を斜めに配置して、両国橋の全てを描かず、橋の両側を絵の外側に出している所は、広重の名所江戸百景らしいかもしれません。

 絵では、両国橋には多くの人が通り、隅田川には多くの物資を運ぶ船が行き交っていて、交通・経済の要所であった事が分かります。
 また、絵の左側外には、前回お話ししました「柳橋」の船宿があり、絵には水遊びをしている屋形舟が描かれています。
 そして、隅田川の岸辺に立つ休み処のような店が建ち並び、江戸の行楽地であったことを窺う(うかがう)ことができます。

【浅草橋】
 JR総武線(そうぶせん)の浅草橋駅の出口を出ると、周辺は問屋街(とんやがい)となっています。
 駅の周囲で目立つのは、人形専門店の看板でしょう。

 江戸時代に創業している「久月」や「吉徳」を含めて、「五月人形」の専門店が4軒も本店を構えています。
 こういう土地柄なのか、JR浅草橋駅の駅内にも、人形が飾ってあります。

 浅草橋駅から、南に100m程歩くと、浅草橋があります。
 浅草橋は、神田川(かんだがわ)に架かる橋ですが、神田川は、JR総武線の飯田橋駅の所から、隅田川に合流する所までは、江戸城の外堀の役割を果たしていました。
 この浅草橋を渡った所に、江戸城の「浅草見附門(あさくさみつけもん)」がありました。

 浅草橋から東にある柳橋(やなぎばし)方向を見て、橋の右手に郵便局のあるビルがあります。
 このビルの右手の道を少し行くと、左手に初音森神社があります。

【初音森神社(はつねもりじんじゃ)】
 この神社は、名所江戸百景で、他の方のブログを初めて見た時は驚きました。
 下の写真のように、ビルの1階に鳥居があり、階段を登っていくと、2階に神社があるのですから・・・・

 さて、神社にあった名所江戸百景の説明板によると、
 (歴史も、年月と共に、新しい資料が見つかり、変わっていくので、正確にはわかりませんが、)
 この辺一帯は、古くは、「初音の里」と呼ばれ、近くにある大きな通りの交差点付近は「初音の森」と呼ばれる森が広がっていました。初音森神社は、この森にありました。
 戦国時代の天文年間頃に、社前に馬場(ばば、軍馬の育成所・訓練所)ができたそうです。

 江戸時代になり、3代家光(いえみつ)の時に、浅草橋に浅草見附門が造られ、境内地が半分となりました。
 さらに、4代家綱(いえつな)の時の明暦の大火(めいれきのたいか)の後の火避地(ひよけち)としての土地区画整理に結果、残りの土地も、関東郡代(かんとうぐんだい)の屋敷用地となってしまい、現在の墨田区千歳に代替地が与えられ、引っ越しとなってしまいました。この時、初音の馬場も、大きさが縮小されたそうです。
 しかし、初音森神社が引っ越しになっても、氏子さんである町の人達は、そこに住んでいます。江戸時代は、わざわざ、隅田川を渡って、参拝に行っていたそうです。
 昭和23年に、本社が遠いので、現在の場所に摂社(せっしゃ、本社の管理下にある神社)が建てられました。
 (本社は、まだ、墨田区にあるそうです。)

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第6景 馬喰町初音の馬場」(春景)です。

 広重が、名所江戸百景を描いた時は、初音森神社は、ここに無く、初音の馬場も縮小されていました。
 広重の絵に描かれた場所が、初音の馬場らしいのですが、細長い馬場を絵では表現せず、横に曲線を描いて、絵の右外に流れる反物(たんもの)が、絵に動感と広がりを与えています。

 この絵が描かれた馬喰町(ばくろちょう)の「初音の馬場」の場所は、
 現在の中央区日本橋馬喰町(にほんばしばくろちょう)1丁目14番地付近(靖国道路の南側)です。
 前述の初音森神社の近くにある「浅草橋」交差点の南西側(対角)にあります。
 現在はビル街となっていて、当時の面影は残していませんので、自由に使用できる景として、別の場所に変更して、使用させていただきます。

 下の写真は、神田川に架かる柳橋から、浅草橋方面を撮影した写真です。(下見の時に撮影した写真です。)
(絵画調)


【柳橋の芸妓(げいぎ)】
 柳橋の芸者(芸気)の歴史は古く、11代家斉(いえなり)頃からあり、柳橋は料亭も多く、花街(はなまち)として賑わいました。
 柳橋は、江戸商人や文化人の奥座敷となり、明治以降も政治家・経営者・力士などが客層として存在しました。
 その為、柳橋の芸者は、芸の技や教養(きょうよう)で高いレベルを必要とされていました。
 (現代でいえば、歌・踊り・演奏が全て上手で、頭も良いという感じでしょうか)
 以前、明治時代には、芸者はアイドル的扱われ方をしていた話をしましたが、「柳新二橋」(りゅうしんにきょう、柳橋と新橋)と呼ばれ、中でも「柳橋」は、別格に扱われていたそうです。

 両国から見た柳橋のアップです。


 昭和の高度成長期を過ぎた頃から、レジャーの多様化、隅田川・神田川の水質汚染・堤防による景観遮断、バブル景気の崩壊などで、顧客も減り、平成11年に最後の料亭「いな垣」の廃業と共に、芸妓組合も解散となり、高い技と誇り(ほこり)と共に長い歴史の幕が下りることになりました。

 両国橋から、北側を撮影した写真です。スカイツリーのライトアップは粋(いき)です。

 正面に見える橋は、JR総武線の架橋です。右を走るは、首都高速6号線。

 さて、前回の「名所江戸百景056・・・」で、柳橋の撮影後に、今度は両国橋に移動して再挑戦です。
 8月初め頃の日没は18:50頃と遅く、隅田川の親水テラスで、のんびり暗くなるのを待ちます。
(絵画調)

 正面から流れてくる川が神田川、左端にあるのが、両国橋です。

 太陽は雲に隠れましたが、時折、街に日が差し込みます。

 柳橋から、また一隻、屋形船が出港していきます。

 ライトアップの時間になりました。空の色が徐々に暗くなっていき色づくのと、動いている屋形船が中途半端にぶれ過ぎていない写真を選びました。

 この写真を、広重の名所江戸百景「第59景 両国橋大川ばた」に対応する「くまドン版」の景(夏景・確定)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作る事を第一目標にしています。)

 この景は、現在でも、広重の「名所江戸百景」と同じ方向から両国橋を撮影できます。
 広重の「名所江戸百景」とは、撮影位置も方向も事なりますが、最初の取り決めとして、「くまドン」版では、撮影の表現の自由度を上げる為に、こだわらないことにしています。



 今回は、これで終わりとさせていただきます。
 夜になると雷雨になり、足立・葛飾・両国の花火大会が中止・中断になって残念ですが、今後に期待したい所です。

 次回は、夏の祭りに関する景の予定ですが、この景作成に手間取り、期日までに間に合うか・・(汗)


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