くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

名所江戸百景051 第70景 中川口 勝海舟と西郷隆盛

2013年07月15日 09時30分11秒 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、旧中川(きゅうなかがわ)での撮影奮戦記(ふんせんき)に戻りますが、
 勝海舟(かつかいしゅう)と西郷隆盛(さいごうたかもり)の話を入れてします。
 下の写真は、江戸川区(えどがわく)大島小松川公園(おおじまこまつがわこうえん)の「風の広場」の遊歩道です。
 梅雨が明け、夏の強い日差しが、さんさんと照りつけ、道を歩いていると、木陰がありがたい季節になりました。
(絵画調)


【勝海舟と西郷隆盛】
  勝海舟と西郷隆盛と言えば、思い浮かぶのは、幕末(ばくまつ)の最後となる「江戸城(えどじょう)無血開城」を決める勝・西郷会談を思い出される方も多いと思います。

 明治時代になり、前回の灯篭流し(とうろうながし)で話をしました大田区(おおたく)洗足池(せんぞくいけ)の景観を、勝海舟が気に入り、「千束軒」という邸宅に移住したそうです。(戦災で焼失)
 西郷隆盛も、ここを訪ねて勝と歓談したと言う話もあります。

 上野公園にある西郷さんの銅像(写真左、絵画調)と、墨田区役所(墨田川沿い)にある勝海舟の銅像(写真右)です。
 勝海舟は、墨田区(すみだく)本所(ほんじょ)付近で生まれ、育ちました。
 

 その後、西郷さんは、明治10年に発生した西南戦争(せいなんせんそう)に盟主として巻き込まれ、命を落としました。
 勝海舟は、明治12年に、西郷さんの死を悼み、東京府南葛飾郡(現在の東京都葛飾区)の浄光寺境内に、西郷隆盛の「瑠魂祠(りゅうこんし)」と「留魂碑(りゅうこんひ)」を自費で建てたそうです。
 浄光寺は、江戸時代において、浅草寺(せんそうじ)の末寺筆頭格でしたが、江戸城紅葉山(もみじやま)の歴代将軍霊屋の別当(神社を管理するお寺)職を勤めるなど、徳川将軍家との関わりが深い寺でした。
 「カキツバタ」の名所で、勝海舟が訪れる事も度々あったそうです。

 ところが、大正2年に、荒川放水路の開削(かいさく)に伴い、浄光寺が荒川放水路の真ん中にあった為、300m程移転(現在は、葛飾区東四つ木1-5-9)する際に、西郷隆盛の「留魂祠」と「瑠魂碑」は、洗足池に移転となったそうです。

 前回のプログにも載せました洗足池公園にある海舟(かつかいしゅう)夫妻の墓(写真左)と、西郷隆盛留魂碑(さいごうたかもりりゅうこんひ、写真右)です。


 忠魂碑(ちゅうこんひ)は、城を見に行くと、よく見かけるのですが、「留魂碑」とは聞きなれない言葉です?
 漢詩の「願留魂魄護皇城(ねがわくはこんぱくをとどめてこうじょうをまもらん)」という言葉から来ているそうです。
 ここで、「くまドン」は考えてみました。
 西郷さんは、明治政府に弓を引いた朝敵として亡くなった人です。勝海舟も徳川幕府側の人でした。
 西南戦争の記憶も消えない時に、不用意に西郷さんの「慰霊碑」を建てると、過去の経緯から明治政府から反政府の疑いをかけられるかもしれません。
 皇城(皇居)を護るという意味の言葉を使って、朝敵では無い事を示したのかもしれません・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 再度、旧中川の話に戻ります。下の写真も「大島小松川公園」の写真(絵画調)です。


【旧中川と荒川放水路】
 荒川放水路の話がでましたので、旧中川との関連を地図で説明します。
 左下の地図は、現在の旧中川付近の地形図です。
  「国土地理院ホームページ掲載のデジタル標高地形図画像データ(図名等)を使用しました。」
 右下の地図は、北区(きたく)にある荒川知水(ちすい)資料館にあった荒川放水路開削前(明治時代)の地図です。
  水色の線が荒川放水路の計画線です。

 南北(上下)に太く流れる川(濃い青色)が「荒川放水路」です。左(西)側を蛇行(だこう)している川が「旧中川」で、右上を蛇行している川が「中川」です。この付近は、江戸時代の蛇行していた川の地形が残っています。
 現在の旧中川周辺は、海抜0m地帯なので、標高はマイナスがつきますので、ほとんどの場所が、川と同じ濃い青色(0m以下)となっています。

 明治時代までは、右の図のように、「中川」と「旧中川」は一つの川でした。荒川放水路の開削により、中川が分断されてしまい、取り残された川が「旧中川」となりました。
 上流の「中川」は、荒川放水路と並行して流れる「中川放水路」を通り、東京湾に流れています。
 この地図では、分かり難いですが、荒川放水路の開削に合わせて、綾瀬川(あやせがわ)が並行して流れるようになり、「中川」と「綾瀬川」が合流して、「中川放水路」になります。
 この合流部の所に、上で説明した「浄光寺」があります(緑丸の印)。江戸時代は、荒川放水路のど真ん中にありました。

【小名木川(こなきがわ)、新川(しんかわ)、竪川(たてかわ)】
 広重の名所江戸百景で描かれた「第67景 逆井のわたし」と「第70景 中川口」は、地図で赤丸で示しています。

 この付近の川の流れが、上流の蛇行部に比べて、ゆるやかな曲線を描いているのは、江戸時代初期においては、この付近が荒川(現在の旧中川)の河口部にある海岸線だった為です。
 (以前のブログ「名所江戸百景021 第68景 深川八幡山ひらき 深川(1)」で説明しました。)

 下の写真は、現在の中川口の風景(東から北西方向を望む)です。

 当日は7月中頃の晴天日だったのですが、なぜか西側の空だけ雲があり、別の日に撮影やり直しとなりました。
 スカイツリーの左上に小さく鳥が写っていましたが、ハト(鳩)でした。

 江戸時代になり、左側の江東区が陸地化していくと、徳川家康(いえやす)将軍の命により、千葉県(ちばけん)行徳(ぎょうとく)からの塩(戦国時代は重要な戦略物資)を、安全に運ぶ為に、小名木川(こなきがわ)が開削されます。
 この小名木川と中川(現在の旧中川)との交差部が、中川口です。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第70景 中川口」(夏景)です。上の写真とは逆に西から東方向を望んでいます。

 交差部の手前の川が「小名木川」、奥の川が「新川」、左右に流れる川が「中川」です。
 江戸時代は、多くの船が行き交っていた事が絵から見る事ができます。

 さらに、中川口~行徳間は、現在、古川(ふるかわ)と呼ばれる川を使用していました。
 船の通航に不便であった為、3代家光(いえみつ)の寛永年間に東半分を直線的に開削して、現在の新川ができました。(現代の地形図では、分かり難いので、荒川放水路の箇所は、オレンジ色の線を引いてあります。)

 下の写真は、荒川放水路開削時に、荒川と旧中川の間の水位調正・洪水対策の為に、新川の残存箇所に造られた小名木川閘門(こうもん、パナマ運河の水門と同じような二重式水門)です。

 現在は、大島小松川公園の「風の広場」が造られた時に、新川の一部と一緒に埋めたてられていて、閘門の上半分だけが地上に出ています。(古い建造物で、危険なので、柵があり、近づけません。)
 替わりに、南(地図の下)に「荒川ロックゲート」が造られています。船が通行するときは、水門の開閉と水位調正を見る事が出来ます。

 さらに、江戸時代に小名木川の物資や人を運ぶ船の往来が多くなると、小名木川の上(北)側に並行して、竪川が開削されていきます。(現在は、首都高速が川の上を走っているので、地形図では分かり難く、オレンジ色の線を引いてあります。)
 この竪川と中川の合流部が「逆井のわたし」があった所です。

 下の写真は、旧中川に架かる「ふれあい橋」(人道橋)です。橋の下にカヌーが1隻います。最近は、旧中川で色々な種類の船を見かけるようになりました。

 できれば、広重の名所江戸百景「中川口」に対応する「くまドン版」の写真は、中川口で舟を入れたいと思って撮影していました。(その為、何度も撮影に行く事になりました。)
 今年2013年は、「スカイダック」の水陸両用船が運航されていますが、昨年2012年は無かったのです。(泣き)

 今年2013年は、9月に東京国体が開かれます。
 これを記念して、旧中川で小・中学生対象のボート競技が行われます。プログ完成日が開催当日となってしましたが、一応情報として提示します。
【旧中川ふれあいレガッタ】
 日時: 平成25年7月15日(月)午前10:00から
 場所: 旧中川(平井7丁目) JR平井駅が最寄りの駅

 前回、洗足池の灯篭流しの話をしましたが、旧中川でも、毎年、灯篭流しが行われていますので、紹介いたします。
【旧中川の灯篭流し】
 日時: 毎年、8月15日(終戦記念日)に行われています。(今年平成25年は、まだ、開催の通知は無いです。)
 場所: 旧中川の「ふれあい橋」付近
 内容: 東京大空襲(昭和20年)で、小松川平井地区の被災者(ひさいしゃ)は約40,000人、
      旧中川での死者は約2,800人と伝えられています。
      東京大空襲の犠牲者の慰霊(いれい)の為、恒久平和を願い、旧中川で灯篭流しが行われています。


 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 次回は、旧中川での白サギ撮影奮闘記の続きの予定です。


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