くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

名所江戸百景055 第98景 両国花火 白髭橋と両国花火

2013年07月23日 07時55分21秒 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、日本の夏の風物詩である花火(はなび)の話題です。
 両国花火と白髭橋(しらひげばし)です。スカイツリーも花火に合わせたライトアップです。(絵画調)


 今年、平成25年の東京下町・ベイエリアの花火大会日程からです。
  (足立区の花火大会は先週7/20(土)に、先陣を切って、開催済み(悪天の為、中止)ですので、割愛します。)

(1)第47回葛飾納涼花火大会 (約12,000発)
   日時: 7/23(火) 19:20~20:20 (小雨決行、荒天中止の場合は7/24(水)に延期)
   場所: 葛飾区柴又野球場(江戸川河川敷)

(2)第36回 隅田川花火大会 (約25,000発)
   日時: 7/27(土) 19:05~20:30 (小雨決行、荒天中止の場合は7/28(日)に延期)
   場所: 桜橋下流~言問橋上流(第一会場)、駒形橋下流~厩橋上流(第二会場)

(3)第38回江戸川区花火大会 (約14,000発)
   日時: 8/3(土) 19:15~20:30 (小雨決行、荒天中止の場合は8/4(日)に延期)
   場所: 江戸川河川敷(都立篠崎公園先)

(4)第25回東京湾大華火祭 (約12,000発)
   日時: 8/10(土) 18:50~20:10 (小雨決行、荒天中止の場合は8/11(日)に延期)
   場所: 東京港晴海埠頭沖海上・晴海ふ頭公園

 その他にも、大小の花火大会がありますので、インターネットなどで、お調べください。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第98景 両国花火」(秋景)です。

 この絵は、両国(りょうごく)の川開きの風景です。
 右上に花火がありますが、現代とは異なり、花火の開き方が独特の表現です。江戸時代は、黒色火薬は1種類しかありませんので、花火は単色(1色のみ)です。
 広重のいた江戸時代の頃は、旧暦の5月28日から8月28日までの間、両国橋で夕涼みが毎晩行われていました。
 (2013年では、新暦の7/6から10/2までに当ります。旧暦は年によって約1カ月程前後します。)
 隅田川に架かっている橋は、両国橋です。橋の周辺に多くの船が集まっています。
 両国橋が架けられてからは、橋の周りに、夕涼みの納涼(のうりょう)にきた屋形舟(やかたぶね)が集まっていました。(当時は、火災の危険を避ける為に、隅田川以外の花火が禁じられていました。)
 花火を売る舟が、屋形船などの間を漕いで回り、客の注文に応じて花火を打ち上げていたそうです。

 花火舟以外にも、食べ物や酒などを売る小舟が、数多く出ていたそうです。
 下の絵は、現在の両国橋の墨田区側の堤防に描かれている絵を写真に撮り、その一部をトリミング(画像の切り取り)したものです。 舟の後方では、花火の打ち上げをしている所です。

 それにしても、この屋形船は定員オーバーなのでは・・・・・・・・・・・???

 「くまドン」も、隅田川の花火大会を、名所江戸百景「くまドン版」に加えたいと思いました。
 できれば、スカイツリーの開業年ですので、スカイツリーのライトアップの両方を写真に収めたいところです。
 (このブログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作る事を第一目標にしています。)

 ところが、両国橋~白髭橋までの水辺は、見物客が多く、歩行者の規制で、三脚を立てる隙間処か、橋などで立ち止まることは許されれないのです・・・・・・・・・・・・・・・・(汗)
 「くまドン」は、人で異常に混雑(こんざつ)している所や、渋滞(じゅうたい)している所は疲れるので、行く気がしないのです。その為、今まで、両国花火を見に行った事が無く、撮影ポイントが良くわかりません。
 規則は守らなければならないので、調べてみると、白髭橋(しらひげばし)の北側まで行けば、規制も無く、比較的空いているとの情報がありましたので、ここなら、スカイツリーと両国花火の両方が撮影できそうです。

 「くまドン」が自転車で自宅から白髭橋まで行くと、下の写真のように、屋形船が大行列で浮かんでいました。
 見てると、この後も屋形船が来て、行列が、どんどん長くなっていきました。
 屋形船の中では、すでに宴会(えんかい)が始まっている事でしょう。

 白髭橋も花火開始の2時間前から、立ち止まる事は出来なくなりますが、花火開始の2時間以上前に白髭橋に着くことができたので、撮影できました。

 白髭橋より北側は、規制はありません。この付近は荒川区(あらかわく)です。
 しかし、「くまドン」の考えが甘かった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(汗)

 写真を見ての通り、満員状態です。カメラの「簡単パノラマ」機能で撮影した写真ですが、180度の角度で写っています。
 右が、隅田川の下流側に当り、スカイツリーが見えます。左には、上流にある水神大橋(すいじんおおはし)が見えています。正面を川沿いに走っているのが、首都高速6号線です。

【火薬の伝来】
 花火は、火薬が爆発した時の火の粉です。
 この原料となる火薬は、戦国時代(1543年)に歴史上でも有名な種子島(たねがしま)に漂着したポルトガル人による火縄銃(ひなわじゅう、鉄砲)の伝来と同時に、火薬も伝えた事が、源流となっています。
 戦国時代の半ばから、戦場の主力が、騎馬・弓矢から鉄砲に替わると、火薬も大量製造もされるようになります。

下の写真は、岐阜県(ぎふけん)の岐阜城(ぎふじょう)の資料館で撮影した写真です。


 それ以前にも、火薬の製法自体は、伝わっていたらしいのですが、以下の理由で、あまり普及・発達していなかったようです。
  ・原料の硝石(しょうせき)の製法が無かったこと
  ・取り扱いを間違えると、発火して自爆しかねない。
  ・湿気の高い日本では、湿ると使えない。

【火薬と花火】
 江戸時代になり、天下太平の世の中になると、狩猟以外の目的で、火薬の使用は無くなりますから、火薬製造職人は仕事がなくなる事になります。
 そこで、花火を専門に扱う火薬屋が登場することになります。最初は小さな「おもちゃ花火」でした。
 (混乱した戦乱の時代から、平和の時代への変化の象徴ともいえるでしょう。)


 なんとか撮影場所を確保して、1時間程すると、日が沈み、暑かった一日が終わりを告げます。
 北の空に浮かぶ雲が、ほんのり赤みを帯びる頃になると、見物客の人が、堤防の斜面に隙間なく埋め尽くされます。(絵画調)

 
 「くまドン」は、この場所は初めてだったので知りませんでしたが、三脚を立てる撮影者は、墨田川の親水テラスの柵(一番水辺側)沿いに横一列に並ぶようです。
 2時間前についた時は、ガラガラでしたが、その後方の席に座っている人がいる(距離は空いている)ので、邪魔かな思って行かなかったのです。後から来た人は皆、そちらに並びました。気がついた時には、撮影者で埋まっていました。

 隅田川には白髭橋とスカイツリー、空には月があり、花火見物の人も、ゆかた(浴衣)姿の方が多く、祭りの雰囲気を盛り上げます。

 いよいよ、花火開始の時間が近づいてきました。

【隅田川の川開き】
 江戸の町の建築物は、木造で密集していますので、火災にとても弱く、江戸の町では、大きな火事が何回も発生しています。
 当然、花火は火花ですので、3代将軍・家光(いえみつ)の慶安年間に、徳川幕府は、「隅田川(すみだがわ)以外での花火の禁止」の触れを出しています。

 花火が、始まりました。 (シャッター速度1/3秒)
 コンパクトカメラでは、絞りとシャッター速度の制御ができません。
 この時間は、まだ、明るく、カメラんの「花火モード」では、露出オーバーになってしまいます。


【鍵屋(かぎや)】
 現在、日本で最古の花火業者は、「鍵屋(かぎや)」です。なんと、この「鍵屋」は、東京都江戸川区にあります。
 この鍵屋は、花火の掛け声に使われた「玉や~~、鍵や~~」という言葉で、記憶がある方も多いと思います。

 鍵屋は、4代将軍・家綱(いえつな)の万治年間に、大和国篠原(奈良県南西部)から江戸に出てきた、花火職人である「初代・弥兵衛(やへえ)」が「おもちゃ花火」を売り出し、両国(りょうごく)に「鍵屋」の店を構えたことに始まります。
 その後も、弥兵衛は、花火の研究を続け、8代将軍・吉宗(よしむね)の享保年間には、将軍が享保の飢饉とコレラ流行の死者の慰霊(いれい)を目的に命じた水神祭り(すいじんまつり)に合わせて、、開発した大型の打ち上げ花火を献上(けんじょう)打ち上げています。
 これが、隅田川花火(両国川開き)の始まりと言われています。当初は川開きの初日に花火を打ち上げていたそうです。

 連発する花火は低く、ビルの陰になり、光が重なるので、爆発シーンになってしまいました。(シャッター速度4秒)
(絵画調)


【玉屋(たまや)】
 11代将軍・家斉(いえなり)の文化年間になると、鍵屋の番頭であった「清吉(市兵衛)」が働き者であった為、暖簾分け(のれんわけ=奉公人や家人に同じ屋号(やごう)の店を出して独立する事を許可すること)を許されました。
 この店が、「玉屋(たまや)」で、同じ両国の別の場所に店を構えました。

 その後、江戸の両国花火は、玉屋・鍵屋の二大花火師の時代となり、なにかと話題になったのですが、
 しかし、12代将軍・家慶(いえよし)の天保年間に、玉屋からでた火災が、店だけでなく、周辺の町まで焼いてしまったため、市兵衛さんは、財産没収の上、江戸の町から追放という事になり、「玉屋」は、わずか33年間の一代限りで終わってしまいました。
 真面目に働き、店を開き、一代で隆盛を極めた「玉屋」は、粋(いき)を好む江戸の人の共感を得て、人気があったようです。

 下の写真も、両国の隅田川の堤防にあった絵です。


【明治以降の両国花火】
 江戸時代までの花火は、黒色火薬のみである為、色は単色(一色)のみでした。
 (現在の多様な色が出せるようになったのは、明治時代に色々な化学薬品が外国から輸入されるようになってからだそうです。)
 明治時代に「鍵屋」さんにより、現在の花火の代名詞ともいえる真円形に奇麗に開く「割物」と呼ばれる花火が開発されました。

 江戸時代から続く、両国花火ですが、明治維新や、戦争により、何度か中止となります。
 戦後も隅田川の水質悪化により魚も住めない「死の川」となった時期があり、さらに、自動車の普及による交通渋滞・住宅の過密(火災の危険)などの理由により、昭和36年~昭和52年まで中止となりました。
 昭和53年になると、水質改善が進み、交通渋滞と近隣住宅に対する火災対策を考慮して、現在の位置に移動して、現在の名称で、再開されています。

 暗くなってきたので、空の青さは亡くなりましたが、花火らしい写真となりました。

 この写真を、広重の名所江戸百景「第98景 両国花火」に対応する「くまドン版」の景(秋景・確定)とさせていただきます。
 江戸時代の両国花火の時期は夏から秋にかけてですが、広重の名所江戸百景では、秋景となっていますので、秋景とさせていただきます。
 さらに、「第98景 両国花火」は、両国橋付近の景であり、白髭橋付近に移動させたので、替わりに、この付近にある「名所江戸百景」の一つを隅田川の別の場所に移動させたいと思います。

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 次回も、両国付近の話題を続けたいと思います。


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