こんにちわ、「くまドン」です。
今回の話は、中央区(ちゅうおうく)にある築地本願寺(つきじほんがんじ)の盆踊り(ぼんおどり)大会です。
ブログ作成が間に合わず、盆踊り大会の前日になってしまいましたので、完成が間に合いません。
前半部を切り取って、ブログ更新します。
まずは、今年、平成25年(2013年)の盆踊り大会の日程から
【第66回 築地本願寺納涼盆踊り大会】
日時: 平成25年7月31日(水)~8月3日(土) 19:00~21:00 (最終日は18:00~20:30)
イベント: 全日: 盆踊り、「大江戸助六太鼓」の生演奏
8月2日: 仮装大会 女装・男装・コスプレ・着ぐるみなんでも参加自由です!(更衣室なし。注意!)
露店(ろてん)は、築地市場からの出店あり。(「クマドン」のような食いしん坊には、これが最高!!)
ただし、人気があるので、祭りの前半で、売り切れ続出 (注意!!!)
下の絵は、広重の名所江戸百景「第78景 鉄砲洲築地門跡」(秋景)です。
手前の水面は、現在の隅田川(すみだがわ)から築地方面を、俯瞰(上から下を見下ろす)で眺めた構図です。
江戸時代は、対岸の中央区月島(つきしま)は、まだ無く、佃島(つくだじま)は、隅田川の河口部の島でしたから、東京湾の上から眺めている事になります。飛行機・ヘリコプターも無い時代ですから、浮世絵師の想像のなせる技でしょう。
近景の舟の帆(ふねのほ)を大きく切り取り、奥に行く程、小さくなる遠近法を使用してるにも関わらず、築地本願寺の屋根は大きく、その大きさが強調されています。
【築地本願寺(つきじほんがんじ)】
2代秀忠(ひでただ)の元和年間に、京都(きょうと)にある西本願寺(にしほんがんじ)の別院(べついん、本寺所属の子院)として、浅草近くの横山町(現在の中央区日本橋横山町か?)に建てられました。
4代家綱(いえつな)の時に、明暦の大火(めいれきのたいか)で、本堂が焼けてしまいました。
その後の徳川幕府の区画整理の結果、旧地での再建は認められず、割り当てられた土地は、
なんと、当時は江戸湾の海だった八丁堀(はっちょうぼり)の沖合でした。(何故、海の上・・・・・????)
しかし、江戸時代の宗教に対する信仰心は強く、佃(つくだ、現在の中央区佃島)の門徒(もんと)が中心になって、海を埋め立てて、本堂を再建する土地を築いてしまったそうです。・・・・・・・(汗)
この為、この付近の地名が「築地(つきじ)」となったそうです。
こうして、明暦の大火から22年後に、「築地御坊」として再建されたそうです。
さらに、現在の築地の場外市場(じょうがいしじょう)付近が門前町(もんぜんまち)となっていったそうです。
江戸時代は、広重の絵に描いてある本堂の大きな屋根が、ランドマーク的役割を果たしていました。
以前、お話しいたしました「名所江戸百景047 第21景 芝愛宕山 ほおずき市」でも、築地本願寺の屋根は描かれていることを説明いたしました。築地本願寺が、遠方からも目立つ建物であった事を示しています。
大正12年の関東大震災(かんとうだいしんさい)後に発生した火災により、江戸時代からの大小の寺院は焼失してしまいました。
こうして、新たな本堂を建てることになったのですが、・・・・・・・・・・
当時の西本願寺(浄土真宗本願寺派)の法主と親交のあった、東京帝国大学(現在の東京大学)工学部教授・伊東忠太による設計となりました。
なんと、仏教の生まれたインド様式で造られたのが、現在の築地本願寺の建物です。
この二人、かなり変わった人で、当時のお寺としては、珍しい鉄筋コンクリート造りの上に、大理石(だいりせき)の彫刻もかなり凝った造りになっています。
昭和初期の頃の話ですが、当時の本願寺門徒は、これを見て、どのように思ったのでしょうか・・・・・・・・????
色々あったらしいのですが、時代は変わり、現在では、築地の街の代表的な顔となり、本堂と石塀が国の登録有形文化財に登録されています。
さらに、建物内部には、ヨーロッパのパイプオルガンがあり、毎月最終金曜日の12:20~12:50に、コンサートを開いているそうです。
和洋印(日本・西洋・インド)混在の、なんというか・・・・その珍しいお寺です。
今回は、これで終わりとさせていただきます。
次回は、築地本願寺の盆踊り大会の続きになりますが、盆踊り大会中の更新になりそうです。
日本プログ村に参加してみました。時間があれば、どれか一つ「ポチッ」と押してください。
今回の話は、中央区(ちゅうおうく)にある築地本願寺(つきじほんがんじ)の盆踊り(ぼんおどり)大会です。
ブログ作成が間に合わず、盆踊り大会の前日になってしまいましたので、完成が間に合いません。
前半部を切り取って、ブログ更新します。
まずは、今年、平成25年(2013年)の盆踊り大会の日程から
【第66回 築地本願寺納涼盆踊り大会】
日時: 平成25年7月31日(水)~8月3日(土) 19:00~21:00 (最終日は18:00~20:30)
イベント: 全日: 盆踊り、「大江戸助六太鼓」の生演奏
8月2日: 仮装大会 女装・男装・コスプレ・着ぐるみなんでも参加自由です!(更衣室なし。注意!)
露店(ろてん)は、築地市場からの出店あり。(「クマドン」のような食いしん坊には、これが最高!!)
ただし、人気があるので、祭りの前半で、売り切れ続出 (注意!!!)
下の絵は、広重の名所江戸百景「第78景 鉄砲洲築地門跡」(秋景)です。
手前の水面は、現在の隅田川(すみだがわ)から築地方面を、俯瞰(上から下を見下ろす)で眺めた構図です。
江戸時代は、対岸の中央区月島(つきしま)は、まだ無く、佃島(つくだじま)は、隅田川の河口部の島でしたから、東京湾の上から眺めている事になります。飛行機・ヘリコプターも無い時代ですから、浮世絵師の想像のなせる技でしょう。
近景の舟の帆(ふねのほ)を大きく切り取り、奥に行く程、小さくなる遠近法を使用してるにも関わらず、築地本願寺の屋根は大きく、その大きさが強調されています。
【築地本願寺(つきじほんがんじ)】
2代秀忠(ひでただ)の元和年間に、京都(きょうと)にある西本願寺(にしほんがんじ)の別院(べついん、本寺所属の子院)として、浅草近くの横山町(現在の中央区日本橋横山町か?)に建てられました。
4代家綱(いえつな)の時に、明暦の大火(めいれきのたいか)で、本堂が焼けてしまいました。
その後の徳川幕府の区画整理の結果、旧地での再建は認められず、割り当てられた土地は、
なんと、当時は江戸湾の海だった八丁堀(はっちょうぼり)の沖合でした。(何故、海の上・・・・・????)
しかし、江戸時代の宗教に対する信仰心は強く、佃(つくだ、現在の中央区佃島)の門徒(もんと)が中心になって、海を埋め立てて、本堂を再建する土地を築いてしまったそうです。・・・・・・・(汗)
この為、この付近の地名が「築地(つきじ)」となったそうです。
こうして、明暦の大火から22年後に、「築地御坊」として再建されたそうです。
さらに、現在の築地の場外市場(じょうがいしじょう)付近が門前町(もんぜんまち)となっていったそうです。
江戸時代は、広重の絵に描いてある本堂の大きな屋根が、ランドマーク的役割を果たしていました。
以前、お話しいたしました「名所江戸百景047 第21景 芝愛宕山 ほおずき市」でも、築地本願寺の屋根は描かれていることを説明いたしました。築地本願寺が、遠方からも目立つ建物であった事を示しています。
大正12年の関東大震災(かんとうだいしんさい)後に発生した火災により、江戸時代からの大小の寺院は焼失してしまいました。
こうして、新たな本堂を建てることになったのですが、・・・・・・・・・・
当時の西本願寺(浄土真宗本願寺派)の法主と親交のあった、東京帝国大学(現在の東京大学)工学部教授・伊東忠太による設計となりました。
なんと、仏教の生まれたインド様式で造られたのが、現在の築地本願寺の建物です。
この二人、かなり変わった人で、当時のお寺としては、珍しい鉄筋コンクリート造りの上に、大理石(だいりせき)の彫刻もかなり凝った造りになっています。
昭和初期の頃の話ですが、当時の本願寺門徒は、これを見て、どのように思ったのでしょうか・・・・・・・・????
色々あったらしいのですが、時代は変わり、現在では、築地の街の代表的な顔となり、本堂と石塀が国の登録有形文化財に登録されています。
さらに、建物内部には、ヨーロッパのパイプオルガンがあり、毎月最終金曜日の12:20~12:50に、コンサートを開いているそうです。
和洋印(日本・西洋・インド)混在の、なんというか・・・・その珍しいお寺です。
今回は、これで終わりとさせていただきます。
次回は、築地本願寺の盆踊り大会の続きになりますが、盆踊り大会中の更新になりそうです。
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