こんにちわ、「くまドン」です。
今回の名所江戸百景は、前回に続いて、江戸城の外濠(そとぼり)の弁慶濠(べんけいぼり)です。
前回の最後にお見せした喰違見附(くいちがいみつけ)から、南にある弁慶濠を見た景色です。
弁慶濠自体は江戸時代と変わらない風景を維持しています。
弁慶濠に並行して右にある道路は、首都高速4号線(新宿線)です。その下にある道路が紀ノ国坂(きのくにざか)です。江戸時代に坂に、御三家(ごさんけ)紀州藩上屋敷(かみやしき、現在の迎賓館・東宮御所)があったことから、紀ノ国坂と呼ばれました。
弁慶濠の左岸は、彦根藩井伊(いい)家の屋敷跡地で、現在ホテルニューオータニの敷地となっています。
下の絵は、広重の名所江戸百景「第85景 紀ノ国坂赤坂溜池遠景」です。
左にある濠が弁慶濠で、武家の行列が歩いているの道が紀ノ国坂です。
広重の代表作「東海道五十三次」は、大名行列を多く描いていることもあり、武家行列を描いたこの絵は、当時の民衆に人気があったようです。
絵では、行列の人物を遠近法を使用して描いていますが、江戸時代の絵では珍しく、前後方向に重ねて並べています。望遠レンズの圧縮効果(あっしゅくこうか)を併用している様な感じがします。・・・・?
行列の先頭が持つの飾りの部分を、絵の上半分を大きく占めている空より高く、絵の外に突き出すことにより、行列の雰囲気を大きく見せようとしています。
(江戸時代は、槍などの長さが長い方が武威(ぶい)を示せると考えられていました。)
赤坂(あかさか、茜坂)という地名は、茜草(アカネグサ)が生える赤根山(現在の迎賓館付近の高台)に登る坂であることから名付けられました。弁慶濠の向こうには人家が広がっています。
弁慶濠の左奥に木が茂った崖がありますが、この崖の下辺りに外濠の一部の溜池(たまりいけ)があるはずですが、絵には描かれていません・・・?
下の地形図は、前回お見せした外濠の中で弁慶濠付近のみを拡大した地形図です。
「国土地理院ホームページ掲載のデジタル標高地形図画像データ(図名等)を使用しました。」
左中段の「L字」型に曲がっている青い部分が弁慶濠です。
広重の絵は、弁慶濠のL字に曲がっている付近から、図の右下にある虎ノ門(とらのもん)方向の谷を眺めた構図です。
弁慶濠の右端に、赤坂見附(あかさかみつけ)がありました。さらに、その下の崖沿いに溜池(たまりいけ)が細長く続いていました。
現在、弁慶濠の写真です。道路の上は、首都高速4号線(新宿線)の高架です。
ほぼ、広重の絵と同じような構図で写真が撮れます。(さすがに武家行列はありませんが・・・・・)
【大名行列の民衆への規制】
時代劇等の大名行列が「下に~、下に~」との声で、道端で武士以外が平伏(へいふく)しているシーンがあります。
「くまドン」は、この状態で、広重がどうやって行列を描いたのか気になりました・・・・???
しかし、この掛け声を使えるのは、徳川御三家の尾張・紀州藩(水戸藩は例外で江戸常勤であるため参勤交代はなかった)だけだったそうです。・・・・!!!
他の大名の場合は、「片寄れ~、片寄れ~」や「よけろ~、よけろ~」という掛け声を用い、一般民衆は脇に避けて道を譲るだけでよかったそうです。・・・・!!!
さらに、華美な大名行列を見せることは、各藩の見栄(みえ)であり、逆に見てもらいたかったそうです。一層華美にして、藩の財政を圧迫したそうです。・・・・・・・・
そして、行列を見物する事は民衆の娯楽でもあったそうです。・・・・!!!
弁慶濠の対岸は、彦根藩井伊家の屋敷跡地で、現在はホテルニューオータニが建っています。
さらに、紀の国坂を下っていくと、堀を渡る弁慶橋(べんけいばし)があります。その向こう見えるのは、グランドプリンスホテル赤坂(旧赤坂プリンスホテル)です。
【弁慶橋 (明治22年架橋、昭和60年改架) 】
まず、江戸時代にこの場所に、橋はありませんでした。当然、門もなく、濠と石垣が続いていましたで、ここから攻められる可能性は、ありませんでした。
明治22年(1889年)に、それまで神田松枝町と岩本町との間にあった弁慶橋が不用になったため、ここに移されました。
【グランドプリンスホテル赤坂(平成19年に赤坂プリンスホテルから改称) 】
ここも、江戸時代は、紀州徳川家の上屋敷(江戸中期に焼失して、再建されませんでした。)があった所です。
昭和58年(1983年)に開業した40階建ての新館は、隣接するホテルニューオータニのタワー棟と共に、バブル時代はトレンディスポットとしても人気を得ていて、芸能人やスポーツ選手の結婚式の披露宴会場に使用されていたとのことです。
平成23年(2011年)3月に、ホテル営業を終了となりました(老朽化・競争力低下の予想と保有資産の活用再検討が目的)。
ホテルは解体の予定でしたが、平成23年3月11日の東日本大震災が発生。
3月24日に、東京都は福島第一原発の事故で避難した福島県民の受け入れ施設として、新館を活用すると発表。
同年4月9日から6月30日まで被災者を受け入れることになり、ホテルは最後の役目を果たしました。!!!
解体工事は諸事情により工事開始は遅れて、翌年の平成24年6月から行われています。
下の写真は、平成24年の11月に迎賓館(こちらも紀州藩の中屋敷でした。上屋敷が焼失してからは、こちらが上屋敷として使用されました。)に行った時に、前庭から撮影した写真です。(上の写真の左方向から撮影しています。)
左のクレーンのあるビルが、解体中のグランドプリンスホテル赤坂です。
今年の平成25年5月頃までに解体完了の予定となっています。
このプログが出た頃は、まだ残っているかな?それとも更地かな?
(5月中旬のまでに、下のわずかな階を残す程度まで解体が進んでいる模様。)
上の弁慶濠の写真と、ほぼ同じ構図なのですが、ホテルニューオータニの高層2棟の右後ろに、解体前のグランドプリンスホテル赤坂も少し見えています。平成24年(21012年)5月の解体直前の写真です。
広重の名所江戸百景は、その時代の時事ニュース的の要因もありますので、
この写真を、広重の名所江戸百景「第85景 紀ノ国坂赤坂溜池遠景中」に対応する「くまドン版」の景(確定)とさせていただきます。
(このプログは、名所江戸百景の現代版「くまドン版」を作ることを第一目標にしています。)
下の写真は、弁慶濠から、逆方向の喰違見附(くいちがいみつけ)側を撮影した写真です。
この方向には、御三家(ごさんけ)の尾張藩の屋敷(現在の上智大学)がありました。
この喰違見附の近くには、御三家(ごさんけ)の徳川紀州家、徳川尾張家、譜代大名筆頭の彦根井伊家の屋敷があり、警備が厳重な為、門も簡易のままで良かったことが理由の一つでした。
喰違見附から東に向かう坂(200m長)を、3家の頭文字をとって、紀尾井坂(きおいざか)と呼ばれています。
(なんとなく、武田信玄の話にでてくる「人は城、人は石垣、人は堀」を思い出してしまいました。・・・・・笑 )
弁慶濠の最後にあるのが赤坂見附です。
【赤坂門(赤坂見附)】
現在の青山通りを経由して大山道(おおやまみち、神奈川県の丹沢方面)へと連なる西南の関門でした。赤坂見附の地名とともに、門の石組みが一部があります。
今回は、これで終わりとさせていただきます。
順番から行くと、次回は、溜池(たまりいけ)になるのですが、花菖蒲の開花が早まりそうなので、順番を変更して、次回は、花菖蒲の予定です。
日本プログ村に参加してみました。時間があれば、どれか一つ「ポチッ」と押してください。
今回の名所江戸百景は、前回に続いて、江戸城の外濠(そとぼり)の弁慶濠(べんけいぼり)です。
前回の最後にお見せした喰違見附(くいちがいみつけ)から、南にある弁慶濠を見た景色です。
弁慶濠自体は江戸時代と変わらない風景を維持しています。
弁慶濠に並行して右にある道路は、首都高速4号線(新宿線)です。その下にある道路が紀ノ国坂(きのくにざか)です。江戸時代に坂に、御三家(ごさんけ)紀州藩上屋敷(かみやしき、現在の迎賓館・東宮御所)があったことから、紀ノ国坂と呼ばれました。
弁慶濠の左岸は、彦根藩井伊(いい)家の屋敷跡地で、現在ホテルニューオータニの敷地となっています。
下の絵は、広重の名所江戸百景「第85景 紀ノ国坂赤坂溜池遠景」です。
左にある濠が弁慶濠で、武家の行列が歩いているの道が紀ノ国坂です。
広重の代表作「東海道五十三次」は、大名行列を多く描いていることもあり、武家行列を描いたこの絵は、当時の民衆に人気があったようです。
絵では、行列の人物を遠近法を使用して描いていますが、江戸時代の絵では珍しく、前後方向に重ねて並べています。望遠レンズの圧縮効果(あっしゅくこうか)を併用している様な感じがします。・・・・?
行列の先頭が持つの飾りの部分を、絵の上半分を大きく占めている空より高く、絵の外に突き出すことにより、行列の雰囲気を大きく見せようとしています。
(江戸時代は、槍などの長さが長い方が武威(ぶい)を示せると考えられていました。)
赤坂(あかさか、茜坂)という地名は、茜草(アカネグサ)が生える赤根山(現在の迎賓館付近の高台)に登る坂であることから名付けられました。弁慶濠の向こうには人家が広がっています。
弁慶濠の左奥に木が茂った崖がありますが、この崖の下辺りに外濠の一部の溜池(たまりいけ)があるはずですが、絵には描かれていません・・・?
下の地形図は、前回お見せした外濠の中で弁慶濠付近のみを拡大した地形図です。
「国土地理院ホームページ掲載のデジタル標高地形図画像データ(図名等)を使用しました。」
左中段の「L字」型に曲がっている青い部分が弁慶濠です。
広重の絵は、弁慶濠のL字に曲がっている付近から、図の右下にある虎ノ門(とらのもん)方向の谷を眺めた構図です。
弁慶濠の右端に、赤坂見附(あかさかみつけ)がありました。さらに、その下の崖沿いに溜池(たまりいけ)が細長く続いていました。
現在、弁慶濠の写真です。道路の上は、首都高速4号線(新宿線)の高架です。
ほぼ、広重の絵と同じような構図で写真が撮れます。(さすがに武家行列はありませんが・・・・・)
【大名行列の民衆への規制】
時代劇等の大名行列が「下に~、下に~」との声で、道端で武士以外が平伏(へいふく)しているシーンがあります。
「くまドン」は、この状態で、広重がどうやって行列を描いたのか気になりました・・・・???
しかし、この掛け声を使えるのは、徳川御三家の尾張・紀州藩(水戸藩は例外で江戸常勤であるため参勤交代はなかった)だけだったそうです。・・・・!!!
他の大名の場合は、「片寄れ~、片寄れ~」や「よけろ~、よけろ~」という掛け声を用い、一般民衆は脇に避けて道を譲るだけでよかったそうです。・・・・!!!
さらに、華美な大名行列を見せることは、各藩の見栄(みえ)であり、逆に見てもらいたかったそうです。一層華美にして、藩の財政を圧迫したそうです。・・・・・・・・
そして、行列を見物する事は民衆の娯楽でもあったそうです。・・・・!!!
弁慶濠の対岸は、彦根藩井伊家の屋敷跡地で、現在はホテルニューオータニが建っています。
さらに、紀の国坂を下っていくと、堀を渡る弁慶橋(べんけいばし)があります。その向こう見えるのは、グランドプリンスホテル赤坂(旧赤坂プリンスホテル)です。
【弁慶橋 (明治22年架橋、昭和60年改架) 】
まず、江戸時代にこの場所に、橋はありませんでした。当然、門もなく、濠と石垣が続いていましたで、ここから攻められる可能性は、ありませんでした。
明治22年(1889年)に、それまで神田松枝町と岩本町との間にあった弁慶橋が不用になったため、ここに移されました。
【グランドプリンスホテル赤坂(平成19年に赤坂プリンスホテルから改称) 】
ここも、江戸時代は、紀州徳川家の上屋敷(江戸中期に焼失して、再建されませんでした。)があった所です。
昭和58年(1983年)に開業した40階建ての新館は、隣接するホテルニューオータニのタワー棟と共に、バブル時代はトレンディスポットとしても人気を得ていて、芸能人やスポーツ選手の結婚式の披露宴会場に使用されていたとのことです。
平成23年(2011年)3月に、ホテル営業を終了となりました(老朽化・競争力低下の予想と保有資産の活用再検討が目的)。
ホテルは解体の予定でしたが、平成23年3月11日の東日本大震災が発生。
3月24日に、東京都は福島第一原発の事故で避難した福島県民の受け入れ施設として、新館を活用すると発表。
同年4月9日から6月30日まで被災者を受け入れることになり、ホテルは最後の役目を果たしました。!!!
解体工事は諸事情により工事開始は遅れて、翌年の平成24年6月から行われています。
下の写真は、平成24年の11月に迎賓館(こちらも紀州藩の中屋敷でした。上屋敷が焼失してからは、こちらが上屋敷として使用されました。)に行った時に、前庭から撮影した写真です。(上の写真の左方向から撮影しています。)
左のクレーンのあるビルが、解体中のグランドプリンスホテル赤坂です。
今年の平成25年5月頃までに解体完了の予定となっています。
このプログが出た頃は、まだ残っているかな?それとも更地かな?
(5月中旬のまでに、下のわずかな階を残す程度まで解体が進んでいる模様。)
上の弁慶濠の写真と、ほぼ同じ構図なのですが、ホテルニューオータニの高層2棟の右後ろに、解体前のグランドプリンスホテル赤坂も少し見えています。平成24年(21012年)5月の解体直前の写真です。
広重の名所江戸百景は、その時代の時事ニュース的の要因もありますので、
この写真を、広重の名所江戸百景「第85景 紀ノ国坂赤坂溜池遠景中」に対応する「くまドン版」の景(確定)とさせていただきます。
(このプログは、名所江戸百景の現代版「くまドン版」を作ることを第一目標にしています。)
下の写真は、弁慶濠から、逆方向の喰違見附(くいちがいみつけ)側を撮影した写真です。
この方向には、御三家(ごさんけ)の尾張藩の屋敷(現在の上智大学)がありました。
この喰違見附の近くには、御三家(ごさんけ)の徳川紀州家、徳川尾張家、譜代大名筆頭の彦根井伊家の屋敷があり、警備が厳重な為、門も簡易のままで良かったことが理由の一つでした。
喰違見附から東に向かう坂(200m長)を、3家の頭文字をとって、紀尾井坂(きおいざか)と呼ばれています。
(なんとなく、武田信玄の話にでてくる「人は城、人は石垣、人は堀」を思い出してしまいました。・・・・・笑 )
弁慶濠の最後にあるのが赤坂見附です。
【赤坂門(赤坂見附)】
現在の青山通りを経由して大山道(おおやまみち、神奈川県の丹沢方面)へと連なる西南の関門でした。赤坂見附の地名とともに、門の石組みが一部があります。
今回は、これで終わりとさせていただきます。
順番から行くと、次回は、溜池(たまりいけ)になるのですが、花菖蒲の開花が早まりそうなので、順番を変更して、次回は、花菖蒲の予定です。
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