こんにちわ、「くまドン」です。
今回は、矢切(やぎり)の渡しの対岸にある葛飾柴又(かつしか しばまた)です。
葛飾柴又と言えば、「男はつらいよ」で有名な「フーテンの寅さん」を思い出すでしょう。
「私、生まれも育ちも、葛飾柴又です。帝釈天で産湯(うぶゆ)を使い、姓は車、名は寅次郎。
人呼んで、フーテンの寅と発します。」
あまりに有名で、詳しい方も多いと思います。「くまドン」が、「寅さん」の説明しても、意味が無いでしょう。
そこで、話の背景になっている「葛飾柴又」について説明します。
【柴又帝釈天(しばまたたいしゃくてん)】
正式名称は経栄山 題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)という日蓮宗(にちれんしゅう)の寺です。
江戸時代の3代徳川家光(いえみつ)の寛永年間に、千葉県市川市(いちかわし)の中山法華経寺(ほけきょうじ)の僧によって創建されました。
柴又帝釈天が有名になったのは、10代家治(いえはる)の頃に、この寺にあって行方不明になっていた帝釈天像が、本堂の修理中に見つかたそうです。その4年後に、天明の大飢饉(てんめいのだいききん)で苦しむ江戸の人々に拝ませた所、不思議な効験があったため、柴又帝釈天への信仰が広がっていった事が原因でした。
この像が見つかった日が庚申(こうしん)の日(60日に1回まわってくる日)だったことから、帝釈天の縁日は庚申の日となっています。
現時点の次の庚申の日は平成25年6月23日(日)です。(60日に1回ですから、約2カ月に1回ペースですね)
この頃から、門前町が形成されたらしく、この付近の川魚料理の老舗(しにせ)は、この頃の創業だそうです。
参道の両側には店が並び、名物は、草だんごや塩せんべいと、川魚料理です。
参道を進んでいくと、二天門があります。
【二天門】
明治29年の建造された楼門(ろうもん、2階建ての門)
屋根は唐破風(からはふ)と千鳥破風(ちどりはふ)。柱上の貫(ぬき、水平材)には浮き彫りの装飾彫刻があります。門の左右には、平安時代の作とされる増長天と広目天の二天を安置しています。
二天門を通ると、正面に帝釈堂が見えます。
【帝釈堂】
手前の拝殿と奥の内殿から成る。
こちらも、二天門と同じく、屋根は唐破風と千鳥破風があります。
内殿には帝釈天の板本尊を安置、左右に持国天と多聞天(毘沙門天)の二天を安置しています。二天門にある二天を合わせると、四天王が揃うようになっています。
柴又帝釈天の彫刻は、彩色を施さない素木造のため、地味に見えますが、良く見ると、精巧な装飾彫刻です。
内殿外側には全面に浮き彫りの装飾彫刻があります。
有料(大人400円)ですが、庭園と帝釈堂内殿を見学できます。写真撮影可能です。
下の写真は、写真の右側だけトリミング(画面の切り取り)をしています。
柴又帝釈天は、日蓮宗(にちれんしゅう)ですから、法華経説話の浮き彫りが有名です。
法華経に説かれる代表的な説話10話を選び視覚化したものです。
大正11年から昭和9年にかけての製作で、全部で10面ありますが、1面だけにしておきます。
下の浮き彫りは、「慈雨等潤の図」の右半分です。説明板には、以下のように書いてありました。
「佛の慈悲深い教えは、あまねく地上を潤す慈雨と同じであり、雷神と風神が現れて、雨をふらし、
大地には、緑があふれ、さまざまな花々が咲きほこります。天人たちも地上の楽園に舞いおりてきました。」
石川信光作
江戸時代、この柴又を含めた葛飾区付近は、農業を中心に行われていました。
農業にとって、農作物を育てる水は欠かせず、夕立ちなどが降り始める前兆として、雷が鳴ったりや風が吹く事から、中世以降、雷神も風神の農業神として祀られてきました。同時に、自然災害に対して、自然の神に「何事も災害ないように」と祈る恐れの対象でもありました。
柴又の帝釈天(たいしゃくてん)も仏教では、天部(守護神)の一つですが、バラモン教では武神インドラ(雷霆神、らいていしん、激しい雷を操る神)にあたります。
そういえば、横道に逸れますが、天神様で有名な「菅原道真」も、死後政敵が、朝廷で雷が落ちて亡くなったことから、雷神信仰と結びき、中世では農業の神様として扱われていました。
右側にあるのが祖師堂(旧本堂)です。日蓮宗寺院としては、こちらが本来の本堂になります。
こちらにも、このような装飾が施されています。
その他に、祖師堂の右手前に釈迦堂(開山堂)があります。江戸時代末期に建立された、寺内最古の建築です。
柴又帝釈天は、江戸川のすぐそばにありますので、帝釈天の裏を進むと、前回の「矢切の渡し」の所までは、すぐの所にあります。その途中に山本亭(やまもとてい)があります。
【山本亭 (東京都選定歴史的建造物)】
葛飾区所有(1988年~)の2階立ての木造民家。一般公開されている。
建築年は不明(大正末期から昭和初期頃)
浅草でカメラの部品を製造していた合資会社山本工場が関東大震災で被害を受けたため、柴又に移転した際に瓦業者の屋敷の跡となっていたものを取得して、改修したそうです。
昭和初期頃の民家ですから、江戸時代からの日本の古い文化と、
明治になってから入ってきた文化が混在しているのも特徴でしょう。
庭に防空壕(ぼうくうごう)跡があるのも、昭和という時代でしょう。
【邃渓園(すいけいえん)】
本堂裏にある大客殿前に広がる池泉式庭園です。帝釈堂内殿と一緒に見学できます。
昭和40年(1965年)に造られた庭です。周囲に設けられた屋根付きの廊下から見ることができます。
「男はつらいよ」は、1968年(昭和43年)にテレビ放送されたのが始まりですから、この後に始まったことになります。
「寅さん」がブームになるまでは、柴又という下町にある帝釈天の門前町だったわけです。
「寅さん」は、お話の中の人ですが、実際にいたとしたら、寅さんの子供の頃は、昭和10年代と戦後間もない頃で、柴又の町や、柴又帝釈天の境内、「矢切の渡し」のある江戸川の河原で遊んでいたことでしょう。
最後は、京成柴又駅前にある、寅さん像です。
「寅さん」役の渥美清(あつみ きよし)さんは、ファンの「寅さん」のイメージを壊さないように、私生活に関しては、決して、話さないようにしていたそうです。
柴又には、「寅さん記念館」があるのですが、「矢切の渡し」と「柴又帝釈天」の撮影で目一杯で、時間が無くなり、見ることができませんでした。また、いつか別の機会があれば、見に行ってみようかなと思います。
長くなりましたが、今回はこれで終了です。ありがとうございました。
次回は、また別の話となります。
GW後半は、「くまドン」は仕事があり、時間があまり作れず、遅々として、プログ作成が進まず、遅くなりました。
5月は仕事が本格化してくるので、プログの作成ペースは、4月の半分程度に落ちると思います。
今年の5月は、週末に4年ぶりの神田祭もありますので、大変な月になりそうです。
日本プログ村に参加してみました。時間があれば、どれか一つ「ポチッ」と押してください。
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今回は、矢切(やぎり)の渡しの対岸にある葛飾柴又(かつしか しばまた)です。
葛飾柴又と言えば、「男はつらいよ」で有名な「フーテンの寅さん」を思い出すでしょう。
「私、生まれも育ちも、葛飾柴又です。帝釈天で産湯(うぶゆ)を使い、姓は車、名は寅次郎。
人呼んで、フーテンの寅と発します。」
あまりに有名で、詳しい方も多いと思います。「くまドン」が、「寅さん」の説明しても、意味が無いでしょう。
そこで、話の背景になっている「葛飾柴又」について説明します。
【柴又帝釈天(しばまたたいしゃくてん)】
正式名称は経栄山 題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)という日蓮宗(にちれんしゅう)の寺です。
江戸時代の3代徳川家光(いえみつ)の寛永年間に、千葉県市川市(いちかわし)の中山法華経寺(ほけきょうじ)の僧によって創建されました。
柴又帝釈天が有名になったのは、10代家治(いえはる)の頃に、この寺にあって行方不明になっていた帝釈天像が、本堂の修理中に見つかたそうです。その4年後に、天明の大飢饉(てんめいのだいききん)で苦しむ江戸の人々に拝ませた所、不思議な効験があったため、柴又帝釈天への信仰が広がっていった事が原因でした。
この像が見つかった日が庚申(こうしん)の日(60日に1回まわってくる日)だったことから、帝釈天の縁日は庚申の日となっています。
現時点の次の庚申の日は平成25年6月23日(日)です。(60日に1回ですから、約2カ月に1回ペースですね)
この頃から、門前町が形成されたらしく、この付近の川魚料理の老舗(しにせ)は、この頃の創業だそうです。
参道の両側には店が並び、名物は、草だんごや塩せんべいと、川魚料理です。
参道を進んでいくと、二天門があります。
【二天門】
明治29年の建造された楼門(ろうもん、2階建ての門)
屋根は唐破風(からはふ)と千鳥破風(ちどりはふ)。柱上の貫(ぬき、水平材)には浮き彫りの装飾彫刻があります。門の左右には、平安時代の作とされる増長天と広目天の二天を安置しています。
二天門を通ると、正面に帝釈堂が見えます。
【帝釈堂】
手前の拝殿と奥の内殿から成る。
こちらも、二天門と同じく、屋根は唐破風と千鳥破風があります。
内殿には帝釈天の板本尊を安置、左右に持国天と多聞天(毘沙門天)の二天を安置しています。二天門にある二天を合わせると、四天王が揃うようになっています。
柴又帝釈天の彫刻は、彩色を施さない素木造のため、地味に見えますが、良く見ると、精巧な装飾彫刻です。
内殿外側には全面に浮き彫りの装飾彫刻があります。
有料(大人400円)ですが、庭園と帝釈堂内殿を見学できます。写真撮影可能です。
下の写真は、写真の右側だけトリミング(画面の切り取り)をしています。
柴又帝釈天は、日蓮宗(にちれんしゅう)ですから、法華経説話の浮き彫りが有名です。
法華経に説かれる代表的な説話10話を選び視覚化したものです。
大正11年から昭和9年にかけての製作で、全部で10面ありますが、1面だけにしておきます。
下の浮き彫りは、「慈雨等潤の図」の右半分です。説明板には、以下のように書いてありました。
「佛の慈悲深い教えは、あまねく地上を潤す慈雨と同じであり、雷神と風神が現れて、雨をふらし、
大地には、緑があふれ、さまざまな花々が咲きほこります。天人たちも地上の楽園に舞いおりてきました。」
石川信光作
江戸時代、この柴又を含めた葛飾区付近は、農業を中心に行われていました。
農業にとって、農作物を育てる水は欠かせず、夕立ちなどが降り始める前兆として、雷が鳴ったりや風が吹く事から、中世以降、雷神も風神の農業神として祀られてきました。同時に、自然災害に対して、自然の神に「何事も災害ないように」と祈る恐れの対象でもありました。
柴又の帝釈天(たいしゃくてん)も仏教では、天部(守護神)の一つですが、バラモン教では武神インドラ(雷霆神、らいていしん、激しい雷を操る神)にあたります。
そういえば、横道に逸れますが、天神様で有名な「菅原道真」も、死後政敵が、朝廷で雷が落ちて亡くなったことから、雷神信仰と結びき、中世では農業の神様として扱われていました。
右側にあるのが祖師堂(旧本堂)です。日蓮宗寺院としては、こちらが本来の本堂になります。
こちらにも、このような装飾が施されています。
その他に、祖師堂の右手前に釈迦堂(開山堂)があります。江戸時代末期に建立された、寺内最古の建築です。
柴又帝釈天は、江戸川のすぐそばにありますので、帝釈天の裏を進むと、前回の「矢切の渡し」の所までは、すぐの所にあります。その途中に山本亭(やまもとてい)があります。
【山本亭 (東京都選定歴史的建造物)】
葛飾区所有(1988年~)の2階立ての木造民家。一般公開されている。
建築年は不明(大正末期から昭和初期頃)
浅草でカメラの部品を製造していた合資会社山本工場が関東大震災で被害を受けたため、柴又に移転した際に瓦業者の屋敷の跡となっていたものを取得して、改修したそうです。
昭和初期頃の民家ですから、江戸時代からの日本の古い文化と、
明治になってから入ってきた文化が混在しているのも特徴でしょう。
庭に防空壕(ぼうくうごう)跡があるのも、昭和という時代でしょう。
【邃渓園(すいけいえん)】
本堂裏にある大客殿前に広がる池泉式庭園です。帝釈堂内殿と一緒に見学できます。
昭和40年(1965年)に造られた庭です。周囲に設けられた屋根付きの廊下から見ることができます。
「男はつらいよ」は、1968年(昭和43年)にテレビ放送されたのが始まりですから、この後に始まったことになります。
「寅さん」がブームになるまでは、柴又という下町にある帝釈天の門前町だったわけです。
「寅さん」は、お話の中の人ですが、実際にいたとしたら、寅さんの子供の頃は、昭和10年代と戦後間もない頃で、柴又の町や、柴又帝釈天の境内、「矢切の渡し」のある江戸川の河原で遊んでいたことでしょう。
最後は、京成柴又駅前にある、寅さん像です。
「寅さん」役の渥美清(あつみ きよし)さんは、ファンの「寅さん」のイメージを壊さないように、私生活に関しては、決して、話さないようにしていたそうです。
柴又には、「寅さん記念館」があるのですが、「矢切の渡し」と「柴又帝釈天」の撮影で目一杯で、時間が無くなり、見ることができませんでした。また、いつか別の機会があれば、見に行ってみようかなと思います。
長くなりましたが、今回はこれで終了です。ありがとうございました。
次回は、また別の話となります。
GW後半は、「くまドン」は仕事があり、時間があまり作れず、遅々として、プログ作成が進まず、遅くなりました。
5月は仕事が本格化してくるので、プログの作成ペースは、4月の半分程度に落ちると思います。
今年の5月は、週末に4年ぶりの神田祭もありますので、大変な月になりそうです。
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