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名所江戸百景044 第14景 日暮里寺院の林泉 谷中のアジサイ寺

2013-06-10 12:25:37 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、アジサイ(紫陽花)の話題です。
 梅雨の時期になり、アジサイも見頃を迎えました。

 知っている方も多いと思いますが、アジサイの原種は、古代から日本に自生していた「ガクアジサイ」です。

 下の写真は、台東区(だいとうく)谷中(やなか)のアジサイ寺として知られる長久院(ちょうきゅういん)です。


 アジサイが歴史上に現れたのが、万葉集(まんようしゅう)です。少ないですが、二首ほど詠まれています。
 平安時代になると、食用にもならないので、ほとんど見向きもされなくなります。

 現代では、開花とともに色が美しく変化していくアジサイ(紫陽花)は、梅雨の時期を彩る風物詩となっています。
 しかし、広重の名所江戸百景には、アジサイは描かれていません。
 これには、以下の理由があります。
 (1)江戸時代は、前時代の混乱を極めた戦国時代と安土桃山時代の反動として、
   幕府の統治を安定化させる為に礼節(れいせつ)が重んじられた結果、
   花の色が変化するアジサイ、「移り気」、「心変わり」、「裏切り」の象徴として忌み嫌われていた。
 (2)青紫の花色が原因で、江戸時代には「幽霊(ゆうれい)花」や「化け花(ばけばな)」と呼ばれていた。
 (3)アジサイには、青酸性の毒があり、毒草を栽培している結果となります。
   ただし、ヤマアジサイの一変種「アマチャ」は、甘茶(あまちゃ)の原料になります。
 以上の理由により、江戸時代において、アジサイは見向きもされていませんでした。

 アジサイで、最も一般的にある球状のアジサイは、西洋アジサイです。
(絵画調)

 アジサイは、日本から中国に移植され、野性化しました。
 江戸時代の11代将軍家斉(いえなり)頃に、揚子江にあった花の美しい変種が、イギリスに持ち込まれ、欧米へと伝わって行ったのです。
 英国で東洋の花として人気が上がり品種改良が進んで、現在の西洋アジサイが、大正時代に逆輸入されました。

 日本でアジサイが、まともに評価されたは、なんと、昭和の戦後に北鎌倉の「明月院」に植えられて、「アジサイ寺」として有名になったのが始まりです。

 このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることが目的ですから、気にせず、アジサイの景を作ります。

 現代の東京のアジサイの名所は、文京区(ぶんきょうく)の白山神社(はくさんじんじゃ)です。
 しかし、広重の名所江戸百景には、その近くで描かれた景はありません。・・・・・・・・・・・・・・(汗)
 今回は、名所江戸百景が描かれた場所付近で、アジサイの景を作ってみる事にしました。
 アジサイは挿し木(さしき)で増やすことができ、丈夫で育てやすい為、色々な場所で植えられています。
 ある意味、場所の選択は自由です。

 今回、選んだ場所は、荒川区(あらかわく)の日暮里(にっぽり)と台東区(だいとうく)の谷中(やなか)です。

 
【日暮里・谷中】
 以前、「名所江戸百景034」で王子(おうじ)の話をした時に、武蔵野台地の崖線(がいせん)が、JR線の西側に沿って走っている話をしましたが、
 日暮里付近では、この台地の部分を諏訪の台(すわのだい)と呼んでいました。

 この付近の台地は、台地の幅が狭く、南北に細長く連なっていて、台地上を東西方向に少し進むと、すぐ坂があります。
 日暮里を含む上野の台地と、西側の本郷の台地に挟まれた地域は、谷中(やなか)と呼ばれる地域です。
 日暮里を含む谷中地区は、70軒を超える寺院が集中していて、「寺町」と呼ばれています。

(1)江戸時代初期
 日暮里・谷中付近には、鎌倉時代に造られた天王寺(てんのうじ)や諏訪神社(すわじんじゃ)を含めて、寺社の数は少なかったのです。

 日暮里駅の南口を出て西の台地を進みます。
 少し歩くと、左手に、鎌倉時代開山といわれる天王寺があります。
 下の写真は、天王寺にある釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう)です。
 5代将軍綱吉(つなよし)の元禄時代(1690年)に造られたそうです。
(絵画調)


【天王寺】
 元は、鎌倉時代後期に始まった日蓮宗(にちれんしゅう)の一派の寺だったのですが、色々ゴタゴタがありまして、同じく元禄時代(1698年)に天台宗(てんだいしゅう)に強制改宗となったそうです。
 さらに、元禄時代(1700年)には、徳川幕府公認の富くじ(現在の宝くじ)が始まり、目黒不動(めぐろふどう)、湯島天神(ゆしまてんじん)と共に「江戸の三富」として大いに賑わったそうです。
 江戸時代においては、寺社の費用集めとして、寺社を中心に行われました。
 ただし、富くじはギャンブル性があり、幕府より禁止令がでることも度々ありましたが、
 天王寺の富くじは、幕府公認の為か、天保(てんぽう)の改革の禁令まで続けられました。

 釈迦如来坐像の脇には、大きな花が咲いていました。


(2)3代家光(いえみつ)の寛永年間(1623~43)
 上野に寛永寺(かんえいじ)ができると、寛永寺の北側に子院(しいん、本寺に付属する小寺院)が多く作られます。

 天王寺を出て再び前に進むと、谷中霊園(やなかれいえん)があります。
 ここは、都立谷中霊園と、天王寺墓地、寛永寺墓地の土地が複雑に入り組んでいます。
 この霊園には、多くの有名人の墓があることでしられています。
 天王寺から、しばらく霊園を進むと、左手に天王寺の五重塔跡地があり、ここを右折して、突き当りを右に進むと、築地塀(つきじべい)で有名な観音寺(かんのんじ、安土桃山時代の慶長年間に創建)があります。

 築地塀は、土で塗り固めた塀のことですが、この観音寺の築地塀は、瓦(かわら)を層状に入れて強度を補強しています。(谷中の有名スポットの一つです。)
 境内には、赤穂浪士(あこうろうし)の会合にも使用され、供養塔(あこうろうしくようとう)と伝わる石塔があります。

 観音寺を出て、元来た道(南へ)をそのまままっすぐ進むと、300m程で、信号ある交叉点にぶつかります。ここを右折して、次の信号を左折すると、150m程先の左手に「アジサイ寺」の長久院があります。

(3)同じく、3代家光の慶安年間(1648~51)
 江戸幕府の江戸再開発計画により、神田付近にあった寺院の多くが、谷中付近に移転させられます。

 長久院はこの時代に移転してきた寺です。現在は、「アジサイ寺」として有名です。
 境内は非常に手入れが行き届いて、落ち着いた雰囲気をある寺です。アジサイが奇麗に咲いていました。

 この写真を、広重の名所江戸百景「第14景 日暮里寺院の林泉」に対応する「くまドン版」の景(確定)とさせていただいます。(絵の説明はプログ最後にします。)

【長久院(ちょうきゅういん)】 真言宗豊山派の寺院です。
 安土桃山時代の慶長年間に神田(かんだ)地区で開山しました。
 3代家光の慶安年間に幕府の再開発計画により、現在の地に移転してきました。
 山門は、11代家斉(いえなり)の文化年間に再建された薬医門です。
 本堂の前にある閻魔王の石像は台東区の文化財指定です。


 長久院を出て、元の道を戻り、突き当りの信号を左折して、三崎坂を下っていくと、150m先の右手に「全生庵」(ぜんしょうあん)があります。(谷中の有名スポットの一つです。)

【全生庵(ぜんしょうあん)】 臨済宗国泰寺派の寺院です。
 山岡鉄舟(やまおか てっしゅう、幕末の幕臣)が明治維新に殉じた人々を弔うために発願。明治16年に創建。
 山岡鉄舟の墓や、落語家の三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう)の墓があります。
 8月上旬に「谷中圓朝まつり」があり、落語の怪談噺(かいだんばなし)の元になった幽霊画コレクションが公開されます。

(4)さらに、4代家綱(いえつな)の明暦年間になると、
 明暦の大火(1657)により焼失した寺院が、江戸の町の防火対策の一環として、現在の日暮里・谷中付近に移転してきました。

 全生庵を出て、ゆるやかな三崎坂を下り、80m程先を右折して、100m程行くと、「しょうぶ寺」の立善寺があります。

【立善寺(りつぜんじ)】 日蓮宗の寺院です。
 この寺は、明暦年間に現在の谷中地域に落ち着いた寺ですが、他の寺とは理由が異なります。
 3代家光の正保年間に両国(りょうごく)の地で開山。その後の移転先を江戸幕府に御用地(ごようち)として取り上げられてしまい、難渋しましたが、明暦年間に現在の谷中地域に落ち着いたそうです。

 「しょうぶ寺」と呼ばれていました。現在は、境内に幼稚園がありますが、今も門前で菖蒲の花が咲いています。
 門前にある「アンパンマン」の看板と「バイキンマン」の石像が、幼稚園の雰囲気を出しています。

(5)当然のことながら、寺が増えてくれば、参拝客が増えてきて、門前町が形成されていきます。

 立善寺を通り過ぎ、右手に「岡倉天心(おかくら てんしん)記念公園」を見ながら、300m程進むと、谷中銀座ある通りに出ます。
 現在の日暮里・谷中の門前町は、谷中銀座でしょう。

 下の左の写真は、谷中銀座を見下ろす「夕焼けだんだん」の階段です。西向きなので、夕日を浴びる階段が撮影スポットとなっています。
 この日は平日だった為、休日の店が多かったです(残念・・・)。右の写真のようなシャッターの絵もありました。
 「くまドン」は、谷中銀座でみやげに、「谷中せんべい」を買いました。

 谷中銀座は、安くて、美味しそうな食べ物屋が並んでします。また、昔懐かしい雰囲気の品物も売っていたりします。
 「くまドン」は、歩いて、汗もかきましたので、昼食は、冷たい物にしました。


(6)江戸時代中頃になると、日暮里付近の寺に、花見寺として有名になる寺ができ、さらに、多くの人が集まるようになります。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第14景 日暮里寺院の林泉」です。

 日暮里の諏訪の台(すわのだい)と呼ばれる台地の西側から、諏訪の台を俯瞰(ふかん、上から下を見下ろす)した絵です。
 特に近景を極端に大きくする表現法も使用されておらず、江戸時代の他の風景画と同じような表現法です。
 春景ですので、桜が咲いていますが、真ん中の下の広場のような場所が、花見寺として知られた妙隆寺の庭です。
 その後ろの坂が富士見坂です。観光客が花見をしている風景が描かれています。
 左上の台地上にあり、木の合間に見える寺の屋根が、これも花見寺として知られた青雲寺(せいうんじ)です。



 日暮里のアジサイを1回でまとめようとしたのですが、寺の数が多いので、まとめきれませんでした。
 長くなりましたので、今回は、これで終わりとさせていただきます。

 次回は、日暮里のアジサイの続きになります。



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